一日目:召喚された少女1
突然目の前の景色が歪み、通いなれた通学路から見知らぬ場所に放り出され、藤原美咲は愕然とした。
それまで超常現象に遭遇したことなど一度もなかったし、幽霊などのオカルトに類するものも一切信じたことがない彼女だったから、美咲にとってそれは青天の霹靂だったといっていい。
こういう時にどうすればいいのかまるで分からなかったので、美咲は狼狽しながら辺りを見回すことしかできなかった。
全体的にがっしりとした造りの石造りの部屋だ。
材料に使われている石は美咲がよく目にするような、現代技術で一ミリの誤差なく等間隔に揃えられ、磨き上げられた石ではない。
所々が不揃いで、磨いた跡はあるものの触ればざらりとした感触が残っている。
どこを見回しても窓はなく、空気が湿っていて、鼻を嗅げば僅かに黴臭い臭いがする。
明らかに、美咲にとって馴染みの無い場所だった。過去に訪れた記憶もない。
少し離れた場所に、誰かが立っているのを見つけた。
まるでファンタジー映画に出てくる俳優が着ているような、フード付きの黒いローブを着た姿は、性別すら定かではなく不審者にしか見えなかったが、突然超常現象の渦中に放り込まれた身においてはかえってそれらしく見えた。
「あの、ここはどこですか?」
勇気を出してローブを着た人物に声をかけると、その人物は美咲の傍に近付いてきて、きっちりと閉じられたローブの裾から手を出し、美咲に何かを差し出す。
それはサークレットだった。
台座は白金を思わせる金属で出来ていて、精緻な意匠が施されている。額の中央に当たる部分には、紅く輝く一粒の大きな宝石が嵌め込まれている。
真贋が分かるほど美咲は詳しくないから、美咲にはその宝石が本物であるかどうかも、台座が本当に白金なのかどうかも分からない。
ただ、美咲にとって、そのサークレットが価値あるものに見えたのは確かだった。
差し出されたサークレットとローブ姿の誰かを見比べて、美咲は眉を寄せた。
意味が分からない。ここはどこなのかも不明だし、ついさっきまでアスファルトに覆われた道路の上にいたのに、瞬きする間にこんな薄暗い石造りの陰気な部屋にいる理由も分からない。
そもそも目の前のローブ姿の女性は誰だ。まさか、召喚者だとでもいうつもりか。これは、もしかしてこのサークレットをつけろということなのだろうか。おかしな物語じゃあるまいしと、美咲は己の荒唐無稽な思いつきを哂う。
悩んでいると焦れたように目の前にサークレットを持つ手を突き付けられたので、美咲は仕方なくサークレットを受け取った。
ずしりとした重みと、金属の冷たさを感じる。感じる重さと感触は、断じてプラスチックのものではなかった。プラスチックなら、美咲が思わず取り落としそうになるほど重くはないはずだ。
数値に直せばそれほどの重さではないのだろうけれど、それでも装飾品として考えるなら、結構重い。或いは、美咲が非力だから余計にそう感じるのかもしれない。
体育が苦手というわけではないが、かといって得意というわけもでない。美咲の運動神経は、どこにでもいるような、同年代の大多数の女子と同じ程度だ。
ローブ姿の誰かは、己の人差し指で、自分の額をとんとんと叩いてみせた。どうやら付けろということらしい。
額に付けようとして、少し逡巡する。
美咲の目には何の変哲もないサークレットにしか見えないが、付けても大丈夫なのだろうか。
頭の中を、一瞬いつか読んだ小説やゲームの題名が過ぎる。
付けたが最後外れなくなって電流を流されるようになったり、サークレットに潜む魂に身体を乗っ取られたりしないだろうか。
(って、フィクションと現実を混同しちゃ駄目でしょ、私。……でも、状況が状況だし、万が一って可能性もある、かも?)
