十八日目:残された者たち1
優しい日の光で、美咲は目を覚ました。
初めに目に入るのは、木目がくっきりと見える天井で。
しばやく茫洋と視線を彷徨わせ、美咲は目を見開く。
反射的に起き上がってベッドから飛び降り、駆け出そうとしたところで、美咲はようやく異常に気付く。
「……ここ、どこ?」
呟いた声に、答えは返って来ない。
何だか心細くなった美咲は、もう一度ベッドに戻ると、浅く腰掛けた。
先ほどは寝起きで痛みを感じる神経が鈍っていたのか、思い出すように身体の節々に鈍い痛みを感じて、思わず美咲はうめき声を漏らした。
傷みを堪え、部屋の内装を見回す。
美咲が知る部屋の、どれとも似付かない、見覚えの無い部屋だ。
一日目に美咲が城に泊まった時の部屋でもないし、ザラ村に泊まった時の宿屋の部屋とも違う。
もちろん、結構な間お世話になった、ラーダンにある風のせせらぎ亭の個室でも、大部屋でもない。
(もしかして、まだヴェリートにいるの? ううん、違う。そんなはずはない。ヴェリートは死人で溢れてた。私が悠長に寝ている余裕なんて無かった)
考えた美咲は、思わず立ち上がる。思い出したのだ。自分が気絶した時の状況を。
(アリシャさん。そうだ。アリシャさんが残るって言ってて、私はそれを止めようとして、それから先の記憶が──ない)
記憶を辿ろうとした美咲は、そこで完全に記憶が途絶えてしまっていることに、愕然とする。
(え? あれ? なんで?)
いくら思い返してみても、アリシャと口論した後の記憶がない。
必死に美咲は記憶を掘り返した。
昨日の夜、ルフィミアの姿が見えず、アリシャとミリアンと一緒に探しに行って、主塔の最上階でルフィミアを見つけ、そうしたら死霊魔将アズールが現れて、ルフィミアが美咲たちに攻撃してきて、ヴェリートの街中、城の中、その全てに死霊が溢れかえった。
自分が残るというミリアンをその場に残し、アリシャに連れられ城からの脱出を目指した美咲と、美咲の仲間たちは、街へと続く城門前で、今度は牛面魔将ディミディリアと名乗る、牛面人身の魔族の襲撃を受けた。つまり、三人目の魔将が登場したのだ。
魔将は全部で四人いて、その一人は美咲が召喚されるより前に倒され、もう一人の蜥蜴魔将ブランディールも、美咲との壮絶な一騎討ちの末敗れた。
だから、魔族軍は確実に美咲を葬るために、魔将を二人も送り込んできたのだろうか。
(……ルフィミアさん、敵になっちゃった)
そこまで考えて、美咲は落ち込んで膝を抱えた。
あの状態を、生きている、と表現していいのかどうかは分からない。ルフィミアは美咲を逃がすためにあの戦場で果て、その死体は蜥蜴魔将ブランディール経由で死霊魔将アズールの手に渡った。
どういう手段を使ったのかは分からないけれど、死霊魔将アズールは、ルフィミアの死体に再び命を吹き込んだのだ。それもおそらく、自分の肩書きに相応しい、アンデッド化するという方法で。
それでも、再び会話することだって出来たのに、美咲はルフィミアを取り戻すために戦うことすらできず、ミリアンをその場に置いて逃げるしかなかった。周りに敵が多過ぎたのだ。そうしなければ、溢れかえった死霊たちに逃げ道を塞がれ、全員死んでいた。
ミリアンに全てを任せて逃げたアリシャの判断は、きっと正しかった。だから、今度はアリシャ自身が残ろうとしたのも、美咲は理解はできる。
それでも、また同じ展開になっているのが許せなくて、自分が動けば、必ず状況を変えられると信じて、美咲は共に戦おうとした。
そこで記憶は途切れている。状況的に見て、アリシャに気絶させられたのだろう。
まだ自分のいる場所がどこかは分からないけれど、美咲はここがヴェリートでないことだけは確信した。でなければ、美咲が悠長に朝まで眠っていられるはずがない。
美咲は抱え込んだ両膝の間に、顔を埋める。自然と、悔し涙が溢れてきた。
(一緒に、戦いたかったのに)
胸に蟠るのは、未練だ。アリシャとミリアンがそう簡単に死ぬとは思えないけれど、それでも状況は、美咲のトラウマを容赦なく抉る。エルナもルアンもルフィミアも、美咲を守るため、身代わりと言っても間違いではない状況の中、死んでいった。
そして、ミリアンとアリシャもまた、同じような状況で、美咲を逃がそうと、本来ならば必要のなかった戦いに身を投じた。
(何で。何で私のためなんかに残ったんですか。命を懸けるのは割に合わないって、散々言ってたじゃないですか)
不安が頭を過ぎる。もしミリアンとアリシャが死んでしまっていたらどうしよう。それどころか、ルフィミアのように、敵に回っていたらどうしよう。
思い浮かべた想像に、美咲は絶句する。それは、悪夢だ。
そこまで考えて、美咲は思わず顔を上げる。
(アリシャさんに気絶させられて、それで、それから、どうなったの?)
