あなたで良かった
昔書いた小説です。
気に入ってるのでたくさんの方に読んでもらいたくて載せました。
読んでみていただけると嬉しいです。
昔々、あるところに山を隔てた小さな村がありました。その村は雨が降らず災難続きで、作物は枯れ果て村人たちは泣く泣く暮らしておりました。
在るとき一人の村人が『山の神様のお怒り』だと言い、誰か生け贄を捧げなくては雨は降らないと言いました。そこで生け贄にまだ幼い村娘が決まり、母親は泣く泣く娘を『山の神様』の元に在る小さな祠に寄越しました。
そうすると村に雨が降り始め作物はどんどん育ち一年が経った頃、村は裕福になって来ました。
しかし今度は村人たちは生け贄に出した小さな村娘が気の毒になり助けに行こうと、村の若い衆が娘を助けに山に向かいました。
娘は最初は泣いてばかりで、ご飯も食べずに過ごして居ましたが、山には神様では無く一人の若者が住んでおりまして、山に捨てられた娘をその若者が育てておりました。
娘が山に捨てられ一年は十分だった、その村娘と若者は愛し合うようになって居ました。そこへ村人たちがやって来て娘を無理やり若者から奪い取ってしまい、村人は若者を『神』では無く『山に住む鬼』と呼び娘の前で殺してしまいました。
娘は今度こそ大泣きをしてしまい、毎日泣き暮らして居ましたが、娘の声が山に届き若者は本物の『鬼』として生き返り、村を襲い娘の元に向かいましたが、一足遅く娘は泣き死んでおりました。『鬼』も泣く泣く娘の亡きがらと共に山に帰って行きました。
その村は娘と鬼の涙に埋もれ湖の下になってしまいました。
その後は『鬼』は娘を思い何十年も何百年もその山で一人で暮らしたと言われております。
いつしか『鬼』の髪の毛も銀色へと変化をしてゆき、一人で居るのも心細くなったころ、山に一人の娘がやってきました。その娘はあの村娘の生まれ変わった姿で『鬼』に会いに来たのでした。
それから鬼は一人ではなくなり生涯娘と幸せに暮らして行きました。
「朗、行くわよ」
「うん…」
三日前に優しかった祖父が亡くなった。朗が高校進学して直ぐのことだ。
桜の花もすっかり散ってしまい、もう夏の花の芽が顔を出していた。
祖父はわかって居たかのように笑ってさよならを言っていた。
「おじいちゃん又来るね」
祖父の墓の前で別れの挨拶を済ませ、朗はその場を離れる。けれど、まるで後ろ髪を引っ張られているようにその場から離れるのにためらいがあった。
「朗、どうしたの」
いつまでも、その場から離れない朗に母が声を掛ける。
「ぁ、今行く」
母に呼ばれ朗は出口に足を向ける。その一瞬強い風が吹いた。髪をかき揚げながらもう一度後ろを振り向くと、祖父の墓の前に見知らぬ青年が立って居た。
あれ、いつの間に…。朗はその青年の長い銀色の髪がやけに目に焼き付いた。
「おじいちゃんの知り合いなのかな……」
そう思ったのはその青年が、祖父が生前好んで居た芝居の出立ちによく似た着物姿であったからだった。銀色の髪と金色を織り込んだ袴姿。その姿はとても現代には不釣り合いなものがあった。まるで、そう……中世の世を重い浮かべるのに十分な出立ちであった。
それがとても気になりながらも、先に歩いて行く両親の後を、朗は駆け足で追いかけて行った。 「待ってよ、母さん」
祖父の葬儀から幾日か経った日曜日。やっと家の中のドタドタが落ち着いた頃、母が古いアルバムを居間に持ち出して来た。
「これ、おじいちゃんのアルバムなのよ」紙で作られた表紙が褐色に変化しており、虫食いの場所が幾らかあった。触るだけで崩れてしまいそうなその表紙を手にし、捲ってみる。祖母と一緒になった頃からの写真だった。まだ若い顔の祖父に自分の知った顔の祖父と重なる。明治の後期に生まれの祖父の表情はとても凛としていた。
