十七日目:絡め取られた者7
しばらくして、ルフィミアが目を覚ました。
閉じ込められていたせいで悪臭が移り、彼女には悪いが少々臭う。
満足な食事を与えられていなかったのか、ルフィミアの身体は以前に出会った時よりも、いくらか細くなっているようだ。
「う……ここ、は……」
乾いた唇から、掠れた声が上がる。
うっすらと目を開けたルフィミアは、茫洋ととした瞳を彷徨わせると、美咲に目を向け、僅かに目を見開いた。
「……美咲ちゃん?」
「はい、そうです! 美咲です! 戻ってきました……! 私、蜥蜴魔将を倒して、それで……!」
美咲はまくし立てようとして言葉が詰まり、言いあぐねる。
言いたいことがたくさんあったのに、いざとなると感情ばかりが先行して言葉にならず、歯がゆい。
ところどころ言葉をつっかえさせながら、美咲はルフィミアは今までのことを語る。
ルフィミアを助けるために、強くなろうと誓ったこと。
そのために身体を鍛え、魔物と戦って経験を積んだこと。
仲間を揃え、たくさんの人たちの力を借りて、死闘の果てに、蜥蜴魔将を打ち破り、ルフィミアを助け出したこと。
事情を聞いたルフィミアは、美咲の頭をそっと撫でた。
長時間地下牢に閉じ込められていたせいなのか、ひんやりと氷のように冷たい手だったが、手が冷たい人は心が温かいという言葉を思い出し、美咲はそれが少しルフィミアらしいかもしれないと思った。
自ら美咲を助けるために、不利を承知で蜥蜴魔将との一騎討ちに望んだルフィミアの心が、温かくないわけがない。
「そう。そんなことがあったの。頑張ったわね」
微笑むルフィミアに優しい手つきで頭を撫でられ、美咲は自分の涙腺が緩んでくるのを感じた。
(諦めないで良かった。本当に良かった)
たとえ生存が絶望的でも、希望を失わずにいることができたからこそ、こうしてルフィミアを助け出すことができた。やはり、信じることが大切なのだ。
悪いことばかりではない。こうして、報われることだったある。
「ところで、今何時かしら」
撫でる手を止めたルフィミアは、ふと呟いた。
現在時刻が気になったようで、身じろぎをする。
「あ、無理はまだしないでください。体力だって落ちてるでしょうし」
美咲はルフィミアを制止し、窓に歩み寄り、外を覗く。
外は夕焼けに包まれつつあり、城の全景がよく見える。遠くのヴェリートの市街まで、見渡すことが出来た。
今、美咲とルフィミアがいるのは、普段は城主が暮らす場所である、居館の二階、右隣にある客用の寝室だ。
既に一度美咲たちが探索済みの部屋だが、その後で改めて傭兵たちが略奪をしたらしく、調度品が多数無くなっており、部屋は荒れていた。
それでもさすがにベッドは持ち出せなかったのか残っていて、そこにルフィミアを寝かせていたのである。
「えっと、正確に測ったわけじゃないですから誤差があると思いますけど、もうすぐ八レンドになると思います。七レンドの鐘が鳴ってから、もう結構経ってますから」
美咲は頭の中で自分が知る単位の時刻に直しながら答えた。
おそらく午後五時ごろくらいだと思うが、この世界の時間の計り方は大雑把かつ美咲が知る単位とはかなり違うのでややこしい。レンドはベルアニア語で時間を表す単語であるレンディアの変化形で、時を表す。
しかし、八レンドイコール八時にはならない。それは、同じ一時間でも、美咲の世界の一時間とベルアニアの一レンディアでは、経過する時間が全く違うためだ。美咲の世界では一時間は六十分であるが、ベルアニアにおいては、一レンディアは百四十分に相当する。この世界の一時間は、美咲の世界の二時間以上に相当するのである。
未だに主塔では略奪が続いている。しかしヴェリート市街や一部の城の施設では、早くも騎士団の騎士や兵士たちが城や街の機能を一部復旧させていた。
時間を知らせる鐘もその一つである。
「そう。もうそんなに経っているの」
現在時刻を知ったルフィミアは、そっと目を伏せた。
そんなルフィミアの様子を心配そうに見つめながらも、美咲は用事を思い出し、立てかけてあった杖を手に取り、ルフィミアに見せる。
「あ、そうだ。これ、この館で見つけたんです。ルフィミアさんのですよね?」
杖を見たルフィミアは一瞬眼を見張ると、視線を和ませて手を伸ばす。
手渡された杖を、ルフィミアは丁寧な手つきで検分する。
「ええ、確かに私が生前使っていた杖だわ」
おかしなルフィミアの表現に、美咲は思わず笑う。
「何言ってるんですか。ルフィミアさん、まだ生きてるじゃないですか」
「……そうね」
釣られるように自分も微笑んだルフィミアは、真剣な表情で美咲を見た。
「悪いことは言わないわ。今すぐ荷物を纏めて、私を置いて仲間たちと一緒にヴェリートから一刻も早く逃げなさい。今ならまだぎりぎりで間に合うから」
真剣であることは声音から伝わってくるものの、美咲にはルフィミアがそんなことを言う理由が分からない。