寒々とした空間には、美咲の姿しかない。
ヴェリートで明確に残ったと分かるアリシャとミリアンはもちろん、一緒に居たはずのミーヤ、ディアナ、セザリー、テナ、イルマ、ペローネ、イルシャーナ、マリス、ミシェーラ、システリート、ニーチェ、ドーラニア、ユトラ、ラピ、レトワ、アンネル、セニミス、メイリフォア、アヤメ、サナコ、そして知り合いの冒険者パーティであるタティマ、ミシェル、ベクラム、モットレー、タゴサクの五人。
誰もいない。
それを認識した瞬間、ぞっとして、美咲は今度こそ血の気が引いた。
「み、みんな、どこっ!? どこにいるの!?」
近くに立てかけられていた勇者の剣を掴んで衝動的に飛び出した美咲は、走り出そうとして目の前に現れた光景に愕然とする。
すぐ近くにある、井戸の周りで井戸端会議に興じる三人の見知らぬ若い女たち。
その、誰もが異形だった。
一人は背中に蝙蝠のような翼が生えていて、耳は尖り、頭には羊を思わせる巻き角が伸びている。
もう一人は見た目は人間に似ているけれども、頭から猫耳が突き出ていて、尻からは長い尻尾がピンと張っていて、時折ゆらりと揺れている。
残る一人は服に隠れていない肌の所々が鱗に覆われていて、耳が鰭のような形をしていた。
別の場所に目を向ければ、男の子と女の子が、仲が良さそうに道を走っている。ただ、男の子の方は腕が四本あって、女の子の方は、肌が半透明でうっすらと中身の骨や臓器が見えている。
「……何、これ」
愕然とする美咲の手から、勇者の剣が零れ落ちる。
地面に落ちた勇者の剣が、がらんがらんと大きな音を立てた。
音に気付いた井戸端会議中の女性や、子どもたちが振り返って美咲を見る。
「エァレェア、ウォコォイテェアヌゥオニィ」
「テェアオィヒィエン、モォイーヨェアトヨァンゥオユンヂィエクネコヨァ」
「オィトォイウォアゥ、ウォオィソォイヨァセェアメノムゥオソレシィエネオツ」
掛けていく女性たちの言葉が理解できずに、美咲は立ち竦んだ。
彼女たちが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
(な、なんで……?)
美咲は慌てて、額を弄る。
どこにも、サークレットの感触は無かった。
(翻訳サークレットが無い!)
今度こそ、美咲は呆然とした。
サークレットが無ければ、美咲はこの世界の誰ともろくに会話が出来なくなる。会話が出来なくなれば、意思疎通すら難しい。ジェスチャーでやり取りするにしても、全てが同じなわけがないし、限界がある。
「ワェー」
「フゥオンツアゥノォイ、ノォインギィエンネェアンデ」
甲高い声に目を向ければ、走っていた子どもたち二人が立ち止まって、興味津々な表情で美咲を見つめる。
反射的に勇者の剣を拾い上げて抜き放ち、敵意に満ちた視線で睨んだ美咲は、子どもたちが怯えた表情になったのを見てはっとした顔になると、やがて泣き出しそうになって、溢れそうになる激情を溜息をついて押し隠すと、勇者の剣を再び鞘に納める。
そのまま鞘ごと勇者の剣を自分が出てきた入り口の扉に立てかけ、その場にしゃがみ込み、手で顔を覆った。
(子ども相手に、何しようとしてるのよ、私)
思わず自嘲が漏れる。
いくら魔族だろうと、憎い敵だろうと、子どもにまで罪があるはずが無い。それに第一、この村の人間が直接的に美咲に害を加えたと言うわけでもない。むしろ、状況から見て、逆に美咲を助けたと言えるだろう。
今美咲が行おうとしたのは、紛うことなき八つ当たりだ。しかも、全く関係なく罪などあろうはずもない、子どもを対象とした、最低最悪の。
自分の顔から手をどけた美咲は、しゃがんで子どもたちと視線の高さを合わせたまま、できるだけ神妙な表情を浮かべ、二人に謝った。
「怖がらせて、ごめんね」
戸惑いを見せる子どもたちに、美咲は少し考えて、たどたどしく魔族語で言い直した。
「クゥオワェアゲレシィエチ、グゥオミィエンニ」
通じるかどうか不安だったものの、子どもたちの反応を見ると、上手く伝わったようだ。
