二十六日目:彼女が見たもの2
女たちの悲鳴が聞こえる。
許しを懇願する声が聞こえる。
もはや意味を成さなくなったうめき声が聞こえる。
男たちの罵声が聞こえる。
何かを激しくぶつけ合う音が聞こえる。
すえた臭い。
快楽に濁り正気を失った目。
興奮に我を忘れた目。
人族の騎士たちが、兵士たちが、獣のように魔族の女性たちに群がっていた。
「おお、新しい女かぁ?」
「人違いよ」
伸びてきた手を、嫌悪感と共に叩き落とし、美咲は歩く。
それは、いつか想像した光景に酷似していた。
かつてセザリーたちを助け、奴隷になっていた女たちを助け出した時。
彼女たちがかつて味わった不幸と似たような地獄の中に、美咲はいる。
(こんなことが、許されていいの? 同じ女として、見過ごせない……!)
頭では理解出来る。けれど、納得は出来ない。
人と魔族は憎み合う関係だ。だからこそ殺し合いが起きるし、戦争だってしている。土地を征服すれば収穫物や物品は根こそぎ奪われ、そこに住む者たちすら略奪の対象になる。
捕まった魔族たちはまるで家畜のように扱われ、捕まったが最後、命の保障も、尊厳の保障もされない。
そして、この場所には、彼女たちも居た。
美咲に懐いていたニーナと、美咲に対しきつい態度を取っていたエウート。そして、まだ名も知らない、元人妻の魔族の女性兵士。
そして彼女たちの足元に転がる、見覚えのある魔族の首が、四つ。
鮫頭と、毛に覆われた頭、二面、そして、岩に目鼻口がついたような頭。
美咲としても見知った顔たちが、目を剥き舌を突き出した死相を浮かべ、空ろな瞳で宙を睨んでいた。
「ゾルノさん……アルベールさん……スコマザさん……オットーさん」
アレックス分隊の隊員の仲間たちの生首に囲まれ、彼女たちは人間に弄ばれている。
目の焦点が合っておらず、なすがままのニーナ。泣き叫びながら許しを請うエウート。行為に暴力が伴い、身体中傷だらけになりながらも、怨嗟の声を吐き続ける元人妻の魔族。
その様子を目を見開いて見つめながら、まるで自分が傷付けられているかのように、美咲を案内してくれた魔族の少女は震えている。
「見てしまったのだな。入るなといったはずだが」
立ち尽くす美咲の背に、声が掛けられた。
振り返れば、いつの間に下りてきていたのか、エルディリヒトが立っていた。
彼は周りの惨状を見ても、冷静な表情を崩さない。
知っていたのだ。ここで何が行われているのかを。
当然だ。王族であり、この魔族の村を占領する部隊の最高責任者であるエルディリヒトが知らないはずがない。何より、美咲にここに入らないよう忠告したのはエルディリヒト自身なのだから。
「どうして、こんなことを許しているんですか? 王子ともあろう人が!」
怒気が混じる美咲の詰問に、エルディリヒトは端的に答える。
「必要だからだ」
まるで、この惨状が正しいことであるかのような冷徹な態度だった。
憤りを堪えようと歯を食い縛る美咲の様子を見て、淡々とエルディリヒトが問う。
「不服か」
「当たり前よ……!」
反射的に美咲は叫んだ。
この状況を見て、不服に思わないのならばその方がどうかしていると美咲は思う。
エルディリヒトは美咲から視線を外すと、囚われた魔族の女たちを見る。
彼の目は淫欲に染まることなく、ただ淡々と観察を続けている。
目が逸らされ、再び美咲を捉え、エルディリヒトは口を開く。
「私たちは、常に死の危険と隣り合わせで戦っている。今日生き伸びたとしても、明日も生きられる保障は無い。常に死の恐怖に耐えていると、人の精神というものは少しずつ壊れていくのだ。連日掛かる精神の負荷によって不満が貯まり、いつか最悪の形で爆発する。そうでなくとも心が荒み、軍の規律が下がっていく。これらを防ぐためには、受け皿を作り適度に美味い思いをさせてやらねばならん」
言いたいことは分かる。
要はガス抜きをして精神の安定を図る必要があるのだろう。
美咲だって、エルナやルアン、ルフィミアやアリシャ、様々な仲間がいたからこそ、今まで狂わずにいられた。一人きりで放り出されていたら、正気でいられた自信がない。
それでも、突然尊厳すら奪われた彼女たち魔族のことを思うと、平静ではいられない。
「だからといって、こんなこと……!」
激昂する美咲に対し、エルディリヒトは落ち着いていた。
まるで聞き分けのない子どもに諭して聞かせるかのような態度で、美咲に語る。
「食欲、性欲、睡眠欲。この三つが満たされているならば、戦の渦中に置かれていても、人の精神というものはそうそう壊れない。しかし、食欲と睡眠欲はともかく、性欲を満たすのは中々難儀でな。人族領から商売女を同行させるのも、本隊ならばともかく我らのような先遣部隊では現実的ではない。故に、現地調達を認めている」
