二十八日目:死霊術1
ケーキを買った美咲は、改めてアズールの自室に向かった。
少なからぬ因縁があるアズールに対してわざわざケーキを差し入れるというのは美咲としても思うところがないわけでもないが、今は一応敵ではなく味方なので、露骨な敵対行為は取れない。
業腹だが、美咲は敵意の矛を収めることにしている。
もっとも、アズールは何食わぬ顔をしておいて裏で何を画策しているか分かったものではないことも確かなので、全面的に信用出来る日は永遠に来ないだろうが。
外出していてもおかしくないと思っていたが、アズールは相変わらず自室に引き篭もっていた。
ディミディリアの方は活発に動いているのに、どうしてアズールは外に出ないのだろうか。
(いやいや私。そんなのどうでもいいでしょ)
明後日の方向に流れそうになった思考を中断し、美咲は扉をノックする。
「どなたですかな?」
「私よ。入ってもいい?」
「おお、おお、もちろんですぞ。まさか美咲殿から儂を訪ねてくださるとは」
「失礼するわね」
中から聞こえたしゃがれ声に、美咲は扉を開け放つ。
暖炉で暖められた温かい空気が殺到し流れてきた。
「……換気くらいしたら?」
「これは失敬。何分アンデッドなものでしてな。ついつい忘れてしまいます」
ひょうきんな態度で、アズールは己のしゃれこうべ染みた頭を叩く。
「差し入れにケーキ持ってきた。確か好物だったわよね?」
「ケーキですと!?」
素っ頓狂な声とともに、アズールの頭が胴体から分離し物凄い勢いで飛んできて、美咲は思わず仰け反る。
「頭だけで動かないで気持ち悪い」
「これは酷いお言葉」
台詞の割には全く堪えた様子も気にした様子もなく、飄々とした態度を崩さずにアズールの頭はゆっくりと胴体へと戻っていく。
「でも、本当に好きなのね。アンデッドって、味覚がなくなっているんじゃないの?」
「個人によりますな。それに、欠落した感覚は、死霊術で補えますぞ」
「えっ!?」
アズールの言葉に驚いた声を上げたのは、ルフィミアだった。
美咲とアズールの会話に水を差した形になったことに気付いたルフィミアは、再び口を噤む。
そんなルフィミアをちらりと見て、アズールは髑髏顔に笑みを浮かべた。
「察しがつきますぞ。そちらの彼女には味覚がないのでありましょう。再び儂の制御下に戻せば死霊術で味覚を与えることは可能ですが……まあ、美咲殿がこの選択肢を取るとは思えませんな」
「……当たり前でしょう。何をされるか分かったものじゃない。面と向かってこんなことを言うのは失礼かもしれないけど」
完全に敵対心を露にするでもなく、煮え切らない態度を取る美咲の心理は複雑だった。
かつては敵だった。今は敵ではない。しかも、アズールは今もなお美咲の仲間たちの亡骸を所持している。取り返したい。しかし敵対していては返してくれるはずがない。
「いえいえ、気になさるおつもりはありませんぞ。敵だった者に警戒心を抱くのは当たり前。正しい反応ですからな」
美咲の内心が手に取るように分かっているかのように、アズールは美咲を見つめる。
その髑髏顔がきしりと歪んだ。
笑みを浮かべたのだ。
「しかし、彼女もいつまでもこのままというのも、哀れなものでしょう。やはり、美咲殿、ここは一つ死霊術を学ばれてはいかがでしょう」
自然と表情を険しくして、美咲はアズールを見つめる。
「……前も同じこと言っていたわよね。私にそんな時間がないことくらい、あなたも分かっているはずよ」
大仰な身振りでアズールが頷いた。
「それはもちろんでございます。しかし保険はかけておいて損ではないでしょう。貴女には、呪刻によって死してもアンデッドとして蘇る道が残されているのですから」
意識して、努めて冷静に振る舞っていた美咲の態度が崩れる。
「……! でも、それは……!」
身を乗り出す美咲に対し、アズールは静かに笑みを深める。
「もちろん貴女の懸念も理解しておりますぞ。アンデッドになってしまっては、元の世界に戻ったところで以前と同じ日常を送れる保証はない。しかし、それは普通に戻ったところで同じこと」
幾分か冷静さを取り戻した美咲は、静かに居住まいを正す。
