二十二日目:祭りの後1
目覚めは、おおよそ快調と言えた。
やはり、ある程度心の整理が付いたからだろう。
悪夢を見ることも無く、美咲は朝を迎えている。
「お姉ちゃん、おはよう!」
上半身を起こした美咲に、洗面所から出てきたミーヤが声をかける。
珍しく、ミーヤの方が先に起きていた。
いつものように無邪気な笑顔を浮かべ、美咲を見つめている。
普段通りの笑顔だと思った美咲は、ふと抱いた違和感に、首を傾げた。
少し考え、ミーヤをもう一度良く見て、思い至る。
「おはよう。顔洗ってたの?」
「うん!」
尋ねた美咲に、ミーヤは元気良く返事をした。
ミーヤの顔からは、雫が滴って床に染みを作っていた。一部は寝巻きにまで垂れて濡らしてしまっている。
「ダメじゃない。ちゃんと最後には顔を拭かないと」
美咲はベッドから滑り出て自分の道具袋からいつも顔洗い用に使っている布を取り出すと、ミーヤに近付き、ミーヤの顔をそっと拭う。
「ごめんなさーい」
口では謝っているミーヤだが、美咲に構って貰えるのが嬉しいのか、その表情は綻んでいる。
(そういえば、久しぶりかも。こうしてミーヤちゃんの面倒見るの)
思えば、ミーヤと出会った当初は毎日のように世話を焼いていたのに、日が経つにつれ、ミーヤ一人でも出来るようになったのと、仲間の人数が増えたことで、そんな機会は少なくなっていた。
皆が死んでしまったことで、またミーヤと触れ合う機会が出来るとは、中々に皮肉が利いている。
「これくらいで……あれ?」
あらかた水滴を拭い終えた美咲は仕上がりを確認しようとミーヤの顔を良く観察し、もう一つ、いつもとは違うことに気付いた。
「ミーヤちゃん、瞼が腫れてるよ。どうしたの?」
「えっ? そ、そうかな。普通だよ、お姉ちゃん」
何でもないことのように言いながら、ミーヤは美咲から視線を反らし、顔を隠した。
どうやら、ミーヤは瞼が腫れている理由に、心当たりがあるらしい。
「何かの病気の兆候だったら大変だよ。心当たりがあるなら教えて?」
真っ先に美咲の頭を過ぎったのは、ミーヤが何か病気を患ってしまったのではないかということだった。
何しろ、衛生観念は元々美咲が暮らしていた日本とは比べ物にならないくらい悪い。
生水を飲めば高確率で腹を下すし、水洗トイレなどというものは無く、多くのトイレは外に垂れ流しだ。汲み取りですらない。
流石に王都やラーダン、ヴェリートといった大きな街では汲み取りや入れ替え式のトイレも多く、実際に城では入れ替え式のトイレだったけれど、ザラ村やこの隠れ里では外に垂れ流しか携帯式のいわゆるおまるだった。
特にトイレが無いというのは美咲にとって衝撃で、実際グモの家にトイレは無い。
ではどうやって用を足すのかというと、陶器で出来たおまるでするのである。
グモの家で使われているおまるはおまるとしてはかなり大きめで、むしろおまるというよりも壷と表現した方がしっくりくる大きさと重さだった。
この世界に召喚されてからある程度鍛えられた美咲や、元々がゴブリンで一定の腕力があるグモはともかく、非力なミーヤではこのおまるを持ち運びすることは出来ず、概ね溜まった糞尿の始末は美咲かグモの役目だった。
普段は蓋をして臭いが漏れないようにしているものの、おまるの蓋を開けると得も言われぬ臭いがたちまち部屋に立ち込める。
しかもそんな劣悪な環境なのにも関わらず、街だろうが村だろうが共通して入浴の習慣は無く、せいぜいが布かお湯で身体を拭くくらいだし、水汲みが重労働なので、どこも水を出来るだけ節約しようとして、あまり手を洗わないし、洗い水を使い回したりもする。
そんな劣悪な衛生事情なので、美咲がいの一番に病気を連想してしまうのも、ある意味当然のことだった。
「ち、違うよ。別に病気とか、そういうわけじゃなくて……」
慌てて美咲の心配を否定したミーヤは、何かを言おうとして口篭り、言い淀んだ。
