五日目:信頼の重み、人との繋がり2
それから、美咲はアリシャがやろうとしていることを進んで手伝うようになった。
食事の支度はもちろん、馬車の点検から馬車を引く馬型魔物のブラッシングまで進んで。
社会に出て本格的に働いたことがあるわけではない美咲だったから、慣れない仕事のストレスやかかる疲労は半端なものではなかったけれど、それでも美咲はそのたびに飛び出しそうになる不満をぐっと堪えた。
牙をむき出しにするアリシャのワルナークはまだ美咲に不信感を抱いているようだったけれど、それは仕方ない。本来ならば、殺されても文句を言えないようなことをしようとしたのだ。時間をかけて、信頼を得ていくしかない。
「そろそろ出発しようか」
朝食の後片付けから竈の解体、焚き火の始末まで終え、アリシャは御者席にひらりと飛び乗った。
「はぁい」
美咲は明るく大きな声で返事をすると、いそいそと馬車に乗り込もうとした。
結果的にいえば、アリシャとの会話は、美咲に劇的な変化を齎している。
己の身に降りかかった理不尽も、再び我慢できるようになったし、とにかく物事を前向きに捉えられるようになっている。
今も、未来を考えて悲観的になるよりも、アリシャと共に過ごすこの時間を、精一杯楽しもうとしていた。
「ああ、今日はこっちこっち」
ニコニコしながらアリシャが美咲に向けて手招きしている。
動きを止め、きょとんとした顔で振り向いた美咲に、アリシャは自分の横の御者席をとんとんと手で叩く。
しかもいつの間にか用意したのか、馬車での移動に慣れない美咲のために、クッションが敷かれている。
「ここに座って」
「いいんですか?」
アリシャが頷くのを確認して、美咲は御者席に乗った。
馬車に乗るのもこの世界に来るまで殆ど経験が無い美咲だったけれど、御者席になんてもっと乗ったことがなく、正真正銘初めてだ。
「今日はいい天気だからね。ずっと馬車の中に篭もっているなんて、もったいないよ」
視線を追って空を見れば、確かに雲一つなく晴れ渡り、太陽が陽気を振り撒いている。
ガラガラと車輪が回る音と、馬車の中の物が立てるガチャガチャという音に混じって、空を飛ぶ鳥たちの鳴き声や、時折吹き渡る風に煽られる草原のざわめきなんかも聞こえてくる。
魔王を倒すための旅ということすら忘れてしまいそうになる長閑さだ。
「確かにいい天気ですね。日差しも温かいし」
そう呟く間にも、爽やかな風が吹いて美咲やアリシャのマントを緩やかに揺らしていく。
つかの間の穏やかな時間。
ワルナークという種の馬型魔物が、力強く馬車を引っ張って走っている。
さすがは魔物というべきか、美咲の世界の馬とは、文字通り馬力が違う。
引かれる馬車の速度は、車並とは言わないものの、それでも美咲の常識を覆すほど速い。その分揺れも半端ではないのだけれど、それはアリシャが敷いてくれたクッションで多少なりとも緩和された。
しばらく馬車を進ませていたアリシャは、急に手綱を引っ張って馬車を止める。ワルナークが足を緩めると同時に、馬車自体も減速していく。馬車が引かれる勢いが強いので、馬車側にもブレーキ機構が取り付けられているようだ。
急停止させられた馬が、不満げに嘶いて前足で地面を掻いた。
「ごめん。でも少しだけ我慢しておくれ」
御者席から飛び降りたアリシャは愛しげにワルナークの首筋を撫でると、馬車の後ろに回ってがさごそと何かを漁り始める。
「どうしたんですか?」
「ああ、美咲はそのままでいて」
慌てて降りようとした美咲を馬車の中にいるアリシャが制止する。
「遠くでまだ美咲には見えてないと思うけど、魔物がいる。ワルナークが怖がってないから大丈夫だと思うけど、一応美咲は他にいないか注意して。向こうは私たちに気付いてないみたいだし、これで片付けよう」
アリシャが馬車の中から持ってきたのは弓矢だった。
傭兵であるアリシャの持ち物らしく装飾のない無骨な作りで、握りに巻かれている革が黒ずんでいる。
