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歪んだ図形  作者: 宝花匡将
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第2章 bの事件

第2章 bの事件


1.9月17日・金曜日(その1)


 朝から、からりと晴れた、すがすがしい秋の日となった。東京地方の気温は、午前10時近くになっても、まだ摂氏20度前後で、暑かった先週の金曜日とは打って変わって、過ごしやすい天気であった。雲一つなく、空の青が際立っていた。快晴の割りに気温がそれほど上がらないのは、早朝から少し強めの風が吹いていたからである。そのためか、深呼吸をして吸い込んだ空気も、殊の外爽やかでおいしく、大都会のそれとは到底思えないほどであった。

会社員の宮部良彦と、妻の美智代は、久しぶりに2人で美智代の実家に向かうため、自宅のある渋谷区恵比寿から、タクシーで東京駅へと向かっていた。忙しい良彦にとっては、普段滅多に取ることができない有給休暇が、予想に反して意外と簡単に取得でき、なおかつ急に決まった話だったので、ここぞとばかりに、夫婦2人、水入らずでの『小旅行』となったわけである。

 良彦は大手町にある大手ソフトウェア会社で、主に金融系のシステム開発を担当するエンジニアとして長年働いているが、その仕事がこのところずっと忙しくて残業も多く、今年は正月もお盆も帰省できなかったということもあるのだが、美智代の父が肝臓癌を患って、ここ半年ぐらいずっと入院しており、その具合が思わしくないこともかなり前から把握していたので、その見舞いのための帰郷も兼ねてであった。 

たまの小旅行ということもあって、東京駅まではJR山手線ではなく、タクシーを使うことにした。明日、明後日の土曜日・日曜日を入れると三連休になることも重なって、少しばかりの贅沢をしたくなったからである。但し、自宅周辺でタクシーを拾うことはせず、歩いてもほんの10分程度しか掛からない恵比寿駅まで一度出て、必ずタクシーが何台か客待ちをしている駅前の乗り場から乗るという、最も確実な方法を選んだところなどは、いつもきちんと仕事をこなすエンジニアであり、几帳面な性格の良彦らしい、と言えるのではないだろうか。

 週末とはいえ平日なので、この時間の東京駅までの道中、特に六本木通りや外堀通り等の大通りは、普段と変わりなく結構混雑はしていたものの、2人はそれをある程度予想して、多少余裕を持って家を出たこともあり、『こまち15号』の出発時刻の、約1時間前には、東京駅の八重洲口側に余裕を持って到着することができた。ほんの数10分間というあっという間の短いタクシー旅行ではあったが、ゆったりと座って、誰にも邪魔されずに美智代と他愛のない会話もできたし、ピーク時とは言わないまでも、まだ朝の通勤時間帯の、日々うんざりしている超満員通勤電車に乗らずに済んだことは、『仕事』という二文字から完全に解き放たれた感じがして、タクシーにして大正解だったと、良彦は自己満足に浸るのであった。美智代も、今は働いているわけではないが、OL時代を思い出し、彼と同じような気持ちで当然のごとく喜んでいるように、良彦には見えた。

 また、あらかじめ、東京駅午前10時56分発、秋田新幹線『こまち15号』の座席指定券と、東京から角館までの乗車券は2人とも前日までに購入済みであって、気分的に大きな余裕を持って小旅行をスタートすることができた。

 帰省先の、秋田県角館(現在は市町村合併で、仙北市となっている)までは、東北・秋田新幹線で、東京から約3時間20分の旅である。

 宮部良彦と美智代の2人は、東京駅でタクシーを降りてから、八重洲北口の、新幹線用改札口から入場し、東北・山形・秋田新幹線の電光掲示板案内表示をじっくりとよく確認してから、22番線ホームへと向かった。そしてホームへ出てからは、2人で売店を探して歩き続けた。

 こまち15号の東京発は10時56分、そして角館到着が午後2時10分であるが、食堂車は連結されていないため、車内で昼食を食するための駅弁を買うことにしたからである。この駅弁というのも、旅の雰囲気を否が応でも盛り上げる、重要なアイテムの1つであることは、いつの時代でも揺るぎない周知の事実であろう。

 売店の陳列ケースをざっと眺めて、その中でも豪華さを感じた『大江戸弁当』と日本茶パックを2つずつ買い、ホームの待合室で幾ばくかゆったり寛いでいると、出発時刻の10分前ぐらいになって、案内放送が流れ、その後左手からこまち15号が入線して来るのが見えた。

