八日目:ゴブリンの巣壊滅作戦15
それからは迷うこともなく、ゴブリンに見つかることもなく、美咲たちは順調に出口へと近付いていた。
洞窟は入り組んでいるが、その分抜け道なども多く、グモがゴブリン語で書いてくれていた注釈の多くはそういう抜け道の類について書かれていた。
お陰で見つかって強制的に戦闘に突入するようなこともなく、経過は順調に進んでいる。
だがやはり最後まで上手くいくと思うのは虫が良過ぎるようで、出口に近付くにつれ、やり過ごさなければならないゴブリンの数はどんどん増えていき、その分美咲たちの歩みも遅くなっていく。
少しずつ悪くなっていく状況にルフィミアがぼやいた。
「参ったわね。何度もやり過ごしてるのにゴブリンはまだまだ前にいるみたい。この分じゃ出口で一戦やらかす必要があるかも」
ルフィミアのぼやきにエドワードが反応し、全員に指示を飛ばす。
「そのようだな。皆、いつでも戦闘に入れるよう準備をしておいてくれ」
腰に括りつけた小振りのメイスの柄に手をやりながら、ピューミが注意を促す。
「敵が何か仕掛けてくるとすれば脱出直前でしょう。私たちが安堵して警戒が緩む隙をついてくるはず。ディック、くれぐれも警戒は密にお願いします」
「了解した。少し待ってろ。また先行する」
物音をほとんど立てないで動けるディックが、再び前方の偵察に向かった。
「この辺りのゴブリンは何か他と違うな」
「どうして?」
ぽつりとルアンが漏らした呟きを聞いて、美咲はルアンに話しかけた。
話しかけられたルアンは、何も知らない美咲に丁寧に説明する。
「鎧を着てるのもいるだろ。防具を着たゴブリンを倒すのは結構苦労するんだ。向こうがちゃがちゃ音を立ててくれるお陰で、俺たちの物音を誤魔化してくれるのは有り難いけど」
すれ違うゴブリンは、グモのように粗末な布切れを纏い棍棒で武装したいかにもな雑兵らしい格好から、鎧と盾に剣や槍を携えた兵士のような格好に変わっている。
黙って美咲とルアンのやり取りを見ていたグモがハッとした顔になって、慌てて口を挟んだ。
「もしかしたら、近くにベブレ様がいらっしゃるのかも」
グモの発言を聞いた美咲は自分の記憶を辿り、グモの言うベブレという人物についての情報を掘り出す。
「ベブレ様って確か、グモが前に言ってたゴブリンマジシャンよね?」
「そうですそうです。ライジ様が武勇と兵の統率に優れた方であるのに対し、ベブレ様は魔法を操り、知略を巡らせることに優れたお方。そのベブレ様が待ち構えているとなると、脱出は容易ではありませんぞ」
ゴブリンマジシャンの情報を聞いた美咲は、即座にそれをエドワードに伝えることにした。
グモの言葉を理解できるのは、この場に美咲しかいないのだから、美咲が伝えなければこの情報は永遠に伝わらないのだ。
無かったことにする理由はないし、第一ゴブリンマジシャンと一戦交えなければならないという情報は、美咲一人で抱えるには荷が勝ちすぎる。
「エドワードさん。ちょっといいですか」
「何だ?」
声をかけられて振り向いたエドワードに、美咲は自分が知った情報を告げた。
グモ経由の情報ということで、エドワードは信じるべきか迷ったようだったが、警戒するに越したことはないという結論に達したようだ。
「そうか。貴重な情報を感謝する。こちらでも念頭に入れておこう」
何でもないことのようにエドワードは言うが、ゴブリンマジシャンとの戦いが濃厚になったことで、その実状況は悪くなった。
相手は不意を突いたとはいえ、経験がそれなりに豊富な冒険者たちを一網打尽にした知恵者である。
最初にエドワードたちが襲われた時より味方の数は遥かに少ないし、中々洞窟を抜けられないせいで肉体的な疲労はともかく、精神的な疲労はかなり蓄積している。
定期的に休息は取っているものの、やはり敵地の中で休むのではろくに気を抜けないので、楽観はできない。
「ピューミ。ちょっといいか」
「どうしました?」
