第一章第一節『A Passion Day(最悪な一日) Phase.1』
ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ……。
一定の間隔で鳴る電子音に目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。どうやら俺は掛け布団をめくりもせず、その上に倒れこむような体勢でうつ伏せのまま寝おちてしまっていたらしい。
「……?」
……今、何時だ? 電灯がつけっぱなしで中途半端に明るい室内を見て、寝ぼけ眼の俺は時間感覚を見失っていた。
窓の遮光カーテンを縁取るようにして見える外は薄暗く、夕暮れ時か夜明け前かも分からない。もしかしたら曇っているだけで昼間なのかもしれない。
そもそもの話、俺はいつどうやって寝たんだっけ?
「…………」
完全に前後不覚だった。
電灯がジーっとかすかな音を立てる部屋で、俺はやたら空気に染みる寝不足の目を眇めつつ、枕の下から手探りで自分の腕時計を探し出す。さっきからずっと耳障りな電子音を立て続けているアラームをスヌーズすら許さずオフにし、俺は時計を顔のすぐ前まで持ってきた。
防水耐衝撃加工で、余計な機能が付いていなければ軍用にもなっていいくらい頑丈なその腕時計によると、現在時刻は6時半。日付と曜日を示す文字盤部分の傾きから推測するに今は月曜午前中――週の初めに当たる早朝だった。
「んー……」
俺は我ながら情けない唸り声をあげて顔を枕に埋める。
そういえばそうか。目覚ましが鳴ってる時点で、今が早朝なのは火を見るよりも明らかだ。
学校のある平日。しかも週明け初っ端からの6時半起き。
平凡な市立一般校に通う高校二年生としては、これ以上なくテンションが下がる寝起きのシチュエーションだろう。
しかもさらに悪いことに――眠い。とにかく眠い。まあ、昨日夜遅くまでオンラインゲームをやっていたという、完全に自業自得な理由なのだが。
疲れの取れてない目の下には明らかに疲労が溜まり、目の奥がじわーっとした痛みを訴え続けている。肩のコリも酷く、四肢に至っては若干痺れるような昏睡の余韻が残っている。胃や後頭部にいやーな熱が澱んでいるようで、意識は微睡みの余韻にまだ半ばほど浸かっていた。
二度寝は良くない。そんな事は百も承知だが、いかんせんこの睡眠への欲求は抑えられそうもなかった。
…………。
……。
。
暖かな微睡みの中に、俺が再び意識を手放そうとした時、
じりりりりりりりりぃん、じりりりりりりりりりぃん。
狙いすましたかの様に鳴り響いた携帯のアラーム音が、俺の意識をサルベージしたのであった。
・・・
昨晩の自分の策士ぶりに思いつく限りの恨み言を心中呟いてベッドを抜け出し、湧き上がってくるあくびを噛み殺しながら降りて行った先の階下。おいしそうな朝食の香りを嗅いで突然起き出してきた食欲に、俺、汐崎由弥はぼんやりとお腹空いたなとリビングドアのノブに手をかけた。
「おはよーお兄ちゃん。今日はちゃんと起きれたんだ」
入ってすぐ、台所のある背後から素っ気ない声がかけられた。いちいち振り向くまでもない。聞きなれた妹・由理の声だ。
「おはよう」
大きく一つあくびをしてリビングのテレビをつけ、チャンネルをいつもの朝のニュースにセットする。そのまま大して内容を聞くでもなくレースのカーテンがかかったリビングの窓際に寄って朝日を浴びるのが毎朝の日課だ。
「……っつぅ」
窓際で両手を上げて背骨を伸ばし、体幹を襲う心地よい痛みに思わずうめき声が漏れた。
「……行儀悪いよ、お兄ちゃん」
再び俺の背中にかけられた声に振り向くと、制服にエプロンで洗い物をする由理の呆れたような目が、体を伸ばした時に上下のパジャマの間から顔をのぞかせた俺の腹部に向けられていた。
俺は慌てて両手をおろす。
……いや別に、太鼓腹だったりあばら骨が透けたりする訳じゃないんだけどさ。別に筋肉質なわけでもなし、やたらと見せるものじゃないってだけ。マジで。
「かなめさんは?」
「いつもの」
誤魔化しもかねて何気なく浮かんだ質問を口にする俺に、妹はそれ以上何を言うでもなく端的にそう答え、水道のレバーを下ろしてタオルで手を拭いている。
いつもの。由理の言葉に俺は思わずリビングの隅に据えられた木製の扉に目を向ける。
「……また完徹したのね」
木目のきれいなその扉には、やたらファンシーなデザインで片隅に悲し気な泣き顔まで書き加えられた『仕事中』のプレートがかけられている。ホント仕事嫌いなのなあの人。
かなめさんと言うのは俺たち兄妹の保護者であり、続柄としては父の妹、つまりは叔母に当たる。俺たちの年齢から考えると随分と若い印象の叔母さんは、仕事の都合上二人して海外にいることが多い両親に変わって俺たちの保護者としてここに同居してもらっているのだ。
「お仕事はいいけど、あんまり引きこもっちゃ体に悪いだろうに」
かなめさんを心配して何気なく一人ごちた俺に、由理の「目の下隈作ってる人が良く言う」と手厳しいブーメランが返ってくる。痛った。
