二十九日目:そこへ至る16
ミリアンと日課の組手を終えると、アリシャは組手で負った負傷で重症なもののみ魔法で癒す。
身体の疲労、特に筋肉的な疲労はそのままだ。
休ませれば超回復の原理で筋肉が育つので、無理に魔法で治す必要はない。
「入浴の準備が整っております。鍛錬の汗を流していらしたら如何でしょうか」
マキリスが告げた言葉に、アリシャは表情を和ませる。
「朝風呂か。悪いね」
鍛錬を終えたばかりのアリシャは、身体中汗と泥に塗れている。
重症は癒えたものの、身体の疲労はそのままなアリシャは、普段は布で身体を拭うか、頭から水を被る程度で済ませていた。
わざわざ湯を沸かすなど、魔法を使えばできなくはないが、少なくとも朝から風呂に入るという習慣自体が今のアリシャにはなかった。
とはいえ、娼婦時代は朝昼夜関係なく情事の前後には入っていたから、別に朝風呂で戸惑ったりはしないが。
「いえ、主人に気を遣うのもメイドの仕事です。お気になさらず」
澄ました表情でできるメイド振りを見せているマキリスは、どうしてアリシャにつけられたのか分からなくなるくらい気が利くできたメイドだ。
おそらく種族が和鬼だということで冷遇されていたのだろう。
されど能力自体はあるものだから、ずっと冷遇しておくわけにもいかず、いい機会だとばかりに責任はあれど権力からは遠いアリシャ付きのメイドという形に回された。
メイドの間にも権力争いというものはあるのである。
ちなみに、一番権力が強いメイドが集まっているのが、現在の魔王に仕えるメイドたちであるのは言うまでもない。
「いいわねー、私も入ろっと」
話を聞いて、ミリアンは喜色を満面に浮かべる。
ガサツな女に見えるが、こう見えて案外ミリアンは綺麗好きだ。
それも当然で、傭兵という職種そのものが、ある程度綺麗さを求められる。
品格とかそういう次元の話ではなく、もっと切実な問題で、魔族の中には鼻が利く者も多いため、あまりにも臭いと奇襲などする余地もなく気付かれてしまう。
戦術の幅が狭まってしまうので、そうならないためにも、傭兵には綺麗好きが多かった。
しかし、そんなミリアンの事情など知る由もないマキリスは、ミリアンの言葉に首を横に振った。
「あくまでお嬢様のためのお風呂です。申し訳ございませんが、ミリアン様は井戸水の行水でお願いします」
まさかの拒否にミリアンが目をむく。
「さっきから私の扱い酷くない!?」
マキリスは素知らぬ顔でそっと目を逸らした。
どうやらぞんざいに扱っている自覚はあるようだ。
もっとも、アリシャの姉貴分とはいえ、メイドであるマキリスとしては個人感情を抜きにしても魔王の娘であるアリシャとただの傭兵であるミリアンを同じ扱いにするわけにはいかないのだが。
「野蛮な牛女など本来なら部屋から叩き出しているところです。むしろマキリスは最大限気を使っているかと」
エオリナがミリアンに対して棘のある援護射撃を行う。
マキリス以上にミリアンに対し敵意が強いエオリナは、ミリアンに対する負の感情を隠そうともしていない。
「喧嘩売ってんの!? 買うわよ!」
威嚇し合うエオリナとミリアンに、アリシャはため息をついた。
エオリナの態度は言うまでもないが、ミリアンも少々大人げなさすぎである。
「すまないが、ミリアンも入れてやってくれ。私も姉さんと入りたいんだ」
これは紛れもないアリシャの本心である。
傭兵稼業をしていた関係上、アリシャはミリアンともよく裸の付き合いをした。
いちいち恥ずかしがるような間柄でもないということもあったし、完全に傭兵団での関係が世話焼きの姉と世話を焼かれる妹のような関係だったので、羞恥心自体が皆無だったこともある。
戦争から生きて帰った直後は、男たちが商館に繰り出す中、ここだけの話女同士で慰め合って高ぶった性欲を満たした経験もあるくらいだ。
「そういうことでしたら……」
「それでは下々に示しが……」
二人の反応は正反対で、渋々認めるマキリスに、なおも反対しようとするエオリナと綺麗に分かれた。
「エオリナ、諦めなよ。アリシャお嬢様がいいって言ってるんだから」
「人生、諦めが肝心」
蚊帳の外でマイペースに準備を整えていたピオリーとテンリメイがエオリナを諫める。
そこでようやく残る二人の行動に気が付いたエオリナが今度は二人に噛み付いた。
「って、あなたたちどうして最初から湯浴み道具二人分用意してるのよ!」
「だって、こうなること目に見えてたし?」
「最初から用意しておいた方が早い」
エオリナの怒りに対し、ピオリーとテンリメイはどこ吹く風である。
「そこまでにしておきなさい。お嬢様の前よ」
諫めるマキリスに、おずおずとアリシャが話しかける。
「……あの、悪いがお嬢様というのは止めてくれないか。柄じゃない」
困ったようにかすかに眉をハの字に寄せたマキリスは、キッと眦を釣り上げて挑むようにアリシャを見た。
「ですが、あなたは魔王陛下の娘です。私たちメイドにとって敬うべき主人であることに変わりありません。ご主人様の方がよろしいですか?」
「……敬称についてはこの際何も言わないから、せめて名前で呼んでくれ」
「承りました。恐れながら、それではこれからアリシャ様と呼ばせていただきます」
