第3章 cの事件
第3章 cの事件
1.9月24日・金曜日(その1)
今朝も、からりと晴れて、先週の金曜日と同じような天気となった。空の青さや雲の量も同様である。風もほとんどなく、すっきりと快適な1日が始まった。
実は、大型で非常に勢力の強い、かつゆっくりとした速さで進んでいた、猛烈な台風12号が、関東地方に最も近づいたのが前日であり、一時的にもの凄い強い風が吹き、轟音を伴った夥しい量の雨が降ったり止んだりという状態であった。それでも、最悪、関東地方への豪腕台風の上陸が予想されていたのに対し、進路が少し東にそれたことで、なんとか上陸は免れたため、総雨量も当初の予想よりだいぶ少なく済み、今日まで影響することもなかったのだろう。
今はその雨もすっかり上がった。所謂台風一過の秋の日である。そのためか、東京の気温は、朝からぐんぐん上がって、午前9時近くで、既に摂氏20度を優に超えるほどになっていた。
システムエンジニアの山口貴之は、週末の朝から仕事に追われていた。9月末に、受注したシステムの納品をしなければならないからである。昨日は23日で、秋分の日であるから、世間一般的には当然休日となるべき日である。もう週休2日制が既に当たり前になっている昨今では、今日は休日の谷間なのだ。したがって、貴之の会社でも、それほど急ぎの仕事を抱えていない社員の中には、有給休暇をとって、4連休にする者も珍しくなかった。だが、貴之にとってはそんなことは言っていられなかった。ましてや、接近していた台風の強さや進路などは全く関係がなかった。貴之の勤める、株式会社千代田システムエンジニアリングが、渋谷のオフィスビルにシステム部の拠点を構える大手通信会社の経理システムの開発を、ほぼ半年前に一括受注したのである。貴之は開始当初からずっとそのシステム開発に携わっており、現在では、押しも押されぬ、その開発プロジェクトのキーマンの1人になっていた。その納品が今月の末に迫っていたのである。
忙しいのは勿論、貴之だけではなく、開発プロジェクトに参画しているメンバー全てのはずなのだが、開発したソフトウェアそのものの進捗としては、最終のテスト段階も順調に推移しており、完成も近づいているという状況であった。ソフトウェアだけを見た場合、スケジュール的には特に問題は発生していなかった。しかし、それに伴うドキュメント類(設計書、手順書などの文書のこと)が不足していたり、作成済ではあっても品質に問題のあるドキュメントがあったり、この時期に来て次々に不備が表面化し、キーマンである貴之と、優秀なヘルパーを幾人か集め、小数精鋭部隊で、急ピッチでドキュメントの作成、修正ならびに内容チェック、さらにはメンバーの作業調整まで行っている、といったところなのである。
システムエンジニアは、大きく分けて2種類に分かれる。1つは、コンピュータを動かすための、最も基本的な管理プログラム群(これをオペレーションシステム、略してOSという)や、ワープロ、表計算、ペインティング、ゲームなどのソフトウェアを自社開発し、市場に売り出し、一般ユーザを相手にするような、いわゆるプロダクトエンジニアとよばれるエンジニアである。
もう1つは、各企業や官公庁、教育機関などが抱えている、種々の問題を解決する(これをソリューションという)ために、それらから受注して、専用のシステムを構築する、ソリューションエンジニアと呼ばれるエンジニアである。比率から言うと、後者の方が圧倒的に多い。
さらに、ソリューションエンジニアは、コンピュータ機器や周辺機器、それらをつなぐネットワーク、並びにデータを格納するデータベースシステムの構築など、いわゆるインフラ部分に特化したエンジニアと、それらあらかじめ準備されたインフラの上で動く、様々な機能を入れ込んだソフトウェアを開発するエンジニアに分類されるのだ。これも、インフラのエンジニアより、ソフトウェアエンジニアの方が、数ははるかに多い。山口貴之も、そうしたソフトウェアエンジニアの1人であり、かれこれ14年目で、かなりベテランの域に達していた。
ソフトウェア開発には、様々な工程がある。
大きく分けると、顧客が何をしたいのかをまとめる要件定義フェーズ、要件定義に基づいて、システム的にどのような作りにしたら良いかを検討する設計フェーズ、その設計に基づいて、ソフトウェアの中軸をなすプログラムを作成する製造フェーズ、作成されたプログラムを中心として、システムが正しく動作するかどうかを検証するテストフェーズなどである。さらに、できあがったソフトウェアを納入し、システム的に稼動が始まると、今度はシステムの『運用・保守』が大事になってくるので、その辺もあわせて開発を行っていく必要があるし、場合によっては、運用担当者へのレクチャーや、保守担当者への引継ぎ等も、当たり前のことながら仕事の範疇に入ってくるのだ。
山口貴之は、ベテランエンジニアだけに、全てのフェーズを既に経験済みだが、最近は、各フェーズの作業を実際に行うのではなく、それらを管理、コントロールする、プロジェクトマネージャ的な役割をしていた。プロジェクト全体を仕切らなければならないことももちろんだが、顧客の立場から見ると、プロジェクト全体の開発窓口としての役割も担うことになる。すなわち、そのプロジェクトの顔であり、よって相当重い責任を背負う立場にいるわけなのである。
貴之は、宮部良彦と同い年で、ソリューション事業部・システム開発部に所属していた。その部署は、良彦が所属している部署と同じく、大手町のオフィスビルの一室にある。地下鉄の実に5路線が交差する、大手町駅から徒歩で3、4分ほどのところにある。が、2人のフロアは別になっている。主に金融関連のシステム担当である良彦は7階、通信・物流などの関連のシステム担当である貴之は8階のフロアにデスクを構えていた。
貴之は、まだ未婚で、目黒区の小山にある、ワンルームマンションに住んでいた。最寄駅は、東急目黒線の武蔵小山駅で、駅から徒歩10分ほどかかる。地下鉄の都営三田線が、東急目黒線と相互乗入を行っているため、大手町には乗り換えなしで行くことができるので、通勤は随分と便利である。自宅から会社までは、通勤時間40分程度見れば十分であった。
会社の始業時刻は、午前9時30分なのだが、貴之はここ最近、大体1時間前に出社して、開発作業(実はドキュメントの不備なのだが)の遅れを取り戻すべく、日夜努力をしているのである。ここ4、5日は帰宅時間も、ほとんどが終電という状態で、タクシーで帰宅した日もあるという有様だった。そういうわけで、昨日の秋分の日も、当然のごとく、休みなしで朝から1日出勤していたのだ。疲労は既にピークの直前まで来ていたが、努力の甲斐があって、ようやく何とか締め切りに間に合う見通しがたってきたのである。
(はぁ、ようやく先が見えてきた。もうひとがんばりだな・・・・)
貴之は、先週の金曜日、顧客との打合わせの中で、ドキュメント類の不足と、品質に問題のあるドキュメントがあることを、指摘された。この経理システム開発プロジェクトでは、毎週金曜日に顧客と定例会議を開いており、プロジェクトの進捗具合の確認や、課題の有無、課題があった場合の対応方法の協議、ドキュメントも含めた納品物件の品質評価等を行っている。先々週の定例会議では、スケジュール的にも品質的にも特に大きな問題は出ておらず、いつもより短い時間で散会したほどであったが、その翌週、つまり先週の定例会議で指摘を受けたわけである。納品時期が近づいていることもあり、顧客も納品物の再チェックを強化したことにほかならない。
実際に不足していたドキュメントは、『障害対応マニュアル』であった。これは、本稼動後に運用がはじまってから、何か障害が起きたときに、どのような対応をすればよいかの手順や注意点を、障害の内容毎に記載したドキュメントである。
もともと、プロジェクト開始時に、納品物のことを顧客とすり合わせをするのだが、障害対応マニュアルは、その時点で既に漏れていた。というより、プロジェクト開始時点では、運用開始後の障害発生時は、全てエンジニアへ連絡して、エンジニアが対処する、ということで顧客と合意しており、『障害発生時連絡先一覧』を納入することで話がついていたのだ。しかし、顧客側で協議した結果、障害の内容によって、例えば軽微な障害であれば、その都度いちいちエンジニアへ連絡して対処をするよりも、運用担当者が対応できるものはないのかどうかとか、とにかくなるべく短い時間で障害を復旧させたいと、ここにきて運用についてかなり敏感になってきたのである。それゆえ、新たに障害対応マニュアルを作成するよう、依頼してきたわけなのだ。確かに、障害の種類は多種多様だが、極端に言うと、運用担当者がマウスクリック数回で済むような、或いは2、3のコマンドを入力すれば解決するような障害も意外とある。本来、作成すべきドキュメント類は、プロジェクト開始時に合意済みだったわけで、新たなドキュメント作成を拒むことも契約的には当然可能なのだが、今後の付き合いのことも考えると、よほどのことがない限り、なかなかそういうわけにもいかず、悲しいかな要求を呑んでしまうのがこの業界の常となってしまっている。
それから、作成済みであるものの、品質が悪いと指摘されたドキュメントは、『運用手順書』であった。これは、システム開発時ではなく、運用時に必要な、運用担当者向けのドキュメントである。エンジニアには理解できるが、専門的な言葉で記載されてしまっているのが気になるとか、図や表が少なく、一見しても非常にわかりづらいという指摘を顧客より受けてしまった。
このように、指摘を受けたドキュメントは、2つとも運用関連のドキュメントであった。システムは、実は『運用・保守』が何よりも大事なはずなのであるが、システム開発を行うソリューションエンジニアは、どうしてもソフトウェアの開発そのものを重視しがちで、設計・製造・テストは十分な検討を行うのだが、何かと運用部分を軽視、あるいは後回しにするような風潮がどうしてもあるのが実情である。貴之も今回のことで、そのことをまざまざと見せられた形であり、しみじみとかみ締め、さらにしきりに反省するのであった。
