五日目:信頼の重み、人との繋がり5
複数の火が焚かれて辺りは昼間のように明るくなっており、行き交う人の顔は皆明るい。
全員が旅をしている身であるから、誰も彼もが薄汚れていて、それなりに異臭を放っている人物もいる。
しかし、それ以上にあちこちから漂う食べ物の匂いが、美咲の食欲を刺激している。
実は先ほどから、そのせいで口内に唾液が分泌されっ放しで、何度か美咲は唾液を飲み下している。
自分のものとはいえ、唾液を飲むのはちょっと嫌だけれど、だからといって地面に痰を吐くのも気が引ける。美咲の世界ではマナー違反だし、この世界でもおそらくいい顔はされない。
それよりも、特筆すべきは、人々の陽気さだった。
魔族との戦争が続くこのご時勢なのだから、皆それなりに辛い出来事を経験しているに違いないのに、皆悲しいことなど今は何も無いかのように浮かれ、騒いでいる。
お祭りのような熱気を感じて、美咲の気持ちも高ぶってきた。
(すごい。人がいっぱいいて、皆が料理を振る舞い合ってる)
一人で他人の輪に混ざりに行くというのはこの世界に来てから初めての経験で、美咲は高鳴る胸を押さえる。
別に他人とのコミュニケーションが苦手というわけではない美咲は、ごく自然に人々の中に混じり、作られている料理の数々を見定める。
(どれにしよう。迷っちゃうよ)
美咲たちが作ったのと同じスープ類だけでも、いわゆる鍋のようなものや、ポタージュに近いものなど、様々な種類があった。
スープ類はやはり料理の定番なのか、色んな旅人が、入れ替わり立ち代り彼らの下を訪れては、スープを注いで貰っている。
アリシャもその中の一人で、特にアリシャ渾身の特製スープは大盛況振りを見せている。
(わ、凄い人気。……もっと味見しておけば良かったかなぁ)
人だかりに囲まれていて見えなくなったアリシャの姿に、美咲は苦笑する。あれではきっとアリシャは対応にてんてこ舞いになっているだろう。自分たちの分も残らないに違いない。
(うん、アリシャさんのためにも、目移りばっかりしてないで、しっかり私たちのお夕飯、確保しないと)
よし、と決意を新たにして美咲は歩き出し、三歩も立たないうちに薫る良い匂いにふらふらと引き寄せられていった。
挫けるのが早すぎである。
(無理無理。こんなに美味しそうなんだもの。もうちょっと見て回ろう)
即堕ちした美咲は散策を続行する。
他のところでは串に刺して塩を振った魚や肉が焚き火の傍で炙られている。じゅうじゅうと音を立てて肉汁が滴る様はいかにも美味しそうだ。
簡素な焼き物だが、それがまた素朴で良い味わいのように美咲は思える。別に焼肉も焼き魚も元の世界では食べ慣れた料理といえるが、空の下で、しかも串に刺して焚き火で調理されたものはまた違う。野外料理の味、もっと具体的にいえば、キャンプの味に近いに違いない。
(そういえば、家で普通にお母さんが作るカレーと、お母さんと一緒にキャンプで作ったカレーも違ったなぁ。材料は一緒なのに、何が違ったんだろ)
懐かしい記憶を思い出し、少し美咲は感傷に浸る。回りが陽気なので、いつものように過度に落ち込むことにはならないのが、有り難い。普段ならば胸が締め付けられるくらい懐かしい思い出も、穏やかに思い出すことができる。
(あ、こっちも美味しそう)
また別の場所では、家族らしき集団が葉で包んだ肉や野菜を蒸し焼きにしており、来た人たちに一包みずつ配っていた。
肉はあちこちで調理されているので真新しさはないものの、蒸し野菜を提供しているのはこの家族だけのようで、それなりに賑わっている。
名前は分からないが、緑黄色野菜らしき色合いの野菜の数々が、蒸されたことによってさらに鮮やかに色付き、湯気を立てている。
元の世界でも蒸し野菜は野菜の旨みが凝縮されて云々という話を美咲は聞いた覚えがあるので、味には期待できそうだ。
(目移りしちゃうよ)
美咲はどれも美味しそうで、嬉しい悲鳴を上げたい気持ちだった。
何かの芋を焚き火の中で焼き芋のように焼いている商人風の者に、美咲は思わず目が吸い寄せられる。
その芋は、色がサツマイモによく似ていた。紫色の芋はサツマイモそのものだ。だが、形はむしろジャガイモに似ていて、丸っこい。
「お嬢ちゃん、良かったら一つどうだい」
見られているのに気付いた商人が、美咲を呼んで芋を差し出してきた。
恐縮して、美咲は芋を受け取る。
一口齧って、美咲は呆然とした。
「甘い……とろける」
口の中で、芋の甘みが溢れた。
サツマイモなど、この芋に比べれば家畜の餌も同然だ。
例えるなら、丁寧に蒸した高級なサツマイモの甘みに、さらに生クリームとカスタードクリームを加えたような味。
芋のはずなのに、何故かクリーミーな味がする。しかも凄く濃厚で甘い。
でんぷんが凄く豊富に含まれているのか、皮の上から少し強く握るだけで潰れるくらい芋は柔らかく、それこそちょっと固めのクリームのようだ。