深々と頭を下げるマキリスに、やり辛さを感じつつアリシャは苦笑する。
「ああ、頼むよ」
「それでは、浴場までご案内いたします」
完全にメイドらしさを取り戻したマキリスが、先導を始めた。
■ □ ■
浴場の前には、既にたくさんのメイドたちの姿があった。
彼女たちの姿を見たエオリナの表情が強張る。
マキリス、ピオリー、テンリメイの表情も曇っている。
四人にとっては、あまり出会いたい相手ではなかったようだ。
相手のメイドたちのうち、一人が前に進み出て述べる。
「現在、エルザナ様が湯浴みの最中でいらっしゃいます。お引き取りください」
慇懃無礼に頭を下げるメイドだが、その態度には相手を歯牙にもかけない感情が滲み出ている。
言葉遣いこそ丁寧なものの、暗にアリシャへの侮りが透けて見えた。
怒りに頬を朱に染め口を開こうとするエオリナを手で制し、マキリスが前に出る。
「何を言っているの? この時間は私たちが使用を申請して押さえていたはずだけれど」
対するエルザナのメイドはうっすらと笑みを浮かべた。
「承知しております。ですが、エルザナ様がこの時間帯に入りたいと仰られましたので」
ふてぶてしさが漂うメイドの返答に、マキリスの眉がぴくりと動く。
不機嫌そうに、マキリスの目が細められた。
「エルザナ様はアリシャ様がこの時間に入浴する予定を知らなかったのですか?」
発せられたマキリスの問いに、メイドは静かに頭を振る。
「いいえ、ですが先ほども申し上げました通り、どうしてもこの時間帯がいいと」
「嘘おっしゃい! あの方のことだから、きっとわざと時間をぶつけてきたのでしょう! 嫌がらせのために!」
そこで我慢しきれなくなったのか、マキリスの制止を振り切ってエオリナが割り込んできた。
驚いたのかマキリスは目を見開き、あちゃーとピオリーが己の頭に手を当て、テンリメイが深々とため息をつく。
「あら、誰かと思えば、エオリナじゃないの」
話をするメイドの口元が静かに弧を描く。
「元気にやっていますか? 私たちの下から逃げ出して得た、新しい主人には慣れましたか?」
メイドの背後では、エルザナの他のメイドたちがくすくすと上品に、しかし耳障りな笑い声を上げた。
「……どういうことなの?」
アリシャの小さい呟きを聞きつけたマキリスが、声を潜めてアリシャに説明する。
「……エオリナは、アリシャ様付きのメイドとなる前、エルザナ様付きのメイドの一人だったのですよ。もっとも、生まれが他のメイドと比べるとあまり良くありませんでしたので、冷遇されておりましたが」
初耳な情報に、アリシャは驚く。
「そうなんだ……」
しかし、よく考えればエオリナの性格は貴族的だし、見た目も派手だから容姿や性格的にいえばエルザナのメイドとして向こうに混じっていても何の違和感もない。
エルザナのメイドたちは、貴族的で品が良く、礼儀作法も丁寧だが傲慢というのがアリシャから見た第一印象だ。
そしてそれは、アリシャがエオリナを見て抱いた第一印象に近いものだった。
最も、比較すればエルザナのメイドたちの方が傲慢さが酷く、エオリナのものはまだまだマシなものであったのも事実だが。
「もっとも、それは私たちも同じ。私もピオリーもテンリメイも、元々は別の方々を主君と仰いでおりました」
マキリスの言葉は、アリシャを魔王城に迎えるに当たって、彼女たちが急遽方々のメイドたちから引き抜かれて選ばれたメイドたちであることを示している。
「で、やっぱりそっちでも冷遇されてたってわけか」
呆れた様子で、ミリアンが呟く。
揃いも揃って全員鼻つまみ者だったらしい。
もっともそれは彼女たちの性格に問題があったというわけではなく、あくまで帰属する種族が魔族全体に好まれていないという点が大きいが。
「まあ、自分の種族を悪くいうのは良い気持ちしないけど、正直他人に好まれる種族じゃないからね。和鬼も吸血鬼も小鬼も幽鬼も、無駄な面に才能が特化してて、魔族の中じゃあんまり強い種族じゃないし」
「私たちは、そんな立場が弱かったメイドの寄せ集め」
ピオリーの説明を、テンリメイが補完する。
「そういうことですから、どうぞお引き取りを」
満足げに唇を歪めて去るように促してくるメイドに、アリシャは尋ねる。
「エルザナお姉さまは、私がこの時間に利用しようとしていたことを知っていてこの行動に出たのかな?」
いかにも自分が先に使おうと思っていたとでも言いそうな切り出し方だが、もちろんアリシャは直前までそんなことは露ほども思っておらず、全てはメイドであるマキリス、エオリナ、ピオリー、テンリメイの四人が動いた結果である。
彼女たちは鍛錬後のことを考え、事前に浴場の使用権利をこの時間だけ押さえておいたのだ。
いわば、決まっていた予定に横槍を入れたのはエルザナ側の方なのである。
「当然です。私たちがお伝えしましたから。ですが、エルザナ様はどうしてもこの時間に入りたいと仰られまして」
「なるほど。事情は分かった。ならエルザナが勝手に入っているのは許そう。でも私たちも入らせてもらうよ」
何気なく口にしたアリシャの言葉に、エルザナのメイドはぎょっとした顔をし、背後に控える他のメイドたちからもざわめきが漏れた。