「懐かしいわね」母の昔を思い出す声に、朗はつい先日の銀色の髪の青年を思い出した。
「ねえ、母さん」
朗は母に葬儀後の祖父の墓の前で会った青年について聞いてみた。
「おじいちやんの知り合いかな?」
母はしばらく唸っていたが「聞き覚えがあるような気はするのよね」と旨く思い出せないようだった。 けれど祖父に関係のある人ならば何等不思議なことでは無い。母の様子だと、何処かで祖父に聞いたようだと。 ただ朗は気になった。何故か頭の中からあの面影が忘れられないのだ。祖父の墓の前で立ったままの寂しそうな後ろ姿。もう一度会いたいと思ってしまう。どうして? と、自分に問いかけても見るが、解らない。朗は自分に何かの引っ掛かりを感じつつ祖父のアルバムをまた一ページ捲った。 が、そこに挟んであった紙切れが一枚宙に舞う。手にとって見る『捺羽』と一言、紙切れにはそう書かれてある。これは見覚えのある祖父の文字であった。
「捺羽…なつは? って読むのかな。どういう意味なんだろう」
祖父は自分の事はあまり多くは語らない人だった。ただ時折昔話を聞かせてくれた思い出はある。 それはどんな話だったのだろうか。変色してしまっている紙切れを持ったまま、朗はしばらくそれに見入っていた。
遠くで玄関の呼び鈴が鳴り母がいそいそと出て行く音が聞こえた。
「朗、お友達来たわよ」
母が玄関先で朗の友人の訪問を告げる。
「はーいっ」そういえば、約束をしていたと思い出し、朗は祖父のアルバムを閉じた。
朗は高校入学してすぐの頃に祖父が亡くなったと、学校に連絡が来たためにクラスでは初っ端に目立ってしまったのである。お陰でちょっと浮いてしまったが、友達もまぁ、すぐ出来た。すっかり暖かくなった気候に、朗は上着も掛けずに玄関から飛び出して行った。一瞬騒がしくなったわが家に母はやれやれと居間に戻り、だしっぱなしの祖父のアルバムを元あった場所に締まった。自分の足音だけとなったわが家を母親は、この間にとおもむろながらに掃除を始めた。
夕食がいつもの様に済み朗は二階の自分の部屋に戻る。居間では両親の話す声がぼそぼそと朗の耳に届く。食後にベッドに横になったのがいけなかったのか、朗はそのまま眠ってしまっていた。ふと、目を覚ましたときは両親の声も届いて来なく、階下を覗くと下の階は電気がすっかり消えていた。
「いま、何時だぁ」
目の前にある目覚まし時計を手に取り夜中の二時なのを確認する。
「あぁ…」寝起きで体温の下がったせいか、少し肌寒かったが体温は一枚カーディガンを羽織ればすぐに戻って来た。
湿った部屋の空気を入れ替えると同時に気分転換の為に窓を開けると、心地いい風が吹いてくる。 すると視界の隅にぼんやりと光る影を見つけた。街頭の光の届かない場所に誰かが居る。
誰? なのだろう。僕の家を見てるの……。
「えっっ」
あの影は、そうだあの日、祖父の墓の前で見たあの人。銀色の髪の色の青年。まるでその人自身が光っているようにぼんやりと暗闇に浮かび上がっている影。乗り出すようにその人を擬視する二階の朗と目があった。
「待って」
それが声に出るか出ないかのうちに朗は駆け出していた。
玄関のドアを乱暴に開け飛び出す。その人は、その場に待って居てくれていた。始めて見た時とは違って薄く笑って。
「桂の子だな」
その人の最初の言葉だった。母さんの名前だ。
「母…を知っているんですか?」
「ああ、よく知っている。生まれたときからな」
朗にとってよく分からない言葉が続く。母を生まれたときから知っている……?
