十三日目:小さな恋の終わり2
閉じていた目が開かれ、ぎょろりと美咲の方を向く。
緩慢な動作で、ルアンが上半身を起こした。
ゆっくりと起き上がるルアンを、美咲は呆然として見つめた。
「下がるでござるよ」
立ち上がろうとするルアンを見て自分の獲物を引き抜いたタゴサクが、静かに前に出て、美咲を後ろに追いやった。
「死してなお迷い出るとは、よほど美咲殿を残して逝くのが無念だったのでござろうな。かといって放置しておくわけにもいかぬ。……拙者が引導を渡すでござる」
起き上がったルアンは、タゴサクを全く見ていない。動く死体と化したルアンの視線は、真っ直ぐ美咲に注がれている。
「み、さ、き、は、に、げ、き、れ、た、か」
生前とは似ても似つかない、しわがれた老人のような声をルアンは出した。
完全に角膜が濁り切って瞳孔も判然とせず、身体の表面も所々が腐り始めている。
そんな状態でも、まだ死んでからそう日にちが経っていないせいか、その姿は、生前の名残を十分に留めていた。
「け、が、し、て、な、い、か」
それは、間違いなく、美咲に対する、いたわりの言葉だった。
だが、目の前の美咲に対するものではないことに、美咲は気付かない。
「大丈夫だよ! 怪我なんてしてないよ! ルアンが守ってくれたから……!」
思わず駆け寄ろうとした美咲を、タゴサクが片手で押し止めた。
「何するんですか! 離してください!」
振り払おうとする美咲を、タゴサクは静かに諭す。
「近付いたら、喰われるでござるよ」
その言葉は、興奮していた美咲に冷や水を浴びせた。
もう一度、よくルアンを観察すれば、浮き足立っていた心はあっという間に冷えていく。
頭が半分くらい原型を留めていない。
右肩から胸元まで、おそらく肺を両断しているであろう、大きな傷がある。
腹には風穴が開き、中の臓物が零れ落ちそうになっている。
しかし、ルアンは確かに動いている。生きているのか?
そんなはずが無い。そんなことはあり得ない。
頭蓋骨骨折、脳挫傷、臓器損傷、大量出血。死因には事欠かない状態で、どうして動ける。
「……どういうことですか?」
震える声で問いかけた美咲に、ルアンから目を離さずにタゴサクが答える。
「ゾンビとなった者の意思と、ゾンビとなった身体を動かす意思は全く別の意思でござる。今ルアンの身体を動かしているのは、ルアン自身の意思ではなく、この洞窟で果てた人間やゴブリンたちの怨念の集合体でござる。今の言葉も、ルアンが抱いた死の間際の残留思念が美咲殿が近寄ったことで呼び覚まされただけに過ぎぬ」
美咲とタゴサクが話す間も、ルアンはたどたどしい足取りで歩きながら、ぶつぶつと独り言のように、うわごとのように何かを呟いている。
「し、に、た、く、な、い」
その声を聞いて、思わずタゴサクが話を止めた。
美咲は、ただ目を見開いてルアンを凝視している。
「で、も、あ、い、つ、を、し、な、せ、た、く、な、い」
それは、無念だった。
たった一人、美咲を残して逝くことの。
「す、き、だっ、た、ん、だ」
それは、未練だった。
告白すらできず。
最後まで美咲を守り通すのが、自分でないことの。
「ま、も、り、た、かっ、た。な、か、ま、だ、か、ら」
それは、希望だった。
魔王を倒すという大それた目標を掲げ、回りから相手にされずに馬鹿にされ続けてきたルアンが最後に見つけた、たった一つの。
「も、し、ぞ、ん、び、に、な、た、お、れ、を、み、つ、け、た、ら」
死してなお、強く残る思いの残滓。
今際の際の、ルアンの想い。
「た、の、む、だ、れ、か」
自分の死体を見つける誰かに対する願い。
「お、れ、を、こ、ろ、し、て、く、れ……」
絶対に美咲を傷付けたくないという、ルアンの遺志だった。
もはや何も言えずに、美咲は涙を流した。
泣きながら、ルアンを見据える。