使い込まれているのはひと目で分かった。
「大抵の獲物は一通り使えるけど、中でも得意なのが剣と弓と槍なんだ」
矢を射るために、アリシャがマントを外した。
出てきた肉体を見て、美咲は呆気に取られる。
マントを外したアリシャの身体は分厚い筋肉の鎧に覆われていた。
元々大柄な女性であることは分かっていたけれど、こうして見てみると鎧の上からでも腕や肩の筋肉が男顔負けに発達しているのがはっきりと分かる。
矢を番えて弓を引き絞った状態を持続する姿も安定していて、腕が震えたりする様子は全くない。
美咲が瞬きした時にはもう矢は放たれていて、虚空に消えていた。
遠くで聞き逃しそうなほど小さな悲鳴と、何かが倒れる音が聞こえたような気がした。
よくよく目を凝らしてみても、美咲には何も見えない。
どうやらアリシャの視力は一点零の美咲を遥かに超えるようだ。
「当たったね。一応死んでるか確認しておこう。素材が手に入ればちょっとした臨時収入になる」
弓矢を持ったままアリシャが御者席に上がってくる。
馬上鞭を振るうことなく、手綱を掴むだけで引き手であるワルナークは乗り手の意思を汲み、馬車を引いて歩き出す。
現代の感覚では百メートルほどだろうか。
進んだ先に、狼に似た獣が倒れていた。
体毛は黒で、美咲が知る狼と比べると身体がニ回りほど大きい。また、顔は狼というよりも、どちらかといえば爬虫類に近い。
狼以上に立派な牙を持っている獣だ。
矢が頭を貫いており、力なく倒れている姿からは、すでに死んでいることが美咲の目でもはっきりと分かった。
「ゲオルベルだ。森に潜み、集団で狩りをする地上型魔獣の一種だね。街道にまで出てくるなんて、群れからはぐれたのかな。こいつの牙は武具の材料になるし、毛皮は外套や服の素材に使える。肉も毒は無いから食用に出来る。ちょっと解体していこうか」
「ひいいいい」
慌てて美咲は背を向ける。
スプラッターなのは苦手なのだ。想像しただけでも背筋がぞわぞわする美咲だった。
「こういうの苦手? なら馬車の中で休んでていいよ」
「すみません、お言葉に甘えます……」
美咲はすごすごと馬車に退避する。
遅れてアリシャがやってきて、解体に使うナイフや鉈、鋸などを馬車から持ち出していった。
水を入れた桶となめし液を入れた桶に加え、何故か空の桶まで余分に持っていったアリシャを、何に使うのだろうと美咲は首を捻って見送る。
馬車の中は、光景を見せないようにアリシャが配慮してくれて、入り口までぴったりと幌を閉じてくれたので、少し薄暗い代わりに外気から遮断されてそこそこ温かい。
「ど、どんなふうにやってるんだろう……。いや、欠片も見たくないけど」
実際の光景を見ていない美咲は、段々気になってきた。
グロいのは嫌いだが、勇者として旅を続けるならいつか直面しなければならなくなる可能性は充分にある。
そう考えると、今は見ておいたほうがいい気もしてくる。
少しだけなら大丈夫かもしれないと楽観的な考えも浮かんできた。
馬車後部を覆う幌を少しだけ開けて外を見ようかと思うが、スプラッターな惨状を見てしまいそうでやっぱり怖い。
幌が分厚いので解体しているとはっきり分かる物音は聞こえてこないが、それがかえって余計に想像力を掻き立てられるのだ。
「ちょっとだけなら、いいかな……?」
やがて好奇心が忌避感に勝ったのか、美咲は幌の外を覗いた。
覗いてしまった。
狼に似た魔物の死体は魔法で空中に吊り上げられ、頚部をごっそりと切り取られていた。
持ち出した空の桶は抜いた血を受けるためのものらしく、何か専用の魔法でも使ったのか短時間で血抜きはあらかた終わり、死体の下に置かれた桶の中にはすでになみなみと血が溜まっている。
皮までもう剥がされた後で、アリシャは剥いだ皮にこびり付いた肉片やたんぱく質の部分を取り除いている最中だった。
