九日目:また独り1
美咲を降ろした竜は、一度上空を旋回すると、元来た方向へと飛び去っていった。
残された美咲は座り込んだまま、周りを見回す。
もっさりと一面に群生した草が、風に吹かれてそよいでいる。
太陽の光が優しく美咲を照らし、穏やかな時間が流れている。
冗談みたいに、のどかな光景だった。
「ここ、前にクエストで来た薬草の群生地だ……」
そこかしこに生える薬草を見て、美咲は呆然とした声を漏らした。
まだ完全に安全というわけではないが、ここからならラーダンには歩きでも十分にたどり着ける距離である。
先日ここでルアンと一緒に薬草を摘んだことを思い出し、美咲は泣きそうになるのを堪えた。
あの時は、隣にルアンが居たのに、今はもう誰も居ない。
ルアンたちだけでなく、結局、ルフィミアまで生死不明になってしまった。
まだ、一日しか経っていないというのに、また美咲は一人ぼっちだ。
エルナ、ルアン、ルフィミア。自分と関わった優しい人たちが、次々と不幸な目に遭っていく。
こんなことを繰り返すくらいなら、いっそのこと自分は甘んじて死を受け入れた方がいいのかもしれない。そんな弱気なことすら思う。
家族も友人も居ないこの世界で、一人惨めに、死ぬ。
意識した途端、どうしようもない孤独感が押し寄せた。
それは寂しい。とても悲しい。誰にも覚えてすら貰えずに、消えていくのは嫌だった。涙腺が緩む。郷愁が胸を満たす。帰りたい。辛過ぎるこの世界から、何もかも放り出して逃げ出したい。
(……駄目だよ。それは違う。同じ帰るのでも、途中で投げ出すのと、全部終わらせて帰るんじゃ全く意味が違う)
震える足を動かして、美咲は立ち上がる。少しふらついた。走り続けたことによる疲労で、足腰はかなりガタガタだ。それでも、美咲は歩き続けなければならない。既に美咲のためにエルナが死んでいる以上、途中で投げ出すことは、彼女の死を無駄にする行為に他ならない。
(大丈夫。まだ大丈夫。私は一人じゃない。ルアンだって、ルフィミアさんだって、きっと生きてる)
美咲は己の弱気を、首を振って否定する。
立ち上がった美咲は、溢れる涙を両手で拭った。
泣いてなどいられない。
(帰らなきゃ。それで人をいっぱい連れて、ヴェリートに戻るんだ)
それでも、歩くにつれて、美咲の口からは再び嗚咽が漏れだした。
波のように感情がうねっている。
生きていると思うのは希望的観測だ。可能性が低いことくらい、美咲とて分かっている。
クエストは失敗し、戦争ではヴェリートが本隊が出た隙を突かれてゴブリンの奇襲に遭い陥落した。
結局お金もろくに稼げなかった。
以前はルアンと一緒に歩いた帰り道を、美咲はとぼとぼと歩き出す。
ラーダンに着いたら、まずルアンの屋敷に行ってルアンが死んだことを伝えなければならない。
結局ルアンの兄にも言えずじまいだったから、まだ伝わっていないはずだ。
美咲の脳裏に、ブランディールの言葉が蘇る。
(……私が、弱かったのがいけなかったんだ)
ならば、強くなりたいと美咲は願った。
■ □ ■
ヴェリート陥落の報はまだ伝わっていないようで、ラーダンは美咲がルアンと一緒に出発した時と同じく活気に溢れていた。
以前は自然に美咲もその中に入っていくことができたのに、今は蚊帳の外に置かれているような気がして、美咲は立ち尽くした。
(……同じラーダンのはずなのに、全然別の街に来たみたい。何か変な感じ)
ため息をついた美咲は、疲れた足取りで風のせせらぎ亭へと向かう。
自分の部屋の前まで来た美咲は、ふと思い立ち隣のアリシャの部屋をノックする。返事がなく、部屋の中からは物音もしない。
どうやらアリシャは外出しているようだった。
(どこに行ったのかな……)
一瞬探しに行こうかと美咲は思ったが、それよりもまずしなければいけないことを思い出す。
(いけない。ヴェリートが落ちたことがまだ伝わってないなら、報せなきゃ。ギルドでいいのかな)
クエストが失敗に終わったことも、忘れずにギルドに報告しなくてはならない。
同行した冒険者たちの安否は絶望的だが、もしかしたらという可能性もある。
美咲は階段を駆け下り、風のせせらぎ亭を飛び出して冒険者ギルドに向かう。
ギルドに着くと、中に入った美咲は、迷った末にクエストを受けた窓口に向かった。
合同クエストが失敗に終わり、参加した冒険者のほとんどが死亡したことと、ヴェリートが陥落したことを伝える。
顔色を変えた受付嬢が中に引っ込み、代わりに出てきた職員らしき男性がにこやかに美咲に対応する。
「こちらで事実を確認いたしますので、今日のところはお引き取りください」
そのまま美咲は有無を言わさず追い出されてしまった。
(こ、これでいいのかな……?)
