八日目:ゴブリンの巣壊滅作戦4
洞窟の中は薄暗く、地面が所々でこぼこで注意して歩かなければすぐに足を取られてしまう悪路だった。
土の臭いと水の臭いに獣の臭いが混じりあった、独特の臭気が漂っている。
獣臭はゴブリンが住み着いたことにより、洞窟内にゴブリンの体臭や生活臭が染み付いているせいなのだろうか。
人間だって一所に留まれば、部屋がその人物の臭いで染まるのだから、有り得ない話でもないかもしれないと美咲は思った。
(……臭い)
美咲の世界の人間のように清潔を保っているならいざ知らず、風呂に入っているはずもないゴブリンたちの体臭はかなりきつく、まだ出会っていないというのに空気に乗って臭いが入り口付近にいる美咲たちのもとまで漂ってくる。
思わず鼻をつまんで歩く美咲を振り返り、ルアンが眉を顰めた。
「気持ちは分かるけど、やめとけ。それじゃ咄嗟に剣を振れないだろ」
小声で苦言を呈すルアンの顔は顰められているものの、悪臭に耐えられないほど辟易している様子はない。
あまりの酷い臭いに鼻呼吸が出来なくなっている美咲は、口を半開きにして呼吸をしながらルアンに訴えた。
「でも、臭いよ凄く。ルアンは気にならないの?」
「臭いなんてすぐに慣れる。それよりも身を守ることの方が大事だろ」
「……そうでした」
もっともな話だと思った美咲は、ルアンに従って鼻をつまむのを止める。
鼻の奥が痺れそうな臭気に、「鼻が曲がりそうな臭いってこんな臭いかな」と一人ごちつつ、美咲は勇者の剣の柄を握り直す。
相変わらず重さというものをほとんど感じさせない剣だが、その分持って歩くには都合がいい。
道なりに進んだ美咲とルアンは、二股に別れた道に出くわして足を止めた。
二股といっても道は洞窟らしく複雑に曲がりくねっており、一方の道はそのまま奥へ、もう一方の道は傾斜して上方左へと続く上り坂になっている。
視界を遮る岩や地面が隆起してできた障害物が無数にあり、美咲は自分が地面に足を取られてそういった障害物にぶつからないか密かに心配だった。
入り口からもうだいぶ離れたので、光源といえば所々に設置されている松明による明かりしかない。
一酸化炭素中毒が心配だが、煙を見る限り、天井からどこかへと空気が流れているようなので、対策は為されているようだ。
前にいるルアンに、美咲は潜めた声をかける。
「どっちに行けばいいと思う?」
「わかんねぇ。しまった、地図を描く準備しときゃ良かったな」
ルアンは自分の頭をがりがりとかき、美咲を振り返る。
「なあ、マッピングセット持ってないか?」
「え……無いよ、そんなの。ていうか何、そのマッピングセットって」
「地図作成用の羊皮紙とか、文房具とかのセットのことだよ。こんなことになるなら買っときゃ良かった。ケチるもんじゃねえな」
「……そういえば、それらしいもの、売ってたね」
道具屋で羊皮紙やインク、羽ペンなどの美咲にとっては骨董品のような筆記用具を見かけたが、必要になるとは思わなかったので美咲は買わなかったのだ。
買わなかったのは同じらしく、ルアンは肩を落としてため息をつく。
「あ、でももしかしたら……」
美咲はふと思い立って自分の道具袋を探った。
今使っている道具袋は元々エルナが使っていたものだ。
盗まれた美咲の道具袋とは違い、この道具袋には何の特別な効果は無いが、高価な魔法薬などの一部を除いては、入っているものにそれほどの違いは無いようだった。
率直に貨幣の量が違う以外は、せいぜいが剣を振るう美咲と魔法を使うエルナで、薬草や魔法薬の種類が変わるくらいだ。
探してみたら案の定、一まとめになった丸まった羊皮紙の束と羽ペンとインクに定規が出てくる。
(ありがとう、エルナ)
几帳面に自分の準備まで整えていたエルナに、美咲は感謝する。
マッピングセットらしきそれらを、美咲はルアンに差し出した。
「ごめん、探してみたらあったよ。これで描けるんじゃない?」
「助かった。悪いな」
ルアンは地図を描くために必要なマッピングセットを受け取ると、器用に今までの道順を羊皮紙に描き記した。
描き終わって羽ペンを動かすのを止めたルアンが、目の前に広がる二股に分かれた道を眺める。
「問題は、どっちに行くべきかってことだなぁ」
「適当にでもいいから決めて先に進んでみようよ。地図を描きながら行けば何か不都合があれば戻ってこられるんだし」
頷いて、ルアンは手に持った羊皮紙と羽ペンとインクを美咲に渡した。
「そうだな。とりあえず右に行くか。美咲は俺の代わりに地図を描いてくれ。いざという時俺が先に動けた方がいいだろ」
「分かった」
美咲はルアンから地図を描く道具一式を受け取る。
せいぜい学校の授業で白地図を描いたことくらいしかないが、途中までルアンが描いてくれているのだから、それを参考にすれば何とかなるはずだ。
地図と睨めっこしている状態の美咲に、ルアンから声がかかる。
「後ろにも気を配ってくれよ。不意打ちが怖い」
「そうだね。気をつけるよ」
背後を気にする素振りを美咲が見せ始めたのを見て、ルアンは前方に向き直った。
「よし、いくぞ。右から行ってみよう」
「右からね、了解」
二人は二股の道を右に折れ、先に進んだ。
先を行くルアンの後ろで、美咲は描きかけの地図に歩いた道を描き込んでいく。
自分が描いた部分を美咲はしげしげと見つめた。
(結構上手く描けてる……よね?)
