二十四日目:旅の空の下6
泣き止んで冷静さを取り戻した美咲は、赤面してニコニコ笑顔のミルデの様子を上目遣いで窺う。
「お騒がせしてすみませんでした……」
動揺していてミルデが一緒にいたことをすっかり忘れていた美咲は、散々泣いていた一部始終を見られていたことに気付き、顔から火が出るくらい恥ずかしくなっていた。
対するミルデはまるで「良い物を見た」とでも言わんばかりの上機嫌で、目を細めて微笑ましそうに美咲とミーヤを見つめている。
「いいのよ。笑い話になるならそれに越したことはないわ。最悪の事態になるより余程マシ。そうでしょう?」
「……ええ。それは、確かに」
ミルデの問いかけに、美咲は同意する。
今回は美咲の思い違いだったけれど、本当に襲撃が起こっていた可能性だって、決してゼロではないのだ。
美咲たちは預言者ではないのだから、どんなに安全を確認したところで、最悪の事態というのは、常に起こり得る危険性を孕む。
それこそ、アリシャとミリアンが離脱し、美咲が気絶していたところに魔王が現れ、美咲の仲間たちが全滅してしまったように。
「それじゃあ、汲んできた水を煮沸消毒しながら、朝食を済ませましょう。水がある程度冷めたら、各自水袋にきちんと補給しておくように」
きっちり飲料水の確保を指示するミルデは、そのまま台所の収納棚を開いて保存食の残りを持ってきてテーブルに並べた。
保存食のみの食事は味気ないが、食べられるだけ有り難いので美咲も文句は言わない。
この世界に召喚されたばかりの頃なら、散々文句を言っていただろうけれど。
日持ちするように二度焼きされたパンは石のように硬く、スープも無いので美咲は勇者の剣の柄で叩き割らなければならなかったくらいだ。
噛み砕けばビスケットのようにボリボリという音がするので、ようにではなくこれでは本当にビスケットである。
まあ、元の世界では二度焼きすることがビスケットの語源であるらしいので、これもある意味原始的なビスケットと呼んでもいいのかもしれない。
現代で美咲も良く食べていた菓子としてのビスケットのように砂糖が入っているわけでもなく、どちらかというと味は災害用非常食の乾パンに近い。もっとも、乾パンよりも硬く食感はもそもそしているが。
(水……水が欲しいなぁ)
物欲しそうな眼差しで、美咲は煮沸消毒中の水が入った鍋を見つめた。
いくら喉が渇いていても、まだ煮沸消毒が終わっていない水を口ににする度胸は美咲にはない。
一時の欲求に従って腹を下し、長時間苦しい思いをするくらいなら、一時的に喉の渇きを我慢する方が遥かにマシである。
まともな医療を受けられない現状、下手をしたら脱水症状を起こして死にかねない。
魔王との戦いでもなく、魔物との戦闘でもなく、魔族との戦争ですらなく、死因が下痢による脱水症状では、死んでも死に切れない。この世界にはネクロマンシーとかがあって、ルフィミアが死人として蘇ったように、死者が蘇るのは全く皆無というわけでもないので、割と現実的な話である。
もっとも完全な状態での復活手段はまず無いと見ていいだろう。現に、蘇ったルフィミアはアンデット故の生ある者への衝動に悩まされているようだったし、精神状態も死霊魔将の影響下にあるようだった。
でも、それでも、美咲はルフィミアが生き返って嬉しかった。
生存を信じていたけれど、それが有り得ないこともまた、分かっていたし、実際にルフィミアは死んでいた。
(ルフィミアさんの苦しみに比べれば、これくらい。それに、水分なら、保存食の中にだって皆無じゃない)
唇を硬く引き結んだ美咲は、保存食が入った瓶の一つを開ける。途端に漂ってくる、鼻につんと来る強烈な臭い。瓶の中に入っているのは酢漬けだ。作られてから時間が経っているので、中々凄まじい刺激臭がする。
(……きっと、悶絶するくらい酸っぱいんだろうなぁ。でも、目に見えて水分あるのってこれくらいだしなぁ)