こんなもの、笑い飛ばして付けてしまえばいいと理性は囁くが、どうも何かのフラグにしか思えない。そう考えると、手の中のサークレットがいかにも怪しげな輝きを放っているように思えてくる。
躊躇っている美咲の態度に業を煮やしたのか、ローブ姿の不審人物が美咲の手からサークレットを取り上げ、強引に美咲の額にはめた。
成人男性に合わせて作られていたのか、やや大きめだったサークレットが収縮して、ちょうどいい大きさに収まる。
「あ」
吃驚した美咲は身体を震わせて、反射的にサークレットを外そうと手を伸ばす。
その手はすぐにローブ姿の誰かに遮られた。見上げると、ゆっくりと首を横に振られる。外すな、ということらしい。
しばらくしても自分の身に何も起こらなかったので、美咲は少し安心した。
現実のはずなのに、美咲は何故かフィクション染みた状況に置かれている。これは結構怖い。
不審人物が懐から手鏡を取り出し、美咲に差し出す。
促されるままに手鏡を覗き込むと、額を横切り燦然と輝く白金の台の上で、まるで第三の目のように紅玉が煌いているのが見えた。
ごく一般的な高校の制服を着込んだ日本人である美咲には、あまりにもサークレットはアンバランスに見えて、美咲は自分がしていることの馬鹿らしさに少し泣きたくなった。
「私の言葉が分かりますか?」
ローブ姿の人物から奇麗なソプラノの女声が飛び出し、美咲は驚いてぽかんと口を開けた。
まさかの、正体が女性だったことにも驚いたが、それ以上に驚いたのが、言語だった。彼女は、間違いなく日本語を話していた。
よく見ればローブ姿の彼女は華奢で、ゆったりとした作りのローブなので分かり辛いが、初めからそのつもりで見れば分かる程度の膨らみがあった。
しかも声はまだ幼さを残していて、背格好といい、どうも美咲には自分と同じくらいの年齢に思える。
不審人物が少女で、しかも同年代かもしれないことに少しばかり安心した美咲は、声を上ずらせて尋ねた。
「はい。分かります。あの、これ、何かの撮影ですか? 視聴者参加型の、ドッキリとかだったり?」
「あなたからの質問は求めていません」
美咲にしてみればごく真っ当な質問をぴしゃりと撥ね退けられ、鼻白んで口を噤む。
事情を知りたいだけなのに、それすらも駄目なのかと、美咲は唇を噛み締める。
番組を面白くしたいのは分かるが、役に入り込み過ぎだろう。
第一、同意を得ずに無理やり撮影に参加させるなど、倫理的に問題がある。これでは拉致と何も変わらない。訴えられたらどうするつもりなのだろうか。
困惑する美咲の様子など知らぬ気に、少女は静かな声で、用意されていた台詞を読み上げるかのような平坦さで予定を告げた。
「これから王子殿下に謁見していただきます。高貴な身分のお方ですので、くれぐれも粗相のないように。ではついてきてください」
感情を感じさせない冷たい声音で一方的に話を進めるローブの少女は、美咲がついてくるのは当然だというような態度で、もう話は済んだとばかりに背を向ける。
全く意味が分からない美咲がポカンと馬鹿みたいに口を開けて見ている中、少女は部屋から出て行こうとした。その動作には、全く躊躇いがなく、まるで美咲がついてくることが当然と考えているかのようだった。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 全然意味分かんない! カメラどこよ! 責任者は!? スタッフもどこかで見てるんでしょ! 出しなさいよ! そもそもどうして私こんなところにいるの!?」
少女の背中が消え去る前に慌てて声をかけると、少女は僅かに苛立った様子で足音を響かせて振り向く。
「必要な説明は後でなされるでしょう。事情を知りたければ今はとにかくついてきなさい」
唖然とする美咲を無視して、少女の姿はどんどん小さくなっていく。少女は振り返る素振りすら見せる気配がなく、このままでは本当に置いていかれそうだ。
「……分かったわよ! 行けばいいんでしょ、行けば!」
食い下がっても埒が明かないと悟った美咲は、悪態をつきながら少女の後を追った。
■ □ ■