朝からろくに休憩をとることもせず、ずっとドキュメント作成作業と、内容チェックをしていた貴之は、昼休みの開始を知らせる正午のチャイムで、ようやく時間の感覚が蘇ってきた。
(え、うわぁ、もうこんな時間か・・・・)
作業に追われ、それほど空腹感があるわけでもないのだが、一瞬健康のことが頭をよぎり、結局なにかしら胃に詰め込むことにした。この時間帯に人が集中する社員食堂で定食類を食べるほどの気力はなく、普段は滅多に行くことのない近くのコンビニエンスストアで、サンドイッチを1個とミルクティーのペットボトルを買うことにした。大手町という、完璧なまでのオフィス街の場所柄、ビル内に社員食堂的なものを完備しているところは多いのかもしれないが、ゆっくり昼食を摂れるような店が意外と少ないこともあってか、そのコンビニエンスストアは、弁当やパン、即席のカップ麺やスープ類、飲み物のペットボトルなどを抱えてレジに並ぶ、一目で昼食を求めるのだとわかる近くの会社員やOLたちで、異常な程ごった返していた。
(いつもこんなに混んでるのか。・・・・こんなに混雑しているなら、別に無理して食べることもなかったかなぁ)
健康のためと思ってしたことが、逆に気分的な疲れを増大させてしまったが、彼は自分のデスクに戻ってくると、買ってきたたまごサンドを少しずつ口に運んでは、パソコンに向かって作業する、ということを繰り返していた。
午後1時になって、作業開始のチャイムが鳴った。貴之は、昼休みの間、ろくに味わうこともなく、謂わば義務的に腹に詰め込んだ形でサンドイッチはすぐに食べ終わったが、パソコンに向かって作業することは継続していた。
状況が状況であるから、毎週金曜日の定例会議は今日は中止し、進捗状況のみ報告することで顧客と事前に合意が取れていた。その代わりに、午後2時から自社のインフラ側担当マネージャである、麻生邦秀と、現在の進捗状況についてすり合わせる打合せを行う予定になっており、貴之はその打合せのことが少しずつ気になり始めていた。さらに、午後5時からは、ヘルパーとしてお願いしている精鋭部隊のメンバーと打合せするという連絡を、昨日の時点で、あらかじめメールで各メンバーに配信してあった。
麻生邦秀は、貴之の2年先輩のエンジニアで38歳である。邦秀が所属するインフラ事業部は、顧客の業種によらず、社内で1つだけ存在している事業部である。事業部の中は、サーバ部門、ネットワーク部門、保守・運用部門に分かれている。麻生はサーバ部門に属していたが、ネットワークなど他の部門の知識も豊富で、彼のスキルは社内でも絶大な信頼を得ていた。
これより前、一昨日の水曜日、ドキュメントの不備について、同じく麻生と打合わせをしていた。その打合せで、障害対応マニュアルの中で、インフラに特化した障害についての記載は、インフラ側担当のメンバーで対応し、麻生に取り仕切ってもらうことで合意した。もちろん、作成期限も設けた。インフラ側担当者も、経理システムのインフラは既に構築済み、かつテストも既に終了したことで、このプロジェクトからは離れつつあったし、現に何人かは、もう別のプロジェクトの方に引き抜かれた者もいたのだが、残りのメンバーを何とか引き止めて、突貫作業を了承してもらうことができた。
実は、障害対応マニュアルのドキュメントの中で、このインフラ担当部分をどうするか、性格的に少し心配性の貴之は最も悩んでいたのだが、それが解決したことで、先の見通しが少しずつだが、かなり明確になってきたのである。このドキュメントの中で、ソフトウェア側で発生する障害については、貴之の方で全て仕切ることができるし、また、もう1つの運用手順書のほうも、1から作成するわけではなく、逆に一度顧客に説明をして、提出はしているものであることから、改善すべき点を洗い出しておけば、あとは『時間の問題』として処理できると確信していたからである。
午後1時40分ぐらいになり、貴之は自分の作業をやめ、2時から行う予定の、麻生との打合せについて、準備をすることにした。パソコンのデスクトップ画面から『メモ帳』をマウスでダブルクリックし、メモ帳のソフトを立ち上げると、ソフトウェア開発チームの作業の進捗状況と、インフラチームの作業についてのヒアリング事項として麻生に確認すべき内容を、一旦頭の中で整理してから、キーボードをほとんど見ることもなく、慣れた速いタッチでキー入力していった。
午後2時を5分ほど過ぎたところで、麻生邦秀がやってきて、2人は予約している会議室へと向かった。そして打合せが始まった。まず、貴之が口を切った。
「麻生さん、お疲れ様です。お忙しいところ、打合せの時間とっていただき、ありがとうございます。また、ドキュメント作成については、大変急なお願いですいませんでした。もしかして、昨日も休出されたんですか?」
「そうですよ、当たり前じゃないですか。一昨日になって、急にドキュメント作成の依頼をしてきて、しかも、期限が来週の火曜日って、ほとんど時間がないようなもんですよ」
と、麻生がいかにも不機嫌そうに言った。
「申し訳ないです。ただ、今日の打合せ内容によって、最悪、もし9月末までに納品できないようであれば、お客さんには障害対応マニュアルのみは少し納品を遅らせてもらうように申し出るつもりでいますので、くれぐれも無理だけはしないでくださいね。もともと、先方からの急な依頼ですし、マニュアルを納品するまでの暫定的な障害対応方法さえきちんと決めておけば、さほど影響はないはずですから」
「ええ、わかりました。ありがとう。でも、こちらも、一度受けた以上、やるだけのことはやりますよ」
こう答えた麻生の不機嫌さは、全くといって良いほど感じられなかった。
(ああよかった、機嫌を直してくれたか・・・・)
「すいません、ご協力ありがとうございます。では早速、現在の状況確認から行いたいのですが、一応、簡単なメモを作成しましたので、これに沿って効率よく進めましょう。お互い忙しいのでね」
貴之はそういって、打合せの20分前にメモ帳ソフトで作成した1枚ぺらの資料を麻生に手渡した。麻生はそれを矢庭に目で追った。
どちらも作業が山積みなので、貴之が作ったメモに沿って、要点だけ確認するといった具合に、20分程度で打合せを終了した。貴之は、我ながらスムーズに進めることができたと自負していた。
結局、麻生が担当している、障害対応マニュアルのインフラ部分についても、明日・明後日に休日出勤すれば、何とか来週の火曜日までには間に合いそうだという結論になり、顧客への申し入れは行わず、当初の予定通り、約束日までに納品する方向で作業を継続することになった。今後は、進捗状況を日々メールでお互いにやり取りすることも決まった。また、インフラチームが作成したドキュメントの記述レベルも、今のところソフトウェア開発チームのものと遜色なかったことで、貴之はより一層安堵感を強めるのであった。
打合せが終わって、急に、朝からほとんど休憩なしだったことが思い出され、無性に紅茶を飲みたくなった貴之は、給湯室で自分のお気に入りの、猫のイラスト入りマグカップを丁寧に洗い、ティーバッグとお湯を注ぎ入れてから、角砂糖も1個つまんで入れると、大事に自分のデスクに持っていった。そして、ゆっくりかき回して一口のどに流し込んだ。本当にホッとするひと時だった。
(ふぅ、紅茶1杯だけでも、生き返るなぁ)
その後、現在の作業進捗状況をまとめ、顧客の担当者宛てにメールした。
午後4時を10分ほど過ぎた頃、先程の打合せの中で挙がった、マニュアルに関する麻生への依頼部分については、確実に火曜日までに終わらせてくれる旨、麻生から電話で確約も取れたことで、麻生に感謝するとともに、たいそう安心したのであった。
午後5時から予定していた、ソフトウェア開発チームの打合せについては、20分程度開始が遅れたが、事前にメールで詳細を通知していたことで、内容的には何の問題もなく、こちらもすんなり30分程度で終了することができた。その打合せの中で、ソフトウェア開発チーム担当分の、障害対応マニュアルは、約8割ほど出来上がっていて、あと3日もあればおそらく完成するだろうということであった。また、運用手順書についても、専門用語をできるだけ一般用語に変換する作業と、表現方法や、文書の体裁等についての作業は完全に終わっていて、図表の部分に多少残りがあるぐらいの進捗であることが判明した。
今日の段階で、ヘルパーとして急遽3名に応援に来てもらったわけだが、皆ががんばってくれたおかげで、作業の目処がたった。そういうことから、作業効率のことも考えて、ヘルパーの3人には、現時点の成果物を提出してもらった上で、明日からの土・日はゆっくり休んでもらい、来週の月曜日から水曜日にラストスパートでがんばってもらうことにした。また、今日も残業はほどほどにして、なるべく早く帰宅することも併せて言い伝えるべく、メンバー3人に対し、貴之が直接1人ひとりのデスクに順次出向いて、労いの言葉とともに、その旨を伝えた。3人とも非常に柔らかな、ある者は笑顔すらたたえる表情で、貴之に応えていた。その中には早速帰り支度を始めた気の早い者までいた。
自分のデスクに戻った貴之は、部屋の時計を見て、時刻が終業時刻となる午後6時少し前であることを確認した。
(ふぅ、もうすぐ6時か・・・・)
彼は、プロジェクトマネージャという自分の立場上、現時点で出来上がっているドキュメントの内容を最終チェックしなければならないこともあり、どうしても土・日の連休は無理であるが、特に今週1週間の疲労がかなり蓄積していることを自覚していたこともあり、明日の土曜日は休んで、日曜日にまとめて作業を行うことを考えていた。さらに、今日も早めに帰るべく、書類の整理や内容の確認、Eメールの最終チェックなどを黙々と行っていた。作業がほぼ終了した時点で、オフィスの時計は、午後7時を5分ほど過ぎたところだった。
