四日目:失ったものと得たもの3
乗り物を使った旅は快適だというのが美咲にとっての常識だったが、この世界では違ったらしい。
荷物に埋まるようにして座り込んでいる美咲は、じっと臀部の痛みに耐え続けていた。
「何でこんなに揺れるの……」
僅かに腰を浮かして負担を分担させても、あまり効果は感じられず、振動のたびに美咲の尻は「いい加減にしろ」と鈍い痛みを訴えかけてくる。
よく考えれば、時代どころか世界まで違うのだから、これくらいの想像はしておくべきだったと美咲は後悔する。
街道といっても、現代のようにコンクリートで平らに整地されているわけではないし、馬車の車輪にゴムはないしサスペンションだってない。
従って、そこらの小石を車輪が踏んだだけでも酷く揺れ、振動がダイレクトに床板と接地している尻に伝わってくるのだ。
しかも五月蝿い。四六時中「ガタガタガタガタ……」と下から音がする上に、固定してあるとはいえ武具などの金属品がガチャガチャ終始音を立てている。
一日も経たないうちに、美咲の気力は限界を迎えようとしていた。
懐からスマートフォンを取り出し、電源を入れる。
この世界に呼び出されてから電源も切って極力使わないようにしていたから、電池はまだ一メモリも減っていない。
時間は午後五時六分。出発したのが朝の八時頃だったはずから、あれからおおよ九時間が経った計算になる。
ザラ村の自警団の団長は、ラーダンまでは馬車でも二日はかかると言っていた。それが間違いないなら、そろそろ半分といったところだろうか。
再び携帯の電源を切って懐にしまうと、馬車はゆっくりと減速して停止した。
「今日はここまでにして夕飯にしよう。出ておいで」
「分かりました!」
御者席からアリシャの声が聞こえてきて、美咲は馬車から四つん這いで這い出る。
以前美咲が野宿した時と同じような、街道沿いに設えられた野宿場所らしく、馬車からそれほど離れてない場所に焚き火や竈を組んだ跡がある。
地面に降りた美咲が尻を摩っていると、馬車が動かないように車輪止めを噛ませたアリシャが馬車の後ろまで美咲の様子を見にやってきた。
慌てて姿勢を正した美咲だが、ばっちり見られていたようで、アリシャが困ったように笑う。
「ああ、ごめん。何か敷物を用意しておくべきだったかな」
「いえ、お構いなく。無理やり載せてもらってるんですし、そこまでしてもらうのは……」
断ろうとした美咲を遮って、アリシャは首を横に振った。
「遠慮しなくていいよ。何もしなかったらラーダンに着く頃には、君のお尻は打ち身で真っ青になってる。そんなことになったら立ち上がるのも一苦労だからね」
馬車の後部から中に上半身を入れたアリシャが、木箱を引っ張り出してくる。
アリシャが木箱を地面に置くと、ガチャンと木箱が大きな音を立てた。
結構重い物が中に入っているらしい。
中に入っているものを、アリシャは手際良く運び出して先人の使用跡が残る地面に設置していく。
美咲の目の前で、みるみるうちに立派な竈が出来上がった。
続いてアリシャは馬車から薪を持ち出すと、焚き火跡の地面を確認する。
「前に使われてからもう充分時間が経ってる。これなら使えるね。ホォイユゥ ツゥオムリィ」
アリシャの口から日本語と、知らない言葉が同時に流れる。
組み上げた焚き木に、アリシャは道具も使わず何気ない動作で火を点けた。
火打ち石を使ったわけでもないのに、勢いよく燃え上がる火に、美咲は興味津々になった。
振り返ってアリシャに尋ねる。
「今、何をしたんですか!?」
「何って、魔法だよ。別に驚くようなことじゃないだろ? 今じゃ人間にだって魔法使いはいるんだから」
爛爛と輝く目で食いつく美咲にアリシャは苦笑し、少し眉根を寄せて困り顔になる。