「仲間の死体の横で犯す理由にはならない……!」
「抵抗されるのも困るのだ。心を折るためにはこれが一番手っ取り早い。村人たちも何人か殺して死体を放り込んだら、我らに協力的になった。さすがに魔族兵は中々精神が強い者もいるようだが、それも時間の問題だ。残りの魔族兵を捕らえて首を斬り落とせばいずれ心を壊せる。北部戦線で戦っていた頃の経験則だが、南部戦線でも本質は変わらん」
今に始まったことではない。
エルディリヒトは、言外にそう口にした。
ずっと昔から、同じことを魔族に対してし続けてきたのだと。
こんな男が、人族の間で英雄として持て囃されていた。
「優しいのは美徳だと思うが、限度というものがある。君は優しさを、人に対してのみ向けるべきだ。そうしなくては、いつか君は、人であることすら、同じ人に否定されるぞ」
エルディリヒトが、美咲に忠告する。
嘲りではなく、あくまでエルディリヒトは美咲の未来を案じている。
だからこそ、分かってしまった。
いくら言葉を尽くそうと、分かり合えない。この現実が変わることもない。
議論は永遠に平行線を辿り、これからも人は魔族を憎み続ける。
美咲が人のために戦えば戦うほど、人は醜さを露にし、まるで正当性を主張するかのように魔族を虐げる。
それが、この世界の人族にとっての普通であるが故に。
人の側に立っている限り、魔族である彼女たちを救うことは出来ない。
けれど、今更人を裏切れない。背負った仲間の命が、願いが、それを許さない。
でも、魔族の女性たちを、見捨てることもしたくない。
ならば、美咲に出来ることは。
この世界でただ一人の異世界人として、美咲の、するべきことは。
(多分、私の選択は間違ってる。今からやろうとすることは、ただの自己満足に過ぎない。八方美人な態度を取って、誰からも嫌われるのと同じ。私にとって絶対にろくな結末にならない。──でも、間違ってるって思ったことを、正しいと誤魔化すのは、嫌だ)
そんなことをしてしまったら、昔の弱い自分に逆戻りしてしまう。
例え人から裏切り者と蔑まれようとも、魔族の味方をしようとも、美咲は自分のために魔王を殺さなければならい。
誰かのためにと言い訳をしても、結局はどこまでも自分本位でしかない。魔王討伐ですら、その根幹は自分のため。ならば、いっそのこと我侭に、心の思うままに動いたっていいじゃないか。
決意を胸に、美咲はエルディリヒトに向き直った。
■ □ ■
静かに剣の柄に手をかける美咲を見て、エルディリヒトの表情が険しくなる。
「妙な考えは止せ。君が剣を抜いて暴れたところで何が出来る。人族を裏切る気か」
鋭い双眸は、美咲の一挙手一投足を見逃すまいと捉えている。
剣を抜けば、エルディリヒトは即座に反応するだろう。
魔法は使っていないからその反応速度は人の域を出ないが、条件は美咲も同じだ。
強くなったとはいえ、美咲はエルディリヒトより自分が勝っているとは思えない。
「裏切るも何も、私は最初から人のために戦っていたわけじゃない」
美咲の切り替えしが、エルディリヒトにとっては意外だったようだ。
目を見開き、虚を突かれたような表情を浮かべ、エルディリヒトは美咲を見つめる。
「ならば、君は何のために戦っている。何のために魔王を倒そうとする」
その問いに美咲は反射的に服の上から自らの腕を握り締めた。
布一枚の下には、まるで刺青のように、黒々とした死出の呪刻が刻まれている。
腕だけではなく、呪刻の文様は美咲の身体中を走っている。
描かれていないのは顔くらいで、それ以外では、呪刻が無い場所を探す方が難しい。
この呪刻がある限り、美咲は元の世界に戻ったところでろくな生活が出来ないし、すぐに死ぬ。
生き残るためには呪刻を解呪するしかない。
その方法はただ一つ。術者である魔王を倒すことだ。
これこそが、美咲が剣を取った理由の根源。
「身体に刻まれた魔王の呪いを解くためよ。そのために魔王を殺すと決めた。確かに人族の側に立って戦ってはいたけれど、それも死んでいった皆がそう願ったからで、私自身は魔族が殺したいほど憎いわけじゃない。人族も魔族も私にとっては変わらない。だから理不尽な目に遭ってるなら魔族だって助けるし、非道なことをするなら人間だって相手にする」
始めのうちは、魔族のこともよく知らずに、ただ同じ人間の命令で召喚されたからという理由で人族側に立っていた。
この世界に深く踏み入るつもりはなく、魔王を倒せればそれで良かった。
でも現実はそう単純じゃなくて、ぼろぼろと失うものが増えていき、同時に新しい大切なものが生まれた。
それらはもう人族と魔族という枠組みを飛び越え、美咲の中で新たな枠組みを作っている。