(今日はもう少しであがろう。明日は久しぶりに、彼女の家にでも行くとするかな)
そして、パソコンをシャットダウンして帰り支度を進めるのだった。
2.9月24日・金曜日(その2)
昨日までの大雨はすっかり上がって晴天となり、台風も東の方向へさっさと去っていって、外は台風一過特有の、非常にすっきりと快適な日であるというのに、由起恵の心はそれとは正反対に、全く晴れなかった。前々から予定して、わざわざパートを休んで、例の『名曲喫茶』へ一緒に行く約束をしていたにもかかわらず、一緒に行くはずだった相手が、こともあろうに急に風邪で寝込んでしまったのである。
2週間前の金曜日、大森由起恵は、新宿の名曲喫茶『アンダンテ』へ行き、そこで立花健夫に出会った。正確に言うと、出会ったのではない。実は会ったのは偶然ではなく、ある人に頼まれて、立花の勤務先である、新橋の銀行ビルの前で待ち伏せし、それからずっと彼を尾行していたのである。そして、名曲喫茶では偶然を装って相席をすべく、立花に声をかけたわけだったのだ。その依頼主は由起恵にとっては(その当時は)特別の人であった。そのため、何か後ろめたいものはうすうす感じていたのだが、従うしかなかった。当然のごとく、尾行を頼まれたときに、立花の写真を渡されていたし、確かに由起恵のタイプの男性だったのは事実であるが、その時点では『尾行を依頼された』という義務感が先に立ち、立花に対して特別な感情を抱いていたわけではなかった。だが、名曲喫茶での、ほんの2時間程度の時間のなかで、由起恵は彼に惹かれてしまった。立花に、妻がいようが、子どもがいようが、そんなことは全く関係がなく、純粋に彼を好きになってしまったのだ。
ただし、由起恵には、立花と会って直ぐに、付き合ってほしいと告白する勇気は毛頭なかったし、女性の方から連絡先を教えてほしいなどと言うのは、彼女の理性が邪魔をして、かなり気が引けたことで、結局訊けずじまいだった。実は、由起恵は、名曲喫茶で立花と音楽に包まれながら、そんなことを思っていたのである。
立花の尾行を依頼してきた人物に訊けば、おそらく彼の連絡先ぐらいはわかるに違いない。しかし、それでは立花が不審に思うだろう。できたら、自然な形で、またいつか会いたい、連絡先を知りたい、とずっと思っていたのだが、名曲喫茶での別れ際、立花の名刺をもらうことができて、胸を撫で下ろしたのだった。
(ああ、よかった。これで1回キリで関係を断つなんてことは、少なくともなくなったわ・・・・)
由起恵も恋人がいないわけではなかったのだが、5ヶ月ぐらい前から関係はかなりギクシャクしていた。どうも彼に新しい女ができたような様子がありありとわかり、由起恵とはあからさまに会うのを避けるようになっていたからである。近頃では、携帯へ電話してもほとんど留守電になっていたり、電源が切られていたりで、連絡すらままならない状態にまで冷え切ってしまっていた。実は彼とは同じ会社で働いていて、そこで知り合ったのだが、関係が冷え切ったことが原因で、6月末で会社を辞めざるを得なくなり、今はパートで生計を立てているのであった。会社の、由起恵の元同僚たちは、彼女がそんな悩みをもっていた、あるいは同じ会社の男性と関係を持っていたことを知っていた人はほとんどおらず、優秀な彼女が突然退職したことに、皆そろって疑問を持っていた。
由起恵は、自分に悪いところは全く無いのに、何故自分だけが会社を辞めなければならないのか、納得がいかなかった。相手は何もなかったように、のうのうと会社で働き続けているわけなのだ。しかし、それよりも、何故そもそも自分のもとを去っていってしまったのか、もしかして、知らず知らずのうちに自分が彼の嫌われるようなことをしてしまったのか、さらには、彼の新しい女はどういう人間なのか等々、この5ヶ月あまりいつも悩んでいて、頭の中はそのことでいっぱいだったのだ。そして、次第に、彼を問い詰めよう、新しい女がどんな女か見定めてやろう、という気持ちがふつふつと湧き上がってきたのだ。それに加えて、あわよくば復縁したいというのが実は本音だった。
そんなときに、立花の尾行を依頼され、彼と出会ってしまった、というわけなのである。
由起恵は、立花に連絡をするかどうか、ずっとためらっていた。連絡をとりたい気持ちはやまやまなのだが、その前に彼女の理性がどうしても邪魔をしてしまうのだ。男性不信になりかけているこの状況では、なおさらなのかもしれない。
出会ってからちょうど1週間たった、先週の金曜日、もう一度会いたいという気持ちがついに抑えられなくなり、意を決して、彼の携帯に電話した。もらった名刺の裏面を見て、番号が間違っていないかどうか、一つひとつ確かめながら、慎重にダイヤルした。彼が自分のことを覚えていてくれるのか、また、こちらから連絡することで、女性としてどう思われるか、相当ビクビクしていたのだが、電話に出たときの、彼の明るい一言で、その全てが吹き飛んだ。
「・・・・あ、あのときの大森さんですか。よく覚えてますよ。こんばんは」
(ああ、よかった。覚えていてくれた。喫茶店で聞いた、あの声だわ・・・・)
「あ、こんばんは。あ、あの、覚えていてくれて、すごく、うれしいです。ありがとうございます。あの、それで、是非また会っていただけませんか? いいえ、あの会っていただけると、とてもうれしいなと思って、ええと、電話したのですけど」
ビクビク感が消えた代わりに、立花へのいろいろな思いが渦巻いて、由起恵の心臓は、ものすごい速さで鼓動を打ち始めていた。
(・・・・さて、何て答えてくれるのか?)
「はい、そういうことなら喜んで。でも私みたいなオヤジとでいいんですか?」
「オヤジだなんてそんな。私、是非立花さんと、もう一度お会いしたいんです。それも、できればあの名曲喫茶へ一緒に行きたいと思っているんですけど。あ、すみません、あなたの都合も考えずに、私勝手なことばかり言ってしまって」
(私ったら、何を言っているの・・・・)
由起恵の心臓の様子は全く変化がなく、鼓動は速いままだ。
立花が、変わらぬ明るい声で続けた。
「いえいえ、かまいませんよ。そうですね、あの新宿の『アンダンテ』は、私たちが出会った、思い出の店ですし、2人ともクラシックが好きなわけですから、また一緒に行って、いい音楽を聴きましょうか」
(え、本当? やったー!)
「あ、よろしいのですか? 私、すごくうれしいです。ありがとうございます」
と、由起恵の声は明るく弾んでいた。
「そんなに喜んでくれて、私もうれしいですよ。実は、私もあなたと一緒にもう一度あの店へ行けたらな、と思っていたのですが、実はお恥ずかしいことに、後であなたの連絡先を訊いていなかったことに気づいたんです。ですから、あなたから連絡を待つ以外になかったので、こちらこそ大変うれしく思っているんですよ。本当によかった」
(わぁ、すごい!)
立花のその言葉で、ドキドキ感は少しずつ消えていった。その代わり、うれしさがどんどん募ってきた。すなわち、由起恵の心臓は、ようやく通常状態に戻りつつあった。そして、喜色満面の笑顔で続けた。
「そう言っていただけると、私も大変うれしいです。あの、それで、ご都合はいかがでしょうか?」
「ああ、そうですね、残念ながら明日、明後日は仕事なんですよ。あの日も言ったと思うんですが、平日も残業で帰りが遅い状態なんで。あ、そうだ、来週の金曜日、休日出勤の代休がとれそうなんで、前後の休日を合わせて4連休を取ってゆっくりしようと思っているんですよ。その4連休のうちで、あなたの都合のいい日時に合わせますよ。そちらはいかがですか?」
(うわぁ、やっぱり銀行員って、忙しいんだ。ずっと続いているのね。おまけに課長さんだもんね。無理ないわ。でも来週の金曜日だったら、休暇は取れそうだわ・・・・)
「そうですね、実は、私スーパーマーケットに勤めていて、世間一般の休日は逆になかなか休めないので、その4日の中だったら、金曜日がいいですね。金曜日だから、ええと、24日ですね。せっかくの代休の日で申し訳ないような気もするのですが・・・・」
と、由起恵は説明した。彼女は、現在、最寄駅から2つ目の、高田馬場駅近くにある、スーパーマーケットの『ダイオー』新宿戸塚店で、午前8時から午後5時まで、青果売り場を担当するパートとして働いているのである。
それに対して、立花が続けた。
「いえいえ、かまいませんよ。了解しました。それでは、来週の金曜日、24日の午後2時ぐらいに、新宿駅で待合せということでどうです?」
(ああ、よかった! 来週行けるわ)
「わかりました。来週の金曜日の2時ですね。私もおそらく休暇を取れると思いますので、大丈夫です」
「よかった。では楽しみにしておきますよ。詳細な待合せ場所はこちらから連絡します。あ、着信履歴に電話番号が残っていますが、私から連絡する場合は、この番号でいいのですね?」
「はい、その番号でかまいません。私の個人携帯ですので」
そう言って、必要もないのに念のため最後に自分の携帯番号を復唱し、さんざんお礼を言ってから電話を切った。
(来週の金曜日の、午後2時、新宿駅で待ち合わせっと)
由起恵は、うきうきの気分で、電話を切って直ぐに、壁かけの月めくりカレンダーに立花との予定の意味の『☆』を書き込んだ。
先週の電話のやり取りから、早5日たった水曜日。由起恵にとって、24日の金曜日は、何とも待ち遠しかった。家に帰ってくると、『☆』を書き込んだカレンダーを毎日チェックするのが日課になっていた。日に日に立花健夫への思いが強くなってくるのを、抑えることができなかった。もはや現在ギクシャク中の、未練タラタラの筈だった彼なんか、どうでもよくなっていた。その日の夜8時ごろ、立花から携帯に電話があった。
(あ、立花さんからだ!)
