五日目:信頼の重み、人との繋がり4
台車に木箱を二つ載せて転がしてきた美咲を、アリシャが出迎える。
「お疲れ。手間かけさせて悪かったね」
「いえ、これくらい、なんでもありま、せん」
そのまま運ぶよりかはよほど楽だが、重いものを乗せた台車はそれなりに重い。
運び終わった美咲は膝に手をついて肩で息をしていた。
馬車の中で探しているうちにアリシャは竈の準備を終えていたらしく、火をいつでも熾せる状態になっている。
「何を作るんですか?」
好奇心から、美咲はアリシャに尋ねてみる。
「ん? スープだよ。やっぱりそれがないとパンが食えないからねぇ」
「えー」
旅の料理といえばスープは定番で、この数日間だけでも結構な回数を食べている美咲は、露骨にがっかりした。
もうちょっとこう、手が込んだ料理でもいいんじゃないかと思う。
不満げな美咲にアリシャは苦笑する。
「まあそう残念がるな。残ってる干し野菜は全部使うし、取って置きがあるんだ」
「取って置き、ですか?」
きょとんとする美咲に、アリシャは自信満々に野菜箱からある野菜を取り出した。
野菜というより、見た目はただの干からびた葉っぱである。
正直美咲には野菜には見えなかったのだが、こう見えてもちゃんとした野菜らしい。
「ちょっと食ってみな」
少し千切った欠片を差し出されて、美咲は躊躇する。
「これをですか?」
「まあ、騙されたと思って」
ほらほら、と急かされて仕方なく美咲はその葉っぱの欠片を口に入れ、噛み潰した。
瞬間口の中に広がる、独特のくしゃみが出そうな辛味。
「こ、こ、『胡椒』だー!」
美咲はあまりの衝撃に、思わずその場で絶叫した。
予想以上の反応に意表を突かれたか、ぎょっとした様子のアリシャに、美咲は唾を飛ばさんばかりに詰め寄る。
興奮するあまり、胡椒という言葉が翻訳されていないことにも頭が回っていない様子だ。
「ど、どうしたんですかこれ! どうしてただの葉っぱから『胡椒』の味がするんですか!?」
「まあまあ、落ち着いて。『胡椒』ってのがどんなものかは知らないけど、これが何かは説明するから」
どうどう、と両手の平を前に出してアリシャは美咲を宥める。
我に返った美咲は、醜態を晒したことに真っ赤になった。
「すみません、取り乱しました……」
もじもじする美咲にくすりと笑みを漏らしたアリシャは、その葉っぱが何なのか、美咲に教え始める。
「これはエルブグランの葉だよ。エルブグランっていうのは木の一種で、海の向こうの、ここよりずっと南の土地でしか育たない木なんだ。この葉を磨り潰すとなんともいえない辛味と香りが出てね、料理の味付けや食材の保存に最適なのさ」
話を聞いて、美咲はますます確信を強める。
(やっぱり、胡椒そっくり……)
実ではなくて葉である辺り、完全に一致するというわけではないが、美咲の知る胡椒とかなりの共通点がある。
「ただ、手に入りにくい分高価でね。この葉っぱ一枚で五十レドもするんだ。質の良い物だと一ランデを越えることもある」
美咲はかつてエルナに教えてもらったこの世界の通貨単位を思い出し、計算する。
「えっと、確か一レドが銀貨一枚だから、五十レドは銀貨五十枚。一ランデは金貨一枚で、銀貨百枚と等しくて、銅貨一枚が約百円だから……安くても五十万円!? 高いと百万円突破!? 葉っぱ一枚で!? ええええええ!?」
現代通貨まで直してようやく価値の重さを正しく把握した美咲は、その高価さに度肝を抜かれる。
アリシャは翻訳されなかった聞きなれない単語に興味を持ったようだった。
「円? 円っていうのが美咲の世界の通貨単位なのかい?」
「え、あ、はい。そうです」
肯定しながらも、美咲は己の額を覆うサークレットについて思考を巡らす。
(日本の通貨単位だから、翻訳されずにそのままの発音が伝わったのかな?)