美咲の魔族語を聞いて、子どもたち二人は、ぱっと表情を輝かせて、首を横に振る。
「アゥアン」
「コォイノソネェアオィヂィ」
男の子と女の子は、美咲が聞き取り易いように、ゆっくりと一字一字区切って言った。
普通に喋られていたら、拙い美咲のヒアリング能力では聞き取れなかっただろう。
幸い、気遣いのおかげで、美咲は何とか聞き取ることに成功する。
「エァロォイゲェアツゥオアゥ。エァネェアテテトォイヘ、ノォインギィエンヌゥオワェアテソテトゥオ、テェアサァウキィエチカァウリテヌゥオニ」
つっかえつっかえ美咲が口にした文章は、どうやら間違っていなかったらしく、男の子と女の子は驚いた表情になると、あっという間にきらきらと好奇心で表情を輝かせた。
「ツゥオアゥジィエンデェアユ! デェアタゥチィエクゥオヌマァウレヘ、ノォインギィエンツゥオメェアズゥオカァウツクンキタゲコヨァアゥズンソツケカリサマ、ケェアカァウリィエゼツゥオデムヌ!」
「ガァウムゥオゲェ、エァネェアテテトォイゥオモォイタァウキィエチ、マァウレェアノォイソレシィエチカリテヌゥオユ!」
今度の長文はさすがに一度で完璧に聞き取るというわけにもいかず、美咲はところどころを聞き逃した。
それでも何とか聞き取ったところをつなぎ合わせて意味を拾う。
「う、うん? グモ?」
ここが何かの村で、そのおかげで美咲が受け入れられていることを理解した美咲は、自分を見つけたという発見者の名前を聞いて、思わず聞き返した。
もう、二度と聞くことはないだろうと思っていたゴブリンの名前だ。次に出会う時は敵同士だとばかり思っていたから、聞かない方がお互いのためだとも思っていた。
一回目の、ゴブリンの洞窟の探索で、美咲やルアン、ルフィミアに協力してくれて、最終的に美咲とルフィミアと合わせて三人で、脱出した後、行方が気になっていたけれども、まさかこんなところにいたとは思わず、美咲は目を丸くする。
「お姉ちゃーん!」
遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、美咲は反射的に遠くを見た。
ゲオ男とゲオ美に乗った、ミーヤとグモが、井戸端にいた魔族らしき女性たちと一緒にやってくるところだった。
一瞬ほっとした美咲だったが、すぐに表情を強張らせる。
目覚める前にはあんなにたくさんいた仲間たちが、ミーヤを除いて姿が見えず、美咲の下へ誰もやって来ない。
その事実が意味することは、おそらく一つしかないのだ。
即ち、全滅。
■ □ ■
魔族の女性たちや子どもたちが美咲に口々に声をかけてくれたものの、その内容が全く頭に入ってこないまま、美咲はミーヤとグモに連れられ、家の中へと戻っていた。
そんな時でも、とっさに美咲は戸口に置いておいた勇者の剣を回収して、再び剣帯に吊っていた。自然と戦いを意識した行動を取っていることに、美咲は自嘲する。
(今さら、こんなことしても……)
「お姉ちゃん、そこ、座って。今、お茶入れるから」
聞こえてきた日本語に、美咲は思わず顔を上げた。
いいや、日本語ではない。
よく見れば、ミーヤの額には、美咲のサークレットが嵌められている。
「……それ、ミーヤちゃんが持ってたんだ」
「ごめんなさい。ミーヤ、これがないと誰にも事情が話せないし、この村に着くまでお姉ちゃんを守ることも出来なかったから」
しょんぼりしてサークレットを外そうとしたミーヤを、美咲は押し留める。
「こっちこそごめんね、ミーヤちゃん。別に責めてるわけじゃないのよ。ありがとう、この村まで、私をミーヤちゃんが守ってくれてたんだね」
「うん。ミーヤ頑張ったよ。ドラゴンさんとも、いっぱいお話した」
おそらく、ろくに寝ていないのだろう。幼い顔に疲労を覗かせ、ミーヤがはにかんだ。
一歩下がって美咲とミーヤの様子を眺めていたグモが、美咲に話しかける。
「ゴブゴブゴブゴブ」
今はサークレットが無いので、グモが何を言っているのか分からず、美咲は困って苦笑を浮かべる。
代わりに、ミーヤが通訳をしてくれた。