それから先の言葉は口に出せず、また美咲から視線を反らして俯いてしまう。
しばらくして、ミーヤはぽつぽつと、瞼が赤い理由を話してくれた。
「皆が居た頃の夢を見て、夜中に目が覚めたの。そうしたら寂しくなっちゃって。お姉ちゃんが生きてるだけで恵まれてるのに、ミーヤ、我侭だよね」
どうやら、ミーヤはセザリーたちが生きていた頃の思い出を夢という形で追体験し、目覚めた後の現実との落差に寂寥感を覚えたらしい。
美咲は、咄嗟に声をかける言葉を思いつかなかった。
だって、ミーヤのその感情は、美咲が抱いているものと、全く一緒だったからだ。
「そんなこと、ないよ。寂しかったら、泣いていいんだよ。だって、悲しいと思うのが、当たり前だもの」
今でも、美咲自身、彼女たちとの思い出に意識を向ける度に、我慢してても涙腺が緩み掛けることがあるのだ。
幼いミーヤがそれで泣いてしまっても、誰も責めやしない。
「でも、お姉ちゃんだって我慢してるのに、ミーヤだけ」
やがて、堪えているミーヤから嗚咽が漏れ始めた。
我慢強いといえども、まだ子ども。
慕っている美咲に優しくされて、ミーヤは押さえていた感情が決壊し始めていた。
(思えば、気付くべきだった。傷付いていたのは、私だけじゃない。ミーヤちゃんだってそう。同じだけの時間を、皆と過ごしてきたんだもの)
出会ってからずっと、美咲の傍にはミーヤが居た。ミーヤの傍には美咲が居た。
仲間が増えてもそれは変わらず、美咲とミーヤは、等しく出会いと分かれを経験して此処まで来た。
それぞれが出会う前も、美咲がエルナやルアン、ルフィミアと死に別れたように、ミーヤもまたヴェリートの両親や友人と死に別れているに違いないのだ。
年上の美咲ですら心に傷を負ったのだから、美咲よりも幼いミーヤが、心に傷を負わないはずが無い。
「ふええ……」
我慢できなくなったのか、ついにミーヤが泣き始めた。
泣きじゃくるミーヤを、美咲は静かに抱き締める。
頭に浮かぶのは後悔だ。
(情けない。自分のことばかり考えて、全然ミーヤちゃんのことにまで、頭が回らなかったなんて)
自分自身に余裕が出来てようやく、ミーヤの状態に気付いたことに、美咲は自嘲する。
気付く予兆は、思えばいくらでもあったのに。
隠れ里に来てから、落ち込む美咲とは対象的に、ミーヤは元気だった。
でも、それはただそう見えるようにミーヤが気を張っていただけで、それは、ペットを探すミーヤの行動にだって余裕の無さとして現れていた。
こうして自分が抱き締めることで、少しでも傷付いたミーヤの心が癒されればいい。
そう思いながら、美咲はミーヤが泣き止むまで、ミーヤを慰め続けた。
■ □ ■
結局二人仲良く泣いて目を腫らしてしまった二人は、グモにどう言い訳しようか頭を悩ましつつ、居間にやってきた。
「おはようございます。今から朝食を作りますので、少し待ってくだされ」
出迎えたグモは腫れぼったい目の美咲とミーヤに気付いて目を丸くしたものの、その理由を察して気を使ったのか、何も言わずに挨拶をした。
「おはよう、グモ、私も手伝うよ」
グモの気遣いに感謝しつつ、美咲が手伝いを申し出ると、ミーヤが美咲と手を繋いだままもう片方の手をピシッと上げる。
「ミーヤもやる!」
「では、お二人にも手伝ってもらいますかな。貯蔵庫から三人分の食材をこのボウルに取ってきてくだされ。何にするかは任せますぞ。ワシはその間に竈に火を入れておきます。ああ、貯蔵庫は地下にありますので、台所の隅の蓋を開けて降りてくだされ」
どうやら、グモの家の地下には貯蔵庫があるらしい。
ある意味ではとても異世界らしく、地下の貯蔵庫というあまり見慣れない場所を探検できることに、年甲斐もなく美咲の心が躍った。
しかも、隠れ里といえども住んでいる人間の数に比べて土地が広いので、グモの家はそこそこ大きく、従って貯蔵庫もそれなりの広さであることが想像できる。