 こまち15号は、はやて15号と併結されている。進行方向前から6両が秋田行きのこまち15号(先頭車が16号車、順に6両目が11号車)、後ろ10両が八戸行きのはやて15号(前から10号車、順に最後尾が1号車)となっている。16両で併結したまま、途中岩手県の盛岡まで行き、そこで切り離した後、こまち15号は秋田新幹線内を終着秋田まで向かうのである。

 水鳥のくちばしを思わせる丸い流線形の頭に、ボディは白とグレーの配色を基調とし、それにピンクのラインがワンポイントとなっている。列車名に相応しく、何ともかわいらしいデザインの車体である。もともと、盛岡から秋田までは在来のJR田沢湖線の線路を利用することを考えて、他の新幹線の車体よりも幾分小さめに設計されたことが、そのイメージを一層増長させた。

 ターミナル駅特有の、非常にゆっくりとした速さで入線してきた車両が、所定の停止位置に止まったのとほぼ同時に、良彦が口を開いた。

「この秋田新幹線『こまち』に乗るのも、いつ以来かなぁ、確か去年の正月以来じゃなかったかな。この車両を見るのも、随分と久しぶりのような気がするんだよな」

「そうね、父の看病のこともあるから、私はちょくちょく新幹線を使って帰っているけど、2人揃って行くのは、確かに1年9ヶ月ぶりぐらいよ。まあ、あなたもずっと仕事が忙しかったから、仕方ないけどね」

 と、美智代が慰めるような口調で返した。 

 しばらくして、再び案内放送があって、こまち15号のドアが開くと、2人はすぐに乗り込み、座席指定券と睨めっこしながら、車両中ほどへ進み、すぐに自分たちの席を捜し出した。荷物を網棚にのせ、座席にどっかと腰を下ろした。良彦の方が窓際の席を陣取った。

 こまち号は、全車指定席であるが、2人が乗った14号車は、出発まであと5分足らずであるにもかかわらず、乗客数はそれほど多くない。見渡したところ、乗車率はざっと60%といったところだろう。夏休み後で子供の姿はなく、かつ紅葉の時期にはまだ早いことなどが重なって満席ではないのか、それとも、全車指定席ゆえ発車間際に乗車する人が多いのか、あるいは、もともと比較的空いている時間帯なのかなど、良彦はいろいろ想像を膨らませた。

 良彦と美智代は、早々と座席のリクライニングシートを倒し、発車前から既に寛いでいた。幾分小型の車両ゆえ、他の新幹線のような3列シートはなく、左右どちらも2列シートであるので、その分、広いイメージを持たせることによって、逆にゆったりとした気分になれるのかもしれない。


 定刻の10時56分に、こまち15号と、はやて15号は、ゆっくりと静かに北に向かって滑り出した。良彦にとって通常は騒音にしか感じない発車ベルも、車内ではほとんど聞こえなかった。

 東京を発車すると、すぐに地下にもぐり、ほんの5分足らずで上野に到着した。上野駅はもともと、北の玄関口の役割をずっと担ってきた駅なのだが、かつては豊富にあった昔の在来線特急である、青森行き「はつかり」、盛岡行き「やまびこ」、仙台行き「ひばり」、秋田行き「つばさ」、山形行き「やまばと」、それから青森行き寝台特急の「はくつる」、「ゆうづる」などは、新幹線の開業に合わせて順次廃止を余儀なくされている。東北方面だけでなく、上信越・北陸方面への特急列車も数多くあったが、ほとんどが廃止されている。『上野駅』のその役割も今や完全に東京駅に譲ってしまった感がある。

 上野を発着する、東北方面への長距離列車といえば、札幌行き寝台特急「北斗星」、「カシオペア」と、青森行き寝台特急「あけぼの」のたった3つだけになってしまった。僅かに、「やまびこ」「つばさ」の愛称だけは、東北新幹線、山形新幹線に引き継がれることになった。

 上野は、また、『エキナカ』など、早くから駅のイメージアップ作戦をずっと展開してきた駅の1つである。そのためか、昔の何か雑然としたイメージとは異なり、現在では随分と綺麗で、とてもシャレた感じになっている。

 この駅でも14号車には数名の乗客が乗り込んできた。停車時間はわずかで、すぐに発車した。

 上野を過ぎると、5分も経たずに地上へ出て、約20分程で大宮に到着する。大宮駅は、JRでは京浜東北線、宇都宮線、高崎線、埼京線、川越線の5路線が、さらに東武鉄道野田線と埼玉新都市交通ニューシャトルの計7路線が接続している、埼玉県の交通の要所である。この駅でも、かなりの数の乗客が乗り込んできた。良彦が周りを見回しても、この時点で乗車率はほぼ100%になったように感じた。