「グモが、お久しぶりです、だって。お姉ちゃん、グモと知り合いだったんだね」
ミーヤが通訳をしたのを見て、グモは目を丸くすると、「しまった」といわんばかりに自分の禿頭を叩いた。
「ハァウイェヌゥオニィエゲェア、ワェアソォイゥオモトボオィチィエカァウリィエテェアンヂサ」
次いでグモの口から流れ出たのは、訛りが強いものの、間違いなく魔族語だった。
どうやら、ここで暮らしているうちに覚えたらしい。それとも、元々魔族語を喋る下地があったのか。ゴブリンは魔族と手を組んでいたのだし、どちらもありそうだ。
「ねえ、ミーヤちゃん。私が気絶してから、何があったのか、話してくれないかな」
目を見開いたミーヤは、心配そうに美咲を見つめた。
「多分お姉ちゃんにとっては、とても辛いことだよ。それでもいいの?」
薄く微笑んだ美咲は、緩く頭を振る。
「覚悟は、出来てる」
「そう。分かった」
頷いたミーヤは、淹れたお茶をそれぞれの前に置いて、自分もテーブルの席に着き、美咲に語り始めた。
アリシャが反対する美咲を気絶させ、一人で城門に残り、美咲たちを逃がしたこと。
必死にヴェリートの街中を駆け抜けた一行が、最後の最後で、外壁門の前まで来て魔王と名乗る魔族に脱出を阻まれたこと。
「魔王……? 魔王が現れたの!? 本当に!?」
美咲は思わず椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、前のめりになった。
「うん。本当に魔王かどうかは分からないけど、少なくとも自分ではそう名乗ってた。凄く強そうだったよ。実際に、戦えないシステリートとディアナ、それにタティマとミシェル、ベクラム、モットレーの四人以外が全員足止めに残ったくらいだから」
「そんなにたくさん……」
唇を噛み締め、美咲は激情を堪える。魔王を足止めした彼女たちは、おそらくは、もう。
「ドラゴンさんに乗って逃げることになったんだけど、ドラゴンさんの傷が酷くてラーダンまで飛べなくて、近くにあるドラゴンさんの巣に飛ぶことになったんだけど、、乗せられるのもミーヤとお姉ちゃんで限界だって言われて、システリートとディアナも結局その場に残ったの。ミーヤたちを乗せたドラゴンさんも、途中で力尽きてこの辺りに不時着しちゃって……」
「そっか……」
当時のことを思い出したのか、ぐすぐすと鼻を啜り始めるミーヤと同じように、美咲の涙腺も緩み出す。
せめて、自身が起きていれば。美咲はそう思わずにいられない。
楽観的な想像であることは百も承知だけれど、もしかしたら、今頃魔王を倒して、呪刻が消えていたかもしれなかったのに。
「そうだ。ミーヤちゃん、タティマさんたちはどうなったの?」
その質問に、ミーヤは何かを言いよどんだ。きゅっと小さな拳を握り、わなわなと震わせている。
「タゴサクおじちゃんは、外壁門のところで、皆と一緒に残って戦った。他の人たちは、その時に、ミーヤたちを見捨てて、逃げた」
「……そう、だったのね」
彼らは、美咲と格別親しかったわけではない。美咲がブランディールを倒してからは、あくまで義理で、タゴサクに付き合ってついてきてくれていただけだ。だから、いざという時に直前で逃げたからといって、責めることは出来ない。
けれども、思わずにはいられない。どうして戦ってくれなかったのか。戦ってくれていれば、全滅という結果にはならなかったかもしれないのに。
美咲は涙を堪え、宙を睨んだ。
(違う。意味のない仮定よ。そんなのは。私に、彼らを恨む資格なんてない)
誰だって、命は惜しい。誰だって、一番自分の命が大切だ。美咲自身がそうなのに、どうして同じ選択をした、他人を責めることが出来るだろう。
(ごめんなさい、皆。せっかく預かった命を、無駄にしてしまった。あなたたちを死なせたどころか、その死さえ、有効に使えなかった)
「う……ううううう……」
嗚咽が漏れるのを、美咲は押さえ切れない。
「うわあああああああああああ……!」
テーブルに突っ伏して、美咲は号泣した。