「もしもし、立花ですが、大森さんの携帯でしょうか?」
間違いなく、由起恵が大好きになってしまった立花健夫の声である。
「はい、そうです。立花さん、こんばんは」
由起恵は、先週初めて立花に電話をかけたときとは比較にならないぐらい、落ち着きはらった受け答えである。あの慌てぶりは微塵もない。
「ああ、明後日の金曜日に、アンダンテへ行く件なんですけど、そちらはお仕事休めそうですか?」
(やっぱり、予想通り、明後日の名曲喫茶の件で電話をくれたんだわ・・・・)
「ええ、大丈夫です。そのことはきちんと上長に話して、正式に休暇がとれることになりましたから。早く明後日が来てほしいと思っているんです」
こう答えた由起恵の声は殊更明るい。
「そうですか。それはよかった。先週言ったとおり、こちらも4連休を取れることが確定しましたよ。それで、待合せ場所なんですが、大森さんのわかりやすいところにしようと思うのですけど、どこがいいですかね」
(あら、どうしよう。新宿はそれほど詳しいわけではないのだけど・・・・)
「あの、立花さんの指定したところでいいですよ。私がそこに行きますから」
由起恵は、自分から待合せ場所を指定することを意図的にやめた。それを聞いた立花も、由起恵が実は新宿の地理について、あまり詳しくないのだろうと大体の察しをつけ、新宿駅周辺の情景を頭の中に思い浮かべた。すぐさま、
「そうですか、わかりました。それでは、新宿西口地下にある交番前ということでどうでしょう。ロータリーの傍で、結構わかりやすいとは思うんですが」
と、由起恵を困らせないように思いやって、待合せ場所を指定した。
「はい、わかりました。・・・・」
(すぐに地図で調べなくっちゃ)
待合せ場所が決まった後も、2人で他愛のない世間話を数分間続けていたが、由起恵は、立花がまだ勤務中かもしれないと、ハッと我に返り、早々に電話を切った。たかだか10分にも満たない程の、短かすぎる時間であったが、由起恵にとって、心底幸せを感じる時間なのであった。
由起恵は、先々週の金曜日に初めて立花と会ったときから、一昨日の水曜日までのことを順に事細かに思い出していた。昨日の夜は、まるで子供が遠足に行く前日にそうであるがごとく、なかなか寝付けなかった。昨日のうちに、今日着ていく服や履いていく靴、持って行くバッグにいたるまで、念入りに選んでおいた。バッグについては、勝負パンツならぬ勝負バッグにすべく、彼女が持っているバッグの中で最も高価である、かつ唯一のブランド品であるBVLGARIのバッグを選ぶ徹底ぶりであった。
朝は、おそらく目覚まし時計がなくても、起きられるという自信は満々であったが、一応念のために目覚まし時計をかけておいた。しかし、予想通り、セットした時刻よりも、かなり早く目が覚めてしまったのだ。朝食はトーストと、スクランブルエッグ、サラダにシーザードレッシングをかけ、そしてブラックコーヒーで軽く済ませ、その後、今日のファッションを総点検し、地図で待合せ場所の確認を何度も繰り返した。さらに、バッグの中の持ち物まで、何度も確認する始末だった。待合せ時刻は午後2時で、それまでまだ6時間以上もあるのに、大層そわそわしていた。
くしくもそんな折、立花から、実は風邪を引いてしまい寝込んでいる、という連絡が入ってしまったのだ。それを聞いたときの、由起恵のその残念がりようといったら、例えようもなかった。相手が病気だったのも勿論あるが、こんなに早く電話を切ったことは、ここ最近なかった。恐らく、二言、三言ぐらいしか口にしていないであろう。
立花が風邪を引いたのは、誰の責任というわけでもなく、ましてや、何かに八つ当たりするわけにも勿論いかない。もう、その現実はどうすることもできないんだ、無理やりそう思い込むようにした由起恵は、腑抜けのごとく、じかに床に座って、仕方なく朝から何の気なしにつけっ放しだったテレビを、ボーっと見続けるしかないのであった。案の定、焦点があっているはずもなく、番組内容は、何ひとつ頭に入ってはいなかった。
さて、何時間経っただろう。昼過ぎまで、そのままの状態だった。休日には必ず行う洗濯や掃除も手をつけていなかった。勿論昼食も摂っていなかった。由起恵にとって、『この世の終わり』といっても決して過言ではなかった。
きちんと準備された、念入りに選んだバッグや靴、洋服がただ虚しく部屋の中で泣いているようにさえ見える。
(今日は、もうどこへも出かけずに、ずっとこうしているしかないのね・・・・)
そんな折、午後1時半ごろだろうか、再度立花から連絡があった。
(あれ、立花さんからだ。なんだろう、もしかして風邪が治ったのかな? 名曲喫茶へ一緒に行けるの?)
風邪がそんな簡単に治るわけがないと頭の隅ではわかっていた由起恵だが、ほんの僅かばかりの期待を持って、電話に出た。
「もしもし、大森ですが」
「もしもし、立花です。今日は約束果たせなくてごめんなさい」
間違いなく立花の声である。
「いいえ、いいんですよ。風邪なのに無理してこじらせたらいけませんし」
由起恵は心とは全く裏腹のことを言った。彼に本心がバレないかどうかがかなり心配だった。
「心遣いありがとう。名曲喫茶は、近いうちにまたセッティングさせてもらいます。これは約束しますよ。ところで、風邪だから外には出られないんですけど、私の家に来ませんか? というか、来てもらえませんか? 実は、家族はみんな昨日から旅行に出かけてまして、今は誰もいないんですよ。男のわがままで申し訳ないのだけど、食事とか、身の回りの世話をしてもらえるとすごく助かるんだけど。朝から食事もとってなくて。あ、すみません、まだ1回しか会っていないのに、こんなことを頼んでしまって。でも、よくよく考えたら、こんなこと頼める女性、大森さんしかいないことに気がついたんですよ」
(え、すごい。もしかしたら名曲喫茶へ行くよりよかったかも!)
「あ、私のほうは全く問題ないですよ。というより、是非お世話させてください。直ぐに支度して行きます。ええと、ご自宅は確か大井町でしたよね」
「そうです。住所は品川区大井2丁目になります。駅から歩いて7、8分ぐらいなんですけど」
「わかりました。そうしたら、大井町駅に着きましたら、こちらからまた連絡しますので、道順を教えてください。直ぐに行きますから! それまでは無理しないで安静にしていてくださいね」
そういって由起恵は電話を切った。かなりの興奮状態で、由起恵の息は相当はずんでいた。
今まで部屋で泣いていたはずの、バッグや靴、洋服がここぞとばかりに見事な輝きを取り戻した。由起恵は化粧はまだだったし、3時間以上もずっとボーっとして床に座っていたことで、髪も多少乱れていたが、史上最速と思えるぐらいのテキパキさで、しかし決して雑ではなく、完璧に身だしなみを整えると、直ぐに家を出、西武新宿線の中井駅に急いだ。
現在、時刻は午後1時55分である。つまり、立花からの電話をもらってから、わずか30分足らずで最寄駅に到着したことになる。
駅の電光掲示板を見て、次の列車の発車時刻を確認すると、高田馬場方面の電車が到着するまであと2分だったのだが、その時間がべら棒に長く感じた。その『長い』時間で、立花が名曲喫茶での別れ際に言っていた、新宿から大井町までの経路を順に思い出してみた。由起恵にとって、りんかい線など、ほとんど乗ることのない路線であったのだが、立花の言葉が、なぜか鮮明に思い出された。
やがて列車が来て、約4分後に高田馬場に到着した。由起恵は、JR山手線に急ぎ乗り換えた。ものすごい勢いで走っている若い女性の姿に、周りの乗降客の誰もが振り返ったほどである。山手線の列車はほとんど待つことなく駅にすべり込んできた。
すぐさま乗り込んだ由起恵は、電車内にある鉄道路線図を探し、思い出した大井町までの経路と、車内放送などを参考に、新宿で降りずに、山手線で大崎まで行くことを決断した。大崎までは高田馬場から9駅、時間にして20分足らずであるが、これまた何時間にも感じる。その時間は、何かができるわけもなく、ドアの近くに立って車窓の景色をずっと眺めてやり過ごすしかなかった。しかし、由起恵にとって、新宿から先は、あまり乗らない区間であったので、初めての景色を意外と楽しむことはできた。
しばらくして、電車は大崎に到着し、りんかい線に乗り換えた。もう既に大崎始発新木場行きの電車がホームに停車していて、発車時刻を待っていた。車内は比較的空いていたので、由起恵は、座席に腰掛けた。
(ああ、ようやくあと1つね)
大崎を出たりんかい線の電車は、程なくして地下に入った。りんかい線の大井町駅は地下にある。大崎から3分程で、ようやく念願の大井町に到着した。由起恵は、中井から大井町までの間を振り返って、日本の鉄道って、これほどスピードが遅いのか、と感じざるを得なかった。
電車を降りてから、小走りで改札を過ぎると、案内表示板を駆使しつつ、結構長いエスカレータを使ってまず地上に出た。目の前にアトレがある。どうやら駅の西口に出たようだ。
(確か、大井町駅から7、8分って言ってたっけ。まず、西口なのか、東口なのかを訊かないとね)
早速、携帯電話で立花と連絡を取った。その後、目印となりそうな場所に着くたびに、何度も電話で確認しながら、結局15分程かかって立花の自宅の前に到着した。
閑静な住宅街にある、立派な一軒家であった。
(わあ、すごい! ここがあの立花さんの家なんだ。さすがは大手銀行の課長さんだわ。お金持ちなのね。私なんか、こんな家には多分一生住むことは無理だわ・・・・)
3.9月26日・日曜日 水死体発見
今朝も、先週と同じように、からりと晴れて、気持ちの良い朝を迎えた。気温は秋の休日にふさわしく、少し低めだったが、雲はほとんどなく、空の青さが相変わらず際立っていた。秋という季節には珍しく、台風が去った後の3日間は連続してずっと快晴の天気である。
富岡誠は、隅田川沿いにある、荒川遊園で、この時期、隔週の日曜日に行われている、休日イベントに参加するために、朝9時には既に荒川遊園に到着していた。この日のイベントは、現在子供たちに大人気である、『機動戦士ファイブライガー』が、悪役たち、つまり怪人たちと戦うというショーであった。ファイブライガーという名前の通り、機動戦士が5人セットとなり、それぞれが5色で色分けされている。お互いが連携しつつ、様々な武器を使って、またあるときには5人が合体して、より強力な武器を装備して、悪人たちに立ち向かうという、よくあるシリーズである。その5人のライガーも、レッド、ブルー、イエロー、グリーン、ピンクの5色を使っている。