「母の知り合いなんですか?」
その人は笑う。
「お前はどちらかと言うと絹代似だな」
「えっ……」それは祖父より以前に亡くなった祖母の名だった。
「私は圭吾を知っているものだよ」母でもなく祖母でもなく、祖父の知り合いだったのだ…やはり。 けれどもこの人は母より若いのではないのか?
「済まないな、少し遠くからお前達を見ていたかったものでな」あの日見た装いとは違って今日は全体が白色で染まっていた。けれどあの日見たのと同じような着物の出で立ちであった。この色がこの暗闇の中でもこの人を浮かび上がらせていたのだろうか。まだ年格好の若いこの人に朗は、なぜか目の前で威圧感を感じてしまっていた。
「名前、聞いてもいいですか」青年を見上げる格好で朗は一番聞きたかった質問を口にした。
「私の名は捺羽」ああ、思ったとおりた。祖父のもっていた古めかしい紙切れに残された文字。
朗はその人を見つめる。何か聞きたい何か伝えたい。けれど口が動かない。どこまでこの人に触れてもいいのだろうか。まるで現実のものでないようなこの人に……。
「お前は私が恐ろしくはないのか」目の前のこの人は寂しそうにそう問いかける。
「恐ろしくはありません」
これだけはそう答える事が出来る。初めて見かけた時からもう一度会いたいと思ったから。なぜこの人はこんなにも寂しそうなのだろうか、朗は不思議でならなかった。
こんなにも美しいこの人に……。
「そうか…」 捺羽は静かに笑う。暗闇に捺羽の姿が怪しくこの世に浮かぶ。恐ろしいとも怖いとも思わない。ただ見入ってしまう。すべてを奪われそうになる。
「お前の名は」
「朗です」
「朗…か。いい名だな」
目の前のこの人の姿はきっと異形と言うのだろう。この世の人ではないと朗は思うようにもなった。それがこの人の寂しそうな姿の答え……。
「もう帰りなさい」捺羽の手は優しく朗の髪に触れ、朗の冷えきった体に告げた。
「また会えますか…ならば僕は帰ります」
「分かった、約束しよう」捺羽はそう答えると、朗の前から去って行ってしまった。
「…捺羽さ……ん……」祖父の残した名の存在。祖父はあの人とどの様にして知り合ったのだろうか。朗は冷えた体の肩を手のひらで摩りながら我が家の門を潜った。
風が強く吹く。何時だったか菖蒲と見た雪とあの頃圭吾と見た桜。
どちらも今は舞うことはない……。
私はいつまで此処に居るのだろう。
「くしゅん」寝起きの一言がこれだった。もう春だというのに昨晩カーディガン一枚で外に出ただけで風邪を引いてしまったらしい。
「くしゅん」また、クシャミ。
顔が火照ってるのが分かってしまう。
「ううっ、風邪だな」
「どうするの、学校」母はいつまでも下に降りて来ない息子の様子を覗きにきて、赤い顔でクシャミを連呼する息子を見た。
「どうしたらこの気候で風邪をこじらせるのかしら」おでこに手を当てる。
「少し熱があるわね」仕方ないわね。と母の顔に書いてあった。
「今日は休んでなさい。後でお粥と薬をもってくるから」朗はうなづいて布団に潜り込んだ。
しばらく経つと母が階段を上がってくる音が聞こえる。
「朗、ご飯食べてしまいなさい」太陽の光がまぶしく部屋を照らす。母がカーテンを開けるのに気づいて朗はベッドから体を起こした。母の持って来たお盆にはお粥と風邪薬が乗ってある。
「母さんね、ちょっと出掛けないと行けないのよ」お留守番大丈夫ね。と後に続くが、一体息子の年齢が幾つだと思っているんだろうか。「大丈夫だよ」お粥を口に運びながらそう答えたが、お粥に少し物足りなさを感じた。結構元気らしい。薬を飲めば、また一眠りできるだろう。お盆はそのままでいいと言い残して、母は朗の部屋を後にした。
