十三日目:再び、ゴブリンの巣へ3
洞窟の中に入ると、湿り気を帯びた黴臭い臭いが美咲の鼻腔を刺激した。
あまり良い臭いではないが、それでもどこか懐かしい。前回の探索でも、入った瞬間は同じ臭いがした。
森林とも微妙に違う、独特の臭気。
以前はそれに加えてゴブリンたちの体臭も加わって凄い臭いになっていたけれど、今はゴブリンの臭いはしない。住処としていたゴブリンたちが居なくなったからだろう。
入る前はこんな風に騒がしい雰囲気だった一行も、洞窟に入ればたちまち喧騒はぴったりと止み、聞こえるのは静かな息遣いだけになる。
光が差し込んでこない洞窟の中は真っ暗と思われがちだが、光源が無いわけではない。
自ら光を発する鉱石や苔がそこかしこにあるので、薄暗いものの回りの状況は見て取ることができる。まさにファンタジーだ。
(異世界、なんだよね……)
薄闇の中きらきらと光る鉱石や苔を見ていると、不思議と美咲の胸にそんな感慨が湧いてきた。
そんなことは召喚された日の夜に散々思い知らされ絶望したのだが、その時の鬱屈した感情とはまた違う。揺り起こされるのは、どこか清涼さを感じさせる感情だった。
一つ目の分岐路に差し掛かり、タゴサクは足を止めて視線をちらりと美咲に一瞬だけ向けた。完全には前方から視線を外さない。
「美咲殿、行き先を決めて欲しいでござる。地図を持っているのは美咲殿でござる故」
「あっはい。ちょっと待ってください」
少し慌てながら、美咲は地図を取り出す。
「とりあえず、ペリ丸に索敵させるね。お願い、ペリ丸!」
「ぷう!(任せて!)」
ミーヤの要請に応じて一声鳴いたペリ丸が、他のペリトンを連れて数匹ずつに別れ、分岐路の奥へと入っていく。
そう間を置かずに、ペリ丸が戻ってきた。
「ぷぷうぷう!(近くに危険な魔物は見当たらなかったよ!)」
「近くに魔物は居ないそうです」
ペリ丸の言葉を美咲が皆に向けて通訳する。
それを聞いて、ミーヤが真っ先ペリ丸を抱き上げ、頬擦りした。
「ありがとね、ペリ丸」
抱き上げられたペリ丸の耳が得意げにぴくぴくと動いた。
そんなやり取りを他所に、美咲は地図と睨めっこする。
(この近くには、隠し通路がありそうなスペースは無さそう……。でも、ワープゲートなら、それが置ける最低限の場所さえあればいいのかも。それなら無いと決め付けるわけにもいかないかな? いや、でも、やっぱりこんなに入り口に近い場所に置いてあると考えるのは無理か)
入り口周辺もそうだが、洞窟内は道が入り組んでいて、隠し通路や隠し扉がありそうな場所は限られているし、重要な設置物を人目につきやすい場所に置くとは考え難い。
それに、他に確認しておきたい場所もあった。
(ルアンと別れた場所と牢屋。最低でもこの二つは見たいな)
もしかしたらルアンが生きていて、取り残されているかもしれない。本人が見つからなくても、何か生存に繋がる手がかりがあるかもしれない。そう考えると、諦め切れない美咲だった。
美咲は地図を凝視してグモが囚われていた牢屋と、ルアンと別れたヴェリート側の出口に程近い通路の位置を確認する。
現在地から目的の通路までは少々遠いものの、牢屋は比較的近い。牢屋に先に行って、そこからは隠し通路を探しつつルアンと別れた通路を目指すのが最善だろうか。
「隠し通路を探すより先に、生存者が居る可能性が高そうな場所を探してみようと思うんです。いいですか?」
冒険者としての年季の差から、自然とパーティのリーダー的存在に納まっているタゴサクに、美咲は許可を求めた。
「構わぬでござるよ。生存者の探索は元々の目的でもあるし、心当たりがある場所は先に確認する方が良いでござろう」
快諾して貰えたので美咲はほっとした。
断られたからといってどうなるわけでもないが、それでも皆が注目する中で自分の意見を述べるというのは少々緊張する。学校のクラス会議などとはわけが違うのだ。その決定如何によって、パーティ全員の命運が変わるかもしれないのだから。
もう一度地図に目を落とし、道順を確認する。分岐路が多く曲がりくねった道も多い洞窟だが、地図があるおかげで迷うことはない。死角が多いことが欠点であるものの、ゴブリンの巣になっていた頃に比べると危険が少ない分気が楽だ。
それでも一度襲われたことは確かだし、セザリー、テナ、イルマがいる以上、彼女たちを操って襲わせた相手が存在することも確実なので、完全に警戒を解くことはない。御者も行方が知れないし、タゴサクの仲間であるタティマ、ミシェル、ベグラム、モットレーや、同じクエストを受けた冒険者たちも行方不明のままだ。