富岡誠は、その中で、グリーンライガーを担当していた。着ぐるみを着て、ステージの上で暴れまくり、悪役たちを倒すという動きだけでも、かなりの体力が必要である。誠も、26歳という年齢と、いままでの経験の長さからすれば、体力にはかなり自信があったのだが、着ぐるみの中は、いくら季節が漸く秋になったとはいえ、想像以上に暑い。体力を消耗する一番の原因がこの『暑さ』なのである。しかも、晴れた日の野外で行うイベントとなれば、なおさらである。そういう理由で、ほかのレッドライガー、ブルーライガー、イエローライガー、ピンクライガーと、加えて悪役たちについても、みな20代の若い男性アルバイトが担当していた。
誠は、現在、フリーターをやっている。26歳にもなって、定職も持たずにフリーターか、と思われるかもしれないが、実は、都内の国立大学の法学部を優秀な成績で卒業し、目下、司法試験に合格すべく、猛勉強をずっと続けているのだ。一昨年・昨年と、残念ながら合格することはできなかった。
日々猛勉強、朝から晩までひたすら勉強である。時刻でいえば、もう9時には始めて、正午から1時間弱の昼休みの後、すぐにまた午後6時ぐらいまで法学の勉強を続けるのである。一般のサラリーマンが働いている時間と、何ら変わりない。さらに、夕食でのひとときも束の間、夜も8時から3時間程みっちり勉強する。それほど、司法試験は難関中の難関なのだ。大学を優秀な成績で卒業した誠ですら、2年間失敗している程なのである。
誠は、四国の高知県出身であり、大学時代に上京して、そのときからずっと、東京都荒川区の町屋にある小さなアパートに一人暮らしをしていた。今は一日中試験勉強しているので、なかなかアルバイトをする時間もない。現在は、体力に自信があるので、夜中、宅配便の荷分けのアルバイトもやっているのであるが、約3時間という短時間と、限られた曜日のみのアルバイトのため、それほどの収入は見込めない。食費と光熱費で精一杯であり、いくら安いアパートに住んでいるといっても、さすがに都内なので、とても家賃にまで手が回らない。不足分は、今年までという約束で、両親に仕送りをしてもらっているわけなのだ。
そういう現実の中で、この荒川遊園のイベントも、基本的に隔週の日曜日であることと、自宅のアパートからイベント会場の荒川遊園が近いこと、そして大学卒業後すぐに始めた仕事で、3年間の、それなりの経験を積むことができたことにより、練習もほとんど必要ないことが重なって、誠にとっては、まさに持って来いの仕事となっているのである。さらに、日給で1万円と、実費の交通費が支給されることや、昼食も準備してくれるので、非常に割のいい、まさにおいしいアルバイトであるのだ。
荒川遊園は、休日は午前9時に開園する。東京の荒川区の最北部に位置しており、北側が隅田川に面している。川の対岸はもう足立区である。対岸の足立区側には大きなマンションも隣立しているが、比較的静かな場所である。都内で唯一の公営遊園地であり、東京都の荒川区が管理、運営を行っている遊園地である。敷地はそれほど広くはないが、観覧車や園内を走る汽車ポッポ、小さめのジェットコースター、メリーゴーランド、コーヒーカップなどの定番の乗り物と、プールやトレーニングルームがあるスポーツハウス、さらには、牛や山羊などと直に戯れることができるちょっとした自然動物園や釣堀もあって、結構楽しめる。また、川沿いの散歩道にはちょっとした桜並木もあるので、ただ遊園地の周辺を散歩するだけでも一興だ。さらに花見の季節には、穴場的なスポットとなる。
東京で唯一残っている路面電車(チンチン電車といったほうが馴染みがあるかもしれないが)である、都電荒川線の、荒川遊園地前が最寄停留所となる。都電の場合、駅ではなく、停留所と呼ぶらしい。その停留所からは一本道で、歩いて5分ほどのところにある。イベントが開かれる休日は、特に小さな子供をつれた親子を中心に、午前中から入園者もかなり多いのだ。
休日イベントは、隔週日曜日、午前11時、午後1時、午後3時の計3回、それぞれ20分間ずつ開催されることになっている。野外ステージは、隅田川を背にする形で、半円状のものがある。観覧席は、それを取り巻く形で同じく半円であり、しかも石段状になっている。それほど大きなものではなく、百数十人も座れば満席となってしまうような規模である。そして、子供たちや親子連れがその石段に直に座り、悪役を倒すファイブライガーたちに大きな声援を送るのである。
野外ステージの裏には、隅田川に沿って、ちょっとした散歩道があり、イベントのときはその道の一部にテントを張り、その中で出演者が休んだり、着替えをしたりするのだ。このテントの中は、もちろんステージの観覧席からは見えないように工夫されている。子供たちの憧れである機動戦士が、例えばタバコを吸っていたり、着ぐるみの中に入っている人の顔を見られたりしては、子供たちの夢を一瞬にして粉々にし、せっかくのイベントが文字通り台無しになってしまうのである。せっかく入園して、ショーを楽しんでくれたチビっ子たちの夢を壊すことは絶対にできない。しかし、テントに覆いをするなど、大掛かりなことを行っているわけでもない。要するに、後ろの散歩道や、川の対岸のマンション等から見れば、そのテントの中は、それこそ丸見え状態である。
ほぼ満席の状態で、午前11時の、第1回目のショーは無事に終わった。
司会のお姉さんの後に続く形で、
「レッドライガー、がんばれー」
「イエローライガー、今だ、倒せー」
「危ない、ブルーライガー」
次々と、子供たちの屈託の無い声援が辺りに響く。チビっ子たちも大喜びで、かつ大満足であった。
20分足らずとはいえ、晴天の中でのイベントは、演じる側はかなりの重労働である。誠を含め、出演者たちは、ショーが終わった後、まずは水分を補給するわけだが、その後はタバコに火をつけて一服を楽しむのもしかり、眼を閉じてじっとしているのもしかりで、みな裏のテントの中で思い思いに休憩していた。次のショーは午後1時からなので、時間としては1時間半ばかりではあるが、たいそうホッとする安らぎのひと時なのだ。勿論、昼食も摂らないといけないので、各自、マイペースで時間配分を調整しているのである。アルバイトとはいえ、全員経験が長いので、この辺の時間の使い方はもうお手の物である。
12時も20分ほど過ぎたころだろうか、スタッフが用意してくれた、一般的なごく普通の幕の内弁当を食べ終わった誠は、残っていたペットボトルのお茶を一息で飲み干してから、残りの休憩時間を、のんびりと川の流れでも見ようと、散歩道の方へとゆっくり歩いていった。もちろん、子供たちの夢を壊さないように、ということは常に心がけているので、着ぐるみは全てテントの中で脱ぎ、グリーンライガー役をやっていたことを、他人からは全く見透かされないように注意した上での散歩であることは言うまでもない。
天気がいい日中なので、気持ちよさもひとしおである。何も考えることもせず、頭を空っぽにしたかった誠は、身長の3分の2ほどの高さの手すりに、両手をかけ、よっかかるようにボーっと隅田川の流れを見つめていた。
何分ほど経ったであろうか、ふと、少し上流の方から、黒っぽい色の、何か大きなかたまりがゆっくりと流れてくるのが見えた。いや、流れてくるというより、漂っている、あるいはそこに留まっている、といったほうがより適切かも知れない。それほど『ゆっくり』とした速度で、少しずつ進んでいるように見えたのだ。
(一見、昔に比べると、随分と隅田川もきれいになったと思っていたけど、こりゃ、まだまだだなあ。こんな大きなゴミがまだ流れてるのか・・・・)
そう思った誠だが、その物体が徐々に自分の方に近づくに連れ、少しずつ考え方を変えた。そして、自ら徐々にその物体のほうに近づいていった。
(うん? ゴミにしてはちょっと大きすぎるな。あれ、黒っぽいけど、何か被さっているみたいだな。うん? もしかして丸太か何かかな?)
いよいよ物体に近づいて、自分の前にそれが来たとき、彼はそれが何であるか、全てを悟った。物を被っていたと思っていた黒いシートは、実は女性ものの洋服で、それが微妙にはだけ、そこから、人間の肩と顔の一部がちらっと見えたからである。
(え? マジかよ。うわ、に、人間の水死体だ!)
お昼時という時間帯で、かつイベントを行っていたこともあって散歩道には人も疎らだったせいか、誠の他にその光景に気づいたものはまだいなかった。誠は慌ててテントに戻り、中で休憩をとっていたファイブライガーの仲間たちに、すぐに声をかけた。
「おい、いま、その前の隅田川に死体が流れてきたぞ!」
それを聞いていた、レッドライガーを担当している、年長格の森下正信が、ただでさえ大きな目をさらに丸くして、
「富岡、本当か?」
と叫んで、すぐさま誠と一緒に外に出た。テントの中にいた他のメンバーも、2人の後を追うように外に出てきた。
誠が、死体と思われる物体を指差しながら叫んだ。
「森下さん、ほら、あそこ」
その『黒い物体』は、まだほとんど流れてはいなかった。森下は、その物体を見て、
「え、ただのゴミじゃないのか?」
と疑いを誠に向けてきたが、何秒もしないうちに、
「うわ、本当だ! 人間の顔だ!」
と、再び叫んだ。始めに見たときは、顔の部分が死角になっていたのである。そして、続けて、
「いま、12時35分か。これでは、1時からの2回目のイベントは中止にしないとまずいな。うん、わかった、俺が沼尻さんにそのことを報告しておくから、富岡はとにかく警察に通報してくれないか」
と言った。誠も、それに対して
「わかりました」
と答えた。すぐに森下は社長へ報告するためにその場を離れた。
沼尻とは、沼尻実のことで、荒川遊園のイベントだけに留まらず、いろいろなイベントを企画している、会社の社長である。会社とは言っても、社長と事務担当の社員がいるだけで、あとは全てアルバイトだけの小さい会社ゆえ、社長自ら会場に姿を見せることもしばしばあった。沼尻社長は、普段のイベント中は荒川遊園の中にある、関係者事務所の方にいて、遊園地の関係者と話をしたり、お茶を飲んでいることが多かったのだが、今日はたまたま観覧席のずっと後の場所で、日陰の部分を探すように扇子を仰ぎながら佇んでいた。
誠は、森下に指示されたとおり、自分の携帯電話から、すぐに110番に電話した。「もしもし、警察ですか、ええと、私、富岡誠といいます。荒川遊園の北側の隅田川で死体を発見しました。見た感じ、どうやら女性のようですけど。え? はい? あ、ここの住所ですか? ええと、ちょっと待ってもらえますか・・・・」
誠は通話口を手で押さえ、近くにいたイエローライガー役の結城伸吾に荒川遊園の住所を訊いてみたが、当然のごとく彼も住所まではわからなかった。そして、結城が気を利かせて森下のところまで訊きに行ってくれた。すぐに戻ってきて住所を誠に伝えた。誠もすぐにそれを電話で伝えた。
さすがに誠よりも2年も先輩だけあって、イベント会場の住所はきちんと把握していたようである。
