二十九日目:勇者と魔王4
裂帛の気合、金属がぶつかり合う甲高い音、そして静寂。
時間が止まったかのように思えるのは、極限にまで高められた集中力の現れだ。
美咲は剣を振り下ろした姿勢のまま、愕然とした表情で目前の光景を見つめていた。
魔王が両手に握った剣で、美咲の渾身の一撃を受け止めた。
ただ事実を言葉にすればそれだけである。
無論、本当にそれだけのことでしかないのならば、美咲はここまで驚いたりはしない。
驚いた理由は他にある。
……見覚えがあったのだ。その剣に。
いや、剣という名称はそれに相応しくない。
身体が大きい魔王が持っているから相対的に小さく見えるだけで、それは大剣と呼ぶべき大きさの剣なのだから。
その大剣を携えていた人間を、美咲は知っている。
その大剣を振るって美咲を助けてくれた戦士を、美咲は知っている。
その大剣を手に、死が溢れる戦場に残った女性を、美咲は知っている。
「……その、大剣を! お前が振るうなあああああああああ!」
感情が爆発した。
頭が怒りで一色になった。
アリシャの武器がある。
アリシャの武器を魔王が持っている。
でも、この場にアリシャはいない。
ならば、アリシャはどうなった?
認めたくないから考えないようにしていた。
死体が見つかったわけではないし、あれほど強いアリシャが死んだなど、美咲は思いたくなかった。
しかし、現実は非常だ。
落ち着いて考えれば、アリシャが生存している可能性など、万に一つもあり得ないことを、美咲は理解している。
アリシャだけではなく、彼女の友人であり、古い傭兵仲間であり、現在は最高ランクの冒険者だったミリアンという女性までもが、あのヴェリートで魔将の足止めをするために残った。
二人が魔族軍に捕まっているという話は聞いていない。美咲のように、魔族軍に潜り込んでいる姿も見ていない。
かといって、ディミディリアもアズールも、アリシャとミリアンが生きているとは、決して口にしないのだ。
それが暗に二人が死んでいることを指し示しているようで、美咲は追及することができなかった。
事実を受け止めることができなかったのだ。
見ない振りをすることで安定を保っていた心が、アリシャの大剣によって乱れた。
目前で大きな隙を晒した美咲を見逃すほど、魔王は甘くない。
振り上げられた大剣を見上げ、美咲は悟った。
乱れた感情に振り回され、回避するタイミングを逃した。
大剣をまともに受けられるほど、美咲には筋力がない。
受けることも避けることもできない一撃は、容易に美咲を殺すだろう。
攻撃魔法で迎撃力を上乗せしても、魔王にも強化魔法がある。
打ち合えば無効化できるとはいえ、打ち合いなら最初の一合だけは威力を発揮してしまう。
初撃から無効化するためには、美咲の方が早く魔王に触れる必要がある。
だが、今はそれは不可能だ。
死の予感に美咲の知覚速度が何万倍にも引き伸ばされる。
土壇場の集中力が、あらゆる可能性をシミュレートして自らを生かす道を探っている。
美咲の身体能力だけでは、この一撃を受けることも回避することも不可能。かといって、当たれば確実に死ぬ一撃。
ならば、この死地から抜け出すには、本来美咲が持たないものを、無理やり無から引き出すしかない。
「テェアオィソォイユゥォウォ、ゾォイミィエン。ベェアカァウヘ」
大剣が振り下ろされる瞬間、美咲が何かを呟く。
美咲の足元の地面が爆発するのと同時に、魔王の予測を遥かに上回る速度で、美咲が魔王の間合いの内側に潜り込んだ。
いや、潜り込んだという表現は正しくない。
そんな器用な方法を、美咲は取れない。
だから、美咲が行ったのは、魔王への体当たり。
攻撃魔法で生み出した運動エネルギーを自分自身にぶつけて推進力とし、大剣の死角である内側に逃れた。
無論、これは事実だけ見れば大剣の一撃を回避したというだけであり、続いてすぐさま行動に移らなければ、次の一撃が飛んでくる。
大柄な魔王ならば、一歩引くだけで間合いを取り戻すことも可能だろう。
実際、二撃目を放つため、既に魔王は動き出している。
だが、潜り込んだのは懐だけではない。
完全に予想外の動きで、美咲は魔王の意識の間隙にも潜り込んでいる。
よって、今だけは、美咲の方が、動き出しが速い。
間合いを開けようとする魔王に先んじて、美咲は踏み込んでいた。
見てから行動するのではなく、そう動くだろうと予測した上で、決め打ちに踏み切った。
体当たりの余勢で共に体勢を崩しながらも、勢いがついている以上、踏み込む美咲の方が有利だ。
魔王が大きく目を見開いて、目の前の美咲を見つめた。
予測は当たっている。
間合いは開いていない。
ただ、美咲も剣を振れないほど密着しているので、勇者の剣での攻撃はできない。
だから、美咲は片手を魔王の腹に押し当てて叫んだ。
「──ヘェアゾォイキィエルゥ!」
爆音とくぐもった苦痛の声が、謁見の間に響いた。
■ □ ■
どこかから振動が伝わってきたような気がした。
それは錯覚か、それともそう思ってしまう些細なものだったのか、ディミディリアはそれをはっきりとは認識できなかった。
だが、ディミディリアに何かに気付きかけさせるくらいの効果はあったらしい。
(おかしい。具体的に何がとは言えないけど、何とも言いようがない違和感がある。そもそもアズールの奴、こんなに私に絡んでくるような奴だった?)
