二十六日目:占領された魔族の村5
調理場には熱気が立ち込めていた。
パン焼き釜からはパンの焼けるいい匂いが立ち上っており、すぐ側の台には焼き上がったばかりのパンが山と積まれている。
エルディリヒトの部下たちが数人、調理台の前でパン生地を捏ねる作業をしており、既に次に焼くパンの準備をしていた。
作業を風景を眺めながら、エルディリヒトは部下たちを労う。
「ご苦労。順調なようだな」
部下たちのうち、彼らに混じって作業と監督を同時に行っていた青年が一人、エルディリヒトの下へやってきて報告をする。
彼がエルディリヒトの言っていた、実家がパン屋である青年らしい。
確かに、彼の手つきだけが他と比べてこなれていて、熟練を思わせた。
「もうすぐ人数分のパンが焼き上がります。結構な量の材料が備蓄してあったので、持ってきた糧食をかなり節約できそうです」
きびきびと報告を行う様は、さすが軍人といったところだろうか。
エルディリヒトと青年が話すのを、他のパン作りの作業に従事していた騎士が注目している。
その騎士たちに、エルディリヒトが声を掛けた。
「それは何よりだ。手を止めずに聞いてくれ。紹介したい者がいる。ミサキ、こっちに来るんだ」
同時に、エルディリヒトは振り返って美咲を手招きしてくる。
そこでようやく美咲に気付いた青年が、目を丸くして美咲をまじまじと見つめ、おどけた様子でエルディリヒトに笑み混じりの声をかける。
「おや、そのお嬢さんは? どこで拾ってきたんです? 殿下も中々隅に置けませんね」
冗談が苦手なようで、エルディリヒトは厳しい表情をさらに強張らせ、ため息をつく。
「からかうな。先行偵察中に魔族軍に捕まっていたのを保護したんだ」
上司と部下だけでなく、王族と平民という身分の差があるだろうに、エルディリヒトと青年の距離は近い。
口調こそ敬語なものの、青年騎士はエルディリヒトに対してかなり気安いし、エルディリヒト本人もそれを許容しているように見える。
「それは僥倖ですが、どうして一人でこんなところに? この辺りに人族の集落なんて無いでしょうし」
確かにここは魔族領で、魔族の村なのだから、人間がいるというのは不自然だ。
可能性があるならば奴隷としてくらいで、実際美咲は隠れ里の人間たちに人身御供として突き出され、アレックスたちに捕まっていたので強ち間違いでもない。
「兄上が召喚させた異世界の勇者だそうだ。実際に、あの蜥蜴魔将ブランディールを討ち取るほどの実力者らしい。相応の礼を以って接してくれ」
そこで美咲は思わず縮こまる。
事実であることは違いないとはいえ、他人の口、しかも謹厳実直が服を着ているような態度のエルディリヒトから、異世界やら勇者やら聞かされると違和感が凄い。
他人から持ち上げられることに美咲はあまり慣れていないし、実際に大それたことを成したという自覚はあまり無い。
美咲としては、その後の戦いで仲間たちを失ったショックの方が大きいからだ。
「蜥蜴魔将を……。ということは、『ヴェリートの麗しき炎の薔薇』とは、彼女のことだったのですか」
感心したように呟いた青年が、まじまじと興味深そうに美咲のことを見つめてくる。
「そういうことになるな」
相槌を打つエルディリヒトと青年の間では何の問題もなく疑問が氷解しているようだけれど、美咲にはよく分からない言葉がある。
「あの、ちょっと待ってください」
たまらず、美咲は口を挟んだ。
思わず赤面するような、こっぱずかしい二つ名を聞いたような気がしてならない。
「何ですか、そのヴェリートの麗しき炎の薔薇って」
話の流れから、それが自分に付けられた二つ名か何かであろうことは予測がつくとはいえ、それが自分のことだと言われると、美咲は身体中が痒くなってしまう。
「知らないのか?」
唖然とした表情を浮かべ、エルディリヒトが美咲を見つめる。
(知るわけないでしょ!)
知らないのはおかしいとでも言わんばかりの態度を取るエルディリヒトに、美咲は心の中で絶叫した。
赤面する美咲へ、笑いを噛み殺しながら青年が説明してくれる。
「僕ら騎士たちの間で、噂になってるんですよ。戦場で火柱が吹き上がり、激しく燃え盛っていたのが報告として残っています。先に東部戦線に参加していた騎士たちの話では、たった一つの傭兵部隊が魔族軍を抑え、あの蜥蜴魔将を討ち果たしたという噂まで広がっていました。僕は半信半疑だったのですが、本当だったんですね」
ブランディールとの戦いが、そんな形で伝わっていたのかと、美咲は驚く。
どうやら、実際の戦いの最中は騎士たちは敗走してしまっていて直接的な場面を見た人間が居ないから、事実だけを見た人間が戦意高揚のため好き勝手に脚色していった結果らしい。
遠くからでは、それこそ吹き上がる炎くらいしか戦いの風景は見られなかっただろうから、仕方ないことかもしれない。
「それで、彼女のためにパンが欲しくてな」
「光栄です! すぐにお持ちしますね!」
自分より年上に見える青年から向けられる尊敬の眼差しに、美咲は引き攣った笑顔を返した。
有名になるというのも、考え物だ。
■ □ ■
どうやら『麗しき炎の薔薇』というフレーズは人族軍の戦意高揚の意味も含めて相当広がっているようで、夕食としてパンを提供された後も様々な兵士たちに美咲は話しかけられた。
「『麗しき炎の薔薇』様! 良かったらこれも食べてください!」
「ど、どうも……」
貰ったパンだけでは味気ないなぁなどと考えつつ歩いていた美咲は、通りすがりの兵士にハムの塊を手渡され、引き攣った笑顔を返した。
ハムを貰ったことに対してではない。勿論、自分に対してつけられた二つ名に対してである。
(は、恥ずかしい……!)
