二十九日目:そこへ至る1
アリシャにとって、その話は晴天の霹靂だった。
自分を娼婦という境遇から救い出してくれた恩人であり、もしかしたら淡い恋心すら抱いていたかもしれない団長と別れ、気が合ったミリアンと一緒に気の向くまま赴くままに放浪しながら用心棒のようなことをして日々日銭を稼ぎ、次に身を寄せる傭兵団を探していたアリシャの下に、ある日突然その男はやってきた。
アズールと名乗ったその男は、魔王の命令を受けて迎えに来たとアリシャに言った。
……まあ、言うまでもないが今の死霊魔将アズールである。
「で、いと高き魔王陛下が、私たちみたいな風来坊に何の用なわけ?」
警戒心を隠そうともせずに、ミリアンはアリシャを庇うように前に立ち、アズールを見下ろす。
当時のアリシャは、既に恵まれた体格の予兆を見せていたものの、当時の時点で肉体的にはほぼ完成されていたミリアンの体格を上回るものではなく、また娼婦として働いていたこともあって魔法戦闘技術もまだ未熟で、それでいて才能豊かな片鱗を見せていたのだから、ミリアンとしては将来有望な妹分を守るのは、同じ傭兵団で同じ釜の飯を食べ、寝食を共にした姉貴分として当然のことだった。
アリシャにとって、ミリアンは得難い友人だった。
人間と寸分足りとも変わらない姿のアリシャに対し、同じ姿をしているというだけで憎悪を露にする魔族はそれなりの数いたし、完全に人族にしか見えないアリシャと関係を持つことで自分の立場が悪くなることを恐れ、深い関わりを持つことを恐れた魔族はもっといた。
そういった魔族はアリシャを身請けして娼館から連れ出してくれた団長が率いていた傭兵団にもいたほどで、団長が引退した後、傭兵団が新たな団長を立てて存続せずに解散してしまったのは、アリシャの存在で傭兵団の中でも意見が割れ、その多くが団を去ったからに他ならない。
傭兵団を維持していくには莫大な資金が必要だ。
当然、戦を見越せば騎獣に武器と防具は必須だし、当然それらは買えばハイ終わりではなく、その後も維持費がかかる。
騎獣ならばそれは水と餌代で、武器と防具ならそれは鍛冶屋に支払うメンテンナンス費用となる。
生き物である以上、騎獣を飲まず食わずにさせておくわけにもいかないし、戦に連れていくのなら、騎獣にも防具をつけさせておく必要がある。
そして騎獣のものを含め、武器防具の整備は戦がない間でも状態を保つという意味でなら自分たちでなんとかなるが、やはり戦の後はどこが悪くなっているか分かったものではないので、専門家に預けなければならない。
見て分かるような破損なら修理してもらえばそれで済むが、戦争の後は隠れて目に見えない箇所が破損していたり、素材の耐久性が限界を迎えていたりといったことが良くあるのだ。
見た目が何ともないからといって放置していれば、その隠れた武器防具の消耗が時限爆弾のように爆発し、戦っている最中に壊れるというどうにもならない状況を生み出してしまう。
作られたものである以上壊れるのは宿命といっていいことだが、それでもそれなりに値が張る代物である以上そう何度も壊して買い替えるといったことができるようなものでもなく、大きな戦争に傭兵として参加した後は、全て鍛冶屋に持ち込んで点検してもらうのが常だった。
当然それらの代金は傭兵団の運営費から出ており、だからこそ傭兵団の人数というのは案外重要なのだ。
この世界では、傭兵稼業の給料というのは、雇い主から支払われた雇用費から傭兵団としての運営費を引いたものが支払われる。つまり、依頼人から一人一人に直接支払われるのではなく、傭兵団として纏めて受け取ったものを再分配する形だ。
雇用費は傭兵団の規模と名声によって決まり、当然この二つがあればあるほど高い。
当然必要な運営費も多くなるが、規模が大きく名声も高い傭兵団は引く手数多で需要が高く、雇用に困らないのでよほどのことがない限り問題なく運営していけるのだ。
そのよほどのことというのが、団長の引退を機に起きた傭兵団の内部瓦解であり、それによって傭兵団の規模は一気に半分以下にまで落ち込んだ。
それに伴い名声も下がり、一気に落ち目になったことで依頼者たちが、この傭兵団は駄目だと見切りをつけて一斉に損切りを行った。こうしてアリシャたちが残された傭兵団を雇おうとする者は少なくなり、金が入らないので傭兵団を運営していくことができず、散り散りになったというわけだ。
幸い、個人として動くなら維持費はそれほどかからない。
あくまで比較としてで少なくない金額は出ていくが、傭兵団の名声で食べていたわけではなく、傭兵団に所属しながら個人の名声でも食べていた傭兵ならば、傭兵団がなくなっても収入は支出を上回る。
アリシャは前者だったが、幸いミリアンは後者だった。
「それは分かりかねますな。儂も魔王陛下に連れてこいと命じられただけでして。その際手段は問わぬとも言われております。また、他は必要ないとも」
アズールは断るのならば無理やり連れて帰るといわんばかりの姿勢を隠していなかった。
アリシャやミリアンの意志など関係ないとでも言わんばかりだ。
「理由も語られずに、どうして信じられる。帰ってもらおうか。魔王陛下には申し訳ないが、私には行く理由がない。……それも、ミリアン姉さんと一緒ならともかく、一人でなんて」
毅然とした対応で、アリシャはアズールを突っぱねる。