通貨単位という概念自体は存在するから、それが通貨単位だということは伝わるけれども、発音の意味までは翻訳されないのかもしれない。
よく考えたら当たり前だ。円は丸という意味でもあるから、通貨単位の本来の意味まで翻訳されてしまったらおかしなことになってしまう。
(だとしたら、レドとかペラダとかもこの世界の言葉の発音そのものなのかな。そう考えるとちょっと面白いかも)
美咲は勢い込んでアリシャに尋ねた。
「これ、どうやって料理に使うんですか?」
アリシャはにやりと笑って答える。
「揉んで磨り潰すのさ。生の葉だと汁から植物特有の苦味だとかえぐさが混じるから美味しくないけど、こうやって干したエルブグランの葉を磨り潰せば、それらを極力抑えて葉そのものの辛さだけを取り出せるんだ。これでスープを塩と一緒に味付けする。美味いぞ」
「おおおお……」
ずっと僅かな塩ばかりの味付けに辟易していた美咲は、また今にも踊りださんばかりの様子で目をキラキラさせている。
「よし、じゃあさっそく作ろうか。美咲、悪いけど馬車に戻って今度は水を桶一杯分持ってきてくれ。私はその間に調理台を組み立てて準備しておくから」
「はいはいはーい!」
元気よく手を上げて返事をすると、美咲は馬車に引き返し、安置された水瓶から桶に水を汲む。
蛇口を捻ればいつでも水が使えた美咲の世界とは違って、この世界では水が欲しければ井戸を探すか、川や泉などの水場を探すしかなく、総じて水は貴重だ。
さらにいえば川などから汲んだ水の場合、そのまま飲むと腹を壊すこともあるので、煮沸消毒が欠かせない。
水を汲み終わった美咲は、「よいしょ」と掛け声を上げて踏ん張り、水を湛えた桶を持ち上げる。
所詮は木製の桶なのでそれほど重さがあるわけではないが、それでもたっぷり水が入っているだけあって、非力な美咲には結構な重さだ。
持って行った先では、アリシャが既に竈の近くに調理台を組み立て終えて待っていた。
さすがに仕事が速い。
「ご苦労様。じゃあ台の横に置いて」
指示通りに美咲が置いた桶からアリシャは柄杓で水をすくい上げる。
台の金属で作られた深い窪みに注ぎ、何度か繰り返して窪みが一杯になると、台の金属部分が竈の上に来るようにし、竈に火を入れた。
沸騰するのを待つ間に、干し野菜をざっくり一口大の大きさに切っていく。
そこまで見てようやく美咲は気がついた。
この調理台は、面白いことに鍋やフライパン、鉄板などの機能が全て一体化しているらしい。
イメージとしては、ガスコンロなどに直接調理器具が埋め込まれている感じだ。
一番深い窪みはスープやシチューなどの汁気の多い物に、中くらいの窪みは炒め物や揚げ物などに、浅い窪みは鉄板のように肉や野菜を焼くことに適している。
薪などの燃料の取り出し口には小さな扉が付いて開閉できるようになっており、充分に竈を加熱したあと、高熱の炭を押し退けて開いたスペースに材料を置けばオーブンとしても使えるようだ。
ところどころに木も使われていて、熱伝導についても対策されているようである。
「こ、これ、もしかしてお菓子とか作れたりします?」
「ん? そうだね。砂糖が高価だから貴族とかの裕福な家柄じゃないと滅多に口にする機会は無いし、そもそも作り方なんて知らないけど、大抵の焼き菓子はこれで作れるんじゃないかな」
「ふおおお……!」
異世界に召喚されてからというもの、スープに硬いパンという食事から大体の一般的な食糧事情を察していた美咲は、現代のような菓子を食べるのは無理だと思っていた。
女子高生の端くれとして、美咲も甘い物は割りと好きだった。
食べ過ぎて太るのは嫌だったのでカロリーには気をつけてほどほどにしていたが、それでも全く手をつけないわけではない。
お菓子を食べることが好きだったのでそのうち作ることにも傾倒し始め、今ではクッキーなどの簡単な物からプリンやパイにケーキなど割と何でも作れる。
いくつかはレシピを諳んじることができるくらい作り込んでいるので、材料があればこの世界で再現することは不可能ではないだろう。
もっとも、現代人の美咲に竈の火の調節なんてできるはずもないので、火の管理はアリシャに手伝ってもらわなければならないだろうが。
頬を紅葉のように紅潮させて喜ぶ美咲の様子に、アリシャは目を丸くする。
「もしかして、美咲は菓子を作りたいのかい? レシピは貴族お抱えの菓子職人たちが抱え込んでるから難しいと思うけど」
「レシピならいくつか知ってます。材料が高いのは仕方ないですし、今はそれどころじゃないことも分かってますけど、やっぱり懐かしくて」
「レ、レシピを知ってる!? 本当かい!?」
思いがけず話に食いついてきたアリシャに、美咲は思わず仰け反った。
「あ、はい。種類はそんなに多くないですけど……」
「凄いな。美咲がいた世界は菓子職人がレシピを一般に公開しているのか」
呆気に取られた様子のアリシャを見て、逆に美咲が驚く。
