十七日目:死の都市から脱出せよ5
立ち塞がるその魔族は、巨大だった。
ただ単純に、姿形が大きいというわけではない。
勿論美咲よりは大きいし、その身体は巨躯と言って差し支えないほどで、よく鍛えられているが、それだけだ。常識の範疇を出ることはなく、大きさで言えば、ベルークギアのような大型魔物とは比べるべくもない。
ただ、今まで出会った敵とは雰囲気が違う。
感じる圧力が違う。
今まで出会ったブランディールやアズールといった、魔将と比べても一線を画するその重圧は、対峙するだけで彼女たちの身を竦ませる。
魔物たちに比べれば肉体の大きさこそ凡庸なものの、身に纏う雰囲気と発する圧力が尋常ではない。
「……何者ですか!?」
たまらず、セザリーが叫んだ。
矢を弓に番え、いつでも放てるように引き絞りながら、鳥肌で泡立つ肌の上を走る悪寒を無視して、美咲を背に庇うため、前に出ている。
自分たちが反応すらできない間に、セニミスが殺された。
その時点で、彼女たちの警戒心は最大にまで引き上げられている。
「我は魔王。魔族の王なり」
セザリーの誰何に答えた声は、地の底から沸き上がるマグマのような熱を伴っている。
しかし意外なことに、魔王は魔族語ではなく、わざわざ皆が理解できるベルアニア語を喋った。
「不思議そうな顔をしているな。お前たちが我らから言葉を盗んだのと同じことだ。不思議ではあるまい? 何の力も無い言葉だが、これが中々役に立つ」
異形の口から鋭い牙を除かせながら、魔王と名乗る魔族が笑った。
名乗りを聞いてセザリーたちの間に動揺が走る。
「マジ……? マジで、魔王なの?」
引き攣った笑いを漏らすテナの声は震えていた。無理もない。
テナの目は魔王と名乗った魔族と、セニミスの残骸との間で揺れていた。
そう。残骸。残骸なのだ。可愛らしかった顔も、いつもは不機嫌そうなのに、嬉しいことがあるとくるくるとよく動くようになる表情も、もうどこにもない。永遠に見えない。当たり前だ。上半身が無いのだから。
つい先ほどまで生きていた仲間が、一呼吸の間に、こんな無残な姿になった。その事実に、テナはどうしようもなく恐怖した。
こんなことをしてくる相手が、自分たちの敵として立ち塞がっている。
「虫けらに用はない。その人間の勇者を置いていけば、お前たちは見逃してやろう。だが、差し出さないというのなら、全員が此処で死ぬこととなる。良く考えることだ」
魔王の言葉は、美咲を守る女性陣と、タティマたち男性陣の間に、微妙な齟齬を生んだ。
「冗談じゃないですぅ! こっちはもう、仲間を一人殺されてるんですぅ!」
普段は頼りないように見えても、意外に肝が据わっていてやるときはやるのがイルマである。
恐怖を振り払い、イルマは魔王をにらみ付けた。
「そうよ。こんなところで、恐れてなんかいられない……!」
義妹に勇気付けられ、テナも歯を食いしばって正面目の前の魔王を睨む。
どの道美咲を見捨てる選択肢など取れるわけもないのだ。ならば戦うしかない。
「同感。それに、あたしたちが命惜しさに美咲を売ると思ったら大間違いよ」
絶世の美貌を怒りで歪め、ペローネが太股の鞘から大振りの短剣を抜いた。
彼女たちの中では一番容姿が優れているペローネは、怒りを露にしてすら美しさを損なっていない。
「気に入りませんわ。とても気に入りませんわ。このわたくしを雑兵のように扱うその言葉、後悔させて差し上げます」
歯軋りしながら、イルシャーナが加速の槍を構える。
目立つのが大好きなイルシャーナは、他の人間と一緒くたにされるのが大嫌いだった。
己と同じ境遇の女性たちと同様に、美咲にそう扱われるのならまだ我慢できる。イルシャーナにとって美咲は行き場の無かった自分を拾ってくれた恩人だし、美咲は自分たちが尽くせば尽くすほど、それに答えてくれるからだ。
「……言葉は要らない。ボクはあいつを殺したい」
双剣を抜き放ち、マリスもまた宣言する。
仲間が殺された。その事実だけで、マリスが激怒するのは十分だった。
走り出そうとする仲間たちを、ミシェーラが鋭い声で押し留めた。
「皆、落ち着いて。今の最善は美咲を此処から逃がすことよ。倒すことじゃない」
舌打ちをする音、息を飲む音、歯軋りをする音、武器を強く握り締める音。誰もが激発しそうになる感情を辛うじて堪えた。
誰もが怒りを溜め込み、それがいつ爆発してもおかしくないことを、己自身もそうであるが故に、ミシェーラは気付いている。