「……どういうこと?」
「簡単なことです。貴女は既に何度も命のやり取りをしてきた。殺気をぶつけ合い、殺されかけ、逆に相手を手にかけてきた。貴女の世界がどのような世界かは存じ上げてませんが、今までのあなたを見れば大体分かります。よほど平和な世界だったのでしょうな」
言葉を切ったアズールが、身を乗り出して美咲の目を覗き込むかのように髑髏顔を近付ける。
「そんな世界に、殺人者となった貴女が今更戻ったところで、日常を取り戻せるとお思いで?」
髑髏顔が、ケタケタと笑う。
「あなたの日常は、この世界に呼ばれた時点で、とうに崩壊しているというのに」
「ちが……!」
態勢を戻しながら、美咲が差し入れたケーキの皿を引き寄せ、フォークで切り取った欠片を美味そうに頬張ったアズールは、まるで出来の悪い生徒に対して接するようにため息をついた。
「いい加減現実に目を向けることですな。度重なる重度のストレスが掛かったことで、貴女の精神はこの世界に来たばかりの頃から大きく変質しております。今や、貴女の精神は世界に適応しつつある。地面に染み込む水の如く未知の言語を吸収し、命のやり取りにももはや以前のように大きく心を揺さぶられることはない。……自覚がお有りでしょう」
アズールの指摘に、美咲は言い返せなかった。
自覚があったのだ。
最初の頃は戦うことにすら躊躇いがあったのに、今では殺し合いを嫌とは思えど躊躇うことがない。
元の世界では英語の授業すら分からないことだらけだったのに、必要に駆られてとはいえ一ヶ月も経たないうちに魔族語をある程度話せるようになってしまった。
もちろん、言語の違いによる差はあるだろう。
それでも、尋常ではない速度で美咲が魔族語を吸収したことは確かだ。
そこで、アズールが少し困ったようにミーヤに顔を向けた。
「ところで、ミーヤ殿。執拗に儂の脛にペリトンをけしかけるのはやめていただけませんかな?」
「へ?」
きょとんした表情を浮かべた美咲は、テーブルの下に目を落とす。
何時の間にやらテーブルの下は何匹ものペリトンが集まっており、アズールの脛に攻撃を繰り返していた。
「やだ」
どうやらミーヤの命令で間違いないらしい。
止めさせる気はないようで、ぷいっとミーヤは顔を背ける。
「全部同じ場所を狙ってくるので、地味に老体には堪えるのですが……」
「アンデッドが何言ってるのよ」
頬杖をついて、ルフィミアがアズールに胡乱な視線を送る。
片手のフォークでケーキをつついて口に運んでは、首を傾げて微妙な表情を浮かべている。
やはり味覚が正常に機能していないらしい。
同じアンデッドなのに、アズールは美味しくケーキを食べていて、ルフィミアは食べられない。
その差が、美咲には理不尽に感じられた。
「まあ、話を戻すとしましょう」
諦めることにしたのか、脛を攻撃するペリトンたちを放置してアズールは話を再開した。
無視される形になったミーヤが不満げに頬を膨らませる。
「アンデッドとなったとはいえ、儂ももうこの通り死にかけの老いぼれの身」
美咲はまじまじとアズールを見た。
それはまさか、ギャグで言っているのだろうか。
「しかし、儂が長年をかけてこの頭に詰め込んできた死霊術の秘奥、その数々が、このままでは失伝してしまうことになる。それではあまりにももったいないというもの」
「……なら、弟子を取ればいいのでは?」
口を挟んだニーナを見つめ、アズールは不気味に微笑む。
「美咲殿は良い部下をお持ちだ。分けていただきたいくらいですぞ」
「あげませんから。何されるか分かったものじゃないですし」
「カカカカ。左様ですか」
なおも警戒して厳しい視線を崩さない美咲に、アズールは向き直る。
「弟子を取る。確かにそれは取るべき手段の一つ。しかし儂は人に物を教えることに長けているとはいえませんのでな」
何を言われるのかと身構える美咲の前で、アズールは黙々とケーキを頬張る。
「故に、美咲殿」
アズールがケーキを食べ終え、フォークを置いた。
美咲とアズールの視線が交錯する。
「貴女の頭に、我が死霊術の秘奥を全て刻ませていただきたい」
「……は?」
思わず美咲は思考を停止させた。