二十四日目:隠れ里への帰還4
ばったりグモと裸で鉢合わせてしまうというハプニングがあったものの、美咲は無事薬も飲み終えて風呂場に向かった。
「お姉ちゃん、遅いよー」
浴室では、ミーヤが頬を膨らませて美咲のことを待っていた。
どうやら美咲がすぐ来なかったことが不満らしい。
「ごめんね。ちょっとした騒動があって」
苦笑いを浮かべて謝罪する美咲に、ミーヤはきょとんとする。
「騒動って、どんな?」
ミーヤの質問に、美咲の顔色が少し赤くなった。
美咲とて、年頃の女の子である。
「裸、見られちゃって」
「誰に?」
不思議そうに首を傾げるミーヤは、無垢である。
無垢であるが故に、答えづらい。
「グモに」
はっきりと顔を赤くする美咲だったが、ミーヤにはいまいちどうして美咲が恥ずかしがるのか分からないようだ。
「……ゴブリンだよ?」
まじまじと美咲を見つめ、ミーヤは呆気に取られた顔をした。
「それは知ってるけど」
微妙に自分が想像していたのとは違うミーヤの反応に、美咲は内心慌てた。
(何か、思ってたのと違う……)
「お姉ちゃん、グモを異性として意識してるの? 良い人だけど、魔物だよ?」
「えっ?」
今度は、美咲がミーヤの発言に驚く番だった。
「魔物とか、ゴブリンとか、関係ないでしょ? グモはグモなんだし」
ぽかんと口を開けて美咲の発言を聞いたミーヤは、俯いて何事か考え込み、ハッとした表情で美咲へ振り向く。
「あ、そっか。お姉ちゃんは異世界人だから、そういうのには疎いのかな」
何やら一人で納得し始めたミーヤに対して、美咲にはミーヤが納得した理由が分からない。
「どういうことなの?」
尋ねる美咲に、ミーヤは小さい身体をふんぞり返らせて、偉そうな態度で説明を始める。
どうやら美咲に知識を教えられるのが嬉しいようだ。
明確に、役に立てていると実感できるからだろう。
「えっとね、普通の人は、ゴブリンを異性として見ないし、恋愛対象にしないから、そもそも裸を見られても恥ずかしがらないし、裸を見たいとも思わないんだよ。ねえ、お姉ちゃん、グモの裸、見てみたい?」
尋ねられて、美咲は考え込む。
(この流れで、正直に言うのは不味い気がする)
今の時点でミーヤが言わんとすることを察した美咲は、無難な返答をしてやり過ごそうかと一瞬考える。
「正直に答えてね?」
(あ、これ駄目な流れだ)
にっこりと笑ったミーヤに先んじて釘を刺され、美咲は誤魔化せないと悟った。
「見て、みたい、かも」
「で、裸は見られたくない?」
「うん」
もはや顔を真っ赤にして、美咲は耐えるしかなかった。
つまり、美咲がグモを意識しているのは、グモを恋愛対象として美咲が捉えているからで、この世界の常識でいえば、それは元の世界で人間がゴリラに懸想するのと似たようなものなのである。
「お姉ちゃん、グモのこと好きなの?」
若干心配そうに声を潜めて、ミーヤが美咲に尋ねる。
「別に、そういうわけじゃないけど」
こればかりは、恥ずかしがらず、動転もせずに美咲は答えた。
別に、グモに対しては、大切な友人だと思うし、何か困ったことがあれば力になりたいと思っているのは確かだ。しかし、ルアンに対して抱いていたような、甘酸っぱい恋愛感情は沸いて来ない。
落ち着き払った美咲の態度に、嘘ではないと判断したミーヤは、少し安堵する。
ミーヤは出来得る限り美咲の力になりたいと思っているものの、さすがにゴブリンが好きだと言われたらどうすればいいのか分からない。
応援すればいいのか、嗜めればいいのか、迷ってしまう。ミーヤの常識と美咲への思慕が対立してしまうのだ。
「ねえ、お姉ちゃん、もしかして、他にも人間以外の裸とか興味あったりする?」
「えっと……答えなきゃだめ?」
「だめ」
「……バルトのお○ん○んとか、アレックスさんの裸とか、正直凄く興味、あります」
(お姉ちゃん……)
いつの間にかニッチな性癖に目覚めていたとしか思えない美咲の返答に、ミーヤは目頭が熱くなった。
魔族であるアレックスの裸に興味を持つのはまだいい。
人外な姿も多い魔族の中で、アレックスは虎顔とはいえ一応二足歩行だし、兵士だからある程度筋肉質で肉体美がある。魔族そのものは敵対種族ではあるが、友好的に接してくれる魔族もいないわけではないし、まだぎりぎり理解の範疇にある。
だがバルトは駄目だ。
何が駄目かというと人型ですらなく、四足歩行の竜である。
いや、たまに二足になったり空を飛んだり割と器用な行動を取ることも出来るものの、それでも竜は竜である。