難しい顔のエドワードに声をかけられ、ルフィミアとともに美咲とルアンについていたピューミがエドワードのもとへやってくる。
「例のゴブリンマジシャンに待ち伏せされている可能性があるらしい。ディックを一人で行動させるのは危険だ。念のために呼び戻そう」
「分かりました。すぐに連絡します」
ピューミは自分の懐から握りこぶしほどの大きさの石を取り出すと、地面に叩きつけて砕いた。
脆い石なのか、大きな音を立てることもなく、石はあっさりと砕け散る。
意図が分からず、美咲はピューミに尋ねた。
「あの……これで連絡になるんですか?」
「なります。これは双子石といって、対になっている石同士が共鳴し合う性質を持つんです。こうやって砕けば、ディックが持つ双子石も砕けます。私たちの間では、双子石を割るのは緊急事態でディックを呼び戻したい時と決めているので、これでディックは戻ってくるはずです」
説明を聞いて、美咲は吃驚した。
(そんな便利な石があるんだ……)
間違いなく美咲の世界には無い石だ。
でもそんなに便利な石なら、もっと持っていてもいいはずなのに、どうして二つだけなのだろうと美咲は不思議に思った。
「高価な品物なんですよ。これが必要な時は差し迫った状況が多いのであまり使いたくはないのですが、ゴブリンマジシャンを相手に無策で挑むわけにもいきませんから、仕方ありません。……九十レドもするので、本当に使いたくなかったのですが」
苦みばしった表情で嘆くピューミの話を聞いて、美咲はその金額に震え上がった。
(きゅ、九十レド!? 一レドが一万円だから、ということは、九十万円!? そんなにするの!?)
一般家庭のお父さんの収入約三ヶ月分である。職種によってはもっと跳ね上がるかもしれない。
「ちなみに、二つで九十レドではなく、あくまで一つ九十レドですので」
付け足されたピューミの言葉に、美咲は凍る。
空いた口が塞がらないというのは、こういうことを言うのかと美咲は思った。
しばしの間、沈黙が流れる。
「なあ、いくらなんでも遅くないか?」
待ちきれなくなったルアンが口を開いた。
口に出さないが、初心者でも冒険者の端くれで、戦闘経験もあるルアンは、その結果予想される最悪の事態を想像することができる。
「そうですね。そろそろ戻ってきてもいい頃なんですけど」
双子石を割ったピューミ本人も、ディックからその後全く音沙汰が無いことから、そわそわと落ち着きを無くし始める。
「いつまでも待っているわけにもいかないのに、何やってんのかしら、アイツ」
ルフィミアの怒り口調の言葉にも、隠しきれない不安が潜んでおり、強がっているが故の台詞であるのが、美咲にさえもはっきりと分かった。美咲に分かるくらいなのだから、他の面々にも伝わっているだろう。あるいは本人すら、強がりに過ぎないと理解してしまっているかもしれない。
不安が伝達し全員に恐怖が充満しないうちに、エドワードは結論を出した。
「あと一レンだけ待とう。それでディックが来なければ、何かあったということを想定して動く。各自油断をするな。いつどんなタイミングで襲われるか分からん。ピューミは特に注意していてくれ。ゴブリンマジシャンに襲われた場合は、お前の魔法がないとまず勝てん」
ピューミは杖を両手で握り締めると、真剣な表情で告げた。
「分かりました。奴の魔法は不意打ちされて後手に回った状態でも既に一回防いでいます。来ると分かっている今回は、決して遅れは取りません」
めらめらと闘志を燃やすピューミの様子に、ふっとエドワードが笑みを漏らす。
「心強いな。その意気だ」
「あ、私、時間測ります。時計を持っているので」
美咲は懐からアリシャから預かっている大事な砂時計を取り出すと、地面に水平になるように置いた。
砂時計に入った白い砂が、さらさらと上から下へと落ちていく。
その様子を眺めながら、美咲は感慨に耽る。
(何か、変な感じ。向こうの世界にいたのが、もうずっと前のことみたいに思える。また一週間とちょっとしか経ってないのに)