一瞬自分も使えるようになりたいと思った美咲は、すぐにその思いを打ち消した。
(ダメだ、私が使えるわけないし……)
美咲は異世界人である。
かつてエルナが説明したことが嘘でなければ、異世界人である美咲には魔法を打ち消す力が備わっているという。
魔法を打ち消してしまう自分に、魔法が使えるとは思えない。もし使えなければ、どうして使えないのかと怪しまれてしまうかもしれない。
自分が勇者だということがばれてしまう可能性を考えたら、興味がない振りをした方がいい。
そう結論付けた美咲の胸の内に気付く訳もなく、アリシャは口元を軽く吊り上げて比較的細くて小さな薪を薪の束から引っ張り出した。
「やってみる? 発音さえできればこれくらいなら誰でもできるだろうし」
もしできなかった場合のことを考えると断った方がいいと分かっていても、美咲は溢れる好奇心を抑えられなかった。
だって、魔法なのだ。
使えるわけがないのが当たり前の世界で生活していたから、別に魔法が使えないのも当たり前だったけれど、今は違う。
魔法という技術は確かに存在していて、目の前に実際に使える人がいる。
使いたい、という気持ちにならない人はいないだろう。
例に漏れず美咲もそうだった。
「その薪を持って、ホォイユゥ ツゥオムリィって言ってごらん」
アリシャが"火よ灯れ"という言葉を再び口にしたとたん、副音声のようにアリシャの口から違う言葉が重ねて聞こえた。
二つの言語が重なって、実際に何を言っているのかは分からないが、どうやら魔法が発動する時の言葉は、サークレットの翻訳機能を貫通してくるらしい。
ワクワクしながら美咲はアリシャに言われた通りにしてみる。
「火よ灯れ!」
期待を込めて唱えるが、薪に火がつく様子はない。
がっかりする美咲をアリシャが宥めた。
「言語が違う。魔法を使うなら、魔族語を使わなきゃいけない。ベルアニアの言葉で言ったって発動するわけないよ。そもそも魔力を集める言葉じゃないから」
一瞬どういうことかと混乱する。
今まで美咲は日本語しか話していないはずだ。他人が喋る言葉も全部日本語だから、美咲はてっきり日本語が通じる世界なのだと思っていた。
魔族語も、ベルアニア語も、聞いたことがない。言葉の通りなら、魔族が使う言葉、ベルアニア国の公用語、程度には予想がつくものの、実際には流れてくる会話は日本語である。実際に、アリシャとも日本語で会話している。
(あ、そうか……)
そこまで考えて、美咲は得心した。
本来の美咲は日本語しか話せない。それは本当だ。そしてこの世界人間は、魔族語やベルアニア語は話せても、日本語は話せない。普通に考えればそれが当然だ。
今までエルナと話せたのも、今こうしてアリシャと話せているのも、額につけているサークレットのおかげなのだ。これが、美咲の話す言葉を聞き手が知る言語に翻訳し、美咲が聞く異世界言語を日本語に翻訳してくれる。
自分が今話している言葉が何語だなんて意識していなかったけれど、おそらく相手にはベルアニア語に聞こえているのだろう。
魔法が効果を及ぼさない美咲にもきっちり通用しているあたり、素晴らしいと美咲は思う。
おそらくは、死出の呪刻と同じように、文字を刻んで効果を及ぼしているのだ。それは逆に、同様のからくりを持つアイテムなら、美咲に害を及ぼす可能性が高いということを意味する。
気をつけなければならない。美咲は気を引き締めた。
(何だかんだいって、本気で支援してはくれていたのよね……)
非力な美咲でも自由自在に扱える勇者の剣に、この世界の人間との意思疎通を可能にしてくれる翻訳サークレット。そして、至れりつくせりだった旅立ちの道具と多額の軍資金。
道具と軍資金を盗まれたのは本当に痛かった。そして、エルナが早々に死んでしまったことも、この世界の常識を知るための洗礼と呼ぶには、大き過ぎる損失だ。