少し迷ってから、美咲は酢漬けを食べた。
(酸っぱいというか、痛い。喉が焼けそう……)
酢にたっぷりと漬かった酢漬けは酸っぱいのを通り越して酸味とも呼べる味になっていた。
思い切り渋い顔になりながら、酢漬けをいくつか食べた美咲は、酢漬けの瓶の蓋を閉め直すと、ほうとため息をつく。
美味しいとは言えないが、渇きはまあ、我慢できる程度には癒された。
保存食は味や食感に問題があるものばかりなので、少量でも比較的腹は膨れる。
美咲は我慢出来たが、こうも食事環境が悪いと、子どもに我慢しろというのは酷かもしれない。
「美味しくない……。串焼き食べたい……」
案の定、美咲の横では美咲が残した酢漬けの瓶をミーヤが開けて食べ、泣き言を漏らしている。
口直しとばかりにパンに齧りついたミーヤは、僅かな歯型がついただけのパンを美咲に差し出した。
「お姉ちゃん、このパン固くて噛めない……」
パンを差し出すミーヤの目は潤んでいる。泣き出す一歩手前といった感じだ。
ミーヤのために、美咲は勇者の剣の柄でパンを叩き割った。
欠片になったパンを、ミーヤはちまちまと食べていく。
幼いミーヤは美咲よりも噛む力が弱く、美咲が噛み砕ける程度の大きさの欠片を噛み砕けないので、パンを食べているというよりも、パンくずを食べているような形になっている。
「これ、私の分も食べていいよ」
さすがに可哀想になった美咲は、保存食の中で唯一の癒しとも呼べる、ドライフルーツをミーヤに提供した。
「いいの!?」
途端にぱあっとミーヤの表情が輝くのだから、効果は覿面だ。
「本当に、美咲ちゃんはミーヤちゃんのことを可愛がってるのねえ」
やり取りを眺めていたミルデが、微笑ましいものを見る目でほっこりしていた。
■ □ ■
食事を終え、水の補給も済ませた美咲たちは、後片付けを終えて丸太小屋を出発した。
まだ午前中なのでまだ日は高く、これなら日が暮れる前に街に着くことが出来るだろう。
「もうすぐ森を抜けて街道に出るわ。念のため、二人ともこれを首に巻いておいて」
そう言ってミルデが美咲とミーヤに差し出したのはチョーカーだった。
白いチョーカーと、ピンク色のチョーカーが、それぞれ一つ。白いチョーカーが美咲の分で、ピンク色のチョーカーはミーヤの分だ。
柔らかい色合いのチョーカーは一つ一つ丹念に刺繍がしてあり、素材が布ということもあって、アクセサリーとして見ても違和感が無い。
それでも、あくまでファッションの様相を呈しているそれらから、美咲は反射的に隷従の首輪のことを連想してしかめっ面になった。
「これ、つけなきゃダメなんですか?」
受け取りはしても気が進まない美咲は、ミルデに確認を取る。
ミルデは肩を竦め、美咲にチョーカーをつけるよう促す。
「残念ながらね。魔族領で生活する人間は、こうやって首輪かそれに準ずるものを付けなきゃいけない決まりなの。流石に首輪は嫌でしょ? だから、目立たないようにチョーカーにしたんだけど」
「はあ……そうなんですか」
身分制度の面倒くささに、美咲はげんなりしながらチョーカーを首に巻いた。
面積が小さいので、首輪というより、ネックレスやペンダントの感覚に近い。
巻いていても異物感は極めて少なく、つけているうちに存在を忘れてしまいそうだ。
「えへへ。お洒落-」
ミーヤは単純に渡されたチョーカーをアクセサリーとして見ているようで、チョーカーを巻いてご満悦だ。
「お姉ちゃん、ミーヤ、似合ってる?」
嬉々として感想を求めてくるミーヤに、毒気を抜かれた美咲は、目を細めて穏やかに微笑むと、ミーヤを褒めちぎった。
「似合ってるよ。可愛いお人形さんみたい」
「そうかなー? えへへ」
照れながら喜ぶミーヤは、本当に人形のように愛くるしい。
「二人とも、巻き終わったわね? ほら、森を出るわよ」
先導するミルデが、一足先に森を抜け、美咲たちを待つ。