ゆっくりと。ゆっくりと朗に眠りが襲い掛かってくる。心地よい眠りが再び朗を夢のなかに落とした。
『朗…眠れないのかい。それじゃあ、おじいちゃんがお話しをしてあげようね』 おじいちゃん……? まだ幼い朗の側におじいちゃんが居る。
『うん』祖父の語る優しい声に朗は何時も安心して眠ることが出来た。何時からだろう、祖父のこの御伽話を聞かなくなったのは…。深く、深く眠りに落ちて行く。夢を見ることのない場所へと沈んでいった。『銀の…』頭を掠った言葉も分からなくなってしまう空間へ…。
「ん…」寝過ぎで体に妙な癖がついてしまったらしい。
「うっ、いたたっ」沈みかけた太陽が眩しく朗の目に写る。一日中眠っていたらしい。おかげですっかり熱も下がり、おなかの虫が鳴く。いつの間にか母が戻って来ており台所の音が朗の耳にも届く。長い睡眠時間が朗の中の時間までも狂ってしまったかのようだった。まるで何もなかったように当たり前の時間がいつものように過ぎて行く。
「朗ご飯食べれる」母が朗の部屋のドアを叩きながら息子のようすを伺う。
「食べるよ」朗は自分の部屋を後にした。
朗は昨日のことを何度も反復してみる。
昨日、朗の会った捺羽と名乗る美しい青年は幻のような人だった……。あまりにも不思議で不自然な存在…。まるでその人は物語から抜け出して来るのではないかとも感じる感覚に陥ってしまう。
『また会える』それが今日と言う約束ではないが、なぜか朗は会いたかった。
捺羽に……。
あの不自然な存在のせいか、いつまでも側には居ないのではないか、と。それが朗をあせらす原因。もはや約束すらあやふやなものではないのか。
「捺羽さん」朗は両親の目を盗んで、家から余り離れて居ない程度の距離を少しうろうろと足を運んだ。風邪をこじらせた昨日の今日なのだ。一枚多めに上着を着込み音を立てずに玄関を抜け出した。偶然でもいい、会えたならと。近所の公園の緑の芽を付けた木々は仄かな街頭に照らされている。
「あっ…」捺羽は居たのだ。数本の桜の木があるだけの小さな公園に一人佇んでそこに居た。
もうすっかり花の散ってしまった、桜の木を見上げるように見つめている。
「圭吾…」捺羽の悲しそうな呟きが聞こえた。
「圭吾、もう会えないのだな……」祖父の名を愛しい人の名のように、もう一度捺羽は口にする。朗はためらいながら声を掛ける。捺羽はゆっくり人の声のするほうに振り向いた。
「捺羽さん……」
「朗か」先程までの顔と違い、捺羽のその顔は穏やかに笑っていた。「よく来たな」朗はその声で捺羽の元へ駆け出していた。側まで来て歩く速度を落とす。間近になる捺羽の顔に朗は胸が閉まる思いがした。再び間近で見る、まるで作り物のような美しい顔に見とれながら……。
「まさか桂の子と肩を並べるとは思いもしなかったな…」捺羽は目の前にいる朗にそう言って髪を撫でてくれた。
母の子だから、祖父の孫だから捺羽は朗の前にいるのだろう。
「母はあなたの事を知っているんですか」
「桂には姿を見せたことは無い」朗は母の言葉を思い出す。『どこかで聞いた』それならばきっと母は祖父から聞いたのかだろう。
「なら…祖父とは、おじいちゃんとは、どんな関係だったのですか」朗の一番聞きたかった事。捺羽にとって祖父はどのような存在なのだろうか。
「ただ圭吾を知っている者としか、私には言うことが出来ない」それはどう言う意味なのだろうか。 「圭吾は私を嫌っていたからな」捺羽は寂しそうに語る。それは嘘だ。でなければ祖父は母に語りはしないし、あんな紙切れも残しておくはずが無い。
「そんな…」祖父と捺羽には一体どんな事が在ったのだろうか。