(どの種族が使う場合でも、魔族語じゃなきゃだめなのかな)
疑問に思ったことを、美咲はアリシャに質問する。
「人間が使う場合でも、魔族語を使うの?」
「そりゃそうさ。言語に力が宿っているのであって、魔族や人間の肉体に力が宿っているわけじゃない。だからこそ、人族側も必死になって魔族語を盗んだんだ。最低限同じ土俵に立てないと、仮に人数差がいくらあっても勝てるわけが無いからね」
「なるほど……」
感心して頷いた美咲に、アリシャがニヤリと挑発的に笑った。
美咲の反応を期待する、悪戯っぽい笑みだ。
「もう一度やってみる?」
「もちろん」
勢い込んで頷いた美咲の額を、アリシャは自分の額を指すことで示した。
「なら、次はサークレットを外して詠唱の発音を聞いてみるといい」
美咲はサークレットを外す。
その途端、アリシャが何を言っているのか全く分からなくなった。
「メェアフゥオアウォ ナァウサメェアリィエネキリベ、エァテェアソォイテト メェアズゥオカァウム クゥオクメェアヂィエ ウオィタァウミィエレェアリザノォイ サァウンデェアンデキィエヅゥオニ」
不思議な抑揚と旋律がついた言葉だ。少なくとも、美咲の世界に存在する言語だとは思えない。美咲とて元の世界で全ての国の言葉を知っていたわけではないが、それでも主要文化圏で使われている言葉くらい常識として知っている。その知識の中に存在する言語のどれとも、魔族語は違った。
美咲は無言でサークレットをつけ直し、項垂れる。
「何言ってるのか全く分かりませんでした……」
肩を落とす美咲に、アリシャは悪戯っぽく舌を出した。
どうやら最初から理解させる気は皆無だったようである。
そもそも、そのつもりならもっと簡単な短文にするだろう。
「今のは別に詠唱じゃないから気にしなくていいよ。正しい詠唱は"火よ点れ"だ。君がサークレットを外したら言うから、よく聞いて繰り返してみて」
「はい、分かりました!」
今度こそきちんと教えてくれるらしい。
ゆっくりと美咲はサークレットを外した。
ワクワクしてくる気持ちを抑えながら、アリシャの言葉に耳を傾ける。
「ホォイユゥ ツゥオムリィ」
「ホイユツオムリ?」
きちんと復唱したつもりだったが、美咲が手に持った薪には何も起こらず、アリシャも黙って首を横に振る。
暗い顔になりかけた美咲を元気付けるようにアリシャがにこりと笑い、滑らかな滑舌で繰り返す。
「ホォイユゥ ツゥオムリィ」
「ホイユ ツオムリィ?」
再び首を横に振られる。
まだ違うらしい。美咲にはまだ発音の微妙な違いを聞き取れないようだ。
粘り強くアリシャがもう一度繰り返した。
「ホォイユゥ ツゥオムリィ」
「ホイユゥ ツオムリ?」
それからしばらく、アリシャのなめらかなお手本の発音を聞いて、美咲が復唱するという作業が続く。
魔法はきちんと使うという意思を込めないと発動しないのか、完璧なアリシャの発音でも、今は発動することはない。
だが、正しい発音であることに違いないので、発音が同じなら、使おうと思って言えば正しい効果を発揮する。
「ホォイユゥ ツゥオムリィ」
「ホォイユ ツゥオムリ!」
よって、美咲の魔族語が一向に効果を発揮しないのは、美咲の発音の悪さと、聞き分け能力の低さのせいである。
アリシャは無言で美咲の頭にサークレットを被せた。
「難しいです……」
期待してしまっただけに、がっかり感も半端ない。
唇を尖らせて不満を表す美咲にアリシャは苦笑する。
「慣れれば簡単だけど、発音に慣れるまでは難しいかもね。ゆっくりやっていけばいいさ」
「うー。ラーダンに着くまでに、完璧にしてみせます!」
美咲はふくれっ面のまま宣言した。