セニミスが殺されたということは、それだけ彼女たちに大きな衝撃を与えた。
死ぬ覚悟が出来ていなかったわけではない。そんなものは誰もがしている。だが、仲間の死を見る覚悟までは、まだ誰も出来ていなかった。
だからこそ、ミシェーラは物事の優先順位を思い出して、もう一度頭に叩き込む。
ここで怒りに任せてばらばらに仕掛けてしまっては、各個撃破されるだけ。戦うのなら、全員で連携を取って戦わなければならない。
同時に、美咲を安全圏に脱出させることも必要だ。それが出来なければ、自分たちが此処で戦う意味がない。
「絶対に、仇を取るのです」
冷静に魔王の隙を探りながらも、ニーチェの心は怒りで燃えていた。
同時に、美咲を生き残らせるためには、最悪美咲以外の全員がここで犠牲になる必要があるかもしれないと、人知れず覚悟を決めていた。
生き残れるかどうかは考えない。そんなものはもう関係ない。今此処で、全身全霊を以って魔王を殺すのだ。
そうすれば、美咲に身に刻まれた呪刻も消える。美咲は、元の世界に帰れるようになる。
「相手にゃ不足はねぇ。あたいはただ戦うだけだ」
闘志を漲らせて、ドーラニアはバトルアックスを構えた。
元からなのか、それともディアナによって調整を受けてからなのか、ドーラニアはどうも戦闘狂の気があるようだ。今も、セニミスを殺された事実が、戦いへの欲求を増大させる一因にしかなっていない。
怒っていないわけではない。ドーラニアにとっても、セニミスは仲間だった。
彼女の場合は、怒りが全て戦意に転化されている。
「此処で散るか、最後の決戦で散るか、そういう問題よね。美咲が離脱する以上、此処で散るわけにはいかないのだけれど。美咲さえ起きていてその気があるのなら、ここで勝負をかけるのも手だわ」
ユトラは冷静に状況を分析していた。
セニミスが殺されたことで感じた激情は、噴出する前に底へ沈められている。ユトラは努めて冷静でいられるよう、自分を戒めていた。
こういう時こそ、冷静な判断を下さなければならない。
怒りに目が眩んで、取れたはずの選択肢を見逃すなど、ユトラはごめんだ。
とはいえ、このままでは正直言って勝算が低いのも事実。魔王の実力は未知数だが、少なくとも魔将よりも弱いということはあるまい。おそらくは、最低でも蜥蜴魔将、死霊魔将、牛面魔将といった猛者たちと同程度。魔王という肩書きを考えるなら、それらより実力が上回っていても何もおかしくはない。
「ねえ、美咲姉を盾にするのはどうかな? 少なくとも魔法は防げるよ」
ある意味、美咲を自分の命よりも大事に思っている彼女たちからしてみると、そのレトワの意見は禁じ手だった。
彼女たちがもっとも脅威に思っているのは魔法だ。魔法に長けた魔族たちの王なのだから、その魔法の威力は想像を絶するだろう。正直、どれくらい強いのかは想像もつかない。
誰も、その方法を思いつかなかったわけではない。わけではないが、すぐに選択肢から外していたのは事実だった。
何しろ、守るべき主を盾扱いするなど、色んな意味で本末転倒である。
「ちょっとさすがにそれはどうかと思う。いくら魔法が防げたって、物理的に攻撃されたら美咲が死ぬ。それじゃ意味が無い」
普段は騒ぎを起こす側のアンネルもこれにはドン引きしたらしく、凄くまともな意見を発した。
もちろんアンネルとて時と場所くらい弁えているので、こんな状況で寝だしたりはしない。
いつでも幻影魔法を使えるように、油断無く魔王を見据えた。
「そっかー。じゃあ、レトワたちが命張るしかないね」
元から本当に美咲を盾にする気は無かったのだろう。
微笑んだレトワは、片手鎌を両手に二本構えて、魔王へ飛び掛かろうと戦闘態勢を取る。
その姿は、まるで引き絞られた弓のようだ。
「でも、セニミスがいないんじゃ、回復が……」
心配性なメイリフォアは、道具袋から魔法薬や傷薬を取り出して、数の心もとなさに泣きそうになった。
いまや、彼女たちの命脈を繋ぐのは、各自が持っている自作の薬しかないのだ。
生前にセニミスが魔法を込めて作った魔法薬と、自分たちで調合した傷薬。
どちらも、一人当たり一回使えば無くなってしまう程度の量しかない。
「戦いが始まったら美咲を連れて一目散に門を抜けろ。馬車に乗って、ラーダンを目指せ」
抜き放った刀を片手に魔王を注視しながら、早口で、アヤメが戦力としては数えられないシステリートとディアナ、そしてミーヤに、美咲を連れて逃げるように言う。