「なんかねー。締め切り近いんだって」
「毎度毎度大変だな」
商業作家としてそれなりに名の売れている叔母さんは、時折ああやって部屋に籠って執筆活動に励むことが多い。特に締め切りが近くなってくると何日か立て続けで部屋に籠るので、いつ過労で倒れるかいや実はもう中で倒れてるんじゃないかとハラハラさせられる日もままある。
「昨日の夜は食べてたんだから、明後日のお夕飯までは大丈夫でしょ」
エプロンを外してかけながら、由理がサラリととんでもないことを言い出す。……まあこのように、妹の口から日常的に『3・3・3の法則』が飛び出すほどに、締め切り前の汐崎家の叔母さんの行動は極端だという事だ。由理……かなめさんも水分は取ってると思うぞ、さすがに。
「ご飯早く食べちゃって、お兄ちゃん。私朝練遅れちゃう」
そう言って食卓の椅子を引く由理の目の前には、いつものように整然と用意された朝食の皿が並んでいた。おう、それじゃと返事を返して由理に倣って椅子を引き、俺はパジャマ姿のまま食卓についた。
「「いただきます」」
汐崎家の食卓には、今朝も二人分の声が響く。
・・・・・
「ちょっとホント大丈夫なの? それ」
早朝の住宅街。高校までの通学路を歩く俺に、横から心配するような声がかけられた。声の主である由理は、俺と同じ高校の通学かばんを部活で使う柔道着と一緒に手に提げ、眉をひそめつつ俺と並んで歩いていた。その由理の目線の向く先、俺の手の中に握られているのは年代物のガラパゴス携帯だ。
「大丈夫大丈夫。電源だって付くし液晶もキーも壊れてなさそうだから」
そう言いつつもてあそぶ俺の携帯の表面には、生活しているうえで仕方なく付く細かい傷の他に真新しい大きな擦り傷ができている。
「でも、過熱する事もあるんでしょ? バッテリー」
「んー……まあなー」
つい今朝方の事。食事を終えて身支度をしていた俺は、充電器のコードに足を引っかけて充電器ごと携帯を取り落としてしまったのだ。幸いなことに携帯は破損した様子も見られなかったが、バッテリー内部が破損している可能性を考慮してバッテリーだけ外し、現在は様子を見ている状態だ。
「過熱するときは火事になるくらい熱くなるらしいな」
「……身に着けてて大丈夫なの、ソレ?」
んーまあ、そうは言っても鞄の中に入れてて、気が付かない内に出火するのも困るし。そんな危険なものを半ば無人と化す自宅に置いておくのも怖い。正直、肌身離さず身に着けておいて、異常があったらすぐにその場で対応した方が危なくない様に思うのだ。
「ま。膨らんでくる様子もないし、十中八九大丈夫だろ」
俺はそう言いつつも、念のためバッテリーの入ったスラックスのポケットに手を差し入れる。やはり先ほどと変わらず、常温で薄い箱型のバッテリーパックだ。ホントに何の問題もなさそうでよかった。
・・・
「ふぁ……」
朝練に向かう由理と校門前で別れてから1分。下駄箱で上履きに履き替えた俺は、我慢しきれず喉元まで登ってくるあくびを噛み殺しながら、早朝でまだ人気の少ない学校の階段を前に立ち止っていた。
授業開始まであと1時間弱。いつもなら教室で本でも読みつつ過ごすところだが、今日は朝から寝不足で体全体が休息を求めていた。
教室で机に突っ伏して仮眠をとるのも一興なのかもしれないが、ちょっと足を延ばせば俺の所属する軍事研究同好会の部室に古い応接ソファーがある。どうせならそこで横になりたいと思ったのだ。
「…………」
寝不足の頭で何かを考えようかともしてみたが、うまくいくはずもない。俺は黙って、欲求に従っておくことに決めた。
本来ならここで、保健室のベッドで仮眠を取らせてもらうという選択肢を取るべきなのだっただろうが、いかんせんこれまで一度も経験のない俺としてはその発想自体がなかったのである。後々それに後悔するなどと、この時の俺は一切考えもしなかった。
・
特別教室棟は学校のもっとも奥まった場所にある。そこの三階の中ほどに俺が部長を務める軍事研の部室はある。
人気のない特別教室棟のまっすぐな廊下を進みながら、俺はポケットからキーホルダーにもなっている自分の財布を取り出した。その中から家の鍵や自転車の鍵に交じってぶら下がっている部室の鍵を選び出した。部長特権として学校から貸し出されているものだ。
元々は物理実験室だったらしいその教室は、他の特別教室と同じで普段授業を受ける教室より少し広いくらいなのだが――。据え置きの六人掛けの実験台が二列で並ぶ上に、その合間にも物理実験で使うような大型の器具や折り畳み机などの仮置き場として使われているせいでその半分近くデッドスペースになってしまっている。
それでもそんな狭い空間をそれなりに快適に使おうと工夫してきた結果が、現在の軍事研の部室である。
「あれ? 鍵開いてる……?」
扉の前に立って錠を開けようとした俺は、部室の鍵がすでに解錠されていることに気が付いて手を止めた。閉め忘れ? でも確か、教室の施錠は毎日担当の先生が見回るはずだし……誰か来てる? この早朝に?
