十八日目:いくつ犠牲を重ねても1
美咲は太陽の位置で、大雑把に現在時刻を確認する。
隠れ里はその性質のためか、はたまた魔族の街や村全体がそうなのか、人族の街や村のように時刻が告げる鐘が鳴らない。
もっとも、それは当然とも言える。里全体にまで届くような鐘の音は、それなりに遠くまで響くだろう。里のことを知らない第三者に聞きつけられて、存在が露見する可能性がある以上、鐘を使わないという選択は合理的だ。
だからなのか、里人は人族以上に時間感覚が大雑把だ。魔族はもちろん人間であっても、日々の生活で程度の差こそあれほぼ全員が魔族語を喋れるようになっている。
そのため手軽に明かりの魔法を用いて夜更かしを平気でやらかすし、起きる時間も個々によって差がある。里に数少ない店も、違う日で同じ時間なのに、時間帯によってはやっていたりやっていなかったりする。
(今は、大体六レンディアと七レンディアの間ってところかな。まあ、六レンディアと七レンディアじゃ、全然違うんだけど)
この世界の時間の単位は、元の世界よりも遥かに大雑把だ。レンディア、バル、レンの三つの単位があり、それぞれ百四十分、七十分、十分になっていて、元の世界の単位とまるで合わない。
おかげで最初の頃は美咲も苦労した。というよりも、現在進行形で今も苦労している。この世界は正確な時刻を知る方法が極めて少なく、普及している時計もせいぜいが日時計、水時計、砂時計という有様だ。
日時計は晴れの日の昼間にしか使えないし、水時計は水の流出を利用する以上、水が無くなったら人力で注ぎ足さなければならない。同じことは砂時計でも言えることだが、幸い美咲が持つアリシャの砂時計は、ひっくり返すだけでいいので、その点は楽だ。その代わり、一レン刻みでしか計れないのがもどかしくもある。
道を歩く美咲の耳には、多くの魔族語が聞こえてくる。そのほとんどは美咲には聞き取れ切れないが、いくつかは分かる単語もある。拾い上げて繋ぎ合わせてみると文脈が分かることもあり、多くはやはり日常会話だ。
魔法としての魔族語と日常会話としての魔族語を、里人たちは同じ言葉で見事に使い分けている。例えば魔法として使えば火が吹き出るような単語でも、日常会話では何も起こらない。
(……これって、イントネーションの違いだよね。魔法と日常会話で、微妙に変化してる)
一見すると同じように聞こえる単語も、よく聞いてみると、魔法が発動しないようにわざと訛らせているのが美咲にも分かる。
思えば、美咲が会話で使うへたくそな魔族語も、へたくそだからこそ魔法が発動しないで済んでいるのだ。美咲の場合、長文だと発音が崩れて日本語を話す外国人のようになってしまうのだが、日常会話の場合、その方が返って良い。
また、訛りの程度でも個性があって、魔法の時とほとんど変わらず丁寧な発音をする魔族もいれば、元の単語が分からないくらい訛らせている魔族もいる。
(出身地の違いとかもあるのかな)
興味深く、美咲は雑踏の魔族語を聞きながら歩く。
元の世界でも、出身地によって同じ日本語でも訛って別言語のようになっていたのであながち間違っていないのかもしれない。実際に、田舎から東京に出た人間などは、場所によって標準語と方言を使い分けている。
例えば母親は関西の人間で、美咲を連れて里帰りした時、当たり前のように方言を使っていた。普段は標準語しか使わない母親が、いきなり回りと同じ方言で話し始めたことに、まだ幼かった美咲は吃驚して、急に母親が別人になってしまったような気がして泣いてしまった。昔の話だ。
郷愁の念が湧き上がっても、以前ほど感情は揺れない。そのことにホッとすると同時に、美咲は悲しくなって俯いた。
(やっぱり、少しずつ慣れていってる。嫌だよ)
まだ、記憶そのものが薄れていっているわけではない。でも確実に、美咲は異世界に居るという事実に、順応を始めている。記憶に付随する感情を実感出来なくなってきているのが、その証拠だ。