先にルアンが描いた部分を参考にして描いているが、美咲の目にはそれほどできばえに差があるようには見えない。
これなら地図としての役割は充分に果たせるだろう。
初心者にしてはそこそこ描けている方に違いない。
美咲が自画自賛していると、無言で歩いていたルアンが突然立ち止まった。
何事か尋ねようとした美咲を、ルアンは振り返って手で遮り制止する。
「喋るな。息もできるだけ潜めろ」
真剣なルアンの表情に、美咲は遅ればせながら可能性を思い至り、そっと地図一式を道具袋にしまった。
その動作で気付く。
手の震えが止まらない。
歯の根が噛み合わない。
極度の緊張で、身体が震えている。
(……怖い)
美咲は身体を強張らせ、自分の身体をかき抱いた。
ルアンはその場に伏せて、耳を地面につけている。
立ち上がったルアンはやや緊張を滲ませた声で美咲に告げた。
「たぶんゴブリンだ。こんな姿を隠す場所もない通路で鉢合わせたらどうしようもない。いったん分岐路まで引こう。あそこなら見通しが悪いから充分隠れられる」
さすがに美咲とは違って、この世界の人間であるルアンは美咲よりも感覚が優れているらしい。
声を潜めて言ったルアンはすぐに足音を殺して踵を返した。
音で自分たちの存在を察知されることを恐れてか走ってはいないが、それでも競歩くらいの早さがあり、すぐに姿が見えなくなる。
置いていかれてはたまらない。
不用意な足音を立てないように注意して、美咲もルアンの後を追った。
分岐路に美咲が戻った時には、もう隠れてしまったのかルアンの姿は見えない。
「早く隠れろ。ゴブリンが来るぞ」
姿は見えないが、押し殺したルアンの囁き声が飛んでくる。
ここまできて、ようやく美咲にもゴブリンが来そうな気配、というのが感覚で分かるようになってきた。
肌が泡立つというのか、針のように尖った独特な空気が身体の表面を撫でているかのような不思議な感覚だ。
第六感に優れていない美咲でさえ分かるほどなのだから、それほどゴブリンたちが近付いてきているのだろう。
さほど吟味する余裕もなく、目に付いた岩の陰に美咲は身を滑り込ませる。
分岐路にゴブリンたちがやってきたのは、その少し後だった。
息を殺す美咲の耳に、ゴブリンたちの会話が聞こえてくる。
どうやら、ゴブリンは全部で四匹いるらしい。
隠れる美咲とルアンには全く気付いていない様子だ。三匹が興奮して上ずった声を上げて、大仰な身振り手振りで会話に花を咲かせている中、一匹だけ冷静な個体が混じっている。
「やっぱりベブレ様は凄い。あの忌々しい人間どもが、あの方の手にかかれば一網打尽だ」
「ライジ様も忘れちゃいけねぇ。ベブレ様の魔法が生きるのも、ライジ様の陽動のおかげだ! 俺たちだけじゃこうはいかねぇ!」
「ベブレ様は人間たちの行動を読みきっておられる。今まであんなに苦戦していたのが、あの方が行動しただけでこうもあっさり片が着くとは」
「おしゃべりはそのくらいにしろ。まだ全ての人間を片付けたわけではない。一匹残らず殺せとのご命令だ」
美咲は息を飲んだ。
奴らは、隠れている美咲たちに気付かないまま、出口へと向かっていく。
ゴブリンたちの姿が見えなくなって、ルアンが隠れていた岩から出てきた。
「外に出られたら逃がしちまう。追いかけるぞ。今なら背後からあいつらを奇襲できる。チャンスだ」
あんな会話を聞いた後だというのに、全く悲観する様子がないルアンが、美咲には頼もしく見えた。
「そうだね、行こう」
会話に出てきていた名前が気になるが、今は出口に向かっていったゴブリンたちを始末するのが先だ。
逃がしてしまったらまたどこかで群れを作られる可能性がある。
忍び足で歩くルアンの後ろから、美咲も慎重に歩いてついていく。
道中振り向かずにルアンが美咲に尋ねてきた。
「一匹任せていいか? 残りは俺がやるから」
「う、うん。たぶん大丈夫」
動揺した美咲の返事に、ルアンは苦い声を発した。
「曖昧な返事は止めてくれ。判断に困る」
「だっ、大丈夫! ちゃんとやるから!」
美咲は上ずりそうになる声を必死に押し留める。
こんなことで尾行がばれたら死んでも死に切れない。
出口まであと少しというところで、ゴブリンたちの背中を二人は捉えた。
ゴブリンたちは二人に気付いて振り返る様子はなかった。
「見えた。俺は右に纏まってる三匹をやる。お前は左の一匹をやれ。仕掛けるぞ!」
ルアンが叫び、足場の悪さを物ともせず全力で疾走する。
ようやく気付いたゴブリンたちが振り返るが、遅い。
「や、やってみる!」
美咲もまた勇者の剣を構え、残る一匹へと飛び掛った。