午後のイベント開始にはまだ20分ほどあるが、席を確保しようとして早めに陣取っていた親子連れなどが、テント裏のざわざわした雰囲気を嗅ぎ取って、辺りには少しずつ野次馬が集まり始めていた。まだ人だかりというところまではいっていなかったが、ちょうどその時、午後1時のイベントが都合により中止されるというアナウンスが園内に高らかに流れた。
午後のイベントが始まるかなり前から席にずっと座っていた客も、そのアナウンスに耳を傾けていたが、徐々に増えていっているテント裏の野次馬たちの状況と照らし合わせ、おおよその今の状況を把握したようである。アナウンスの後、一気に野次馬が多くなった。同時に、拡声器を手にした荒川遊園の係員が数人飛び出してきて、既にテント裏に入り込んでしまった客をまず観覧席に全員戻し、そしてそれがようやく終わると、テント裏には入れないようにロープを張り始めた。天気の良い休日で賑わっていたほのぼの遊園地だったが、辺りは一時騒然となった。
それから15分ほどたったであろうか、警察関係者が次々にやってきた。水難事故の可能性もあるため、かなりの大人数になった。そして、その中の一部の捜査員たちが、多すぎる野次馬たちをかき分けながら黄色いバリケードテープを張っていた。
少し時間が経ってから、警視庁捜査一課の刑事たちが到着した。本郷警部と梅沢警部補、そして吉野刑事、高杉刑事の4人が現場にやってきた。
第一発見者となった富岡誠は、アルバイト仲間である結城伸吾と、先輩格の森下達信、そして社長の沼尻実と一緒に、イベントで使う舞台裏のテントの中で座っていた。午後1時からのイベントに備え、早めに下半身だけライガーの衣装に着替えていた結城、森下は、そのままの格好であった。しばらくの間、4人とも黙って捜査員たちの動きをずっと目で追っていた。
発見された女性の水死体の状況からは、事件なのか、事故なのか、あるいは自殺なのかということについてを示すものは今のところ見つかっていなかったが、身元を示すようなものとして、その女性が携帯していた免許証から、大森由起恵という32歳の女性らしいということはわかった。
やがて、鑑識官と話をしていた本郷と梅沢が4人のところに寄ってきた。
「通報者の、ええと富岡誠さんはどちらでしょうか。警視庁捜査一課の本郷と申しますが」
本郷が警察手帳を見せながら、4人に対してたずねた。
「あの、俺ですけど」
富岡は立ち上がって小声で答えた。本郷は、富岡誠の方を見て言った。
「富岡さん、発見したときの状況を聞かせてほしいので、ご協力願えますか。こちらは同じく捜査一課の梅沢警部補です。一緒に話を聞かせていただきます」
そのとき、近くに座っていた沼尻が、
「あの、最初に発見したのは富岡ですが、私たちもその後彼と一緒に死体を確認していますので、この場にいてもかまいませんか? 4人ともできる限り協力させていただきたいと思っているのですが」
と口を開いた。年恰好から、3人の若者の上司だろうとおおよそ予想はできたが、本郷は富岡誠以外の3人が誰なのかを確認した。
沼尻は続けて、
「私は、この荒川遊園で行われるイベント会社の社長の沼尻実といいます。こちらは森下達信、そして結城伸吾です。富岡誠と同じく、今日のイベントのファイブライガーを担当しているアルバイトのメンバーです」
「わかりました。それでは皆さん4人にうかがいますので、ご協力お願いします」
始めに、社長の沼尻が話を始めた。
「私が経営しているイベント会社では、週1回とか隔週の土・日などに、ここ荒川遊園で子供向けの休日イベントをやっています。今月は今日と、先々週の12日にもここで行いました。1日3回、11時、1時、3時にそれぞれ20分ずつ開催します。イベントの内容は、テレビでも人気がある『機動戦士ファイブライガー』のショーで、文字通り5人の戦士が悪者をやっつけるという、よくあるパターンの内容です。森下、富岡、結城は、それぞれレッドライガー、グリーンライガー、イエローライガーを担当しています。それで、確か1回目のイベントが終わって、昼に休憩しているときにあれを見つけたんだったよな、富岡」
それに続けて、富岡誠が話し始めた。
「はい、そうです。午前中のイベントが終わって、衣装を着替え、テントで一休みした後、昼食を取りました。会社で用意してくれる弁当です。食べ終わった後、時計を見たらまだ12時20分ぐらいで、午後のイベントまでもう少し時間があったので、その辺を散歩でもしようかとテントを出て、隅田川を眺めていたら、何やら黒い物体が浮いているのに気付きました。最初は誰かが粗大ゴミでも川に投げ捨てたのかと思っていたのですが、どうも人間の顔らしきものが見えたので、急いでテントに戻り、森下さんたちにそのことを言ったんです」
「なるほど。それに間違いありませんか?」
と、本郷は森下や結城の顔を見ながら確認した。
「間違いありません。彼の言うとおりです。とても慌ててました」
「ええ、時間は定かでないけど、富岡君の言った通りですよ。だけど見たときは驚いたなあ」
と、森下達信、結城伸吾が続けて答えた。その3人の様子から、本郷も梅沢も、富岡の言ったことは間違いないと確信した。そして、今度は
「すると、死体を発見したのは午後12時30分前後になるということですかね」
と梅沢が切り出すと、それに対し富岡が答えようとしたのを遮るように、ほんの少し早く先輩格の森下が答えた。
「はい、そうです。そのぐらいです。ぼくらが一緒に水死体を発見した直後に、誠に警察へ電話するように言ったし、あ、そのとき時計を見たのを思い出しました。確か35分でした。たぶん1時からのイベントは中止にしてもらう必要があるだろうし、時間によっては、急いで沼尻さんに報告しなければいけないと思ったので」
沼尻も森下の言葉の直後に、
「ええ、森下の言うことに間違いありません。私が報告を受けたのは、確か12時半を少し過ぎていたと思いますよ。私も慌てて遊園地の事務所へ行って、午後のイベント中止のアナウンスをしてもらうように依頼しましたからね」
と続けた。富岡は梅沢の質問に対する答えが喉まで出かかったのだが、寸前のところでそれを飲み込んだ。
その後、怪しい人物がいなかったかどうかとか、変な物音がしなかったかどうか、不審な自動車、自転車がなかったかどうか等、警察がまず行う、通常の質問がいくつか続き、最後に本郷が言った。
「皆さんのおかげで、だいたい状況が把握できました。ところで、あの死体は、所持品から『大森由起恵』という30代前半の女性と見られるのですが、どなたか彼女をご存知の方はいませんか?」
それに対しては、4人ともお互いの顔を見合わせながら首をかしげていた。本郷はそれを見て全てを察すると、
「わかりました。ご協力ありがとうございました。それから、今日のイベントですが、捜査に時間がかかりますから、すみませんが午後3時開催分も中止にしてください」
と言って、軽く会釈をすると、梅沢と共に去っていった。沼尻は残念がったが、本郷の言葉に従わざるを得なかった。そして、午後3時のイベント中止をアナウンスすべく、遊園地の事務所へと消えていった。残った3人は、テントの中で私服へ着替えをし、そしてスタッフと共に、テントやマイク、スピーカーを片付けるなど、イベントの撤収作業を始めるのだった。
本郷と梅沢は、まだ事件かどうかも特定できていないが、話を聞いた4人はどちらにしても全く本件には無関係な発見者だということを確信した。
本郷や梅沢とは別に、鑑識官と話をしていた吉野と高杉が本郷のもとへやってきて、吉野が報告した。
「警部、鑑識と話をしたんですが、死因は水死に間違いないようですが、事件か事故か自殺かはまだ特定できません。ですが、特に目立った外傷はありません。それから死亡推定時刻ですが、死後1日半から2日程度ってところらしいですね」
「うん、わかった。梅さんは念のため、発見者の4人について調べてもらえますか。後で竜崎を応援に行かせます」
「警部、了解しました。彼らを洗ってみます」
そうして、梅沢はその場を後にした。
梅沢の姿を最後まで追うよりも先に、本郷が低い声でつぶやいた。
「高杉、ここでの目撃者探しをしばらく続けてくれ。それから竜崎に連絡を取って、梅さんと合流するように伝えてくれないか。私と吉野は本庁に戻って、鑑識からの報告を待つとしよう。速水と遠藤君ももう捜査本部に来ているはずだから、こちらで大森由起恵という女性について調べを進めておくよ」
そして2人は車の方へ歩きだした。
「わかりました」
若い高杉刑事の元気な声が、まだざわついている荒川遊園に響いた。
4.本格捜査③開始
本郷警部と吉野刑事が本庁に戻ってきた。2人が戻る1時間以上前に、速水刑事と遠藤刑事は捜査一課の部屋に到着しており、本郷と吉野を迎えた。遠藤は、いつもそうしているように、人数分の飲み物の準備に入った。速水は、まだ解決していない、先々週、先週と立て続けに起こった2つの殺人事件の捜査資料を眺めていた。
「ああ、2人とも、休みのところご苦労さん。遠藤君、いつも悪いね」
本郷がそういうと、遠藤はにこにこしながら会釈をして、各人にそれぞれ特徴あるカップや茶碗を配った。
本郷は、脳細胞の格好のえさとなる大好物のブラックコーヒーを、自分のマグカップから美味そうに一口流し込んだ。他の3人もお気に入りの飲み物を美味そうに口に入れたが、本郷の様子は殊更そのおいしさを醸し出していた。
一息してから、3人の刑事たちを前にして、本郷が切り出した。
「電話で大体伝えたが、本日午後12時35分ごろ、荒川遊園の北を流れている隅田川で女性の水死体が発見された。免許証から、名前は『大森由起恵』、年令は32歳。住所は東京都新宿区中落合1丁目。それから一緒に所持していた社員証と思われるカードから、どうやら『スーパーダイオー新宿戸塚店』に勤めていたらしい。鑑識の話では、死後1日半ないし2日ぐらいと見ているが、まだ事件か事故か、あるいは自殺かというのは全く分かっていない。特に外傷は見られなかった。速水と吉野は、彼女の中落合の自宅と交友関係を捜索してくれ。それから遠藤君は、スーパーダイオーに行って、同僚や上司に話を聞いてきてくれ。特に、自殺をするような動機があるのかどうかをあたってみてくれ。それから、梅さんと竜崎は、念のため第一発見者となったイベント会社の4人のウラを取ってもらっているし、高杉は現場に残って、目撃者探しを指示している」
そう言うと、またコーヒーをすすった。
ずっと本郷の話を聞いていた3人の刑事はすぐに返事をして、それぞれ出かけていった。
程なくして、梅沢刑事と竜崎刑事が本庁に戻ってきた。梅沢が扇子を仰ぎながら、給湯室にある冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐと、一気に飲み干した。その後、捜査報告をすべく口を開き、発見者の4人が本件には無関係である可能性が高いことを本郷に報告した。