「……私だって。ルアンのことは嫌いじゃなかったよ。だって、あなただけだった。あなただけが、私の依頼を受けてくれた」
ルアンは美咲を見ているようで見ていない。
濁り切った角膜は何も映し出さず、ただそれが死体であることを、示しているだけだ。
そうと知りつつも、美咲はルアンに語りかけた。
「エルナが死んで一人ぼっちになった私に手を差し伸べてくれたのは、アリシャさんとあなただけだった。嬉しかったの。本当に嬉しかったの。それこそ、それだけで好意を抱けるくらいに。もっと、平和な世界で出会えれば良かったね、私たち。もしそうだったら、本当に、恋人同士に、なれたのかな」
出会ってまだ数日しか経っていなかったし、美咲は元の世界に帰るつもりでいたから、この世界で進んで恋人を作りつもりはなかったけれど、この世界に骨を埋める覚悟が美咲にあったなら、美咲はもしかしたら告白を受けていたかもしれない。
少なくとも、全ての事情を話して、いつか離れ離れになることを承知で、それでもルアンが受け入れてくれるなら、美咲に断る理由は無かった。
「私も、好きだったよ。あなたのこと。守ってくれてありがとう」
溢れ出る涙を頬を伝うに任せたまま、遅過ぎた告白の返事を、美咲は返した。
「美咲殿を傷つけまいとするルアンの願い、叶えるでござるよ」
刀を手に前に出ようとするタゴサクを見て、美咲は呟いた。
「セザリー、テナ、イルマ。タゴサクさんを、押さえてて。ルアンを殺すのは、私がやる」
乱暴に涙を拭って、美咲は三人に命令する。
これは、けじめだ。
泣き虫で弱虫な美咲のままだと、安心してルアンも眠れない。例え遅すぎたとしても、成長した姿を見せて安心させたい。
何よりも、ルアンに命を賭して守られた美咲だからこそ、死んでなお自分を心配してくれるルアンのことを、美咲は自らの手で送りたかった。
美咲が立ち上がると同時に、三人娘が驚くタゴサクよりも早く反応する。
「承知しました」
「はーい」
「わ、分かりましたぁ」
肉体改造で限界以上の力を出せるセザリーたちにはさすがにタゴサクも勝てず、歩みを止められた。
「何をするでござるか、美咲殿!」
「私にとっても、ルアンは大事な仲間だから。この役目は、誰にも渡せません」
叫ぶタゴサクに済まなさそうな顔で微笑むと、美咲は勇者の剣を抜いた。
「ルアン。私、魔王を殺すよ。何を犠牲にしてでも、魔王を倒す。貴方の代わりに、倒して世界を救ってみせる。それくらいしか、あなたの恩に報えない」
彼にとってそうであるように、美咲にとっても、彼は大切な仲間だった。
仲間を募集をした時、ルアンだけが応じてくれた。それがどれだけ美咲の気持ちを軽くしてくれたか、おそらくルアンは最後まで気付かなかっただろう。
それでも、美咲は救われた。
一緒にいたのはたったの二日間だけだったけれど、共に過ごした日々は、光り輝いていた。
「──だから、ごめんね。おやすみなさい」
あの時見せたのは、泣き顔だった。また心配するだろうから、もう泣いている顔は見せたくない。
そう思っているのに、拭い去った涙が溢れ出しそうになる。
涙を堪え、美咲は勇者の剣を振り下ろした。
■ □ ■
一部始終を、ミーヤは見ていた。
ルアンと呼ばれていた少年と姉と慕う美咲との間で、何があったのかをミーヤは知らない。
それでも、並々ならぬ絆があったであろうことは想像がついた。
「お姉ちゃん……」
ミーヤはゾンビと化したルアンを屠って立ち尽くしている美咲に近付き、遠慮がちに美咲の服の袖を掴んだ。
慕うと同時に、いつか拒絶されるんじゃないかという不安は、常にミーヤの中でわだかまっている。
魔物使いの笛で魔物を使役できるようになったとはいえ、ミーヤ自身が無力であることに代わりはないし、そもそも魔物使いの笛はミーヤにしか使えないというわけではない。