少女の後ろを歩いて螺旋状の石階段を上るうちに、美咲は今まで自分がいた場所が地下室であったことに気が付いた。
両腕を摩っているうちに、寒さで悴んでいた手がじんわりと温まってくる。
辺りは薄暗いものの、ずっと上の方の壁には明り取り用の窓が備え付けられており、そこから微かに柔らかな日差しが差し込んでいる。
日差しを浴びるのは、石造りの部屋で冷えた体を温めるのにちょうど良かったが、窓ガラスの一つも嵌っていない事が気になる。虫が入ってきてしまわないか心配だ。美咲は虫が苦手だった。
前を歩くローブの少女をそっと盗み見る。
地上に出てからも大きな廊下を延々歩き、階段を上り下りし、どこまで歩くのだろうと美咲が今の状況に不安を覚え始めた頃、ローブの少女は足を止めて振り向いた。
目の前には扉がある。どうやら、少女は美咲をこの部屋の中に案内したいようだ。
「こちらです。王子殿下がお待ちです。参りましょう」
鎧を着込んで腰に剣を佩いた近衛らしいこれまた時代錯誤な西洋鎧姿の男に少女が声をかけると、近衛が頷いて中に声をかけ、そっと扉を押し開く。
(──すごい)
扉の隙間から目に飛び込んできた光景に、美咲は為す術も無く圧倒された。
美咲が知る一般的な現代家屋に比べて遥かに広い。調度品が部屋の照明に照らされ、金や銀といった貴金属や、宝石で出来ている部分が光に反射してきらきらと輝いている。
部屋の中には精緻な意匠を凝らされた家具が配置されており、部屋の主の地位の高さを現していた。
「ベルアニアへようこそ。待っていたよ。異世界の勇者よ」
部屋の主は金髪の巻き毛を持つ美青年だった。
先に中に入って片膝をついたローブの少女が、立ちっ放しだった美咲を物凄くきつい目で睨んできたので、美咲も分けが分からないまま真似をして膝をつく。
王子と呼ばれた美青年は傅かれることが当たり前のような態度で、自分を熱い視線で見つめる少女と憤懣やるかたない表情で俯く美咲を一瞥すると、満足そうに笑った。
「君が無事召喚されたことをとても喜ばしく思う。さっそくだが、君には我ら人族を滅ぼそうとしている魔王を打ち倒してもらいたい」
辛うじて堪えることが出来たものの、あともう少しで、美咲は顔を上げて目の前の青年に「あんた何言ってるの?」と素で聞き返すところだった。
状況を理解できていない美咲には、これも全て役者が演技をしているかのようにしか思えなかったからだ。しかも彼の態度はかなり自然で、実力の高さを窺わせる演技力だった。
わざわざただの女子高校生である美咲をドッキリに嵌めるために、こんな美形で実力派の外国人俳優を連れてくるとか、はっきり言ってテレビ局は資金の無駄使いをしている。こんな無駄なことをしてないで、もっと別のことに心血を注いで欲しいと美咲は思った。もしかして暇なのだろうか。
そもそもベルアニアとか異世界の勇者とか魔王とか、美咲にとって戯言としか思えないワードが自称王子な美青年の口から当たり前のように出てきた時点で、事前知識を与えられていない美咲にはそれすら意味不明だった。
「勇者の剣をここへ」
王子の声に、直立不動で部屋の置物と化していた近衛の一人が、王子の前に出て恭しく一振りの剣を捧げ持つ。
あまり美術品などの造詣には深くない美咲であっても、ひと目で高価なものだと分かる剣だった。
鞘は大小様々な宝石で華麗に彩られ、柄には大粒のダイヤモンドらしき宝玉が嵌っている。今は鞘に隠れていて見えないが、きっと刀身も鞘と柄に見劣りしないものであるのに違いない。
「さて。勇者よ、まずは君の名前を聞かせて欲しい」
そんなことよりさっさと自分を家に帰せと美咲は言いたかったが、周りの状況がそれを許しそうな感じではなかったので、美咲は大人しく名乗る。
この状況も、テレビを通じて誰かに見られているのだろうか。そう思うと腹が立った。
「……美咲です」
苗字を名乗らなかったのは精一杯の反抗だったが、王子は気に留めることすらしないようで鷹揚に頷くと立ち上がり、近衛の手から剣を取り上げ、鞘から引き抜いた。
建物の中でさえ冴え冴えとした鋼の輝きに、美咲は反射的に身体を強張らせる。
(に、偽物よね?)