奇麗に洗ったそれをなめし液の桶に沈め、その一方で手際よく肉から内臓を取り除き、部位を切り分けて解体していく。
合計すると見ていなかった時間も含め、かかった時間は四時間ほどで、熟練の手際だった。
(うぉえっぷ)
目を離そうにも身体が強張って身動きが取れず、結局一部始終を見てしまった美咲は、込み上げる吐き気を堪えて首を引っ込める。
激しく脈動する胸を押さえ、美咲は吐息を漏らした。
(びっくりした。まだドキドキしてる……)
美咲が思った以上に、衝撃的な光景だった。
それからさらに時間が経って、ようやくアリシャが戻ってくる。
「ごめん。待たせちゃったね」
アリシャが馬車に積み直した木箱の中には、解体に使った道具が入っている。
大量の塩が入った別の木箱に、アリシャは肉を詰める。
その一部始終を見ている美咲に気付き、アリシャが振り返ってひょうきんに舌を出す。
「本来なら別に肉まで解体する必要はなかったけど、もう街まで近いからつい。毛皮や牙と合わせて街に着いたら売っちゃおう」
「あのう、後始末はどうしたんですか……?」
グロテスクな光景を見て萎縮した美咲が尋ねると、アリシャは事も無げに答える。
「ん? 残りは捨ててきたよ。内臓とかは痛むのが速いし、血も使い道はないこともないけど、血の臭いに釣られて他の魔物が寄って来るから。さすがに街道に捨てるわけにもいかないしね。捨てておけば、そのうち魔物がやってきて食べてくれる」
そのまま捨てた場所に魔物が集まってしまうんじゃないかと美咲は心配になったが、アリシャの話によると、魔物たちにとって街道は危険が高い場所だというのは共通の認識で、街道にまで出てくる個体はほとんど居ないらしい。
いわゆるゲームに出てくる恐ろしいモンスター的なイメージを抱いていた美咲は、少し拍子抜けする。
「魔物って、人間の敵じゃないんですか……?」
恐る恐る問いかけた美咲の先入観に対して、アリシャは苦笑を浮かべてみせる。
「別に敵でも味方でもないよ。魔族が飼いならして戦争に駆り出すような魔物は、人肉の味を覚えさせて積極的に人を襲うようにさせてるみたいだけど、野生種は基本的に縄張りを侵されなければ襲ってこないから」
案外、魔物も野生で生きている限りは大人しいようだ。
「だけどさっきみたいなはぐれは別。人肉を食べてることが多いから、姿を見ると積極的に襲ってくる。恐ろしいのはその追跡性能で、一度見つけたら一週間近く獲物を見失わないだけの嗅覚と脚力を持ってる。私たち旅人にとっては盗賊に襲われるのと同じくらい致死率が高いんだ。だからさっきは先に見つけられて運が良かった」
そうでもないらしい。
自然界って怖いと美咲は思った。
話題を探して視線を彷徨わせると、漬け込まれている毛皮が目に入る。
奇麗に洗われたあとの毛皮は、解体していた時とは違って別に見ても忌避感は感じない。
「これでもう売れる状態なんですか?」
「工程としてはまだすることが残ってるけど、今のままでも売ることはできるよ。途中でも、ちゃんと処置しておけばそれなりに高く買ってくれるんだ。用途としては服にしてもいいし、外套にしてもいい。加工の仕方によっては靴の材料にもなるね。色々だよ」
「へー、靴にもなるんですか……」
毛皮で靴が作れるとは、美咲にはちょっとした驚きだった。
ふと自分が履いている靴を見る。
学校指定の革靴だった。
よく考えたら驚きでも何でもないなと、美咲は思い直す。
「さて。結構道草を食っちゃったけど、そろそろ出発しようか。今日の夜にはラーダンに着きたい」
アリシャが降りて助手席に回ったので、美咲も馬車から降りて助手席に回り、座り直す。
寒いけれど、マントがあれば何とかなる。
それに何より、せっかく旅をしているのだから、楽しまないともったいない。というか、やってられない。何しろ、目的が目的だ。
出発してからは何事もなく旅は進み、アリシャの予想通り日が暮れてしばらくして、馬車はラーダンに到着した。