竜を恋愛の対象になど、魔族であってもしない。
「お姉ちゃん、バルトとそういうこと、したいの?」
「いや、それは無いから! 大き過ぎるよ! もうちょっと小さくないと……あっ」
慌てて否定しようとした美咲は、狼狽するあまり口を滑らせ、慌てて口を押さえる。
赤かった顔はさらに赤くなり、全力でミーヤから視線を逸らす様は、「やっちまった……」という美咲の動揺が透けて見える。
(程よい大きさだったらしてみたいんだ……)
「さすがにそれは、ミーヤでも引くよ、お姉ちゃん」
「別にそういうつもりじゃないのにぃ~」
もはや美咲は泣きそうである。
しかし、ミーヤの指摘はある意味的を得ていた。
美咲自身は自覚していないが、現在、美咲はかなり性欲が溜まっている。
異世界に召喚されてそれからずっと環境の変化から強いストレスに晒され、命のやり取りを続けてきた。
そんな日々を過ごしていれば本能が種の保存を優先しようとするのは当然で、それは美咲とて例外ではない。
それに、年頃の女の子であることに違いは無いのだから、美咲だってそういうことに興味が無かったわけではないのだ。
現状がそれどころではないだけで、具体的に付き合った相手こそ居ないものの、多くの一般的な女の子と同じように、日常の中で甘酸っぱい体験をした経験くらいはある。
早い話が、現状美咲は脳内がピンク色になりやすい状態なのだ。
「まあでも、ミーヤは理解があるから、お姉ちゃんがどうしてもしたいなら反対しないよ」
「み、ミーヤちゃん! この話題はもう止めよう!」
恥ずかしさが抑えきれなくなって、美咲は強引に話題を打ち切ると、手桶で浴槽からお湯を汲み、頭から被った。
■ □ ■
当初の予定通りミーヤの好物の串焼きがおかずに追加された夕飯が済み、寝る時刻になった。
つい先ほど九回目の鐘が鳴ったので、現在時刻は九レンディアになったばかり。元の世界の時間でも、ちょうど夜の九時ごろだ。
元の世界の一時間が六十分であるのに比べ、この世界では一レンディアが百四十分と、かなり基準に開きがあるものの、偶然の一致か、この時間だけは同じになる。
後は百四十分後に十レンディアとなり、四十分の「魔の時間」と呼ばれる時間を挟んで零レンディアに時刻が変わる。
魔の時間には魔法の効果が上昇する現象が発生するので、人族の間では危険視されているのは言うまでもない。魔族の間でも自分たちに恩恵があるとはいえ、魔物たちも凶暴化するので、基本的には出歩かない方が良いとされている。例外は戦争で夜襲をかける時くらいだ。
実際に隠れ里もこの時間は静まり返り、殆どの里人は眠りについている。
もっとも、この世界では光源の関係で隠れ里に限らず日の出日の入りに合わせた早寝早起きが当たり前なので、魔法で光源を気軽に用意できる魔族であっても、遅くても九レンディアには大抵寝てしまうから、実際魔の時間まで起きていることはほぼ無いと言って良い。
だが、何事にも例外はあるもので。
(……眠れない!)
案の定、美咲は眠りにつけないで何度も寝返りを繰り返しては、一向に訪れてくれない眠気に悪戦苦闘していた。
原因は勿論、風呂場で交わしたミーヤとの会話である。
ちょっと意識しただけで眠れなくなるなんて思ってもいなかった美咲は、別室で寝ているグモや、隣で寝ているミーヤに頼ることも出来ずに、一人ずっと悶々としていた。
(ミーヤちゃんの言う通り、溜まってるのかなぁ)
認めるには情けなさ過ぎて、勇気が要るとかそういうレベルではなく拒否感情が沸き上がってくるものの、眠れないことは疑い様が無いので、美咲は否応無しに意識せざるを得ない。
かといって発散させる方法を考えるのは恥ずかしいし、そもそも美咲の回りにはいつもミーヤがいる現状、それは無理な話だ。
別にミーヤが邪魔というわけではなく、あくまで保護者としての観点から見て、良いわけが無いという美咲の良識に基づいた話である。
(こういう時、皆が居てくれたらなぁ)
自分のことを主と仰いでくれたセザリーたちのことを、その喪失を、意識せずにはいられない。
彼女たちが存命だったならば、一人悶々としている美咲を放っておくわけがなく、むしろ誰が美咲の性の悩みを解消するかで、大いに揉めていたであろうことは想像に難くない。
実際に一部の人物からはちょくちょく危ない発言も飛び出していたので、当時の美咲は若干身の危険を感じることもあった。
それがまさか後からこんなことで悩むようになるとは思わず、全ては後の祭りだった。
