二十三日目:近付くタイムリミット2
どんなに美咲の心が塞ぎ込んでも、時間は流れ過ぎ去っていく。
グモは畑仕事に出かけ、ミーヤはペットたちと一緒にバルトに会いに中央広場に出かけた。
美咲も体調自体はもう悪くはないのだが、念のためにというミーヤの強い勧めもあって、グモの家で静養している。
とはいえ。
(何もしないっていうのも、落ち着かないわ)
具体的に後一週間と刻限が区切られてしまっているのに、ただ無為に時を過ごすというのは、じりじりと焦燥感を生みこそすれ、心に安定をもたらすことはない。
身体を動かさずにはいられなくて、無意味にグモの家をピカピカに掃除してしまったくらいだ。
本当に無意味である。
その掃除もついさっき終わってしまって、美咲はまた手持ち無沙汰になってしまっている。
まだお昼にもなっていない。
(剣でも振ろうかな)
時間があれば鍛錬をするに越したことはない。
そう考えた美咲は、勇者の剣を手に庭先に出た。
ブランディールを倒した時のことを思い出しながら、自分の強さが今どのくらいのレベルにあるのか思考する。
(……まあ、もう一度真正面からあいつと戦って、勝てるほど強くはないのは確かね)
美咲はブランディールに勝ったからといって、決して驕ってはいなかった。
彼が最初から本気でいたならば、美咲は自分の体質を生かすこともなくあの大剣によって両断されていたはずだ。
基本的に身体能力そのものは常識的な範囲を出ることが出来ない美咲は、魔法を使わない真正面からの斬り合いに持ち込まれるとどうしても弱くなる。
強化魔法の代わりに編み出した、攻撃魔法によって生まれる運動エネルギーを行動強化に当てるやり方も、その性質上複雑な動きは出来ず、身体能力が大幅に上昇する上に小回りまで利く強化魔法には劣る。
さらに美咲は相手の強化魔法を解除するためには相手に触れるのが必須条件であり、当然触れられない相手の強化魔法は解除できない。
実際に、途中まで美咲はブランディールの動きに全くついていくことが出来なかった。
止めを刺される瞬間に美咲が逆転することが出来たのは、ブランディールが完全に美咲を弱者と見なし、警戒を下げて近付いて来たからで、そのことによって窮鼠猫を噛むチャンスが生まれたからである。
そのチャンスを作ったのはブランディールの油断であり、また、最後の最後で諦めずに踏み止まった、美咲の執念でもあった。
決して、実力で下したわけではない。
このままでは、他の魔将軍との戦いになった時、不覚を取る可能性が高い。
(せめて、防戦一方でもまともに戦いが出来るようにならないと。そうでなきゃ勝機すら見出せなくなる)
何せ、曲りなりにも、美咲は蜥蜴魔将ブランディールを討ち取ってしまったのだ。
当然残りの魔将たちは、油断を捨ててくるだろう。
今までのような、異世界人の魔法無効化体質を利用して、驕る強者に弱者の牙を突き立てる方法は通用しないと思った方がいい。
(でも、どうすればいいんだろう)
勇者の剣で、以前ルアンに見せてもらった剣術の型を思い出しながらなぞり、美咲は思考する。
(バルトが飛べるようになるまで、今日を入れて後三日くらい。三日後には、此処を出る。そうしなければ、多分間に合わない。だから、逆説的に言うなら、強くなるための猶予期間は、三日間)
事実を認識したところで、美咲は途方に暮れた。
(たった三日間で、何が、できるの……?)