帰りたいという願いは、帰れないかもしれないという諦観に少しずつ上書きされていて、諦観は、美咲に異世界を受け入れさせた。
もちろん、今でも美咲は元の世界に帰れるものなら今すぐにでも帰りたい。その気持ちに嘘偽りはない。その一方で、帰れないのなら、せめて、自分を受け入れてくれた人たちのため、死ぬまでに自分に出来ることをしたいという気持ちがある。そしてその気持ちは、例えこの世界ででも、生きていたいという気持ちにいつか変わるだろう。
でも、この世界で生きることを、美咲は望んでいない。少なくとも今はまだ。
(倒すんだ。魔王を)
人知れず拳を握り締めて、美咲は歩く。
目的地は、里中央の広場だ。
そこに、バルトが居る。
バルトと少し話してから、美咲は里入り口に居るであろうミーヤの下へと向かうつもりだった。
二人一緒に旅商人の商品を覗くのだ。あるいは追加でグモを誘っても良いかもしれない。仕事が終わっていればの話になるけれど。
やがて、中央広場に到着する。
中央広場では、傷付いた竜が羽を休めていた。
■ □ ■
意外なことに、安静にしているバルトの周りでは、混血らしき子供たちが、無防備に遊んでいた。
すぐ傍にバルトが居るというのに、彼ら彼女らは全く臆する様子もなく、思い思いの遊びに夢中になっている。
それどころか、バルトの周りに集まって、きゃっきゃとはしゃいでいたりする。
当のバルトは時折鬱陶しそうに鼻息を漏らすものの、頭の角などを触られても微動だにせず、されるがままになっている。
「随分、人気者なのね」
「小娘カ」
美咲がバルトに話しかけると、バルトが目を開き、美咲に気付いた子供たちが驚いて散り散りになり、慌ててバルトの身体の影に隠れた。
子供たちはバルトの身体の影から、頭だけ出して美咲の様子を伺っている。
自分に向けられる視線に気付きながらも、美咲はそのことに対して何かを言うつもりは全くない。闖入者は美咲の方だ。
「日本語、喋れるの?」
バルトの口から漏れた言語に、美咲が目を見開く。
思わず詰め寄る美咲に、落ち着いた様子でバルトが説明する。
「気ヲ失ッテイルウチニ、オ前ノ頭カラ知識ヲ抜キ出シタ。案ズルナ、手ヲツケタノハ言語ニツイテノ知識ダケダ」
「それは気にしてないけど。そんなこともできるんだ。私、魔法は効かないはずなのに」
「魔法ジャナイカラナ。竜ノ固有能力ダ。ソレニ、全テノ竜種ガデキルワケデモナイ」
片言であるが、懐かしい日本語を肉声で久しぶりに聞いて、美咲の口元に自然と穏やかな笑みが浮かぶ。
バルトの姿を見ている美咲の眉は、笑みとは対照的に申し訳なさそうに下がっている。
「……翼、破けちゃってるね」
畳まれている状態でもはっきりと分かるくらい、バルトの翼は損傷しており、痛々しい傷口を晒していた。
「アノ女トノ戦イノ傷モ癒サヌママ、此処マデ飛ンデキタカラナ。ソレニ、途中デ限界ニナッテ飛ベナクナッテ、着陸シタ時ニ少シ失敗シタ」
「今更だけど、助けてくれてありがとう。あなたが此処まで連れて飛んでくれなかったら、私たちは間違いなく全滅してた」
「気ニスルナ。オ前ハ約束ヲ守ッタ。ダカラ俺モ約束ヲ守ル。ソレダケダ」
ぶっきらぼうにそう言って、バルトはぷいと顔を背けた。
ドラゴンの表情の機微が美咲に分かるわけではないが、受け答えするバルトの態度からは、特に美咲に対する敵意は感じられない。
その代わり、バルトの声からは隠しきれない体調の悪さが伝わってくる。声に張りが無いし、首を美咲へと擡げた動作もゆっくりだった。
「……傷、どれくらいで治りそう?」
「七日ッテトコロダナ。翼サエ治レバ何トカナルガ、コノ里ニハ俺ノ翼ヲ癒セルホドノ人材ガイナイ」
「自然治癒でも、七日で治るの? ……竜って凄いのね」
「一応、生キ物トシテハ頂点ニ近イカラナ。基本的ナ機能ガ違ウ」