当然の常識としてそう思うが、己を納得させるには、剣の輝きは眩く、鋭すぎた。
美咲の肩に、王子はそっと剣の腹を乗せた。
(ひっ)
肩を通じて、剣の重みと冷たさが服越しに美咲の肌に伝わってくる。刃が冷気を帯びているような感覚がして、美咲はぶるりと身を震わせた。
「勇者美咲よ。汝は我ら人族の希望である。この勇者の剣と汝の命に賭けて、魔王を討つことを我がフェルディナントの名において此処に命ず。反撃の狼煙を告げる鏑矢とならんことを」
きょとんした顔の美咲を置いてきぼりにして、儀式は淡々と続けられていく。
「恐怖を忘れるな。されど常に勇猛であれ。弱者には常に優しく、強者には果敢に立ち向かえ。己を律せよ。いかなる時も堂々と振る舞え。最期のその時まで人類を守る盾となり、魔王を討つ矛となれ。その身は、死が訪れるまで永遠に勇者である」
仰々しく述べていた王子は、言葉を切ると美咲の鼻先に剣を突きつけ、そのまま黙り込んだ。
何をすればいいのかも、どうしてこうなっているのかもまるで分からない美咲がそのまま黙っていると、王子の眦が不機嫌そうに段々釣り上がっていく。
(何なの、これ。全然意味分かんないよ)
ドッキリの対象である美咲が思うような反応をしないことに苛立っているのかもしれないが、仕方ない。それらしくして欲しかったら、美咲のような一般人ではなく、プロのリアクション芸人でも連れてくればいいのだ。そもそも素人を、しかも断りも入れずに無断で連れてくる意味が分からない。
「……剣に口付けを捧げるのです」
美咲が弱りきっていると、出し抜けに横から声がする。
反射的に振り向くとローブ姿の少女が膝をつき、俯いて床を見つめていた。
「早くしなさい。殿下を待たせるつもりですか」
誰とも目を合わさないまま、隣にいる美咲がようやく聞き取れる程度の声で、少女は囁く。
聞きたいことが山ほどあったが、少女は質問など許さぬとばかりに、それ以上取り付く島も無い。
仕方なく、美咲は言われた通りに自分の突きつけられた剣に接吻した。
(無機物だからノーカウント。無機物だからノーカウント)
頭の中で必死にこのファーストキスは無効だと言い聞かせている。美咲は実はまだキスすら未経験だった。
王子は剣を鞘に収めると、鞘ごと剣を美咲に差し出してきた。状況についていけていない美咲がいつまで経っても受け取ろうとしないので、半ば強引に受け取らせる。
押し付けられた剣を持って、美咲は驚いた。
(あれ? 思ってたより軽い)
剣は美咲の細腕でも充分に持てる程度の重さしかなかった。
やっぱり撮影用の小道具で、本物ではないのかと美咲は思った。
「色々と考えるべきこともあろう。今夜は城にて身体を休め、明朝に出発するがいい。明日までには旅に必要な物資と軍資金を用意させよう。詳しい事情は召喚術師のエルナに尋ねるといい。話は以上だ。退出せよ」
ローブ姿の少女が立ち上がり王子に一礼すると、どうすればいいのか分からない様子の美咲の手を取り、歩き出す。
手を引かれたまま美咲が廊下に出ると、重い音を立てて扉が閉まる。
入った時と同じ場所に、近衛が直立不動で立っていた。
少女は繋いでいた手を解くと、片手で被っていたフードを取った。
さらりとした銀髪が流れ、髪の間から二本の耳がぴょこりと立つ。
目が覚めてから、今日だけで何度も驚かされてきた美咲だが、ここでこの日一番の衝撃を受けた。
美咲の目にはどこからどう見ても、兎の耳にしか見えなかった。
「自己紹介が遅れました。私はエルナといいます。以後お見知りおきを」
「……うさぎ?」
思わず美咲が呟いた言葉が聞こえなかったのか、あるいは意図的に無視したのか、少女は何事もなかったかのように流す。
「まずは城に居る間、あなたが滞在する部屋にご案内します。色々聞きたいこともあるでしょうから、しばらくはそこでお話しましょう。よろしいですね?」
答えずに、美咲は無言のままエルナと名乗った少女の頭から伸びるウサ耳を掴み、引っ張った。
「いたっ! 何するんですか!」
当然のごとく手を払われたが、美咲はそれどころではない。
このウサ耳、本物だ。