それでも意味もなくルフィミアがそんなことを言うとは美咲には思えなかったので、正直に尋ねてみることにした。
「ごめんなさい。ルフィミアさんが言っていることの意味が、理解できないので、教えてもらえますか。蜥蜴魔将は倒したし、魔族兵やゴブリンたちも逃げ去った後なのに、何の危険があるっていうんです?」
質問に答えず、その代わりにルフィミアは曖昧に微笑んだ。
力の無い微笑みは、美咲の知る彼女らしくない。
ずっと一緒にいたわけではないけれど、それでもゴブリンの洞窟にいる間と、ヴェリートに滞在していた間、美咲は一日以上ルフィミアと一緒にいた。
それに、ルフィミアは美咲の魔王討伐の旅に協力すると約束してくれていた。美咲にとって、もはやルフィミアは仲間同然なのだ。
「私の口からは言えないの。でも、このまま留まっていると、絶対に悪いことが起きるわ」
理由は言えずとも、ルフィミアが美咲に逃げることを勧める態度は真摯で、美咲を騙そうとするような暗い意思は微塵も感じられない。
「……じゃあ、ルフィミアさんも逃げましょう。ルフィミアさんを置いていけるわけないじゃないですか。折角助けられたのに、また見捨てるようなことを私にしろっていうんですか。私、そんなことはもう二度としたくないです」
訴える美咲に、ルフィミアは辛抱強く語りかけた。
「それでは、意味がないのよ。私は既に囚われている。ねえ、美咲ちゃん、私とここで出会ったことは忘れて、悪いことは言わないから逃げなさい。あの戦いで、私は死んだ。それは紛れも無い事実なのよ。現実から目を背けてはいけないわ」
真剣な表情で美咲を見つめるルフィミアは、美咲の記憶にある彼女と全く変わっていない。
姉御肌で、一見すると現実的なようでいて、根っこの部分ではお人よしな彼女と。
そして、ルフィミア自身も、自分らしくあろうと努力している。
だからこそ、美咲は彼女の言うことに頷けなかった。
「何を言ってるんですか。ルフィミアさんは私の目の前で、生きてるじゃないですか。だったら、今目の前にいるルフィミアさんは何なんですか。こうして、言葉だってかわせるのに」
反論する美咲に対して、何かを口にしようとしたルフィミアが、弾かれたように止まって俯く。
ルフィミアの顔から表情が抜け落ちた。
「……ルフィミアさん?」
怪訝に思った美咲が恐る恐る声をかけると、ルフィミアはまた思い出したように身動ぎし、美咲へと振り向く。
「あら、なんのこと?」
反応が不自然で、美咲はぎょっとして真正面からまじまじとルフィミアを見た。
先ほどまで美咲に去れと言っていたルフィミアは、深刻そうだった表情が嘘のようにニコリと微笑んでいる。
まるで出会った頃のように明るい声と態度で、それがかえって美咲を困惑させた。
当時ならばまだ理解できた。その時はまだルフィミアのパーティメンバーだって健在だったし、衰弱もしていなかった。
だが、今は違う。
目覚めてから、これまで話した僅かな時間でさえ、彼女は辛そうだった。おそらくは、身体の調子が良くないのだろう。怪我だってしていたかもしれない。もしかしたら、怪我したまま放っておかれて傷口が悪化している可能性もある。
「え? え?」
突然の変わり身についていけていない美咲が混乱していると、笑顔を浮かべたままルフィミアが言う。
「今日は城に泊まるといいわ。もうすぐ日が暮れるし、今から外に出るなんて危ないもの。ゆっくり休んで、明日出発すればいいじゃない。ねえ、そうしましょうよ」
不思議なことに、ルフィミアは先ほどとは全く正反対のことを言い始めた。
深刻そうに、何としてでも美咲を帰らせるのだと言いたそうだった表情は、たちまち真意が読めない微笑みで覆われてしまい、美咲を戸惑わせる。
どこかで、その微笑みと同じものを見たことがある気がした。だが、美咲にはそれが何か分からない。
分からないまま、美咲は感じた違和感を気のせいで片付け笑い飛ばした。
せっかく再会できたのだ。現にルフィミアが目の前に居て、笑っている。それで良いではないか。
「もー、何言ってるんですか、ルフィミアさんってば。結局どっちなんですかもう」
胸をよぎった一抹の不安を払拭すべく、美咲は笑いながらルフィミアの肩を叩こうとした。
「良かったら、日が暮れるまで休んでなさいな。疲れてるでしょ? 私ももう休むから」
言いながら、ルフィミアはさりげなく美咲の手をかわした。
思わず凍りつく美咲を他所に、ルフィミアはベッドに横になって目を閉じた。どうやら寝入ったようだ。まるで死んだように眠っている。もしかしたら、ルフィミアも軟禁生活で疲労しているのかもしれない。何せ、別れてから、もう一週間以上経っているのだ。
眠ったのを邪魔するわけにもいかず、仕方ないので美咲はルフィミアを置いて外に出る。
疑問が胸を過ぎった。
(……ルフィミアさん、どうして触られるのを嫌がったんだろう。ルフィミアさんを運び出す時に、もう散々触れてるのに)
扉を背に、美咲は胸を押さえる。
胸中に不安がわだかまるのを感じていた。