二日目:二人きりの旅立ち2
数時間後、美咲はいきなりへばっていた。
無理もない。
現代人の例に漏れず美咲もこの世界の人間に比べると明らかに運動不足で、武装をして長時間歩き続けること自体が初めての経験だ。
元々美咲がいた世界は土地も交通手段も完璧に整っていて、遠出をしたければ乗り物を使うのが普通だったから、徒歩で延々と何時間も歩くというのは、思った以上に重労働で美咲の根気を削ぎ取っていった。
「……勇者に乗馬の心得がないというのは予測の範囲内でしたが、ここまで歩けないとは予想外でした」
呆れたようにぼそっと呟くエルナは汗もかかず、無表情を崩さない。
華奢で一見美咲よりも年下にさえ見える容姿でありながら、エルナにはまだまだ余裕がありそうだった。
鞘に納められたままの勇者の剣を杖代わりにして、美咲は肩で息をする。
「私は馬なんてテレビの中くらいでしか見たことがない日本人なのよ。そもそもどれだけ歩いたと思ってんのよ」
もうかれこれ三時間以上歩いている。
それもコンクリートの道ではなく、歩きにくくでこぼこな石畳の道を三時間だ。
歩き慣れていない美咲が疲労困憊になるのも無理はない。
「む、無理。もう無理。これ以上歩けない」
大きな木の下に来たところで、美咲がずりずりとその場にへたり込む。
もう一歩も動かないぞ、と美咲は無駄に情けない決意を固めていた。
「大体どういうことなのよ。いきなり武装したまま三時間も歩かされるとか、聞いてないわよ。普通乗り物を用意するでしょ。そうでなくとも、重い荷物は別にして運ぶでしょ。私は悪くないわ」
「一応乗り物はワルナークを用意してあったんですけどね。あなたが乗れないと言ったのではありませんか。それに、武器防具共に軽いものを装備しているのにも関わらずその体たらくでは、楽をしたところで後で余計に辛い思いをするだけです。今のうちに死ぬ気で鍛えてください。でないと本当に死にますよ」
困ったように溜息をつくエルナに、我が侭を言っている自覚がある美咲は、唇を尖らせた。
仕方ないではないか。普通の女子高生として暮らしていた美咲は、乗馬の経験どころか、馬と接することすら初めてなのだ。乗れと言われても乗れない。しかも、用意されたワルナークという名前の馬は、何故か鋭そうな牙がずらっと生えていて、肉を食っていた。これでは馬ではなくUMAである。ますます乗れない。
というか、触るのすら怖い。噛みつかれそうだ。
「できるだけ距離を稼いでおきたかったですが、仕方ありませんね。勇者、休むにしても地上で休むのは危険です。ちょうど良く木がありますから、魔物の餌になりたくなければ木の上に上りましょう。この辺りに生息している魔物は地上を走る魔物ばかりで木登りができる種はいませんので、木の上なら安全に休めます」
「ほ、本当に物騒な世界ね」
青息吐息の美咲は危なっかしい手つきでエルナの手を借りながら木に上った。
近くの枝に、エルナがするすると身軽な動作で登ってくる。
背後に背負った道具袋を両手で抱え、美咲は袋の口を開けた。
「ねえ、そろそろお昼だし、ご飯にしようよ」
エルナに話しかけながら、美咲は中から今日食べる分の食料を取り出す。
「……そうですね。どのみち休憩しなければ美咲は歩けそうもありませんし、そうしましょうか」
小さくため息をついたエルナが、自分の道具袋から食料を取り出す。
二人とも同じ切り込みが入った丸いパンに、バターと野菜と肉を挟んだサンドイッチと果物だ。
サンドイッチはソースと香辛料が肉を引き立てジューシーで、噛めば噛むほど肉から旨みが溢れてくる。果物は瑞々しくさっぱりとしていて、自然な甘さのはずなのに、まるで現実世界のスイーツのように甘く感じる。
夢中で食べた美咲は、半分ほどになったパンの包みをマジマジと見つめる。
「美味しい。向こうで食べるものより美味しい気がする。どうしてだろう」
「そうですか? 私にとっては普段食べるものと代わり映えしませんが。美味しさでいえば王子殿下と一緒に食べたディナーの方がよほど美味しいと思いますけど」
夢中になってがつがつ食べる美咲とは対照的に、エルナは小さな口で可愛らしくちまちまと食べている。
頭の上で揺れる耳も相まってどこか兎を連想させるエルナの食事風景に、美咲は首を傾げた。
「そういえば今更なんだけどさ。エルナって人間なの? そのウサ耳って本物よね?」
食事中のエルナがちらりと美咲に視線を飛ばす。
黙りこむ様子を見て、美咲は慌てた。
「あ、えーと、答えたくない質問なら無理に答えなくていいよ?」
「……別にそういうわけではありません。別に隠しているわけでもありませんし、一目瞭然ですから」
口を引き結んで視線を逸らしたエルナが、しばらく躊躇ってから語り出す。
「私は魔族の母と人間の父親の間に生まれた混血児です。母が奴隷だったので、魔族の特徴を引き継いだ私も生まれた時から奴隷でした。母親の死後、私に召喚術の才能を見出してくださった王子殿下が私を買い上げて愛人にしてくださったのです」
予想外の単語に、美咲は思わず飲み込もうとしていた口の中身を喉に詰まらせた。
「ゲホッ、ゴホッ、あ、愛人!?」
顔を背けて涙目で咳き込みながらも、治まるのを待ち、振り返ってエルナを凝視する。
「愛人って、あの愛人?」
「あなたのいう愛人が何を指しているのかは知りませんが、もちろん一般的な意味での愛人ですよ」