自分が使うよりも、意思疎通ができる美咲が使った方がよほどいいということも、ミーヤは悟っている。それはきっと、美咲も気付いているはずだ。
なのにミーヤに持たせているのは、美咲の傍に居たいミーヤが、我侭を言ったからに過ぎない。
我侭を口にして困らせていることを自覚しているからこそ、ミーヤは美咲とルアンの絆を知って、羨ましくなるとともに、心配になった。
彼のように、美咲との間に絆を築けているかどうか、ミーヤには自信が無いけれど。
せめて、最期まで、傍に居たいと願った。
「ここにいるよ。ミーヤは、ここにいるよ」
くいくいと頼りない小さな力で自分の袖が引っ張られる感触に、美咲が振り向いた。
涙で潤んだ小さなミーヤの瞳の中で、美咲はまるでただの少女のように泣いていた。
(何で……。涙が、止まらない)
映っていたのは、美咲自身の姿だ。ミーヤの瞳に映る美咲が、戸惑った様子で、涙を止めようとしきりに自分の目を擦っている。
美咲とミーヤの様子に、セザリーとセナ、イルマを振り解いたタゴサクがため息をつく。
「しばらく、通路に引き返して休憩にするでござるか」
ルアンを殺して美咲が傷つくことは、タゴサクには予想がついていた。だからこそ自分が始末をつけようとしたのだが、セザリーたちに邪魔され、結果的に美咲に手を汚させてしまった。
(少々、裏目に出てしまったでござるなぁ)
三人娘に恨めしげな視線を送りつつ、タゴサクは心中でぼやく。タゴサクよりも美咲の命令を優先した三人娘は、済まなさそうな顔でタゴサクに謝罪した。
「タゴサクさん、すみません。美咲さんの命令でしたから……」
そっと目を伏せるセザリーに、タゴサクの表情に苦笑が浮かぶ。
「仕方が無いでござる。気にするなでござるよ」
テナが羨ましげな表情でちらちらとミーヤを見ながら言った。
「美咲の命令なら、どんな内容でも従いたくなっちゃうのは困りものよねぇ。さっきも考えるより前に身体が動いちゃったし」
ぼやきにイルマが反応する。
「それが私たちだもの。仕方ないよ。ほら、私たちも行こう。美咲ちゃんを慰めてあげなきゃ」
セザリー、テナ、イルマの三人が、美咲の元に駆けていく。
一番に乱入したテナが、美咲に飛び掛って抱きついた。
反射的に転倒しそうになるのを美咲が堪えられたのは、テナの手加減と、美咲の鍛錬の賜物だろう。ルアンと一緒にいた頃の美咲なら、手加減されていたとしても、まず間違いなく転んでいたはずだ。
「泣くんじゃないわよ! 私たちがいるじゃない!」
美咲とミーヤが吃驚した顔で乱入してきたテナを見ている。
「もう! 慰めるっていっても、そういうのじゃないよぅ!」
振り返ったテナがイルマを見てにやりと笑った。
「じゃあ、イルマの慰めるっていうのは、どんなものよ?」
「え? それは、縛ってもらって鞭とかロープとかで美咲ちゃんの憤りを私の身体にぶつけてもらって、ごにょごにょごにょ……」
答えるイルマの顔がたちまち真っ赤に染まっていく。恋する女の子のように頬を染める様は可愛らしいが、言っていることはまるっきり痴女である。
ぽかんとしていた美咲は、泣きながら苦笑した。
「もう。あなたたち、悠長に悲しませてもくれないのね」
最後に追い付いたセザリーが、美咲に手を差し出した。
「美咲さんに従い、支え、力を振るう。それが私たちですから。ほら、戻りましょう。ここはその、少し臭いますから。通路で休憩して、それから探索を再開しましょう」
セザリーの手を握った美咲が、もう片方の手でミーヤの手を掴む。
「そうね。そうしよう。行こう、ミーヤちゃん」
ミーヤの瞳の中に映る少女はまだ泣いていたけれど、前を向いていた。
もう少女は、一人ではなかった。
死体安置所を出る直前、美咲はもう一度振り返る。
(さよなら、ルアン)
踵を返す直前、物言わぬ屍が、微かに微笑んだ気がした。