二十六日目:彼女が見たもの1
開いた扉の向こうは、地下への階段が続いていた。
時間は夜、ろくに光源も無い室内と、ただでさえ薄暗いのに、さらには地下なのだから、階段の奥は全く見通せない真っ暗闇だ。
(何か、変な臭いがする……何の臭いだろう)
黴の臭いや、古くなった木材の臭いに混じって、すえたような臭いが漂っている。
その臭いはどうも、地下室から漏れているようだ。
(それに何か、声がするような)
耳を澄ませば、判然としない高い声が僅かに聞こえる。
女性の声だ。
本当に微かな、ともすれば耳鳴りか何かと間違えてしまいそうなほど小さい。
入っていった男たち。
漂う異臭。
そして、エルディリヒトが言っていた、ここにニーナが捕まっているという事実。
嫌な予感が美咲の胸を焦燥で焦がす。
(私の思い過ごしならいいけど。ううん、思い過ごしであって欲しい)
引き返したい、この先を見たくないという気持ちが猛烈に強くなるけれど、そういうわけにもいかなかった。
思い切って、地下室への階段を下りていく。
階段を下りた先は、また扉だった。
重厚な鉄の扉は美咲の侵入を拒むかのように閉まっていて、中の様子は全く窺えない。
ただ僅かに中の物音が、判然としない程度で響いている。
鍵は掛かっていなかった。
僅かに開けた隙間から、美咲は身体を室内に滑り込ませる。
地下室の中は、壁に掛かった燭台で照らされていて、多少は明るいけれども、やっぱり全体で見ると薄暗い。
しかしそれは仕方のないことだ。
明かりといえば月の光か火に依存するしかないこの世界の人間にとっては、やはり一番馴染みがあり調達しやすい光源なのも確かである。
魔族ならば魔法で明かりを点せばそれで済むけれど、魔法が使えない人間はそういうわけにもいかない。
もっと時代が下れば、人間の間でも魔族語が広まって魔法で明かりを確保するのが一般的になるかもしれないけれど、もし本当にそんな時代が来るとしても、それはまだまだ先の話。
今この場においては、人間が最も調達しやすい明かりが火であることに変わりはない。
火を使っている以上、閉塞空間では煙による窒息や一酸化炭素中毒が心配だが、換気についてはきちんと対策をしているようで、地下室内の煙の流れから空気の循環が出来ているのが分かった。
中に入ったことで、不明瞭な物音が美咲の耳にはっきりと聞こえてくる。
悲鳴。
罵声。
何か柔らかいもの同士を激しく打ち付ける音。
下卑た笑い声。
泣き声。
許しを請う声。
何かが軋む音。
(ああ、やっぱり、これは……)
この地下室と似たような臭いを、以前にも美咲は嗅いだ覚えがあった。
かつて、ゴブリンの洞窟から侵入した貴族の館で、奴隷にされていた女たちが囚われていた牢屋から、同じような臭いがしていた。
違うのは、あの時は残り香で、今の臭いは現在進行形で行われていることの臭いだということだ。
当然、こちらの方が強く臭っている。
「まさか、アンタみたいな嬢ちゃんが来るとはな。そっちの気があるのか? それともわざわざ混ざりに来た物好きか?」
からかい混じりの声を掛けられて、美咲は反射的に身を引きながら振り向く。
何が行われているのか、半ば本能的に察してしまった美咲は、どうしても身の危険を覚えていることを隠し切れない。
美咲に声を掛けてきた男は、値踏みするような目を美咲に向けている。
その視線は美咲の身体を這うようにねっとりとしていて、美咲は心底おぞましさを感じた。
男は椅子に座っていた。
下半身は机に隠れていて、美咲がいる位置からは、上半身しか見えない。
傍らには剣が置かれている。
鎧こそ着ていないものの、盛り上がった筋肉が服の上からでも窺え、男が鍛錬を積み重ねた武人であることが分かる。
その鍛錬具合から、男がただの兵士であるようには思えない。そして、人族連合騎士団に占拠されたこの村で、鍛錬を積む必要のある職業は、兵士でないなら一種類しかない。
「あなた、騎士ね?」
「いかにも。そういう嬢ちゃんは、殿下が連れてきた女だな。溜まってるのか? まあ、男はいないが女なら沢山いる。満足できるなら楽しんでいけよ」
にやにや笑っている騎士はやたらと馴れ馴れしく美咲に対して接してくる。
「あなた、何してるの?」
「ん? 何のことだ?」
「とぼけないで。その机の下に、何を隠してるのかって聞いてるのよ」
問い詰める美咲の声は硬い。
この世界の召喚されたばかりの、昔のままの美咲だったなら、おそらく気付けなかっただろう。
しかし、まがりなりにも気配を読めるようになった今の美咲は違う。
美咲は、机の向こうに潜む何かの気配を、はっきりと感じ取っていた。
「へえ、分かるのか。案外やるんだな、あんた」
笑みを浮かべる男の下で、男の立てる音とは違う物音が、はっきりと聞こえた。
■ □ ■
不意に、男が小さく呻いて前屈みになり、美咲から見えない位置に両手を置き、何かを腰に引き寄せる動作をする。
「ふう。やっぱりこれはやめられねぇなぁ。いいぜ、出てこい」
どこかすっきりした顔で、男が机の下にいる誰かに声をかける。
男の許しを受けて、机の下から何かがごそごそと這い出てきた。