砂糖が使われているわけでもないのに、糖度を図れば常識外の数値が出そうである。
たちまち食べ尽くした美咲は、ほうと感嘆の溜息をついた。
「美味しかったです。とても」
「それは良かった」
商人の下を去り、美咲が次に向かった先には、パンに瓶から取り出した果物のジャムを塗りつけて配っている、旅装でもひと目で貴族と分かる格好の者たちがいた。
「良かったら貴女も一ついかが? 芋などよりよほど美味しいですよ」
どうやら美咲芋を食べているのを見ていたらしく、貴族の女性が美咲に声をかけてくる。
美咲よりはいくらか年上のように思える女性だ。もっとも、人種の違いがあるから、あまり見た目の年齢というのは分かり辛い。世界が違えばなおさらだろう。もしかすると、意外と若いのかもしれない。
「ほら、どうぞ、遠慮なさらずに」
恐縮する美咲に、女性はにこりと微笑んで切り分けたパンの断面にたっぷりとジャムを塗りつけ、美咲に渡してきた。
「ふおおお……おいひい……」
天にも昇る心地になりながら、美咲はジャム乗せパンを味わって食べる。
元の世界の既製品のパンとはパン自体が違い、少し固めに焼かれていながらも、ふっくら仕上げられた白パンは、美咲の世界で結婚式などで出されてもいてもおかしくない上質なものだ。
そしてそのパンに塗られているジャムも、ふんだんに使われた砂糖の甘さが美咲をとろけさせた。
スーパーで瓶詰めされて売っていたようなジャムにはない、手作り感のあるジャムは、十分な甘みがありながら、甘過ぎて胸焼けを起こすようなことがなく、ちょうど良い甘さだった。
先ほどの芋といい、ジャムといい、この世界の甘味は意外と馬鹿に出来ないようだ。
そして驚くべきは、いかにも貴族的な格好をしていたものたちも、今だけは集団の中に進んで溶け込んでいることだった。
今も、先ほどの貴族の女性が、草臥れた風体の旅人にジャムを塗ったパンを勧めている。
「どう? 美味しいでしょう。今日は無礼講ですわ。ほら、お代わりはいかが?」
彼らは皆違う身分でありながら、この時ばかりは身分差など気にせず陽気に振舞い食べ物を分け合っていた。
美咲も例外ではなく、あちこち練り歩くたびに、美咲が持つ空の椀にスープが注がれ、皿にはパンが置かれ、そのパンにバターとジャムが塗られ、こんもりと茹でた野菜を盛られ、焼き魚が鎮座し、多種多様の肉料理が山のように積み上げられた。
初めて、美咲は自分がウェイトレスのバイト経験があったことに感謝した。
その経験が無ければ、美咲の手からはとうに料理が零れ落ちていただろう。
「おお、お嬢ちゃん、こっち! こっちだ!」
自分を呼ぶ声に振り向けば、美咲に手招きをする見覚えのある男の姿があった。
始めに、自分たちのところに来た男である。
「スープの礼だ、そら持っていけ!」
誘われるがままに近寄ると、どさどさどさとソーセージが皿に詰まれた。
切り目を入れられたソーセージは焼かれて皮が弾けそうになっていて、肉汁が滴り食欲をそそる匂いが漂っている。
鼻腔を刺激する香りは香辛料だろう。しっかり味を利かせているのが香辛料の強い匂いで分かる。この世界では香辛料は貴重で高価なようだから、かなり材料費も手間隙も両方掛かっていそうだ。こんなもの、美味しくないわけがない。相変わらず本人の臭いは凄いが。
「あ、ありがとうございます!」
山のように料理が積まれた皿と椀と酒が注がれた杯を、いわゆるウェイトレス運びで危なげなく颯爽と運んで歩く美咲を見て、回りの人間が驚きどよめいて拍手喝采した。
アリシャのところに戻ると、ニヤニヤ笑いの彼女に迎えられる。
「いやぁ、大人気だね」
どこか釈然としない思いで、美咲は椀と皿と杯を一つずつアリシャに渡した。
「何だが、体よく面倒事を押し付けられた気が……私が困ってたの見て楽しんでません?」
「気のせいさ」
そっぽを向いたアリシャの横顔は不自然に時折痙攣している。
(楽しんでる。絶対楽しんでる)
美咲はジト目でアリシャを見つめた。
痙攣が収まって顔の向きを正面に戻したアリシャは、取り繕うかのように美咲が持ってきた料理を解説し始める。
「この酒はビレージュ酒だね。ビレージュは知ってるかい? この辺りで取れる果物なんだけど、こうやって酒にすると子供でも飲み易い甘口の酒になるんだよ。この魚はヴァリオゲッツィだね。奇麗な水の川や湖なら割とどこにでもいる魚だけど、干物じゃないってことはわざわざ釣ってきたのかな。この肉料理はアリシエーテっていってね、肉もそうだけど、かかってるソースがまた美味いんだ」
残念ながら、美咲の脳味噌はそんなに優秀ではないので、アリシャがしてくれたせっかくの説明のほとんどを右から左に聞き流した。
(そんなに一度にいっぱい言われても覚え切れませんって……)
とりあえず、ビレージュとヴァリオゲッツィとアリシエーテという固有名詞だけ覚える。
お店で料理を注文する時に役に立つかもしれない。
(あれ? どれがお酒で肉料理で、魚だったっけ?)