スポーツですら、たった三日間の練習で劇的に上達したりはしないのだ。
毎日の鍛錬の積み重ねが大事だというのは美咲としても納得できる話で、けれど、今の美咲には無理な話だった。
せめて、いつかアリシャがくれたような、一気に身体を鍛えることができる薬のような、効率を上げることのできるアイテムがあれば話は別だけれど、当のアリシャはヴェリートで魔将軍の一人を足止めするために残ったまま、安否が分からなくなっている。
(……アリシャさん)
いつしか保護者同然の存在となっていたアリシャが居ないことに、美咲はどうしても弱気を感じてしまう。
それに、心配事はまだまだある。
病み上がりのバルトで、そもそも無事に魔王城まで飛べるかという問題もあるし、魔王と戦う予定だった仲間は、殆どがヴェリートで美咲を魔王から逃がす為に死んだ。
起こすことだって不可能ではなかったろうに、そうしなかったのは、彼女たちが、今の美咲ではまだ魔王に敵わないと判断したからに他ならない。
そんな彼女たちまでもがもう居ない以上、美咲はあの時以上に強くなる必要に迫られている。
(おそらくは、アンデッドとして蘇ったルフィミアさんも、敵になってる)
事実を思い返すと、一気に欝になりそうで目を背けていた事柄だが、いつまでも目を背け続けるわけにもいかない。
これも忘れてはいけないことだ。
死霊魔将アズールに囚われたルフィミアを、取り戻さなければならない。
(アンデッドでもいいから、もう一度ルフィミアさんに生きて欲しいって思うのは、間違いなのかな)
敵に回ったことはショックではあるけれども、ルフィミアが生き返ったこと自体は、美咲にとっても嬉しいことだった。
これだけは、死霊魔将アズールに美咲は感謝してもいいと思っている。
アンデッドになる弊害というものを、美咲はいまいち理解仕切れていないものの、それさえ何とかできれば、彼女を再び仲間に引き込むことは、不可能ではないはずだ。
しかし美咲の思い通りに事を進めるためには、それがどの目的であっても、結局は力が無ければ話にならない。
そして、一番の懸念は、隠れ里で穏やかな時間を過ごしたことで、美咲の胸の内に疑問が生じ始めていることだった。
(正義って、何だろう。魔王を倒せば、人族の領域は平和になるだろうけど、魔族の領域はきっと大荒れになる。死者だってきっと、相応に出る。領域内にあるこの隠れ里だって、魔王が死ねば人族連合軍が攻めてきて発見されて蹂躙されるかもしれない。魔族軍に発見されても、多分同じことになる)
此処に来て、美咲は迷い始めていた。
既に沢山の犠牲を出しているというのに、新たに育みつつある絆が、美咲を雁字搦めにしている。
この世界の人間とは違い、美咲には魔族が敵だという認識は薄い。魔王に従い、敵対してくるから戦っているだけであって、殺したいほど憎くは思っていない。
勿論、ルアンやルフィミア、セザリーたちを喪ったばかりの頃は憎んでいなかったと言えば嘘になるけれども、それもこの隠れ里での生活で変化した。
魔族だからといって、悪だとは限らないということを知ってしまったのだ。
それに、彼らを死なせた責任は、結局のところ美咲自身にある。
死なせたくなければ、置いてくれば良かったのだ。一人で旅を続けていれば良かったのだ。孤独でも、無謀でも。心細さに挫けそうになったとしても、故郷に帰るという目的を支えに、我武者羅に歩き続けていれば良かったのだ。
そうすれば、例え美咲が志し半ばで野垂れ死んでいたとしても、今頃彼らは誰一人死ぬことなく、生きていたかもしれない。
自分の命と、自分の目的を優先しながら、孤独も埋めようと欲張った結果が今の状況なのだ。ならば殺した他人を憎むこと自体が間違っている。
戦争なのだ。殺しもすれば、殺されもする。それが当然。
(嫌だな。魔王を殺さなきゃいけないのに、殺すことが正しいはずなのに、私、迷ってる。魔族と人間の違いって何? 姿形が違うから? 魔族語が使えるから? 分かんないよ。だって同じ魔族でも、此処の人たちは凄く優しくしてくれるし、バルトとあのブランディールだって、強い絆で結ばれてた。決してただの悪人じゃなかったもの)
人間と魔族、両方の視点を得たからこそ分かる。
種族の差異など些細なものだ。
殺し殺され、憎み憎まれ、迫害し迫害され、その積み重ねの結果が、今の人族と魔族の関係だ。
簡単なことではないけれど、それは裏を返せば、憎しみを持たないなら、両者は手を取り合えるということでもある。
この隠れ里に生きる、混血を守る人間と魔族のように。
(敵だったから殺した。殺されたくないから殺した。バルトにとってブランディールは味方でも、私にとっては敵だった。でも、今のバルトと私は味方同士の関係にある。……どうして、バルトは私を殺そうとしないんだろう。ブランディールが私に協力するように言ったから? なら、それはどうして?)