「やはり、そうですか。わかりました。まだ事件性があるかどうかは何とも言えませんが、鑑識の報告を待ちましょう。ご苦労様でした」
荒川遊園で1人目撃者探しをしていた高杉刑事も戻ってきた。扇子を仰いではいないが、梅沢と同じように自分で麦茶を注いで、一気に飲み干した後、捜査状況を報告した。
「警部、荒川遊園の客は勿論ですが、係員や散歩中の人、さらには近所の住民にも多数話を聞いてみたのですが、これといった目撃証言は出ませんでした。念のため、川の対岸のマンションにも行ってみました。マンションのベランダから、対岸のイベントをずっと見ていた人も何人かいました。もちろん、あれだけの騒ぎですから、水死体が発見されたときの一部始終を見ている家庭は結構ありましたが、皆揃って不審な人物や自動車などは見ていないと証言しています。さらに、隅田川は結構船の行き来もあるようなんですが、午前11時の第1回目のイベントが始まってから、死体が発見されるまでの間は、船やボートなども一切通っていなかったようです。こうなると、何者かが発見される直前に死体を川に投げ込んだということはどうやらなさそうですね」
その報告について、本郷は、
「うん、やはりそちらも有力な手がかりは無しか。わかった、ご苦労さん」
そう言って、高杉を労った。
遠藤刑事は、大森由起恵の勤務先であった、「スーパーダイオー新宿戸塚店」に向かっていた。彼女は、水死体の発見現場に行ったわけでもなく、もちろん大森由起恵は知り合いでもなかった。共通点は同じ年代の女性だということだけだった。しかし、彼女は何か事件の匂いを感じずにはいられなかった。橋から誤って落ちたとかの事故には当然思えなかったし、自殺というのも可能性が低いようになぜか感じた。その感情は、はっきりとしたものでは全くなく、いわば若干の期待感も併せ持つような、何かもやもやした、刑事のカンとしかいえないような微妙な感情だったが、なぜかそう思えるのだった。
スーパーダイオーに到着し、客用の入口から中へ入った。最も入口に近い惣菜売り場にいたパートタイマーと思える中年女性に訊いてみると、大森由起恵は青果売り場を担当するパートタイマーであったことがわかった。早速店の反対側にある青果売り場へ向かうと、名札に「風間」と書かれた店員らしき若い男を見つけ、由起恵のことを話すと、とても驚いた顔をして、全く信じられないということを繰り返した。その男性は、風間潤平といって、スーパーの青果部門の主任をしている34歳の男であった。少し茶色がかった長髪で、やさしそうな顔をした、いかにも女性にもてそうな感じの、今時のソフトな男性である。彼は由起恵の直属の上司ということになる。
日曜日の午後という書き入れ時の中、少し時間をもらい、別室を用意してもらって、風間から由起恵のことについていろいろ訊くことにした。そこで、由起恵がこのスーパーで働き出したのは約3ヶ月前であること、以前はOLとして働いていたこと、以前の職場は千代田システムエンジニアリングというIT関連会社であること、先週の金曜日(24日)は休暇を取りたいと言ってきたので許可したこと、無断欠勤など今まで一度もなかったのに昨日と今日は欠勤して、電話連絡もつかなかった等の内容を聞き出すことができた。
もし由起恵が自殺であるならば、前の会社を辞めたことが一つの原因として考えられたため、遠藤はその辺をさらに詳しく訊くことにした。
「風間さん、それで、大森さんが前の会社を辞めた理由をご存知ですか?」
「いいえ、詳しいことは分からないですが、何か人間関係で悩んでいたような感じは受けますね。それを直接聞いたわけではないし、本人は一身上の都合って言ってましたけど」
「そうですか、ではなぜ人間関係で悩んでいたと思われたんですか?」
「ええ、最近はそうでもないですけど、あまり自分から話をしないタイプだったし、仕事が終わってもどこかで遊ぶような素振りはなく、すぐに帰宅しますしね。仕事は真面目だし、いい子だったですよ。ただ、このスーパーでも友達はあまりいなかったんじゃないかな。あ、唯一仲のよかった子がうちの青果売り場にいますから、彼女に聞いてみると何かわかるかもしれません。今日も出勤してますから、呼んできましょうか?」
風間が気を利かせてくれたが、遠藤はまだ彼に訊きたいことがあったので、それを制して、
「あ、その前に、最近大森さんに変わったことはなかったですか? 何か悩んでいるとか、塞ぎ込んでいるとか」
「ええ、そのことなんですけど、さっきも言いましたが、最近はむしろ明るくなったような気がするんですよね。もしかしたら、新しい彼氏とかができたのかもしれないなと思っていたくらいです。刑事さんは自殺の可能性を調べているのだと思いますが、僕はそれは絶対ないと思っています」
風間の話に、遠藤は少しうれしくなってしまった。自分のカンが当たっていたからなのか、あるいは同世代の、それも自分と同じ独身女性が自殺することが本当に忍びないということからなのか、あるいはその両方なのかはわからなかったが、自然とうれしさが込み上げてきたのだ。
「わかりました。お忙しいところありがとうございました。それでは、仲のよかった子を呼んでいただけますか」
遠藤がそう言うと、風間は軽く会釈をして部屋から出て行った。5分ほどして、ドアをノックする音がし、由起恵の唯一の友達だと思われる若い女性が入室してきた。光永かほるという28歳の女性だった。彼女はパートタイマーとしてではなく正社員として、由起恵と同じ青果売り場で働いていた。部屋に来る前に風間から由起恵が死亡したことを聞いたのだろう、風貌は今時の普通の若い女性なのだが、全く精気がなかった。というよりもやはり驚きが隠せないといった方が適している様子である。
かほるの話も、風間の話とほとんど内容は同じだったが、2つだけ新たな話を聞くことができたのはかなりの収穫であった。
1つ目は、前の会社を辞めた理由についてである。
「それは大森さんが自分から話してくれたということで間違いありませんか?」
遠藤が尋ねると、光永は、
「ええ、そうです。・・・・話してくれたのは最近になってからですけど。同じ会社に好きな男性がいて、社内恋愛を続けていたのだけど、その男性、他に好きな人ができちゃって大失恋したみたいなんです。・・・・同じ職場にいて顔を見なきゃならないっていうのは辛かったのだと思います。・・・・だから、自分から身を引いたようなことを言っていました。・・・・でも・・・・あきらめきれなかったんじゃないかな。このスーパーに来たときからずっと暗い顔してましたし」
と、ところどころ息を詰まらせ、力なく答えた。社内恋愛の相手までは特定できなかったが、遠藤は興味深げにずっと話を聞き続けていた。
2つ目は、先週の金曜日に休暇を取った理由についてである。
「これも、自分から言ってきたのだけど、金曜日は休みを取って、どこかに行く約束をしているようなことを言ってました。・・・・彼女にしては珍しくうきうきだったので・・・・もしかしたら・・・・誰か好きな人ができたのかもって・・・・」
このようにかほるが話をする様子は、相変わらず全く力なく、ぼそぼそっという感じだ。
これらの光永かほるの話は、さっき聞いた主任の風間潤平の話とも一致する。遠藤刑事は、自殺の線はこれで完璧になくなったと確信した。それから遠藤は、光永かほるに丁重に礼を言ってからスーパーダイオー新宿戸塚店を後にすることにし、すぐに本郷へ電話で報告を入れた。
一方、速水と吉野は、新宿区中落合にある大森由起恵の自宅に到着した。よくある1DKタイプのアパートで、管理人に事情を説明して部屋を開けてもらい、捜索を始めた。そのアパートも明らかに築25年以上は経っているような古いアパートで、32歳という年令の、しかも一人暮らしの女性という割りには、驚くほど質素でこぎれいな部屋だった。キッチンとダイニングは多少広めではあるが、部屋は六畳で、しかも畳張りの和室であった。インテリアと言えるようなものはほとんど皆無で、女性特有の、人形とかぬいぐるみなども全くなく、本当に生活に必要なものだけが無造作に点在しているといった感じだった。電化製品で主だったものは、テレビ、洗濯機、掃除機、扇風機、炊飯器、冷蔵庫ぐらいで、固定電話もエアコンもパソコンも無し。家具も、洋箪笥が1つと今時珍しい丸い卓袱台があるぐらいで、ソファや椅子すらなかった。
「今時の女性の部屋としては随分質素な部屋ですね。しかも生活感が全く感じられません。もしかしたら、かなり病んでいたのかもしれませんね」
吉野が速水に言った。
「うん、そうだな、これでは何も出てこないかもしれないな」
速水も押入れや箪笥の中をあれこれ物色しながら、答えた。
「速水さん、これはなんでしょう。何かの予定ではあると思うのですが」
吉野が、壁に張ってある月めくりカレンダーの、9月24日だけ、『☆』が書かれていたのを見つけ、速水に知らせた。速水もその記号の意味まではわからなかった。
結局、カレンダーの意味不明な記号以外、住所録やメモ類も全く見つからず、しかも携帯電話もなかった。遺書らしきものも見つからず、手がかりといえるものはほとんどない、まだ何とも言えない状態で、本庁に戻ることになった。
速水と高杉は、先週に引き続き、千代田システムエンジニアリングへ行って、事情を聞く羽目になった。先週は宮部良彦の取調べのためだが、今日は元社員の、それも昔交際していた相手を捜すためである。それもまだいささか曖昧な話であったが、何としても手がかりがほしかったのだ。
受付で話をすると、5階の会議室へ通され、人事部の課長の菊池豊から話を聞くことができた。既にニュースで大々的に報道されていたことで、菊池は大森由起恵の水死体が発見されたことは知っていた。
人事課長の菊地によると、大森由起恵は、文科系の大学の経済学部を卒業した後、すぐに千代田システムエンジニアリングに入社し、通信や物流関連のシステム部に配属になって、システムエンジニアとしてちょうど10年間勤務した。退職したのは、3ヶ月前の6月末日付けで、退職の理由は、よくある「一身上の都合」による自己都合退社だということであった。
一通りの話が終わった後、速水が、大森由起恵が社内恋愛をしていた可能性が高いことと、できればその交際相手から事情を聞きたいということを話すと、菊池はびっくりした顔をして言った。
「え、そうなんですか。全く知りませんでした。退職の1ヶ月前ぐらいに、彼女が退職したいと申し出てきたときには、いろいろ相談には乗ったんですが、そのような話は全く聞いていませんね。まあ、自分から言い出すような内容では確かにありませんが。それでしたら、同じ部署にいた、庶務の佐伯香里とエンジニアの奥谷真弓を呼びますので、聞いてみてください。女性同士なら、何か知っているかもしれませんので」