ちゃんと伝わっているのか疑問だったけれど、もう一度食い下がる勇気もなく、美咲はとぼとぼと宿屋に帰る。
まだ明るいが、太陽は既に傾いてからかなり時間が経っている。沈むのも時間の問題だろう。
(まだ、二日しか経ってないんだよね……)
とても長い二日間だったと美咲は思う。
ゴブリンの巣でルアンが時間稼ぎに残り、ルフィミアと命からがらヴェリートに逃げ延びたと思ったら、お金を稼ぐために傭兵として出た戦場で、ルフィミアが生死不明になった。
(傭兵になんてなるんじゃなかった。あの時ルフィミアさんを何が何でも止めるべきだった)
自分の決断を今頃後悔したところで後の祭りであることを分かってはいても、美咲はできることなら時間を遡ってやり直したい思いでいっぱいだった。
(駄目だ。私、相当ネガティブになっちゃってる)
美咲は落ち込む気持ちを引き上げようと顔をぶるぶると振った。ついでに両手で頬をぴしゃんと叩いて気合を入れる。
だが、次に自分が行くべき場所のことを思い浮かべると、入れた気合もしなしなと萎んでしまう。
(ルアンの実家にいかなきゃ)
落ち込む気持ちを奮い立たせ、美咲は一度だけ行ったことのあるルアンの実家への道順を思い出す。
高級住宅地に足を踏み込むのは勇気がいるが、そんなことを言っている場合ではないだろう。
貴族街と商業街を繋ぐ門前に来た美咲は、貴族街に入っていくのが馬車ばかりで、徒歩で入る人の姿が全くないのに気付く。
(そういえば、ルアンが貴族街では皆馬車で移動するって言ってたっけ。どうしよう)
このまま粘っていても埒が明かないと悟った美咲は、覚悟を決めて徒歩のまま貴族街に入る。
静まり返っている貴族街を、美咲は一人で歩く。
時間はかかったが、ルアンの実家であるグァバ家の屋敷に到着した。
呼び鈴を鳴らすと、メイドが応対したので美咲は自分の名前と、以前ルアンと一緒に館を訪れた人物であることを告げ、ルアンの母親に話さなければならないことがあると告げる。
しばらく待つと、扉が開きメイドが美咲を案内した。
案内された部屋では、既にルアンの母親の伯爵夫人が待っていた。
「ごめんなさいね。夫は今外出していて居ないのよ」
申し訳無さそうに微笑むルアンの母親は、美咲が一人で尋ねてきたことを知り、眉を顰める。
「あら、ルアンもいると思っていたけれど、そうでないのね。あの子ったら、女の子を放ってどこで油を売っているのかしら」
ため息をつくその姿は、間違いなく息子を愛する母親のそれだった。
「あっ、あのっ……」
口を開きかける美咲だが、その先を告げようとすると、鉛を飲み込んだかのように言葉が出なくなってしまう。
「具合でも悪いの? 顔色が悪いわよ。少し休んだ方がいいのではないかしら」
それどころか、逆にルアンの母親に身を案じられる始末だ。
自分が情けなくて、膝の上で揃えた拳を白くなるまで握った。
勇気を出して、口を開く。
「違うんです。ルアン君のことについて、話さなきゃいけないことがあります」
「息子に、何か……?」
並々ならぬ美咲の表情に気付いたのか、美咲を労わっていたルアンの母親の声に、不安が混じる。
「ルアン君は、昨日、私と一緒に受けたクエストで、私を逃がすために、多数の敵の足止めをし、……行方不明になりました」
「……え?」
伯爵夫人の口から、掠れた声が漏れる。
詳しい事情を話し、美咲は詰られることを覚悟してルアンの母親の反応を待った。
「そう。そうなの……。ありがとう、大事なことを聞かせてくれて。あなたにとっても、言い出し辛いことだったでしょう」
だが、美咲の予想に反し、ルアンの母親は美咲を糾弾するでもなく、逆に美咲を気遣った。
「このことで自分を責めないで。例え死んでいたとしても、女の子を守って死ぬなんて、ある意味あの子にとって、理想の死に方だと思うわ。あの子は、勇者になりたがっていたから」
「でも、私にもっと力があれば、きっとルアンは一人で残らずに済みました。私のせいなんです」
ごめんなさい、とうわ言のように繰り返す美咲の目に涙がたまっているのを見たルアンの母親は、美咲が落ち着くのを待って口を開いた。
「ねえ、あなたは、勇者とは何だと思いますか?」
「え……?」
呆けた顔で自分を見上げる美咲に、ルアンの母親は微笑みかける。
「世間一般では、勇者といえば竜殺しや魔王殺しなどの偉業を果たした英雄に贈られる肩書きを差します。あの子はそんな勇者になりたがっていた」
視線を美咲から外したルアンの母親は、部屋の窓から覗く外の景色に目を向けた。
ルアンがいなくなっても、日常の風景はいつも通り変わることなく回っている。
「でもわたくしは思うのよ。偉業を成し遂げるだけが勇者ではない。無力を知りながら、それでも誰かのために己の内から勇気を振り絞れる者。彼らもきっと、勇者という尊称を賜るに相応しい」
言葉を切ったルアンの母親は、改めて美咲の姿に目を落とした。
まだまだ大人と呼ぶには幼すぎる美咲の姿。
愛らしく、ルアンの母親にすら庇護欲を抱かせるあどけない容姿でありながら、辛い現実に何度も打ちのめされてきたその顔は、何度も泣いて、時には泣きそうになるのを我慢し続けた影響で、歳に似合わぬ深い憂いを帯びている。
息子の身を案じながらも、ルアンの母親は歳相応に無邪気でいられず、そんな表情を覚えるしかなかった美咲を、怒りを感じるよりも憐れに思った。
「あの子はあなたを守ることで、勇者と呼ばれるに相応しい勇気を示した。もし息子が死んでいるかもしれないことについて責任を感じてくれるのなら、あなたもまた、誰かのためにその勇気を使ってちょうだい。その方が、きっとあの子も本望でしょう。だから、泣かないで。ね?」
美咲の目の端に浮かぶ涙を、ルアンの母親が優しい声で語りかけながらそっと拭った。