驚く美咲とは対照的に、エルナの態度は飄々としている。
美咲は顔を真っ赤にすると、エルナの耳に口を寄せようとして耳がないことに気付き、頭から突き出ているウサ耳に口を近付けた。
「え、じゃあ、その、アレとかはしてるの?」
「は?」
さすがにそんなことを聞かれるとは思わなかったのか、吃驚した様子でエルナが美咲を見る。
見つめられた美咲は顔を真っ赤にした。
「だ、だって気になったんだもの!」
よほど恥ずかしいのか、美咲は逆切れしている。
「……まあ、それなりには」
答えるエルナの頬も少し朱に染まっている。
未経験どころかまだまだおぼこな美咲は、口の中で「すげぇ」と呟く。
その儚げな容姿と可憐さから年下だと思っていたエレナが、改めて見ると美咲には自分よりも年上に見えた。
これが先入観というものだろうか。抱いていたのは前からか、後からか。
「うわぁ……エルナって経験済みなんだ」
取り繕うかのようにエルナが咳払いする。
「私のことはもういいでしょう。さっさと食べてください。出発しますよ」
「え、もう食べたの!?」
包みを片付け始めるエルナを見て、慌てて美咲は食事を再開した。
■ □ ■
昼食を終えて旅を再会してからも、美咲は何度もばてた。
スタミナなど一朝一夕で身に付くものではないし、美咲も自分なりに頑張ったのだが、やはりただの女子高校生が長時間歩き続けるのは無理がある。
何度目かの休憩の後、エルナは重々しく美咲に告げた。
「このペースだと魔王城に辿り着く前に期限が来てしまいます。仕方ありませんね。転移魔法で距離を稼ぎましょう」
「そういうのがあるなら早く言ってよ。歩いた分疲れ損じゃない」
ぶーぶー文句を言う美咲に、エルナはこれ見よがしに舌打ちした。
「魔法とて万能ではないんです。転移魔法は消耗が激しいですし、一度に飛べる距離もあまり長くありません。私の魔力量では、数回使うだけでその日はもう魔法を使えなくなってしまうでしょう。そうなれば、何かあった時に、あなたを守れなくなってしまいます」
「う……。ごめんなさい」
態度が悪くても、エルナがちゃんと美咲を守ろうとしてくれていることに気付き、美咲は素直に謝った。
たちまちしょんぼりする美咲に、ばつが悪そうな表情になったエルナは、そっぽを向く。
「……まぁ、いいです。馬に乗れないことが判明した時点で、ある程度予想していましたから」
エルナは美咲の手を取ると、転移魔法を発動させた。
目に映る景色が一瞬で切り替わり、美咲は驚愕する。
「一回では遅れを取り戻せませんね。もう少し飛びます」
回りを見回したエルナはそれだけで現在地を把握したらしく、結局何回か転移を繰り返し、日没が近くなったのでその日は野宿することになった。
上れるような木こそ無いが、幸い街道がすぐ傍にあり、条件は悪くない。この一帯は旅人が野営によく利用する場所で、火さえ絶やさなければ魔物の脅威は無いというのがエルナの見解だ。
魔物の話を聞いて、美咲はエルナが着いてきてくれたことに心の底から感謝した。
「日が暮れる前に野営の準備をしなければ。私は火を熾す準備をしますので、薪になりそうな枯れ枝を拾ってきてください。細いのから太いのまで、なるべく満遍なくお願いします」
石を集めて円状に敷き詰め始めたエルナは、近くにある雑木林を指差す。
「分かった、行ってくるよ」
今日はもう歩かなくて良いということで、美咲はもう一踏ん張りだと疲労で重い足を引き摺って雑木林に向かう。
魔物が出てきやしないかと少しびくびくしながら薪拾いをしたのだが、街道沿いだからか魔物を見つけるどころか何の気配も感じない。
美咲の勘が鈍いだけかもしれないものの、それでも美咲は少し安心した。
まだ出会ったことはないが、美咲としては魔物なんてずっと出会いたくはない。
両手で抱えられるほどの薪を集めて戻ってくると、エルナが焚き火の準備を整えて待っていた。
元々旅人の野宿の場所として定着しているようで、円状にいくつもの石で区切られたスペースは、枯れ葉などのゴミが取り除かれ、掘り下げられて柔らかい土の地肌が露出しており、串などがつき立てやすくなっている。
抱える薪をエルナに見せて美咲は尋ねた。
「これくらいでいいかな?」
「充分です。追加が必要になったら、またお願いします」
エルナが種火を起こし、小さい枝を寄り分けて種火の上に置く。
燃え移って大きくなった火に、エルナが細い木から順にくべていくと炎が燃え移っていき大きくなっていく。
煌煌と燃える火に向けて美咲は手を翳す。
「……暖かいなぁ」
火の温もりを感じて、美咲はほうっと安堵のため息をついた。
焚き火がある程度の大きさになったのを確認して、エルナが自分の道具袋を漁り、食料を取り出した。
「では食事にしましょう。残しておいても持ちませんから、今日のうちに食べ切らなければなりません」
「待ってました!」
自分の道具袋に飛びつく勢いで、美咲も自分の分を取り出す。
二人で火に当たりながら、黙々とサンドイッチと果物を食べる。
これでサンドイッチも果物もなくなった。
明日からは保存食生活だ。
「食事が味気なくなりそうだなぁ……」
「我慢してください」
ぼやいた美咲をエルナはばっさり一刀両断した。
なんともいえない表情で美咲が沈黙する。
静かに夜が更けていった。