ボウルを手渡され、教えてもらった通りに台所の床を探すと、金枠で囲まれた箇所がある。
「お姉ちゃん、これが蓋かなぁ?」
「多分そうだと思うよ。取っ手もあるし」
会話しつつ、ミーヤと二人でえいやっと蓋をずらし、地下への入り口を露出させる。
まあ、二人でといっても、力の関係上大部分が美咲の腕力なのだけれど。
地下は薄暗く、奥までは窓から差し込む光も届かないようで見渡せない。
「暗いねー」
覗き込んだミーヤが目を丸くして瞬きをした。
「そうだねぇ。明かりを用意しなきゃね。エァケェアロォイユゥ」
魔族語で魔法を唱え、美咲は元の世界の電球ほどの光を生み出した。
美咲がそっと光を地下室の中に投げ入れると、光が地下室を照らし、貯蔵庫の全貌が露になった。
階段と壁は石造りで床は板敷き。そんな地下室に、いくつもの壷が安置されている。
壷は全て蓋で密閉されていて、中に何が入っているのかは開けてみなければ分からなさそうだ。
「わあ、良く見えるぅ」
魔法を間近で見てはしゃぐミーヤの手を引き、美咲は会談を降りていく。
手摺なんていう気の利いたものは無いので、石造りの壁に手をついて、慎重に。
滑って転んで転げ落ちたら大惨事である。というか、間抜け過ぎてそんなことになったら美咲は憤死する。
地下室だからか、貯蔵庫は地上よりもひんやりとしている。これなら、保存もしやすいだろう。
無事貯蔵庫に降りた美咲とミーヤは、さっそく壷の中身を検めにかかる。
気分は他人の家の冷蔵庫を漁るような感じで、背徳感とワクワク感が混ざり合っている。
(いや、許可取ってるんだから、別に気兼ねする必要なんてないんだけど)
自分で自分に言い訳しつつ、美咲は一つ目の壷の蓋を開けた。
開けた瞬間、中に詰め込まれている無数のグラビリオンを一目見て、美咲は即座に蓋を閉めた。
ミーヤが反応できないほどの早業だった。
「お姉ちゃん、ミーヤまだ中見てないんだけど……」
不満そうな表情を浮かべ、ミーヤが美咲を見上げる。
引き攣った笑顔で、美咲は答えた。
「これ、中身腐ってるから。他のにしよう」
「え、でもグモ、そんなこと一言も言ってなかったよ?」
壷の蓋はそれなりに重いものの、ずらすだけならミーヤでも何とか可能だ。
何気なく隙間から中を覗き込んだミーヤは歓声を上げた。
「あ! グラビリオン! お姉ちゃん、ミーヤこれがいい!」
(ああああ、やっぱり……)
好物のグラビリオンを見つけてしまえば、ミーヤが食べたがるのは、美咲にとって日が沈めばまた昇るのと同じくらい、予想出来た。
美咲自身はグラビリオンが苦手だったから別のものにしたかったからこそ、言い訳をしてミーヤの興味を逸らそうとしたのだけれど、失敗したのなら仕方ない。
諦めて、グラビリオンの朝食に、美咲は甘んじることにする。
「……じゃあ、ミーヤちゃん。このボウルに、三つくらいグラビリオン、入れようか」
グモから受け取ったボウルを諦めの境地で美咲がミーヤに渡すと、ミーヤは満面の笑顔でグラビリオンを六匹入れた。
「……多くないかな?」
「多くないよ?」
げっそりとした表情の美咲に対し、食い意地の張ったミーヤは曖昧な笑みでそっと目を反らした。
どうやら欲張っている自覚はあるらしい。
(まあ、いいか。グモに多いって言われたら、戻そう)
ミーヤを説得するのを諦めた美咲は、さっさとグラビリオンの壷に蓋をして別の壷を検める。
他の壷には肉や魚、野菜、果物などが入っていて、保存方法も塩漬け、酢漬け、燻製、干物など様々である。
少し考えた美咲は、燻製肉を少しと乾燥野菜を取り出した。
果物もいくつか見繕おうかとも思ったものの、先日ピエラをたくさん食べたばかりなので、今日くらいは無くてもいいと思い、今回は取り止めにする。
選んだ食材を入れたボウルを手に、美咲はミーヤを連れて貯蔵庫を後にした。