「み、皆はどうするんですか」
「まさか、あなたたち」
システリートとディアナが、発言の意図を察して、青くなる。
「ご安心ください。勝つのは無理でも、私達でそれくらいの時間は稼いでみせますから」
サナコが漂う悲壮感を隠して、にっこりと笑った。
「……お姉ちゃんは、皆の分まで絶対ミーヤたちが守るから」
恐怖を押し隠したサナコの笑顔を見てシステリートとディアナが何も言えなくなる中、ミーヤがくしゃくしゃに顔を歪めて泣くのを堪えながら約束する。
「悪いが、逃がさんよ。お前たち程度、足止めにすらならん!」
哄笑を上げた魔王がなんらかの魔法を唱えようとした瞬間、ドーラニアとアヤメ、タゴサクが魔王に飛び掛かり、遅れてイルシャーナ、マリス、ミシェーラ、ユトラ、ラピ、レトワ、サナコが駆け出し、飛び道具を持つセザリー、テナ、イルマ、ペローネ、ニーチェ、アンネル、メイリフォアが、己の武器を構えて攻撃態勢に入った。
同時に、ミーヤと美咲を乗せたペットたちと、システリート、ディアナが門の外に向けて駆け出す。
そして、タティマ、ミシェル、ベクラム、モットレーたちが、魔王ではなく、門の方に逃げ出した。
「悪いが俺たちはここまでだ! 魔王なんて出てこられて、これ以上付き合ってられるか!」
「ここでずらからせて貰うぜ! あばよ!」
「悪く思わないでくれよ。少なくとも、最低限の義理は果たしてるんだからさ!」
「命あっての物種でやんす!」
既に戦闘を開始していたので、誰も逃げ出した彼らを止められない。
「あっ! お前たちどこへ行くでござるか!」
ドーラニア、アヤメと連携しながら攻撃していたタゴサクが、逃げ出す仲間たちを見て魔王から注意を逸らし、叫んだ。
「馬鹿野郎! 余所見してんじゃねえ!」
一瞬動きが止まったタゴサクを魔王が見逃すはずもなく、岩のような拳がタゴサクを襲う。
寸前で割って入ったドーラニアに蹴り飛ばされて拳は軌道がずれ、あらぬ地面を抉った。
「かたじけないでござる!」
我に返ったタゴサクは、今は目の前のことに集中しなければと、逃げていった仲間たちを意識から追いやった。
そこへ遅れてイルシャーナたち近接組が戦闘に参戦する。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す、ですわ!」
加速の槍を持ったイルシャーナは、ただ最高速で動くのではなく、緩急を織り交ぜることによって、相手の虚を突く作戦に出る。
時に苛烈に、時に優雅に、槍を突き、振り回し、穂先で急所を狙ったかと思えば、手首を返して石突で顎を跳ね上げようとする。
その全てに、魔王は反応した。
外側の虚に惑わされることなく、内側の実を見抜いてその全てを受け切ってみせたのだ。
「温い!」
「なら次はボクだ!」
慌てて離脱を図るイルシャーナと入れ違いに、マリスが双剣を手に猛然と踏み込んだ。
イルシャーナが速度に秀でているのなら、マリスは手数に秀でているといえるだろう。両手の双剣から繰り出される連撃は、圧倒的な手数で以って魔王に襲い掛かる。
だが、魔王はそれらを避けようともしなかった。
マリスの攻撃は全て、魔王の固い肌に弾かれてしまう。
手数が多い代わりに、マリスの攻撃は一撃一撃が軽いのだ。人間が相手でも、相手が板金鎧を着ているだけで、マリスは狙える場所が限定される。肌がむき出しの場所か、鎧の繋ぎ目部分を攻撃するしかない。鎧を砕くほどの威力は無いのだ。
「力が足りんようだな!」
攻撃を意に介さず、魔王はマリスをその腕で捕らえようとする。
反射的に回避したマリスの予想以上に魔王の腕は伸びてきて、かわせないことを悟ったマリスの表情が歪む。
だが寸前で、魔王の腕が不自然に止まった。
「させないわ!」
「助かった! 恩に着るよ!」
ミシェーラが鞭を魔王の腕に巻き付け、ぎりぎりと引っ張って止めている。
その隙にマリスはさらに距離を取り、安全圏に脱出する。
「この隙に、ありったけの毒を叩き込んでやります!」
動きが止まった魔王に対して、ニーチェが飛び掛かる。
たくさんの毒草から抽出した、特製の毒だ。魔王に効くかどうかは未知数だけれども、試してみる価値はある。動きが鈍るだけでも御の字だ。
その毒を塗った暗器を、ニーチェは服の袖に仕込んでいた。
そして、暗器は魔王に届いた。
「やった! これなら……!」
毒の影響か、魔王の動きが止まる。
ニーチェは勝利を確信した。