何か、見落としてはいけないものを見落としている気がして、ディミディリアの表情が険しくなる。
「悪いけど、お喋りはここまでにしておくわ。そろそろ魔王陛下のところにいかないと」
「ああ、そんなこと言わずに、もう少し爺の世間話に付き合ってくだされ。ホ、ホホ」
ディミディリアを引き止めようとするアズールからは、不審な点が見受けられない。
いや、正確にいえば不審さ満点なのだが、アズールは策略や謀略を好んで用いる性質上、元から不審さが爆発しているので判断がつかないのだ。
今も水面下で何かの謀略が進行していたとしても、全くおかしくはない。
「続きは陛下への謁見が終わったらね。私も暇じゃないの。我慢してちょうだい」
「そう言わずに、そこは儂のこの生気溢れる表情に免じて」
「死体一歩手前の顔で何いってるのよ」
「ハハ。アンデッドジョーク」
(本当にぶん殴りたい)
歩き出そうとするディミディリアをアズールは引き止めてくるが、どうにも本気度を図れない。
何か裏があるのか、本当に気紛れなのか、搦め手を好まないディミディリアには判断がつかないのだ。
だが、分からないなりにディミディリアは考えていた。
自分を引き止めてくるということは、アズールはディミディリア自身に用があるということだ。
では、何のために?
ディミディリアに接触して、アズールに何の得がある?
「アンタ、接近戦主体に鞍替えでもする気なの?」
「は?」
珍しく、本当に珍しく、アズールが全く予想もしていなかったかのように呆気に取られた表情を浮かべた。
どうやら違ったらしい。
「そうじゃないのね。私にしきりに絡んでくるから、教えでも請いにきたのかと思ったわ」
「ハハハ、なるほど、なるほど。さすがディミディリア殿ですな。何時如何なる時も戦いを忘れないその脳筋振り、感服いたしますぞ」
「……それ、微妙にけなしてない?」
「気のせいですぞ」
そこまで話していて、ディミディリアはいつの間にか自分がまた足を止めていたことに気付いた。
せっかく歩き出そうとしていたのに、話しかけられて出鼻を挫かれた。
(チッ。急がないと)
自分でも何故こんなに気持ちが急くのか分からなくなりながらも、ディミディリアは再度歩き出そうとする。
「ああ、お待ちくだされ、お待ちくだされ。もうしばらく、この爺と楽しい楽しい世間話に興じましょうぞ」
アズールが再びディミディリアを引き止めてくる。
(まただ。コイツもしかして、やっぱり私が魔王のところへ向かうのを邪魔しようとしてる? それともただの偶然で、私の思い過ごし?)
何かを掴み掛けた気がしたディミディリアだったが、腕に感じた感触に邪魔される。
見れば、アズールの枯れ木のような腕が伸びて、ディミディリアの丸太のような腕を掴んでいた。
振り払うのは簡単だ。ディミディリアとアズール、両者の筋力差は圧倒的であり、強化魔法込みでもその事実は覆らないほどの差がある。
だからこそ、ディミディリアは無理やり振り払うことはしなかった。
ディミディリアがアズールのことを慮ったとも言える。
それでもディミディリアとて妙齢の女であるからして、声に不快感が混じるのは避けられない。
「レディーの身体に断りもなく触れるのはマナー違反よ」
「……レディー?」
「おい、そこで不思議そうな顔すんな。目の前にいるでしょ」
「はて。儂の目の前には、ただの牛顔の筋肉達磨しかいませんが」
「ぶっ飛ばすぞお前」
「おお、怖い怖い」
凄んでみせるも、アズールの態度は風に揺れる柳のようにゆらゆらとしていてまるで手応えがない。
そしてディミディリアは再び気がついた。
またしても、歩みを止められてしまっている。
「……ねえ、もしかして、わざとやってる?」
「何のことですかな?」
確信犯でしらばっくれているのか、それとも本気で分かっていないのか。
だが、死霊魔将アズールともあろう者が、無意味な行動を取るとはディミディリアには思えない。
考えることは苦手なディミディリアだが、それでも思慮分別がないわけではない。
(……本当に、気のせい?。こいつ、私を魔王のところに行くのを邪魔してる気がするんだけど)
どうにも、何ともいえない嫌な予感が拭えず、脳裏にこびり付いている。
(何を見落としてる? 何か、何かいつもとは違う予兆は無かった?)
考えを廻らせる時間を稼ごうとして、ディミディリアがその話題を出したのは、本当に偶然だった。
「そういえば、美咲ちゃんとミーヤちゃんは今何処にいるの?」
一瞬。
本当に一瞬、僅かな間でしかないが。
確かに、死霊魔将アズールが口篭った。
「……彼女たちなら、現在仕事中ですぞ」
「仕事? 仕事っていうと、魔王様が命じたまだ生き残ってる人間の女たちの世話のこと?」
「ええ。魔王様の命令で、儂が担当していたものを引き継がせました。今頃喜んで仕事をしている頃ですよ」
思わず、ディミディリアは引き結んでいた唇を吊り上げた。
ついに。
ついに違和感の一端を捕まえた。
目の前の男は嘘をついている。
嘘をついてまで、自分をこの場に引き止めたがっている。
ディミディリアはそれを確信した。
「おかしいわね。美咲ちゃん自身の頼みで、私は二日前に彼女たちを開放するのを手伝ったんだけど。どういうことかしらね」
沈黙の後、アズールの纏う気配が変わった。