(大丈夫かな……)
少し不安になって、美咲は意味も無く回りを見回した。辺りに不審なものは見当たらない。
御者が行方不明なことといい、多くの冒険者すら姿を消していることといい、これが人為的なものなら敵は相当大きな権力、或いは武力を持っていると考えるべきだろう。これだけの人数を気付かれずに無力化するのは一人や二人では不可能だ。さらには姿が見えないのだから、どこかに連れ去られた可能性もある。それなりの人数を揃えていないとこんな大掛かりなことはできない。
今のところは何も不審な光景は見当たらない。人っ子一人居ない。洞窟の中は静まり返っていて、聞こえる音といえば、美咲たちが立てる足音と、息遣いだけだ。以前漂っていたゴブリンたちの体臭や、彼らが奏でる生活音もしない。それがまた不気味だった。
しばらく歩き、牢屋に着く。
「もぬけの空、でござるな」
牢の中を覗き込んだタゴサクが、そう呟いた。
最後尾にいる美咲から牢の中はよく見えないが、代わりに牢番のゴブリンが座っていた机が良く見えた。
(前回は、確かここで戦いが起きたんだっけ……)
倒れた椅子を見て、美咲は前回の戦いを思い出す。
ルフィミアの仲間のエドワードが牢番のゴブリンを絞め落としただけの戦いとも呼べない戦いだったが、それでも美咲にとって、それは間違いなく戦いだった。美咲が気を引き、その隙にエドワードが無力化する。立派な作戦だ。美咲の我侭に付き合ってくれたエドワードたちも、もう居ない。
事実を意識すると、鼻の奥がつんとしてきて、美咲は上を向いた。ごつごつとした天井が見える。完全な暗闇なら蝙蝠が集団でとまっていそうな岩肌は、ところどころ淡く光る苔で覆われ、淡い光を放っている。壁や天井とは違い、地面には不思議と苔はない。滑らないからいいのだが、苔が無いとそれはそれで足元が見え辛い。
「ねえ、お姉ちゃん、机に何か置いてあるよ?」
ミーヤが美咲の服の袖を引いて、机を指差す。
その方向に目を向けると、確かに何か手帳らしきものが置いてあるのを美咲は見た。
(前回はこんなのあったっけ。……あったような、無かったような)
記憶を探るが、あの時はそれどころではなかったので、細かいところまでは見ていなかった。
手帳も気になるが、タゴサクが牢の扉を開けようとしているので、そちらも気になった美咲は、どうしようか少し迷った。
位置的には、タゴサクとセザリー、テナ、イルマが牢扉の前に居て、美咲とミーヤが机と牢扉のちょうど真ん中辺りに居る。
マク太郎とペリ丸はミーヤの傍に、他のペリトンたちは牢部屋の出入り口付近にたむろしている。おそらく見張ってくれているのだろう。
「私たちは、あの机を調べてみようか」
何かあれば、ペリトンたちが騒いで知らせてくれるはずだ。
そう考えた美咲は、牢の中はタゴサクたちに任せ、ミーヤと一緒に牢番の机を調べてみることにした。
「うん! ミーヤ調べる!」
元気良く頷いたミーヤはやる気を漲らせ、飛び跳ねるような足取りで美咲の手を引き、机に向かう。
古ぼけた机の上には、手帳の他にこれまた古ぼけたランプが置いてあった。もちろん明かりはついていない。
美咲はランプを手に取ろうとして、少し躊躇した。罠が仕掛けられていたらどうしようと思ったのである。思えば、ルフィミアのパーティの一員だったピューミを殺したのも、罠だった。
(って、こんなランプに罠を仕掛ける理由も無いか)
少し考えた美咲は、こんなものにまで過度に警戒している自分に気付き、苦笑した。敵自身も使っていたであろう道具なのだ。罠を仕掛ければ自分たちだって不便になるのだから、その可能性は考えにくい。
思い切って手に取るが、もちろん罠なんて仕掛けられているはずもなく、何も起きない。
(うん、まだ使えそうね)
かなり古ぼけて見えるランプで、土埃などで汚れているものの、明かりとしての使用は問題無さそうだ。
洞窟内のどこにでも光源になる苔が生えているわけでもないので、美咲はありがたく頂戴することにした。
「ホォイユゥ ツゥオムリィ」
魔族語で呟くと、古ぼけたランプに火が灯った。
思い通りに魔法が成功したことに、美咲は満足げに微笑む。少しずつだけれど、確実に強くなっている気がする。
手帳を読むミーヤのために、ランプを傍に置いた。