机の下にいたのは、魔族の少女だった。
魔族は見た目通りに歳を取るわけではないから、その少女が見た目通りの年齢であるかどうかは分からない。
しかし、見た目だけで見れば美咲よりも年下のように思える。
実際の年齢も、おそらく魔族の中では若い方だろう。
浅黒い肌に灰色の髪に、あどけなさの残る魔族の少女。
彼女が魔族だと分かったのは、頭から生えている二本の角の存在だった。
羊の角に似た捩れた角に、フワフワした髪の毛。断尾された短い尻尾。
男に対して怯えを含んでいるように、僅かに身体が震えている。
いや、実際に怯えているのだろう。
人間である男や美咲を見上げる彼女の表情には、間違いなく恐怖と諦観が浮かんでいるのだから。
そして何より異様なのは、少女が一切衣服を纏っていないこと。
「あなたたちは、ここで何をしているの?」
「知りたいか?」
「質問を質問で返さないで」
「おお怖い怖い」
美咲の詰問にも、男はおどけるばかりで全く動じる様子を見せない。
「知りたければ自分の目で確認したらどうだ? そいつを案内につけてやる。おい、聞いてたな。ここがどういう場所で、お前たちがどんな存在なのか、この世間知らずの嬢ちゃんに教えてやれ」
にやにや笑いながら、男が魔族の少女に命じる。
ベルアニア語の訛りが強く出ているとはいえ、魔族の少女に対して男が使ったのは間違いなく魔族語だった。
「い、いや……」
一度は拒否しようとした少女は、男の表情を見て凍りつく。
「俺は、やれと命じたぞ?」
角度の関係から、美咲には男の表情は見えない。
しかし、少女が浮かべた表情と、漏れかけた悲鳴で、おおよそ察しはつく。
「わかり、ました……。御案内、します……」
「それでいいんだよ。お前たち魔族は俺たち人間様に服従してればいいんだ」
(……嫌な感じ)
魔族の少女に対する男の横柄な態度を見て、美咲は嫌悪感を抱く。
「ごめんね、無理を言って。悪いけど、お願いできる?」
少しでも魔族の少女を安心させようと、意識して微笑んだ美咲を見て、魔族の少女が目を丸くしてぽかんとした表情になった。
すぐにハッとした顔になった魔族の少女が、首をふるふると横に振る。
「いいえ、無理じゃないです」
歩き出す美咲の後ろを、魔族の少女がついてくる。
「あなたも、魔族語が喋れるんですね」
男からある程度離れたところで魔族の少女が話しかけてきたので、美咲は振り向いた。
「一応ね。あまり流暢にとは、いかないけれど」
「あの人間たちも、魔族語を喋れます。私たちは、そのせいで負けました」
少女の口調には、悔しさが滲み出ていた。
かつて、アリシャに教えられたことがある。
魔族という種族には非戦闘員という概念がなく、例えそこらの村人であっても、魔法によって人間の兵士一人を手玉に取れる力があると。
それは言い換えれば、魔法というアドバンテージを失えば、やはり蹂躙されるだけの無力な存在であるということでもある。
「あなたはここの村人?」
美咲が尋ねると、少女はきゅっと唇を噛み締め、俯いた。
「はい。正確に言えば、村人、でした」
微妙な言い回しに、美咲は眉を顰める。
「今は違うの?」
俯き、下ろした拳を握り締めて何かを堪えるような仕草をした少女は、やがて顔を上げて泣きそうな潤んだ目で美咲を睨みつけた。
「あなたたち人間に言わせれば、魔族は家畜なんでしょう……?」
言葉に篭められているのは、憤りだ。
美咲本人に向けられているものではないけれど、美咲を含む、人間という種族全体に対して向けられた、怒りの感情。
しかしその感情を剥き出しにしていた少女は、同時に人間に対する強い恐れの感情も同じ表情に浮かべている。
「……何よ、それ」
一際低い声で、美咲は呟いた。
美咲は人間だけれど、異世界人だからこの世界のしがらみには囚われておらず、魔族にだって知人、友人がいる。
だからこそ、魔族は家畜なのだなどと嘯く人間がいることを知って、愕然とした。
魔族と人間が敵対していることは知っている。憎み合っていることも。
「村を占拠した人間たちは、皆言ってます。私たち魔族は、人間のために奉仕する義務があるんだって」
それきり、少女は口を閉ざしてしまう。
感情が高ぶっているのを堪えているのだ。
辛そうな様子の少女を見て、美咲は質問を変えることにした。
「……ここは、どういう場所? ここで、あなたは何をしていたの?」
やがて、感情を制御して落ち着きを取り戻した魔族の少女が答える。
「慰安所です」
「……慰安所?」
「村人の中で、私みたいな女性が集められて、その……」
少女の言葉は歯切れが悪い。
しかし、似たような境遇にある女性たちを助けたことがある美咲は、魔族の少女が言おうとしていることを察した。
「言うのが辛いなら、言わなくていいわ。見れば分かることでしょうし」
「すみません」
「謝らなくていい。こちらこそ、辛いことを説明させようとしたわね。ごめんなさい」
「いえ、気にしてませんから……」
そこで初めて、僅かに笑顔を見せる少女に、美咲も申し訳なく思いながら、微笑んだ。
「奥に行くわ。ついてきてくれる?」
「はい……」
この先に、何が待っているのか、おおよそ予想しつつ。