考えて、美咲は自重した。
例え美咲が本当にそう願ったとしても、手を取り合うのは不可能だということに気付いたのだ。
いや、この場合、思い出したというべきか。
美咲の身体に刻まれた死出の呪刻は、術者である魔王を殺さない限り一週間後に美咲を殺す。
その事実がある限り、美咲と魔王は決して相容れることはない。
どの道、死出の呪刻が本格的に発動準備を始めた以上、もうそれほど猶予は残されていない。
今日も腕の治療のためにマルテルの治療院に行かなければならないので、ついでにこれからのことについて、どうするべきなのかマルテルに相談するのもいいだろう。
マルテルのことを考えると、リーゼリットの発言を思い出して変に意識してしまうけれど、彼は美咲の事情を知っているし、相談役としては申し分ない。
少しお茶目なところもあるけれども、基本的には誠実な性格をしているので、悩む美咲に的確な助言をくれるはずだ。
(うん。そうしよう)
そうと決まれば善は急げということで、美咲は早速出かける準備を始めた。
戦いに赴くわけではないので、武装はせずに服装は私服にする。ただ、例の如く勇者の剣だけは腰に佩く。
勇者の剣はもはや美咲にとって、エルナの形見であると同時に、心の拠り所であり、自らの正当性を示すものでもある。
ベルアニア王子フェルディナントの命によって旅に出た美咲であるが、案外王子の手配は杜撰で、エルナが死んでしまって以来、彼からの連絡は一切来ない。
結局予定されていたラーダンでの補給も受けられず仕舞いだったし、エルナの後任も送られて来ない。
もしかすると、美咲の現状すら、王子側では把握していないのかもしれない。
元々が、魔王に干渉されて失敗した召喚の結果、この世界に呼ばれたのが美咲である。
王子が早々に見切りをつけていたとしても、おかしくはない。
それでも、貴重な武器や道具を預けてエルナまでつけてくれたのは、少しは期待してくれていたと考えてもいいのだろうか。
(……まあ、結局剣以外全部盗まれちゃったんだけど)
旅に出たばかりの頃の美咲は、色んな意味で未熟だった。
エルファディアという名のこの世界での旅がどれほど危険なものかも知らなかったし、平和な場所で育っていたのでろくに警戒心も持っていなかった。
その結果受けた洗礼がエルナの死と勇者の剣以外の美咲の全道具の喪失であり、なんらかの方法でそのことを知ったフェルディナントが美咲を見捨てることに決めていたとしても、何もおかしくはない。
エルナは魔族であったが、フェルディナントの愛人であり、彼を敬愛していた。
魔族であるということは、魔族語にも精通しているということであり、そんな彼女の死は、間違いなくフェルディナントにとって痛手であったろう。
(本当に見捨てられていたとしても、私は最期まで戦うしかない。でも、それがどれだけ困難な道なのか知れば知るほど、怖くて足が竦んで、一歩も踏み出せなくなる。今だってそれは変わらない)
迷いを抱えたまま出かける準備を終え、グモの家のドアを開ける。
美咲の思いとは裏腹に、明るい日差しが、美咲の行く道を照らしている。
しばし、その場に立ち竦んだ。
(何が正しいのかなんて、私にはもう分からない。ただ一つだけ分かるのは)
(魔王を殺せば、呪刻の効果は消える。そうすれば、元の世界に帰っても死ぬことはないはずなんだ。だから、歩かなきゃ)
やがて力強く、美咲は一歩を踏み出した。
太陽の下、マルテルの治療院を目指して歩き出す。
唇を引き結んで、背筋を伸ばして。
その横顔はもう、無力な少女のそれではなかった。