「こちらとしてもそう言われて引き下がるわけにもいかないのですよ。魔王陛下の命令は絶対。絶対ですぞ」
「知るか。私には関係ない」
寒村に生まれ、娼婦を経て傭兵稼業で生きているアリシャは、魔王という存在に対して特別敬意を抱いてはいなかった。
魔族領の主都である魔都ならいざ知らず、田舎の寒村出身で、しかも根無し草の傭兵であるアリシャに魔王を信奉しろという方が無理な話だ。
それはミリアンも同様で、二人は現魔王に対する忠誠など、一ミリたりとも備えていない。
「フーム……。仕方ありませんな。では実力行使と参りますぞ」
急激に纏う気配を変えたアズールに気付き、ミリアンが舌打ちして二人の間に割って入る。
「行かないと言っているだろう! こちらの意志はお構いなしか!」
激高するアリシャに、ミリアンは注意を促した。
「アリシャ、警戒しなさい! 何か仕掛けてくるわよ!」
もちろんアリシャとて、決して油断していたわけではなかった。
しかし、これは過去の話。
当のアリシャはもちろん、ミリアンも牛面魔将と呼ばれる今ほどは強くなかった。
未来になればひっくり返る相性差も、この時ばかりはアズールに圧倒的有利をもたらした。
辺り一面に出現する、亡者の気配。
死が満ちる。
「アンデッド!? しかもこんなに大量に!?」
驚くミリアンに気を良くしたか、アズールは不気味な風貌を笑みの形に歪め、気味の悪い笑い声を上げた。
「ホホホホホ。儂はこれでも魔王様から死霊魔将という地位を頂いておりましてな。顔に似合わず、死霊術が得意だったりするのですぞ」
「抜かせ! お前自身がアンデッドみたいな顔しておいて、似合わないもクソもあるか!」
余裕綽綽なアズールとは違い、アリシャは余裕を無くしている。
無理もない。
現れた亡者は次々とその数を増し、既にアリシャが一人で対処できる数を超えている。
現在の魔王となったアリシャならそれでも余裕で突破できるだろうが、当時のアリシャでは荷が重い。
その数は、百体を軽く超えている。
「……。ふん。アリシャを連れ帰るだけにしては、随分過剰な手勢ね」
不機嫌そうな声音のミリアンを、アズールは挑発する。
「儂は小心者なのです。目の前のゴリラのような牛女が凄まじい眼力で睨みつけてくるものですから、つい」
挑発する態度は、どこか未来にディミディリアを足止めしていた時と共通点がある。
どうやらアズールのミリアンをおちょくる態度はこの時から変わってないらしい。
「……喧嘩売ってるのね? そうなのね? 買ってやろうじゃない」
額に青筋を浮かべたミリアンが、己の獲物であるハンマーを振り被り、薙ぎ払う。
それに巻き込まれたアンデッドのうち、ゾンビやスケルトンが腐った臓物や骨を散らばせてバラバラになった。
空いたスペースにミリアンは素早く飛び込み、再びハンマーを振るってはアンデッドたちを纏めて粉砕していく。
さすがは魔族としては珍しい、武器戦闘に特化した超重量武器使い。
当時からその戦闘能力はかなり高いものだったミリアンは、アンデッドの雑兵などものともせずにアズールへと近付いていく。
しかし、アズールは魔族語を詠唱すると、ミリアンが減らした分以上のアンデッドを即座に補充した。
全てゾンビやスケルトンといった低位のアンデッドとはいえ、三十体近い数を即座に呼び出せるのだから脅威である。既に百体呼び出しているのだから今更かもしれないが。
それに、ハンマー一本のみで三十体も屠ったミリアンも十分異常である。
しかもミリアンが使っているのはほぼ身体能力に付随するものだけで、魔法自身はごく弱い身体強化術が掛かっているだけなのだ。
といっても、やはり当時のミリアンではまだアンデッドの群れを突破するには力不足であり、遮二無二突撃しても飲み込まれるだけだ。
実際、ミリアンは追加されたアンデッドたちに逃げ道を塞がれる形で敵中に孤立してしまっている。
このままでは、ミリアンは大量のアンデッドたちに圧し潰されるだろう。
そうなれば、待っているのはアンデッドに体中を貪られる未来だ。
生前の意識を強く残しているアンデッドならともかく、こういう低位のアンデッドには術者の命令を除けば、元々アンデッドに備わる本能しか残っていない。
それが生者の捕食行動であり、死体が勝手にアンデッドとなって動き回る理由といって良かった。
「ホホホホホ。沸点低過ぎですぞ」
嘲るアズールは、しかしすぐに表情を凍り付かせる。
ミリアンを包囲したアンデッドの一角が、魔法によって丸ごと凍り付いたのだ。
凍り付いた無数のアンデッドの氷像が一斉に砕け散る。
魔法を行使したのは、アリシャだった。
「落ち着け、ミリアン。あいつのペースに乗せられるな」
「……ごめん、アリシャ。私としたことが、頭に血が上ってた」
助けられて自分がどれほど軽率なことをしたか自覚したミリアンが、苦い声で礼を述べる。
ミリアンにアリシャは笑いかけた。
「何、構わんさ。ミリアン姉さんの力になれて、嬉しいくらいだ。さあ、二人であの死体男をここから叩き出そうじゃないか」
「もうっ。こういう時に昔の呼び方しないでよね。気が抜けちゃうじゃない、お嬢」
「団長みたいな呼び方は止めろ。私がそういう大人しそうな柄じゃないのは知ってるだろ」
軽口を叩き合いながら、アリシャとミリアンは今度こそ二人でアンデッドの群れを薙ぎ払い、粉砕していった。