「この世界では違うんですか?」
アリシャは皮肉げに肩を竦める。
「そもそも菓子自体が贅沢品なのさ。貴族が抱える菓子職人ともなれば、一種の特権階級だよ。菓子職人自身が貴族出身であることも多い。貴族でなくとも裕福な家庭であることがほとんどだ。裕福でないと菓子を作るための材料が手に入らないからね。レシピをより洗練させるためにも練習は必要だから、その材料もいるし」
美咲はがっかりした。
作る設備とレシピがあっても、材料が手に入らないのでは作りようがない。
「で、美咲は材料があれば作れるのかい?」
「ええ。ただ私では細かい温度調節はできないと思うのでアリシャさんにお願いすることになりますけど」
「温度調節はまあ私でもできると思うけど、私と美咲じゃ温度を表す単位が違うと思うよ?」
美咲は腰に手を当て、鼻の穴を自慢げに膨らませた。
「私の家のオーブン、古すぎて温度計が壊れてたので、目で温度を測ってたんです。なので調節する度に私が説明して確認します」
「ふむ。なら大丈夫そうかな」
何が大丈夫そうなのかと首を傾げる美咲に、アリシャは話題をばっさり切って会話を戻させる。
「とりあえずお菓子の話はまた今度にして、今はスープ作りの続きをしよう。美咲は残ってる私の干し肉をこの包丁で削ってくれ。全部削っちゃって良いから」
「分かりました」
頷き、美咲は干し肉を取り出してアリシャが調理台に置いた包丁で削る。
干し肉は水やお湯で戻した後でも硬いが、戻す前はさらに硬い。
苦労するのを覚悟していたが、アリシャの包丁は結構な値打ち物らしく、さほど苦労せずにすぱすぱ削れてしまった。
「凄い切れ味いいですね、この包丁」
「だろ? 私の愛用品なのさ。切り終ったら残った骨を入れてくれ」
この世界の人間からすると、無駄に思えるアリシャの指示を聞いた美咲は、ピンときた。伊達に日本人ではないのだ。
「出汁を取るんですね、分かります」
「分かるのかい? 骨を最初に煮込むと、普段より格段にスープが美味くなるんだ。私が見つけたことだから、まだ私しか知らない。他の奴らには教えるなよ」
「骨を湯通しして洗って、煮込んでる途中に浮かんでくる白い泡みたいなものを取ると、さらに美味しくなりますよ」
美咲とアリシャは視線を交わし、お互いにあくどい笑みを浮かべた。
例えるなら「越後屋、お主も悪よのう」「いえいえ、お代官様こそ」みたいな感じである。
出来上がったスープは大きめの肉と野菜がゴロゴロしていて具の方が多く、スープというよりもポトフに近かった。
胡椒の味がする葉っぱは細かく揉み潰して粉末状にしてから投入したので、もう影も形もない。
それでいてしっかりと全体に胡椒のようなぴりっとした香辛料の味が利いている。
文句なしに美味しいと言える味だった。
「生きててよかった……」
味見をした美咲は今にも感涙にむせび泣きそうになっている。
その様子を見ていたアリシャが、いたずらを思いついた悪ガキのような表情でニヤリと笑った。
「美咲、回りを見てみな」
「え?」
言われた通りに首を巡らすと、いつの間にか食事の準備をしていた人々は、立ち上がって他人の食事を貰いに行く人たちと、それに対応して差し出された椀や皿に作った料理を座ったまま惜しみなく盛りつける人たちとに別れていた。
酒を振舞っている人もいるようで、赤ら顔になっている人も多い。
立ち歩いていた人の一人が座り込んでいる美咲とアリシャに気付き、囲んだ鍋の中身を覗き込んで持っていた椀を差し出してきた。
「おっ! こりゃまた美味そうなスープじゃないか。 分けてくれ!」
男は旅人のようで、髭もじゃの顔に伸ばし放題でぼさぼさの頭をしている。
まるで浮浪者のようで、何日も風呂に入っていないのか、近付かれるとむっとした異臭が漂ってくる。
思わず顔を顰めた美咲だったが、この世界ではごく当たり前の様相だったようで、アリシャはにこやかに
男の椀を預かった。
「いいところに目をつけたね。ぜひ食べてってくれよ」
アリシャが具沢山のスープを山盛りにして椀を男に返すと、男は嬉しそうな顔で椀を受け取る。
「俺のところではギッシュの腸詰を焼いてるんだ。良かったら来てくれよな!」
「ああ、連れを寄らさせてもらうよ」
お互い相好を崩してやり取りし、男は立ち去りアリシャは見送る。
真顔に戻ったアリシャは気がそぞろな様子の美咲に振り向いた。
「というわけで、美咲。この椀と杯と皿を二つずつ持って、持てるだけの食い物と酒を貰って来てくれ。それが私らの夕食だ」
ハッとして我に返った美咲はアリシャに問う。
「ええっと……アリシャさんは行かないんですか?」
「私はこれから来る奴らにスープを振舞わなきゃいけない。美咲がそっちの方がいいなら替わるけど、どうする?」
「……謹んで行って参ります!」
実は先ほどから、風に乗って回りの食欲を誘う匂いが風に乗って流れてきている。
興味が出ていた美咲は、これ幸いとアリシャから食器を受け取り、立ち上がった。