そんな事を考えながら俺は何の警戒感も抱かず教室の引き戸を開けた。立て付けのあまりいいとは言えない古いスライドドアは、開くときにガラガラと大きな音を立てる。その音に呼応するように、部屋の中から何か重いものが落ちるような物音が聞こえてきた。
「びっ……くり、した。なんだ由弥、お前こんな朝早くから」
部室内から掛けられた声にそちらを振り向くと件の黒い応接用のソファに、女子生徒が一人座っていた。
いや――座っていると言うよりは、横になっていた所に俺が来て、慌てて跳び起きたという所だろうか。
繊細な銀髪とスラリと長い手足,遺伝子レベルで白い肌にブルーの瞳――と、日本国内の一般的な公立高校ではあまりにも特徴的な彼女の名前は、外見の印象に違わずエレノア・H・レーマンというそのままヨーロッパ系である。
外見の華やかさと言うか綺麗さとは裏腹に、「お化け屋敷に連れていく相手は?」と聞かれて大真面目に「陸軍一個師団」と答えた実績のある、まごうことなき軍事研部員のクラスメイトだ。
「脅かすなよな、ったく……」
エレノアはそう言ってソファの足元に落ちている通学かばんを拾い、それを抱くような形でひじ掛けを枕に横になる。さっきの何か落ちたような音は多分あの掛け布団代わりの鞄が立てたのだろう。
「お前、こんな朝っぱらから何してんだよ」
自分の鞄を実験台の一つに置きながら訊いた俺に、エレノアは不服そうに顔をしかめると「や。それうちのセリフでもあるから」と目を閉じた。
「昨日遅かった上に、今日は妹が早かったからな。ちょっと部室で休みに来たんだよ」
「ふーん……うちも大体一緒。今日は学校に早く来る用事があったから、部室に休みに来ただけ」
そう言ったエレノアの目元には、確かに寝不足によるものらしい隈ができている。エレノアも昨日のゲームの弊害が出ているらしい。
「昨日は惜しかったな」
適当に出してきたパイプ椅子に腰かけて、俺はエレノアにそう声をかける。
エレノアの戦死後、結局敵機甲部隊の大反攻にあった友軍は戦死者多数で戦線が崩壊。ミッションは未達成と言う結果に終わった。その後、作戦後会議と言う名の反省会で、ミッション攻略について参加メンバーとあれこれ相談している内に時間が過ぎ、ゲームそのものと言うよりもその反省会で俺たち二人ともこの有様だ。
「対甲能力持ってきてたお前が、真っ先に前線に突っ込んで死んでたからな。普通は対戦車能力を持った工兵は後ろで味方の支援をしつつ待機するもんなんだよ」
こりゃ厳しいご意見で。
完全に寝る体勢で目をつむったままそう言うエレノアの横顔に、俺は内心舌を出しつつも反省点として記憶に留めておこうと決める。
「ま。運が悪かったとはいえ、あそこで死んだうちも悪かったんだけどな」
冷静に分析しつつ、エレノアは寝返りを打って更に深くソファーに体を埋めた。
「始業前に起こしてくれ」
「いや。完全に俺任せなのかよ」
俺だって寝不足でここに来たんだけど。そう呟いた俺の主張は聞き届けられる様子もなく、エレノアは早速小さな寝息を立て始める。
「ったく……」
仕方がない。俺はこのパイプ椅子で、座ったまま寝るか……。
俺はため息を吐いて、念のためと分けて持ってきていたバッテリーを携帯に戻し、電源ボタンを長押しする。
ま、あれから結構経ってるし、大丈夫だろ。俺はそう独り言ち、起動画面が操作待機になるのを待って、アラーム機能で始業に余裕で間に合うようにタイマーをセット、さらに忘れないようにマナーモードも解除する。これで音が鳴らなくて二人とも遅刻とか、そういうオチだけは何としても回避したい。
画面上端のマナーモード・マークが消えている事をちゃんと確認し、俺は携帯を作業台の上に置いた。これで俺だけでなくエレノアにもアラームが聞こえるはずだ。
「あ。そう言えば……」
パイプ椅子に深く腰掛け腕を組んだ俺は、微睡み始めた意識の中で、エレノアに聞いていなかった事を一つ思い出した。
「エレノアの奴、どうやってここに入ったんだ……?」
部室のカギは、部長である俺以外は、部活の顧問である化学科教諭が持つ分と職員室・用務員室にある鍵だけのはず。職員室から仮眠をとると言う理由で鍵が借りられる訳もないし、大方先生から借りたのだろう。
まあ、後で聞けばいいか。薄れゆく意識の中そう結論付け、俺はそのまま眠りについたのである。