この世界に召喚された最初の夜はホームシックにかかっていたし、今でもふとした切欠で家族が恋しくなり、胸が張り裂けそうになるのに、毎日見ていたはずの家族の顔は段々とぼやけていって、はっきりとしなくなっていく。
家族の顔を思い出す頻度が減っているのだと美咲が実感するたびに、早く帰らなければいけないと美咲は焦燥に襲われるのだ。
(お母さん、今何してるかな)
今はまだ、母親のふとした仕草や表情を思い出すことは、それほど難しいことではないけれど、いつかはそれも難しくなってしまうのだろう。
それはとても怖いことだと美咲は思った。
「おい、大丈夫か」
横から声をかけられて、美咲は我に返って慌てて声のした方に振り向く。
「え、何が? どうしたの? ルアン」
「表情がすっげぇ暗かったぞ。気分でも悪いのか」
ルアンが言うほど暗い表情をしていた自覚がない美咲は吃驚して、ルアンの指摘を否定する。
「悪くないよ。ただ、昔のことを思い出してただけで。思えば、随分遠くまで来ちゃったなって」
召喚された日を境に、美咲を取り巻く環境は激変した。
都合を無視して召喚され、魔王を倒せと剣を片手に放り出された末に、美咲はこんな場所にいる。
「……帰りたいよな」
「そうだね。帰りたいよ。帰れるなら今すぐにでも」
すれ違っているのは承知で、美咲は話しかけて着たルアンに言葉を返す。
以前の誤解は解いていないので、ルアンは美咲のことを滅んだ国の貴族だと考えている節がある。
ある意味では間違っていないのかもしれない。
寄る辺を失っているという点では、異世界人も亡国の貴族も大差は無いのだから。
「でも、今はここから脱出することだけを考えろよ。それが出来なきゃ何の意味も無いんだから」
「分かってるわ」
砂時計を見つめながら、美咲は諌めてきたルアンに対し端的に答える。
「あまり心配するな。君たちのことは俺たちが責任を持って脱出させる」
「そうよ。恩人を死なせたとあっては、私たちの名が廃る。大船に乗った気でいればいいのよ」
「油断し過ぎは禁物ですが、慣れないうちからあまり構え過ぎても疲れてしまいますからね」
エドワードやルフィミア、ピューミも口々に美咲に話しかけてきた。
「……そんなに、酷い顔してましたか?」
全員を心配させるような表情になっていたのかと不安になった美咲は、皆の顔を見回して尋ねた。
不思議そうに自分の顔を撫でる美咲に、ルフィミアが微笑みを浮かべる。
「私たちが心配しちゃう程度にはね」
そんなに分かるほど出ていたとは思ってもいなかった美咲は、なんだか居たたまれなくなって二の句が告げなくなってしまった。
自分よりも年上の人間にホームシックを悟られるのは、妙な気恥ずかしさを感じる。
相手の認識に誤解が含まれているならなおさらだ。
すみませんすみませんと謝り倒したくなってしまう。
羞恥心で悶えそうになるのを美咲が頑張って外に出さないように堪えて平静を保っていると、どうやら何か動きがあったらしく他の面々が慌しく動き始めた。
美咲は自分のことでいっぱいいっぱいだったので、他のことにまで注意が回らなかったのだ。
「ディック! 無事だったか!」
エドワードの太い声に釣られ、美咲が反射的に目を向けた先では、地面に蹲ったディックが焦燥に満ちた顔でこちらを見ていた。
何かを伝えようとぱくぱくと口が動いているものの、ヒューヒューと掠れる音がするばかりで、ディックが発しようとしている言葉は声にならない。
ディックの喉は最低限の治療こそ施されていたが、潰されて無残な傷跡を晒していた。
これではとてもではないが声など出ない。それどころか、声を出そうとするだけで激しい痛みがあるはずだ。
「なんて酷い……! すぐに助けますからね!」
状況を見て取ったピューミがディックに走り寄っていく。
不思議なことに、ピューミが近付くにつれてディックの顔は険しく、必死になっていった。何かを伝えようとする動作も激しくなり、声が出ていれば絶叫と呼んでもおかしくない規模になっている。
(何か、おかしい──?)