後を追った美咲が森を出ると、一面の草原と、踏み鳴らされ、砂利と敷石で舗装された街道が広がっていた。
「……人族領と、景色はあまり変わらないんですね」
「そりゃそうよ。今でこそ魔族領だけれど、戦争前はこの辺りにも人族国家があったもの。街道はその頃からの名残よ。まあ、魔族軍も整備して活用してるでしょうね、きっと」
美咲の呟きを拾うミルデの髪が、風にあおられて舞った。
街道の風景は、魔族領も人族領も、何も変わらない。長閑で、穏やかな風景がどこまでも続いている。
「さ、行きましょ」
「分かりました」
「はーい!」
ミルデに促され、美咲はミーヤがゲオ男に乗るのを手伝ってやり、自分もマク太郎に跨った。
「後もう少し、よろしくね」
美咲がマク太郎の項を撫でると、マク太郎はちらりと美咲を振り返り、のっしのっしと歩き出す。
残るゲオ美には、勿論ミルデが騎乗した。
「やっぱり乗り物になる魔物がいると、移動が楽ねぇ」
器用にゲオ美の上で横座りをしながら、ミルデが鼻歌を歌いそうな陽気さで言った。
「その乗り方、危なくないですか? ちょっと揺れたらバランス崩して落ちちゃいそうですけど」
「大丈夫よ。少なくとも、空を飛ぶよりは余程楽よ。少なくとも、私自身は動かないで済むし」
答えるミルデの姿勢は実際にとても良く安定していて、特に上半身が全くぶれない。
どうやら、ミルデはバランス感覚がかなり良いようだ。
街道を進んでいくうちに、美咲は周りの風景が平和な光景だけでないことを感じ取っていた。
「廃村……多いですね」
住人が居なくなって久しい、風化した村跡や、おそらく戦場だったのであろう、大地が焼け焦げたのか、草が生えず不毛の大地となった場所。
そんな場所が、街道から離れて他に目を向ければ、結構な頻度で見受けられた。
「殆ど全部、人族領だった頃の村よ。占領の際に協力的だったいくつかの村はそのまま村として存続しているけれど、多くは解体されて、住人も奴隷として魔族領各地に強制移住させられているわ」
朽ちていくだけの村に、おそらく、もう村民が戻ってくることは無いだろう。それこそ、美咲が魔王を倒し、魔族軍をこの地から追い出さない限り。
(移住させられた人たちは、きっと帰りたいって思ってるよね……)
故郷を捨てざるを得なかった村人たちの心を思うと、美咲は胸が痛む。
彼らの気持ちを、美咲は十二分の予想出来たし、共感もした。
何しろ、この世界に召喚された美咲の原動力こそが、死出の呪刻を解除した状態で元の世界に帰ることなのだから。
望郷の念は、有り余るほど抱いている。
「見えてきたわ。遠くに城壁が見えるでしょ? あれが魔族の街よ」
先頭を進んでいたミルデがゲオ美を立ち止まらせ、背後に振り返って美咲とミーヤを呼ぶ。
前に出た美咲は、遠くからでも見える外壁と、外壁の四隅を囲むように建てられた塔を眺め、目を丸くした。
「何か、人族の街よりも物々しいですね」
城壁の高さそのものも、人族の街だったベルアニアやヴェリートより四隅の搭から兵士らしき武装した魔族が出入りして城壁の上を巡回しているところを見ると、警備そのものも厳重そうだ。
「当然よ。魔族は皆魔法を使うもの。周りを城壁で囲ってはい終わりというわけにはいかないわ。結界も張ってあるのが普通よ」
「結界ですか……。やっぱり、私が基点に触れたらそれ無効化しちゃいますよね」
「そうね。旅人が目に付くような場所には基点を置いてはいないと思うけど、一応注意しておいた方がいいかもね」
話し合う美咲とミルデを、一足先にゲオ男を駆け出させていたミーヤが急かす。
「早く行こうよ、二人とも!」
ミーヤはまだ見ぬ新天地に目を輝かせていて、そんなミーヤを見た美咲とミルデは、顔を見合わせて苦笑し合った。
「行きましょうか」
「そうですね」
こうして美咲は、魔族の街へようやく到着したのだった。