二十六日目:夜明けまで2
闇に紛れて、就寝していた美咲たちを襲ってきたのは、蝙蝠のような黒い体表を持った魔物だった。
人の頭の二倍くらいの大きさで、一番の特徴はボールのような身体の表面に苦悶に満ちた表情のデスマスクが浮かんでいることだ。
見え難いので気付きにくく、接敵して気付いた瞬間そのおぞましさに美咲はぞっとした。
デスマスク以外の場所にはイソギンチャクを思わせる無数の細い触手が伸びていて、まるで海流に揺られているが如くゆらゆらと蠢き、それらの触手を従えるかのように二本、太くて長い触腕が垂れ下がっている。
「あいつらはバルムグという魔物よ! あの触腕は、柔らかい皮膚を簡単に貫くわ! 気をつけて!」
「忠告ありがとう! 頭に入れておく!」
美咲の知らない魔物だったが、メイラが一目見てその正体を看破し、美咲に教えてくれた。
バルムグの動きには特徴があり、一定距離を滑るように移動する。
その動作は直線的で、途中で方向転換をする際には、必ず一時停止を行うようだ。
無数のバルムグが同じ動作でバラバラの方向に移動を行い、それでいて進路の妨害などが起きていないのは驚くべきことだった。
(交通ルールは守りましょうって? 随分、模範的な魔物ね!)
まるでその様子が元の世界の道路交通事情を上から俯瞰したものに見えて、美咲は内心皮肉を飛ばして手ごろな一体に斬りかかる。
しかし、斬撃が目の前のバルムグに命中する直前、視界の端で黒い帯のようなものが翻るのを見て、美咲は動作を中断してその場を飛び退いた。
黒い帯に見えたのはバルムグの触腕だ。
弧を描いて美咲の知覚範囲ぎりぎりを掠めて伸びてきた触腕は、先ほどまで美咲が居た空間を貫き、地面に突き立つ。
触腕が抜かれた地面に穴が開いているのを見て、美咲は冷や汗を流した。
(鎧以外の部分に当たったらひとたまりも無い……。死にそうになれば、相討ち覚悟で仕掛けてくる。厄介ね)
あのまま騎士剣を振り抜いていれば、目の前のバルムグは倒せていただろうが、同時に触腕に身体を貫かれていただろう。
簡単には傷を治療できない美咲にとって、怪我にはこの世界の人間や魔族よりも注意しなくてはならない。
無効化能力で無視できる魔法攻撃よりも、対処を強いられる物理攻撃の方が厄介だ。回避するか、受け止めるか瞬時に判断し、なおかつ足を止めてはならない。足を止めればそれは隙となり、狙い済ました正確な一撃が飛んでくるのだから。
跳躍も考えて行う必要がある。着地を狙われれば回避するのが難しいからだ。
いや、それ以前に滞空状態にある身を偏差で狙わてしまえば、美咲は魔法で己の身を吹っ飛ばして回避するしかない。
今、行っているように。
(反応が早い! 空中に居る個体に飛び掛かっても、剣が届くより早く触腕が飛んでくる! くそ、皆は簡単に倒してるのに全然倒せない!)
水切りする石のように吹っ飛ぶ美咲は地面に手を叩きつけて勢いを殺し、そのままごろごろと転がって衝撃を分散させて逃がす。
追撃を警戒して即座に走り出すと、予想通りすぐ側の地面に飛んで来た触腕が穴を開けた。
バルムグが複数とはいえ、美咲がこんなに苦戦しているのには、相性の問題がある。
美咲はまるでバルムグが高速移動をしながら連携して波状攻撃を仕掛けてきているかのような錯覚を抱くほど、綱渡りを強いられているが、実際のところ、バルムグの動きは魔法で狙い撃ちできるほどに鈍い。
それは、カネリアたち魔族がそれぞれが相手をするバルムグを魔法で瞬殺したことからも明らかだ。
しかし触腕だけは別で、バルムグは一匹一匹が体中の反射神経を全て注ぎ込んでしまっているかのような速度で、触腕を振り回す。
最初に溜めがあり初速こそ遅いものの、縦横無尽に三次元を駆使して襲い掛かってくる触手の全てを見切るのは難しい。
よって攻撃される前に魔法で先制してしまうのが一番なのだが、美咲の場合、習得している魔法が偏っているのが災いした。
範囲を限定してバルログのみを一撃で倒す手段が、美咲には無いのだ。
バルログを一撃で倒す魔法はある。美咲の魔法はあの蜥蜴魔将ブランディールですら焼き殺す高火力だ。触手が生えた卑猥なサッカーボールみたいなバルログなど、一瞬で燃やし尽くすだろう。それは間違いない。
問題は、おそらく一緒にカネリアたちも焼き尽くしてしまうであろうということ。
威力を高めるために制御力というものをどこかに放り捨てているから、味方を除外して敵のみを狙うという器用な真似が、美咲には出来ない。
当然自分も巻き込まれるのだけれど、美咲自身は魔法無効化能力で何とでもなる。しかし味方はそうもいかない。味方が周りに居る状態では、美咲は己が使える高火力の魔法を自重しなければならない。
かといって、味方を巻き込まない攻撃魔法は、美咲の腕ではバルログに対して有効打を与えられない。威力が低過ぎるのだ。
よって、美咲が取れる手段は騎士剣を手に物理的に斬殺することのみになる。
幸いバルログの回避能力、防御能力は無いも同然なので、美咲の腕前でも当たれば一撃だろう。とはいえその一撃を当てるのが難しい。
当てること自体は難しくない。触腕さえ無ければ。
(なら、あの邪魔な触腕を先に斬る!)