「私はお前達が忌み嫌ってる存在だ。『鬼』と呼ぶのが一番似合っているかも知れない。そんな私を圭吾は許してはくれまい。私は人では無いのだよ……」
やはりそうだ捺羽はこの世の者では無い…。それがこの人の寂しい笑みの一つだったのだ……。
「知っていました。あなたが人でないことは」でなければあなたは不自然過ぎる…。
「では、あなたは祖父をどのように思っていたのですか…」朗は祖父がどのように捺羽を思っていたのではなく、捺羽自身が祖父の事をどのように思っていたのかが知りたかったのだ。
「私は圭吾を愛していた」
やはりそうだった。目の前のこの人は祖父を人の身でなく愛したのだ。 どのようにして祖父と知り得たのか。祖父を愛したのか……。
「私も昔は人で在ったのだよ。誰かに聞いてほしいのかもな…」
捺羽がそう言って語ってくれた。人の身で在った時の話を。
今から千年の昔捺羽は人であったと。そこで『菖蒲』という娘と出会った。菖蒲は捺羽の暮らす山の一族と違い、山の下で暮らす種族の人々だった。捺羽の一族は神憑りな力を少々もっており、時折『神様』と呼ばれて居たという。
在るとき菖蒲と言う娘が山の下の村からやって来て、娘を差し出すから村に雨を降らしてください、と言うのだった。自然は捺羽達はどうすることも出来ず、ただその娘を大切に迎えたらしい。ただこの小さな娘の為に雨を降らしてくださいと願った。そして村に雨が降って暫く経った頃、菖蒲も連れ戻されたのだ。菖蒲を追い捺羽はその村人に殺されてしまったのだという。
「ただ、そのときの菖蒲の泣き顔が私から離れないのだ」捺羽の意識の薄れてゆくなか、菖蒲の泣きながら捺羽を呼ぶ声だけがいつまでも聞こえていた。捺羽はそのときに菖蒲に笑ってもらいたい一心で、人の姿を捨てていたという。
「気づけば私は人の身ではなかったが、菖蒲が笑ってくれるのなら私はどちらでも良かったのだ」
ただ菖蒲を抱き締めて大丈夫だと言ってやりたかった、と……。
「私は菖蒲を探した。もう死んでいたと言うのにも気づかずに…」菖蒲は村に戻った頃死んでいたのだと。目の前で愛する人を失って菖蒲は毎日泣きながら、なにも口にせず、なにも飲まずに死んでいったらしい。
「それから九百年私は菖蒲を探した」
まさか…まさか。
「それが、おじいちゃん…だったの…」朗の声が掠れる。
「ああ、圭吾は菖蒲の生まれ変わりだ」祖父の両親が亡くなり、祖母の元に引き取られたころ、捺羽は祖父に会ったという。朗の祖父の圭吾と祖母の絹代は従兄弟同士である。目の前の捺羽が人で無い身であることは認められても、朗は菖蒲と祖父の関係にはなんとなく実感の出来ないものがあった。
「だって、おじいちゃんが…」捺羽は優しく微笑む。
「いいんだよ分からなくて、私はそれで圭吾を傷つけたのだから」
『私は菖蒲など知らない』圭吾の残した言葉だった。
まだ桜の花が満開に咲き乱れていた季節に圭吾と出会った。
「今の現在のように進化を遂げていなくても世は発展途上の頃。私のような姿はやはり異様な者でしか無かったが、けれど圭吾は私の姿を目に止めると『捺羽』と呟いてくれた」 祖父の記憶に捺羽の姿が残っていたのだ。
「しかし圭吾は菖蒲の、私を失った時の記憶の方が鮮明に残っていた」両親を失って、以前失ってしまったものをまた、この目で見る……。
祖父は圭吾は、捺羽を『鬼』と呼ばれる彼の人を強く拒んだのだそうだ。
「私は菖蒲などではない。お前の事は知っていた。でもそれは私では無く、私の魂の記憶でしかない…」捺羽が圭吾と出会った時、確かに捺羽は菖蒲の姿を探していた。圭吾に菖蒲を重ねた。それが一層圭吾を苦しめたのだ。