苔や鉱石の儚い光だけでも読めなくはないだろうが、それだけでは読みにくいだろう。
「ありがとう、お姉ちゃん」
振り向いて机に置かれた火が灯ったランプを見て、ミーヤが無垢な笑顔で美咲に礼を言う。
「どういたしまして」
美咲は澄ました表情で返事をした。
この手帳は、字が読めない美咲が見ても仕方がないので、ミーヤに任せていいだろう。
やがて読み終えたのか、ミーヤが手帳を閉じた。
「ミーヤちゃん、なんて書いてあった?」
「えっとね、日誌みたい」
手帳をもう一度開くと、ミーヤは美咲に見えるように突き出してきた。
「ほら、ここ。数字が書いてあるでしょ? これが日付で、その後に文章が続いてる。これ、ベルアニア語だよ」
「えっ? ゴブリン語じゃないの?」
吃驚した美咲は思わず呆けた声を上げて聞き返してしまった。
首を傾げたミーヤがきょとんとした顔で美咲を見る。
「ゴブリン語だったらミーヤ読めないよ?」
もっともである。
(なんでこんなところにベルアニア語の日誌が……)
「お姉ちゃん、この手帳どうしよう」
考え込んでいた美咲は、ミーヤの声にはっと我に返る。
「タゴサクさんに見せよう。今回の件に関係ありそうだし、情報は共有しなきゃ」
「うん。分かった。じゃあ、手帳はミーヤが持ってくね」
「ありがとう。お願いね」
ミーヤが自分の道具袋に手帳をしまう。ぬいぐるみ型の道具袋を背負い直したミーヤは、てくてくと牢扉の方に歩き出した。
残された美咲は、机をなおも観察する。
(他に、何か残ってないかな)
よくよく見た美咲は、机に小さな引き出しが一つだけついていることに気付く。
開けようとすると鍵が掛かっているようで、軽い手ごたえが帰ってくる。
だが、机そのものが古いせいか、鍵はガタガタで少し力を篭めればこじ開けられそうだ。
(……これ、むやみに開けても大丈夫なんだろうか)
一瞬罠を警戒した美咲だが、すぐに思い直す。
(いや、やっぱり無いか。牢番の机に罠を仕掛ける理由なんて思いつかないし)
何しろ、一番机に接するのは、間違いなく罠を仕掛けた側である。自分が引っかかりかねないような場所には仕掛けないだろう。
机の周りを見回してみても、美咲の目に映る範囲に目印になりそうな物はない。
そもそも机に罠を仕掛けるくらいなら、今まで歩いた場所にも仕掛けてあってもおかしくはないはずだ。
(でも、一応、開けるかどうかは皆に相談しよう)
自分が経験不足であることを自覚している美咲は、引き出しに手をつけるのは一端保留にした。
前回、ルフィミアの仲間である尼僧のピューミは罠で死んだのだ。警戒はしておくに越したことはない。
用心に用心を重ねて、ここは慎重に行くべきだ。
机はひとまず放置して、皆が集まっている牢扉へ向かう。
牢扉では、ミーヤが手帳の件をタゴサクに報告していた。
「おお、美咲殿でござるか。ミーヤ殿、美咲殿にも話しておくでござるよ」
「あ、そうだった。お姉ちゃん、ごめんね」
ミーヤが慌てて美咲の下へ駆け寄ってくる。
「手帳に書いてあるの、やっぱり今回の件に関係あるみたい。最初はベルアニア語で、途中からゴブリン語になってて、またベルアニア語に戻ってた。たぶん、元々ここにいた人間が使ってたのをゴブリンが再利用して、戻ってきた人間がまた使ってたみたい。ミーヤもゴブリン語のところは読めないから、ベルアニア語のところだけ教えるね」
話を聞くと、やはりベルアニア語で書かれていたのは人攫いの日誌だったらしい。
どこでどんな人間を何人捕まえたのか、詳しく書かれていたようだ。
美咲を閉口させたのは、捕まったのが女性だった場合、その美醜や身体の状態についても詳しくメモ書きされていたという事実だった。
どうやら、ゴブリンが牢屋として使っていたこの場所は、人攫いにとっても浚ってきた人間を閉じ込める、文字通りの牢屋だったようだ。どうりで頑丈な牢扉があるわけである。
「ゴブリンたちが来る前の記録だけど、セザリーさんたちの名前も見つけたよ。新しい記録では、タゴサクおじさんの仲間の人たちの名前もあった。最後は急いでたみたいで走り書きだったよ」
「そっか。ありがとう、ミーヤちゃん」
聞き終えた美咲は、まず一番にミーヤを労った。
「えへへ。また、いつでもミーヤを頼っていいからね、お姉ちゃん」
照れてはにかんだミーヤは、くすぐったそうな顔で美咲の手に腕を伸ばした。
小さなミーヤの手が、美咲の手を握る。
そのままぐいぐい引っ張るミーヤに、美咲はタゴサクたちの下へ連れられていった。