答えるバルトの声は億劫さを隠せていない。本格的にしんどそうだ。
しばらくはゆっくり寝かせてあげた方がいいと考えた美咲は、バルトの影に隠れる子供たちに声をかけた。
「君たちはこっちに来なさい。怪我人……人? とにかく、怪我してるんだから、無理させちゃ駄目よ」
日本語で言った美咲は、それでは伝わらないことを思い出し、慣れない魔族語でつっかえながら言った。
「ケェアロォ、キィエゲェアノォイン。コォイモテェアトヘクゥオタゥト」
混血の子供たちは、美咲の魔族語を聞いて、恐る恐るといった様子で美咲の下へとやってきた。
ほぼ人間に近い容姿の女の子と、動物がそのまま二足歩行をしているかのような、限りなく動物に近い容姿の男の子、その中間の性別不詳の子と三人だ。人間の形質が強く出た子と、魔族の形質が強く出た子、綺麗に混ざり合ったハーフとそれぞれ特徴が良く出ている。
一人目は瞳孔が猫のような形をしている以外は人間にそっくりで、見た目はほとんど人間と代わらない。ただ、目があまり良くないのか、眼鏡をかけている。
(この世界、眼鏡あるんだ……)
レンズよりも進んだ代物が存在することに、美咲は少し驚く。ただ、眼鏡とはいっても元の世界のものよりかは洗練されていないようで、レンズも小さい。フレームも、耳にかける部分が無く、代わり細い鎖で後頭部まで締め付けるようになっている。
美咲の価値観からすると、奇抜なデザインではあるが、髪が長いので鎖は髪に隠れて目立たず、それほど違和感は無い。
目が悪いせいか子供にしてはきつめの眼差しで、中々の眼力で美咲を睨んでいる。遊びを邪魔されたのが気に入らないのかもしれない。
服装もこの世界ではごく有り触れたもので、人間が着ているものと変わらない。
全体で見ればほとんど人間だからこそ、目の違いが目立つ。文字通り、猫のような釣り目が印象的な子だった。
二人目は二足歩行をする狼の子供、という表現がしっくりくる。
骨格こそは人間に近いものの、ふさふさの尻尾があるし、顔は狼とほとんど変わらない。身体全体が茶色い毛皮に覆われていて、ズボンこそ穿いているものの、上半身は裸だ。人間が上半身裸で外を出歩いていれば変態だが、この子は毛皮で素肌が見えないせいか、むしろ上半身裸の方がしっくりした。
さすがに下半身も脱がれたら違和感を覚えただろうけれども。何しろ、何とは言わないがズボンが無ければアレが見える。
人狼の子という表現がしっくりくるこの男の子は、警戒する様子を見せる一人目の女の子とは違い、興味津々の表情で美咲を見つめている。口は半開きで、其処から舌が覗いていた。そういうところも犬っぽい。子供ということもあり、狼というより、犬である。尻尾も感情を表してぶんぶんと左右に振られている。
最後の一人は、八重歯が印象的な子だった。容姿自体は一番整っていて、髪形も男の子とも女の子とも言い切れない長さで、猫目の女の子と、人狼の子の後ろから、おどおどとした態度で美咲を見つめている。目が合うと、何故か顔を赤らめて俯かれた。
蝙蝠のような翼があるが、生えているのは背中の肩甲骨の辺りからで、ミルゼのように腕の代わりが羽だったりはしない。本物の蝙蝠のように足が退化しているなんていうことはなく、二本の足で歩いている。
印象的なのは目で、黒目が大きく正面から見ると白目が見えない。一見不気味だが、よく見るとつぶらな瞳なのでこれはこれで可愛い。
「オィタゥソォイユォノエァスゥオブゥ!」
最初に美咲に声をかけてきたのは、やはり人狼の子だった。
好奇心旺盛な様子で、怯えていたのが一点、美咲が魔族語を話すと飼い主に飛びつく犬のように美咲の前にやってきた。
「あの竜に乗ってたの?」
「ええ。彼は今、怪我をしてるの。休ませてあげて。代わりに、私が遊んであげるから」
「じゃあ、あなたでもいい。人族ごっこしよう」
謎の遊びを提案され、美咲は目を白黒とさせた。