『私ではない』祖父も捺羽を探していたのではないのか。ただ、姿が変わらぬその身に傷ついたのでは無いのか。祖父も捺羽を愛していたのではないのか…。
『お前はいつまでそうして生きて行くのか。人でない身で何百年生きて来たのか』
「私もまた、お前を置き去りにして死んで行くよ」圭吾は寂しそうにそう言うと唇を強く咬んでいた。泣くのをこらえながら。捺羽はそれが愛しくて痛かった。圭吾は自分の為に泣いてくれているのだ。お互いの魂だけが求め合う。けれどそれだけでは人は生きて行けない……。
「私はお前ではなく、一人の人を愛して生きて行く」それが圭吾が捺羽に残した最後の言葉だった。 「その時私は他の誰でも無くただこの手で、圭吾を抱き締めてやりたかった…」菖蒲の琥珀色と違う漆黒の瞳を持つ圭吾に……。朗は思う、祖父の心のなかにはいつも捺羽が居たのだと…。そしてその圭吾の側には絹代がいつも居た。圭吾を支えるようにさりげなく。
「圭吾は絹代の事をとても大切に愛していたよ」
「うん」それは分かる。祖父は祖母と居るととても安心して居た。きっと祖母も知っていた、祖父の心の痛みを。
「そして桂と朗も」
「うん」祖父は愛してくれていた。娘の桂も孫の朗も…。
「私は菖蒲を探して圭吾と出会った。そしてそこで圭吾に恋をした」ただそれを圭吾に伝えたかった……。と捺羽は語る。
『私は二度、人を愛した』それを伝えるためにいつしか捺羽の前から姿を消した圭吾を探しつづけた……。
「僕では駄目ですか…」朗の中の祖父の血がそうさせるのか…、捺羽の、この人側に居たいと、朗はただ切実に思う。僕は、僕ならついていく……。朗は掠れた声を絞り出すように捺羽に告げる。
捺羽は優しく微笑む。いまだかって見たことのないような最上の笑みで。
「私はもう誰も愛さないよ」愛せない。捺羽は菖蒲と圭吾に良く似た面影を持つ朗にそう告げる。ただ人の一念だけで人でない身であり続けるのにも、あまりにも永すぎた。
「今度圭吾に会えたなら私はこれが最後だと思っていた」
「僕はあなたに会ったばかりだ」朗は捺羽に縋る。今にも消えてなくなりそうな、この人を離したくない。あのとき消えてしまわなかったのなら、もうあり得ないのなら。
せめて最後に一目、圭吾の姿を見届けたかった。
この『鬼』を止めるものは祖父への想い……。
別れ際に圭吾の呟いた言葉。
『もしお前が人の身であったのなら…私は…』けして一つには成れないのなら、共に歩んで行けぬのなら…その手を取ることはできない。「圭吾…」捺羽の姿は何時しか明るくなり始めた公園と、朝霧かかった周辺に溶け込んでいってしまう。銀色の髪が一瞬風で朗の目の前を掠って行く。
「お前に聞いてもらえて良かった…」雲の透き間から輝いた太陽の光に一瞬気を取られたその時。何もなかったかのように朗一人だけが公園に取り残されていた。
「捺羽……さ…………」朗の目の前が朝霧のせいで曇る。けして涙のせいなんかではない。自分すら気づかぬ間に朗の目から止めどなく涙が溢れ落ちていた。 朝霧が太陽の光で銀色に輝いた時、朗は思い出した。いつも祖父の語ってくれていた『銀色の鬼』の昔話を…。
「最後は幸せになるんだよね」
『生涯幸せに暮らしました』そう、祖父の綴った昔話の最後は、きっと祖父の願いだったのだ。
『愛している』と伝えられなかった祖父の想いだったのだ……。
「今日ねお父さんの夢を見たのよ。子供の頃良く話してくれた昔話をしてくれたの」
起きたばかりの母が枕元の父に語る。
「あまりにも昔過ぎて忘れてたのね……」桂は幼いころ父親が語ってくれていた昔話を夢の中で思い出していた。
『昔々、あるところに山を隔てた小さな村がありました……』
終わり