割と駄目そうだった。
二人で豪勢な食事を取る間も旅納めの宴は続く。
やがて酒が入って酔っ払った人間同士が肩を組んで踊りだし、それを囃し立てる人間が現れる。
旅の吟遊詩人が唄を歌い、芸人一座が即興で芸を披露する。
しばらくその光景を楽しそうに見ていた美咲だったが、夜が更けていくとさすがに眠くなってきた。
目蓋が重そうな美咲の様子に気付いたアリシャが、美咲の肩を軽く揺らした。
「眠いなら寝な。これだけ火を焚いてりゃごろ寝したって死にやしないさ」
ふにゅう、と意味不明な声を漏らした美咲はこてんとその場に倒れた。その拍子に、つけていた美咲のサークレットがずれる。途端に元の大きさに戻ったサークレットは美咲の額からずり落ちた。
サークレットが外れたことに、美咲は気付かない。どうやら酒が入っていたこともあり、寝入ってしまったらしい。
本能からか器用にマントに包まりすぴすぴと可愛らしく寝息を立てる美咲に、アリシャが苦笑して杯を傾けた。
「……うん、甘い酒もたまには悪くないねぇ」
アリシャは皿に残っている肉とネギに似た野菜の串焼きを一本掴む。
「ゾォイュオアゥゲェア アゥタァウレェアネオィユゥオアノォイ ソォイネェアオィツゥ」
優しい目で美咲の寝顔を見ながら、アリシャは何事か呟き串焼きを頬張っていく。
宴は深夜まで続き、やがて夜が明けた。
■ □ ■
美咲が目が覚めると、辺りは死屍累々の地獄と化していた。
あれだけあった料理はほとんどが空になり、辺りには串焼きの串や蒸し物に使った葉っぱなどのゴミが散らばっている。
先に目が覚めていたらしい人たちは既に動き出していて、自分が散らかした分の片付けをしていたり、手を止めてお喋りに花を咲かせてたりしている。
その一方で、二日酔いになった男たちのこの世の者とは思えないうめき声や、旅でついた汚れによる何ともいえない体臭が、食べ物の残り香と交じり合ってすごいことになっていた。
隣を見ればアリシャまでもがどこから強奪してきたのか酒瓶を抱えて寝転がり、高鼾をかいている。
普段の表情と比べ、不思議とその表情は幼い。
どうして自分の部屋じゃないのかと不思議に思った美咲は、ようやく昨夜の宴を思い出して微笑した。
「……楽しかったな」
誰ともなしに独りつぶやく。
魔王を倒し、この世界から帰ることを諦めるつもりは毛頭ないけれど、美咲は少しだけこの世界のことが好きになれた気がした。
頭を軽く振って感傷を追い払うと、美咲は大きく伸びをする。
気持ちを切り替えて、アリシャを起こしにかかった。
「アリシャさん、朝ですよー!」
「アゥアン? ネェアンデ、ムゥオアゥ エァセェアネヌゥオケオィ」
「へっ!?」
意外なことに、美咲が苦労することなくあっさりとアリシャは目を覚ました。
旅慣れているだけあって、限られた時間の中でうまく睡眠を取る術を良く知っている。
だが、アリシャの口から謎の言語が漏れ出てきたことに美咲は驚き、慌てて自分の額を弄った。
(げっ。サークレット、どこ行ったの?)
泣きそうになりながら美咲が足元の地面に這い蹲ると、美咲の目の前にアリシャが何かをひょこひょこと突き出してみせる。
「フゥオリィ」
それは、美咲のサークレットだった。どうやらアリシャが拾っておいてくれたらしい。
「あ、ありがとうございます」
ホッとした美咲は、安心してサークレットをつけ直した。これが無ければ、美咲は異世界でろくに意思疎通ができなくなってしまう。
「ちょっと馬車まで行って水を汲んできてくれ。私はここの片付けをしとくから」
「はーい」
再び日本語に翻訳されるようになったアリシャの言葉に元気よく返事を返して、美咲は昨日水を入れた桶を持って馬車に戻り、昨日のように水瓶から水を汲む。
桶を運びながら、美咲は自分の胸が弾むのを抑えられなかった。
色々あったけれど、こうして無事ラーダンに辿り着けたのだ。
(元の世界に帰るのだって不可能じゃない。ううん、絶対に帰ってみせる)
桶の持ち手を握る美咲の手に力が篭もった。
美咲の命が尽きるまで、あと二十五日。