「ねえ、殿下。彼女たちの扱いを改めて。捕虜として、きちんと尊厳のある扱いをしてあげて。いくら戦争だからって、やっていいことと悪いことくらいあるわ」
元の世界だって、近代になれば戦争で何をやってもいいというわけではなかったのだ。
「……言いたいことは、それだけか」
エルディリヒトの表情は冷めていた。
「え?」
きょとんとする美咲を見つめる彼の顔に浮かんでいるのは、失望だ。
「やはり君は何も分かっていない。それで戦争に勝てるなら誰も苦労はしない。綺麗ごとだけでは戦争には勝てない。軍が略奪を行う意味が分かるか? 物資を得るためだ。補給をするためだ。敵の物資を減らすためだ。敵の兵站を破壊し、敵の戦力を少しでも殺ぎ、味方の被害を減らすためだ。魔族は強い。このような寒村に住む村人にでさえ、我々は魔法が無ければ一方的に蹂躙される。手段など選んではいられない。奪えるなら奪え。殺せるなら殺せ。犯せるなら犯せ。愉しいのならば愉しめ。どうせ明日も生きていられるかは知れぬ身だ。ならば悔いだけは残すな。その対価として、来るべき時、人族という種が勝利するためにその命を捧げろ。少なくとも俺は、俺の部下たちにそう教えている」
語るエルディリヒトは、美咲を真正面から見つめ、理解を求める。
「分からないか。いわばこの場所は彼らにとっての、働きに対する正当な報酬を与える場なのだ。君は、それを取り上げろと言うつもりか」
「……そんなの、金銭や土地で支払えばいいでしょう!」
「無論、それらも与えている。だが、出せる金銭や土地には限りがある。これだけでは全てを賄うことは出来ない。何より、与える土地は元々我らのものだった土地だ。それでは誰も納得しない。誰もが納得する形で報いることが必要なのだ。そしてその方法は、奪ったものを物品、人物問わず働きに応じて分配するのが一番良い」
エルディリヒトの言い分だって、分からないでもない。
でも、それが正しいことだとは、美咲にはどうしても思えないのだ。
「どうして、分からないの……。そうやって、憎しみの連鎖を広げていくことが、一番やってはいけないことなのに」
「そう思うのは、君が異世界人だからだ。見たところ、相当平和な世界から来たようだな。それでは分からないさ。奪われる者の怒りや憎しみなど」
瞬間、美咲は己の頭に血が上るのを感じた。
エルディリヒトは、喪失の苦しみが、美咲にはどうせ分からないと決め付けた。
それは、認められない。それだけは、許せない。
何も失っていないなどと思われて、憤慨せずにいられるものか。
魔王を殺す。
ただそれだけのために、どれほどのものを取りこぼしてきたと思っている。
「……本当に、分からないとでも思っているの!?」
心が沸騰する。
視界が憤怒で赤く染まる。
灼熱を浴びたように血潮が燃え上がり、美咲はエルディリヒトの胸倉を掴んだ。
「私だって奪われた! この世界で親みたいに思っていた人も、もしかしたら恋人になるかもしれなかった人も、私のために戦ってくれた仲間たちも、皆死んでいった! 魔物に、魔族に、魔王に、殺されたのよ!」
美咲が怒っていても、身体能力差は歴然として存在する。
エルディリヒトは容易く美咲を振り払い、逆に美咲の胸倉を掴み返した。
「ならば何故分からない! 奪われたのなら、お前だって憎いはずだ! その憎しみを晴らして、何が悪い!」
「奪われたから奪って、それで何が残るの!?」
感情が爆発して、美咲は場が静まり返るほどの絶叫を上げる。
周りで続いていた喧騒が静まり返った。
怪訝な顔で騎士や兵士たちが振り返り、美咲を注視する。
それだけではない。
囚われ、犯されていた魔族の女たちも、一様に驚いた表情で美咲を見つめていた。
わなわなと震える手で、美咲はエルディリヒトの胸を叩く。
「少なくとも私には、空しさしか残らなかったわ。当然よ。奪われた側と同じように、奪う側にだってその人を大切に思う誰かがいるんだもの。……だから、憎しみ合うなんて不毛なだけ。憎しみ合うのを止めれば、和解の道だって開けるかもしれない。最後の一人になるまで殺し合うより、そっちの方が戦後のことを考えれば、はるかにマシなはずよ」
「……そうか。それが、俺たちと君の違いか」
呟き、エルディリヒトは美咲の胸倉から手を離す。
「一つ聞く。君は、人族と魔族、どちらを選ぶつもりだ」
「その問いに意味は無い。どっちを選んだところで、私が魔王を殺すことには、変わりないんだから。その上で、人間だけじゃなくて起こるであろう混乱から魔族も守りたい。それだけよ」
おそらく、美咲の決意が受け入れられることはないだろう。
弾劾される覚悟は済んでいる。
都合の良い考えであることは承知の上で、偽らざる本心を、美咲は告げた。