幸い、速度こそ乗っているものの触湾の動きは単調だ。
最短距離を真っ直ぐ狙ってくるか、しならせて視界ギリギリを掠めるようにして振り回してくるかの二つに一つ。ならばどちらかに狙いを絞り、待ち受ければいい。
一匹だけならば。
攻撃に移ろうとした瞬間に触手が伸びてきて、美咲はまたしても攻撃を回避に切り替えさせられた。
横っ飛びで回避しながら、宙を貫く触手を見送る。
(そうそう上手くはいかないよね! 知ってた!)
思わず舌打ちが出た。
バルムグ自体の数が多くてどうしても攻撃に集中できない。
四方八方から飛んでくる触腕が、本当に邪魔過ぎる。
攻撃よりも回避に集中しないと、触腕を避けきれない。
初動こそ遅い触腕は、一度速度に乗ると速くなる。
見逃すと途端に回避が困難になるので、攻撃という動作自体が美咲にとって致命的な隙となってしまう。
(数が多いし仕方ない! 今はとにかく怪我をしないことだけ考えて、時間稼ぎ! 皆が来てくれるまで耐えれば私の役目も終わる!)
ひらりひらりと、美咲は紙一重で触腕を避け続ける。
避け切れないものは鎧に当て、受け止める。
回避も防御も出来ない触腕は、斬り捨てる。
細かい傷を許してでも、大怪我に繋がる致命的な一撃を捌き続ける。
綱渡りの攻防を繰り返し、美咲は援護を待った。
そして、その時はやってきた。
バルムグの群れに降り注ぐ、無数の光の槍。
それらはバルムグを正確無比に射抜き、バルムグを串刺しにする。
外れた光の槍は途中で軌道を変え、まるで自らが生き物であるかのようにバルムグに襲い掛かる。
急激に弧を描く様を見た美咲は、現代兵器のミサイルを光の槍に重ねて幻視した。
いや、一度狙いをつけたバルムグを直撃させるまで追い回す光の槍は、正しくミサイルそのものだ。
爆発することもなく、大きさも規模も違うけれど、凄まじい誘導性能で光の槍はバルムグを捉え、貫いて撃ち落としていく。
「よくやったわ人間。後は私に任せなさい」
呆然として宙を見上げる美咲の耳に、凛とした声が聞こえた。
振り向くと、翼は無いのにまるで本当の天使のような神々しさで背後に無数の光の槍を待機させ、バルムグたちを見据えるメイラの姿があった。
メイラが右手を上げ、魔族語で号令を発した。
「ホォイケェアロォイヌゥオヨロユ タァウレェアナキィ ヅゥオクメェアヂィエム!」
右手が振り下ろされると同時に、光の槍がバルムグたち目掛けて一際眩い光を放って射出される。
触手の射程外から放たれる魔法にバルムグは反応できず、のろのろと回避を試みては貫かれて落下していく。
凄まじい魔法の腕だが、メイラは軍属ではないし、魔法の専門家でもないただの村人だ。
言い換えれば、ただの村人であっても、その気になったら魔物の群れを一掃するほどの魔法を行使できる。
それが、魔族の恐ろしさだ。
もっとも、此処まで派手かつ一方的に仕留められるのも、バルムグが魔法による遠距離射撃に弱いという弱点があるからなのだが、その点を差し引いても、自分が苦戦したバルムグの群れが一方的にやられる光景は、魔法の凄さを美咲に見せ付けた。
気付けば、もう回りを飛ぶバルムグはいない。
全部、胴体に焦げた風穴を開けて地面に落ちて死んでいた。
「死なずに時間を稼いだこと、褒めてあげるわ」
この状況を作り出した本人であるメイラがいそいそと美咲の前にやってきて、ふんぞり返りながらそんなことをのたまう。
普通ならイラっとする態度も、今の魔法と、命を助けられたことを鑑みれば、許せてしまう。
メイラが以外の元村人の女性たちも、己が相対していたバルムグを始末し終わっていたようで、全員が美咲の下へと集まってきている。
「もう、どうしてメイラさんはそんなに美咲さんに対して高圧的なんですか?」
おかしそうに笑みを漏らして、カネリアは背後からメイラに抱き付いた。
「メイラは恥ずかしくて今更美咲ちゃんに優しく出来ないのよ。あの子天邪鬼だから」
おっとりとした態度と歩みを崩さず、エリューナが余裕な態度で歩いてきた。
その後ろからはマリルとミトナが続き、最後尾をルゥがふよふよ魔法で身体を浮かせてついていく。
「重い。離れなさい。あとエリューナ、聞こえてるわよ」
じろりとメイラが振り向いてカネリアを睨み、エリューナに文句を言う光景を背景に、美咲は残りのマリル、ミトナ、メイラを出迎える。
「ありがとうございます。美咲さんが殆どのバルムグを引き付けてくれたおかげで、私たちは安全に戦うことが出来ました」
「魔法が使えるといっても、戦い慣れしてるわけじゃないから、助かったわ。あなたは本当に、良い人間なのね」
「美咲は、優しい。私、覚えた。好き!」
三人に次々に感謝の言葉をかけられ、美咲ははにかんだ。
「いえ、私は、大したことはしてませんよ」
本当に、ただ逃げ回っていただけだ。
それでも、自分だけの力でないとしても、戦って誰かを守れたという結果が、嬉しかった。