つけるにしても、もうちょっとマシなものは無かったのかと思わずにはいられない。
(ていうか、炎の薔薇だけでもいいじゃない。どうして麗しきなんて装飾語がつくのよ!?)
なまじ、呼んでくる側は混じり気なしの尊敬の念を込めてくるものだから、性質が悪い。
美咲としては、恥ずかしくても我慢して受け入れるしかないのだ。
喜ぶ彼らに水を差すのは気が引ける。
そんなことをするくらいならと、美咲は我慢することを選んだ。どうせ一時の恥だ。
「俺、ステフっていいます! 実はあの戦いに参加してたんですよ! 仕えてた騎士様に置いていかれて先に逃げられて、怖くて震えてたら、あなたがあの蜥蜴魔将と一騎討ちを始めて……! ずっと見てました! 格好良かったです! 尊敬してます!」
驚きの事実を、ステフと名乗った目の前の若い兵士は暴露してきた。
彼は蜥蜴魔将と戦う美咲のことを直接その目で見ていたらしい。
騎士たちが全員美咲たちを残して逃げていったのはよく覚えているけれど、さすがにその周りの兵士たちまでは隅々まで覚えているわけではない。
散り散りになったことまでは知っているものの、確かに、中には敢えて自分の意思で残った者、逃げ送れた者もいただろう。
この兵士も、そんな一人だったのだろうか。
キラキラと憧れの人物に出会えた喜びを隠さないステフに、若干気圧されつつ美咲は記憶を探る。
(そういえば、前にちらりと見たことがある顔のような気もする。それどころじゃなくて全然気にしてなかったけど)
ステフは見た目が美咲と同年代くらいで、ちょうどルアンと同じ程度の年齢だろう。
ルアンのように整っているわけでもなく、太陽の下で鍬でも握っているのが似合いそうな平凡な顔立ちだけれど、その純朴さが返って好ましい。
希望に満ちた眼差しが、今の美咲には少し眩しく見えた。
その後も、美咲の下には様々な兵士たちがやってくる。
「これもどうぞ! 『麗しき炎の薔薇』様に出会えるなんて光栄です!」
どうやら長年の戦争で兵士の平均年齢が下がっているらしく、美咲の下へ来る兵士は若者ばかりだった。
そのうちの一人に手渡されたのは小さな麻袋で、中にはピエラを始めとする果物が何種類か入っていた。
「この村で見つけたんです! 良かったら食べてください!」
思わず受け取ってしまった美咲は、続いた少年兵士の言葉に目を剥く。
(それってもしかしなくても奪略品じゃないの!?)
「……どうしましたか?」
「いえ、何でもないわ。ありがとう。あなたは何ていう名前なの? 私は美咲よ」
表情を取り繕って美咲が微笑んでみせると、少年兵士は純情そうに頬を染めて俯き、ぼそぼそと名乗る。
「カツェルです」
そのまま、カツェル少年は身を翻して駆けていく。
仲間の兵士たちの輪に加わったカツェルが、他の兵士にからかわれているのが見えた。
どうやら仲間内では弟ポジションを確保しているらしい。
確かに、見た目はかなり幼い。
おそらくは、ステフよりも幼いだろう。もしかしたら、美咲よりも年下かもしれない。
「ワインはいかがかな? 『麗しき炎の薔薇』殿」
笑み混じりに声をかけられ、振り向いた美咲は見覚えのあるハンサムな美丈夫の姿に情けない表情でため息をついた。
「殿下まで……」
美咲の態度がおかしかったのか、エルディリヒトは喉の奥で笑うと美咲に片手に持った二本のワイングラスのうち、一本を手渡してきた。
もう片方の手には、ワインの瓶が握られている。
「エルディリヒトでいい。君は英雄だ。他の者のように、私に対して頭を下げる必要はあるまい」
「……では、失礼ながら、エルディリヒト様と呼ばせていただきます」
美咲がワイングラスを手に取ると、エルディリヒトは手ずからワインを注ぎ始める。
「君も大概強情だな。別に呼び捨てでも構わんのだが」
騎士と違い、兵士には平民出身が多く、美咲のことを目上として扱う人物ばかりで、美咲にしては騎士などよりも余程好感が持てるし、美咲としても地が出し易い。
しかし、さすがにエルディリヒトに対しては、美咲も畏まってしまうのだ。
何しろ実力でも美咲を明らかに上回っているし、ただ単にこの世界の人間と比べて育ちが良いだけの美咲とは違って、身分に裏打ちされた本物の気品がある。
外見上は取り繕いつつも、内心緊張してカチコチに固まる美咲へ、エルディリヒトは爆弾を投げ入れた。
「兵士たちからも色々貰ったようだな。私もつまみにチーズを用意した。良かったら一緒に夕食でもどうだ」
「よ、喜んで」
エルディリヒトからの、まさかの夕食の誘いであった。