セザリー、テナ、イルマ、ペローネ、イルシャーナ、マリス、システリート、ミシェーラ、ドーラニア、ニーチェ、ユトラ、ラピ、レトワ、アンネル、セニミス、メイリフォア、アヤメ、サナコ。
美咲が助け出した、元奴隷の女たちは、後遺症が強く残っており、その高ぶりがちな性衝動を美咲に向けた親愛と忠誠心に変えることで、発散していた。
結局彼女たちは一線を越えることが無いまま、美咲を守って散ってしまったが、もし存命ならば、今頃同性ばかりの酒池肉林が繰り広げられていたことは間違いない。
それが良いか悪いかは別として、そうなっていれば、美咲が今頃性衝動を持て余して悩むことも無かったろう。それはそれで、別の問題は生まれていただろうけれども。
例外は、奴隷ではなかったディアナくらいのものである。
(仕方ない。寝れそうにないし、こういう時は身体を動かそう。鍛錬するのが一番だわ)
結局解決方法が脳筋的な考えに行き着く辺り、アリシャの影響が透けて見える。
そのアリシャも、もう居ない。
(もっと、色々教えてもらいたかったな)
意識した途端、喪失感が押し寄せてきて、美咲は泣きそうになる。
何だかんだ、ミーヤの存在が美咲の心を慰めてくれていたのに、ちょっと夜中に意識するだけでこれだ。
まだまだ、心に負った傷は癒えていないということだろうか。
無理も無い。
美咲はまだまだ、ルアンの死だって引き摺っている。
無理やり前を向いて歩いてきただけで、本当は落ち込みそうになるのをしょっちゅう堪えている。
泣いても何も変わらないと悟っているから我慢しているいだけで、本来の美咲は甘ったれで泣き虫な、どこにでもいる女の子に過ぎない。
唯一の希望だったルフィミアの生存も、結局死んでいたことが分かった。
幸か不幸かルフィミアは生き返っていたけれども、そのまま死霊魔将に囚われて敵になってしまっている。
ルフィミアを死霊魔将から解放したい。でも、出来れば生き返ったままでいて欲しい。それは美咲の本音で、わがままだ。
実際には、ルフィミアをその偽りの生から開放してやることしか、美咲に出来ることはない。それに、その方がきっと正しい。
それでも、思ってしまうのだ。
もしかしたら、蜥蜴魔将ブランディールから古竜バルトを得たように、死霊魔将アズールから何らかの方法で死霊魔法の知識を得ることが出来たら、死んでしまった皆を生き返らせることも可能かもしれない。
それが禁忌に満ちた考えで、決して乗ってはいけない誘いであることも美咲は知っている。
けれども、その可能性は、甘い香りで蝶を引き寄せらる花のように、美咲を誘う。美咲が未熟であるが故に。
(まだまだ、色々足りないよ。肉体的にも、精神的にも)
勇者の剣を抜き放つ。
取った剣術の型は、いつかルアンに教えられた、ベルアニア剣術の基本的な型。
構えから、足運び、剣を振る動作。それらは我流の点も多いけれど、確かにルアンの剣と同じ流れを汲んでいる。
元々、美咲は物覚えが良い方だった。
だから学校のテストでは暗記問題が得意だったし、お陰で成績そのものは悪くなかった。運動も進んでするような性格ではなかったけれど、決して不得意というわけでもなく、物覚えの良さのお陰で、平均的な能力は維持していた。
この世界に来てからは、向こうで学んだ勉強は殆ど役に立たなくなってしまったとはいえ、持ち前の暗記力は生きている。
生前ルアンに教えてもらった知識と、実際に横で振るったルアンの剣を、美咲はある程度自分の物にしている。
それをようやくと見るべきか、この短期間でと見るべきか、美咲には分からない。それでも、この世界に来てから過ごした三週間程度の時間は、美咲が今まで元の世界で生きてきた年月に匹敵する濃厚な経験をもたらしていることだけは確かだ。
ルアンからは、剣術を。
ルフィミアからは、魔法を。
アリシャからは、その両方を。
お陰で、武器など握ったことも無かったただの少女は、蜥蜴魔将を打倒するまでに成長した。
(でも、これじゃ、まだ勝てない。魔王には、きっと)
魔王が強襲した時、美咲は気絶していたから、魔王の姿を見たことがない。
見た人物で今も生きているのはミーヤだけで、幼い故に、ミーヤはその姿を詳しく美咲に語れない。
ただ、化け物だと感じた印象を伝えることで精一杯で、魔王の強さを、美咲は仲間の死という情報から推し量ることしか出来ない。
それでも、魔将たちより弱いということは無いだろう。
死闘の末に蜥蜴魔将に勝ったくらいでは、勝利はおぼつかない。残された時間で、もっと強くなるしかないのだ。
だからこその……。
その夜、美咲は悶々とした心が落ち着くまで、剣を振り続けた。