仲間が癒しに来てくれたのなら喜ぶものだろうに、まるで「来るな」と言わんばかりのディックの態度に不安になった美咲は、隣にいたルアンの袖を引いて相談しようとした。
この時、下手にルアンと相談しようとせずに、自分の直感を信じてピューミを制止していれば、あるいは未来は変わっていたかもしれない。
だが、今の時点で美咲は熟練の冒険者であるエドワードたちよりも自分の判断の方が優れているとは欠片も思っていなかったし、むしろルアンと比べてさえ、自分はまだ劣っていると思っていた。
それを責めることは出来ないだろう。
多少旅に慣れたといっても美咲はまだまだこの世界の人間に比べるとスタミナが無いし、基礎的な能力が足りない。
せっかくの勇者の剣も剣術のけの字も知らないから、せいぜい棍棒のように振り回すのが精一杯で、宝の持ち腐れになっている。
自らが役に立たないことを美咲自身が良く理解しているから、美咲は自分の直感に自信が持てなかった。だからこそ、ルアンに尋ねて自分の直感が間違っていないという確信が欲しかった。
ならば、この結末が訪れたのはあるいは必然だったのかもしれない。
最初に奇襲で取り逃した相手がいても、希望を持たせたところで、希望が形になるその瞬間に発動する必殺の罠を仕掛け、仕留める。
ゴブリンとしてはもちろん、平均的な魔族と比べても優れた頭脳を持つゴブリンマジシャンであるベルゼが、侵入者や裏切り者をそうやすやすと生かして帰すはずが無かったのだ。
「だ──」
大丈夫ですか、とおそらくは言おうとしたのだろう。
ディックに向けられた言葉は『カチッ』という何かを踏む音で不自然に途切れ、代わりに鋭い破裂音と、柔らかい何かに杭を打ちつけるかのような重い音がした。
最初、美咲にはそれが何か分からなかった。
気がつけば、ピューミの胸から槍の穂先が生えている。
ごぼりと、ピューミが血を吐いた。ピューミの口から流れ出た血は、顎を伝い、地面へと滴り落ちていく。
ピューミの目の前にいたディックの顔が歪んだ。
まさに、絶望そのものといった表情だった。
「……え?」
ルフィミアが、目の前の光景が信じられないのか、呆けた顔で瞬きを繰り返している。
「ワェアリィエレノォ チィエコォイテェアオィサァウラ ムゥオヌテェアトォイユ ニィエマァウリ!」
同時に、副音声のように二重に重なる言葉が、美咲たち目掛けて投げかけられた。
ぞわりと、美咲の身体中の肌が泡立った。
サークレットの翻訳を貫通される言葉を敵が発した、その事実が何を意味するか、美咲は知っている。
アリシャが魔法を使った時、美咲の耳にはどう聞こえたか?
言葉が二重に聞こえるのは、どんな場合だったか?
その言葉によって、魔法が発動する時だ。
反射的に美咲は、投げかけられた声に対して、すぐ傍にいたルアンとルフィミアを庇うように身を投げ出した。
確信があったわけではないけれど、魔法を打ち消す自分の体質ならば、そうすれば彼女たちへの魔法でも防げるのではないかと思ったのだ。
ただ、既に事切れたピューミに向かって駆け出していたエドワードと、亡骸の前で呆然としているディックに対しては、遠過ぎて美咲はどうすることもできなかった。
糸が切れた人形のように、エドワードとディックが突然昏倒する。
「殺せぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
雄叫びとともに洞窟を揺るがす鬨の声が響き渡った。
もう間に合わない。
そう悟った美咲は、声を限りに叫んだ。そうすることしかできなかった。
「駄目ぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
叫んだことに何の意味も無い。
ただ、目の前の現実を、美咲が受け入れられなかっただけだった。