そう言ってから、テーブルにある電話を取り、2人の女性社員を会議室に呼ぶために内線電話をかけたようだった。
数分後に、佐伯香里と奥谷真弓が会議室に来た。佐伯香里は、通信・物流関連のシステム開発課の庶務を担当している、27歳の女性で、ぽっちゃりとしたかわいらしい少し小柄な女性だった。奥谷真弓は、いかにも頭がよくて仕事ができそうな、身なりもきちっとした35歳の女性であった。特に真弓は由起恵が退職するまで、先輩として彼女の指導者的役割を担っていたということをあらかじめ菊池から聞いていたので、かなりの期待感を持って話を聞くことにした。2人ともなぜ会議室に呼ばれたのか、よく把握しきれていなかった。菊池が、大森由起恵のことについて、警察がいろいろ捜査をしており、彼女が社内恋愛していたらしいことと、特に交際相手のことを聞きたがっているので、同じ部署の女性である2人を呼んだ、ということをざっと説明すると、ようやく2人とも納得したようだった。
ここで、速水が2人にストレートボールを投げた。
「奥谷さん、佐伯さん、大森由起恵さんの水死体が発見されたことはご存知ですよね。どちらでもかまいませんが、社内恋愛の交際相手をご存知ありませんか?」
2人ともお互いの顔を見合わせて、話しづらそうにしている姿を見て、人事課長の菊池は気を利かせて会議室から出て行った。速水と竜崎は、2人の態度から、どちらも交際相手を知っていると確信した。しかし、どちらも下を向いたままなかなか言い出さなかった。
「ご存じないのですか? もしご存知なら是非うかがいたいのですが。もちろん、お2人からうかがったことは内密にしますので」
竜崎がこのように促すと、佐伯香里が、
「本当に私たちが話したことを秘密にしていただけますか?」
と念を押してきたので、速水は(しめた!)と思った。そして今度は速水が言った。
「ええ、もちろんです。捜査上の情報は、誰にも口外しません」
それを聞いて、佐伯も奥谷も安堵した顔になった。そして、奥谷真弓が口を開いた。
「1度だけ、由起恵が、六本木でデートしているのをたまたま見てしまったんです。相手は同じ部署の山口です。実は私の上司なんですけど。会社の中ではなく、休日に楽しそうに2人で腕を組んで歩いていたので、間違いないと思います」
「それは、いつごろの話ですか?」
「ええと、確か、今年の3月です。春分の日からの3連休のうちのどれかだったと思います」
「そうですか。わかりました。話しづらかったと思いますが、ありがとうございます」
それに続けて、今度は佐伯香里が間を空けずに話し始めた。
「私もうすうすそうじゃないかと思ってました。私は実際2人がデートしているのを見たわけでもないですし、大森さんから直接聞いたわけでもないですけど、社内で2人で話している感じとか、たまに2人で一緒に帰っていたとか、多分山口さんと付き合っているんじゃないかなと」
速水と竜崎はその話で確証を持った。
山口とは、同じ部署、すなわち通信・物流システム課のプロジェクトマネージャを担当している山口貴之のことである。現在、大手通信会社から受注した経理システムのシステム開発を行っている。奥谷真弓もそのプロジェクトの一員であり、山口と一緒にシステム開発の仕事をしていたのである。
念のため、由起恵が貴之と別れた理由や、由起恵が現在付き合っている男性を知っているかどうかについても尋ねたが、香里も真弓も、2人が破局したことをそもそも知らなかったのと、由起恵が退職した後は特に連絡も取り合っていないということで、さらなる有力情報は得られなかった。
しばらくして、鑑識からの報告があった。まず、死亡推定時刻は、9月24日金曜日の、午後3時から、5時ぐらいまでの間。要するに隅田川で発見されるまで、1日半ぐらいだったことになる。死因は溺死。目立った外傷はなし。それから体内から採取した水と、隅田川の水の成分が同じこともわかった。しかし、これだけでは事件、事故、自殺を確定するまでの材料としては乏しかった。
本郷は、遠藤刑事からの、勤務先への聞き込み報告により、自殺の線はほぼないと思われたことから、事件と事故のどちらかに絞り、捜査を進めることにした。
梅沢刑事と遠藤刑事には、再度勤務先のスーパーマーケットで、特に殺害動機がある者がいないかどうかを、吉野刑事と高杉刑事には、事故の可能性の面から、荒川遊園より上流の隅田川周辺の目撃者探しを、そして速水刑事と竜崎刑事には、昔の交際相手であると思われる、山口貴之に話を聞くように指示を出した。
速水と竜崎は、昨日に引き続いての、千代田システムエンジニアリングの社員関連の捜査である。
昨日、奥谷真弓と、佐伯香里から聞いた内容を確かめるべく、山口貴之に話を聞くためである。
あらかじめ山口貴之に連絡を入れたのだが、今日は彼が担当していた経理システムの一部納品があるため、どうしてもはずすことができないので、夕方、それも6時以降であれば話が聞けることになっていた。そのため、大手町の会社へ行くのではなく、納品先の近くの、渋谷のコーヒーショップで午後6時半に待ち合わせをすることにしたのである。
あらかじめ、山口貴之の写真は入手しており、2人の刑事は待合せた時刻通りに到着して、コーヒーショップでずっと彼を待っていたが、20分ほど遅れて、ようやく彼が現れた。約束をすっぽかされたわけではなかったことで、2人はほっとした。
山口貴之は、背も高くスマートで、実際の年令よりかなり若く見えた。だが、その反面、かなり疲れた顔をしているようにも見えた。
実は、今日のシステム納品のために、プロジェクト責任者の貴之が納品物の最終チェックを行う必要があるということで、昨日はどうしても抜けられない旨、事前に会社から連絡があった。それで、本日のこの時刻にわざわざ待合せをして、話を聞こうというわけなのだが、システムの納品作業が殊の外大変だったからなのか、あるいは元カノが亡くなったことを知って、心が痛んでいるのからなのか、そのどちらなのかは、2人の刑事にもわかる術はなかった。
まずは速水が口火を切った。
「お忙しいところ恐縮です。システムの納品は無事終わったのですか?」
「ええ、予定より長引いてしまいましたが、何とか無事に納入することができました」
「そうですか、それではしばらくお時間いただいてもかまいませんね?」
「はい、今日はこの後の予定も特にありませんので」
速水と竜崎は、それを聞いて少し安心した。
「では、早速本題に入りますが、6月までお宅の会社で働いていた、大森由起恵という女性が、日曜日に、隅田川で水死体で発見されたのはご存知ですよね?」
話を始めたのは竜崎である。それに対し、
「はい、もちろんです。彼女は私と同じ部署にいましたからねぇ。ニュースで見て知ったんですけど、驚きました。死因はやはり溺死なんですか?」
と、山口が答えた。言葉とは裏腹に、意外とさっぱりとした答え方である。竜崎も山口の問いに答えた。
「ええ、そうです。ただ、事件か、事故か、自殺か、それはまだ断定できていませんが。それで、つかぬ事をお訊きしますけど、あなたと大森さんが、以前交際していたという噂を耳にしたのですけど、それは本当のことですかね?」
「ええ、隠したところでいずれわかってしまうと思いますから、正直に話しますけど、確かに付き合っていました。ですが、4月にはもう別れましたよ。最近は久しく会ってないですし」
予想外に、貴之ははっきり肯定したので、2人の刑事は少し面食らった。竜崎がさらに続けた。
「はあ、そうなんですか。久しく会っていないということですが、連絡も取っていないのですか?」
「あ、いいえ、別れてからは何度か会いましたし、連絡もとりました。と言っても、一方的に向こうから連絡してきたんですが」
それに対し、今度は速水が言葉を発した。
「ほう。それでは、大森由起恵さんは、まだ未練があったということなんですかねぇ」
「どうなんでしょうね。かなりしつこかったですよ。仕方なく何度か会うことにしたわけですけどね」
「ここ最近も会いましたか?」
「いいえ、最後に会ったのはもう2ヶ月ぐらい前かなぁ。ここ最近は、連絡もあまりなかったですよ」
「そうですか。もし差し支えなければ、別れた理由について教えてもらえませんかねぇ」
「それが、彼女が亡くなったことと、何か関係があるんですか? そういうことはあまり答えたくはないんですが」
山口貴之は、徐に嫌な顔をして下を向き、視線を外した。速水はかまわず続けた。
「少しでも手がかりがほしいので、できればうかがいたいのですが・・・・」
「わかりました。他の人とお付き合いすることになったからですよ。大森さんに非があったわけでもないし、彼女を嫌いになったわけでもないですが」
「ほう、かなりおモテになるようで、うらやましい限りですねぇ」
竜崎が、皮肉たっぷりに言った。それに対し、山口は表情1つ変えず、何も答えなかった。
一応、先週の金曜日、9月24日の、午後3時から5時までの山口貴之のアリバイを聞いてから、コーヒーショップを後にすることにした。
本庁への帰途で、速水が切り出した。
「山口は何か隠しているな。まだ由起恵と頻繁に会っていたかもしれないし、もしかしたら、二股掛けていたのかもしれない。例えば、新しい彼女と結婚話が進んでいたとしたら、由起恵が邪魔になったことは十分考えられるしね」
「やっぱり、速水さんもそう思いましたか。実は自分もそう思いました。殺害動機としては十分でしょう。彼が殺害したんじゃありませんか」
「うん、まあ、それも考えられるが」
しかし、後日、山口貴之のアリバイが完璧なことの裏づけが、一緒に作業を行っている協力者の麻生邦秀をはじめとして、勤務先の複数の証言によって明らかになった。山口が殺害したという可能性はなくなった。
吉野と高杉による隅田川周辺での聞き込みでも、誤って川に落ちた女性を見たとか、女性が誰かに突き落とされたという目撃証言はなかった。梅沢と遠藤からも捜査の進展に結びつくものは何らなかった。
捜査会議の結果、大森由起恵の死亡推定時刻が午後3時から5時までの間で、まだ明るい時間帯であるために、誤って転落する可能性が低いこと、それから、隅田川周辺に由起恵の知人は誰もいないため、この場所へ出かける可能性が低いこと等考え合わせ、事故ではなく、殺人事件として捜査を進めることに決まった。
大森由起恵が、人付き合いが比較的少なく、何かトラブルがあったことも考えにくいため、現在のところ、動機がありそうなのは、山口貴之だけと思われた。
本郷は思った。
(やはり、24日に何があったのか、誰と会ったのかが重要となるな。それから、殺害現場が隅田川のどの辺りなのかもキーポイントとなるだろう・・・・)