 大宮までは、車窓の風景は大都会のビル群や駅前の商店街、住宅地がほとんどで、自然をイメージさせるものは、途中東京と埼玉の県境となっている荒川の鉄橋を渡る辺りの景色ぐらいであったが、大宮を出てしばらくすると、眼下には田園風景が徐々に広がり始めた。『緑』の色のバリエーションと、疎らに佇む民家、そして山や林の消現が多少なりとも変化するものの、次の停車駅の仙台までは似たような風景をずっと鑑賞することになるので、時間としては精々1時間強ではあるのだが、良彦にとっては、いつもいささか退屈なのであった。

(ああ、またいつもの退屈な風景が暫く続くのか・・・・)


 列車が新白河を通過した辺りで、そろそろ空腹感を覚えたこともあり、2人は一言、二言会話した後、東京駅で買った駅弁をテーブルに広げ、『大江戸弁当』に入っている具材や、香り、味についていろいろ会話をしながら、かつじっくりと味わいながら少しずつ口に運んだ。良彦は思った。

(駅弁も、結構おいしいものなんだな・・・・)

 比較的高価であるにもかかわらず、豪華な感じで、なかなか評判の良い、売れ筋の幕の内弁当の1つだったが、日頃なかなか食べられない形態の昼食を摂っているという、何とも言えぬ幸福感が、昼食の味の引き立て役としては申し分なかった。

 普段では考えられないほどゆっくりとした食事が終わると、当面の目標を達成したかの如く、風景の退屈さにプラスして、満腹感と、日頃の仕事の疲れのせいか、良彦はすぐに眠り込んでしまった。

(お仕事大変なのね。毎日ご苦労様)

 にっこりと微笑みながら良彦の寝顔を傍らで覗き込んだ美智代は、彼を起こさないように細心の注意を払いつつ、ショルダーバッグの中から静かに、好きなジャンルであるエッセイの文庫本を1冊取り出し、読み始めた。特に女性エッセイストが綴るエッセイのファンであった。同じ女性として共感できる部分が多いからである。

 さて、何ページ読み進んだであろうか、ふと、美智代が車両前上部にある車内掲示板を見て時刻を確認すると、午後0時32分で、仙台駅に到着する少し前になっていた。やがて車内アナウンスが流れ、その男性声が、仙台に到着が近いことを知らせた。


 どれだけ眠ったであろうか。 

「あなた、そろそろ起きて。もうすぐ角館に着くわよ」

 体を少し揺さぶられ、美智代のその声で良彦は目を覚ました。目を擦りながら、自分の腕時計を確認すると、午後2時5分を過ぎたところだった。ということは、良彦は2時間近く眠っていたことになる。

「ああ、すっかり眠ってしまった。やっぱり疲れがたまっているみたいだ。あと5分ぐらいで角館に到着だね」

 そう言うと、良彦は欠伸をし、両手を高々と挙げて一伸びした。美智代はその姿にはほとんど目もくれずに、読んでいたエッセイ本をバッグに収めるなど、自分の身支度を始めていた。


 程なくして、こまち15号は、定刻通り、午後2時10分に、角館に到着した。こちらも快晴の天気であり、空も東京で見たものと変わることもなく、雲一つない青で、すがすがしい限りであった。ただ、空気は明らかに透明度が優れているのがわかる。東京では強めに吹いていた風も、それほどではなかったものの、気のせいか、気温は東京よりも随分低いように感じ、随分と北へ来たことを痛感せずにはいられなかった。

角館で降り立った乗客は疎らだった。

 夫婦2人でプラットホームに降り立ち、そこからも薄っすらと感じ取れる、角館独特の匂いに、

「ようやく着いたか。1年9ヶ月ぶりの角館。とても懐かしい感じがするし、タイムマシンで時代を遡ったみたいだよ」

 良彦がそう洩らした。ただ、心の中では別のことを思っていた。

(しかし、角館にはあと何回来ることになるのか・・・・)

 

 2人は、足取りも軽やかに改札口を出て、タクシー乗り場へと向かって行った。


 角館は、秋田県のほぼ中央に位置し、三方を緑濃い山々に囲まれた、静かな横手盆地の北部に位置する。現在は、市町村合併で、仙北市の一部となっている。『みちのくの小京都』とも称されている城下町で、金沢や飛騨高山、萩・津和野、そして同じ東北地方の弘前といった、津々浦々の『小京都』と同様に人気があるが、随所に残る黒板塀の武家屋敷、古い土蔵造りの商家など、しっとりと落ち着いた町並みがそれを証明している。町の風景を特徴付ける色は、何といっても黒、茶、そしてほのかに白が合わさるといったところである。新緑、紅葉、雪模様・・・・。それぞれ特長を持った季節も、町の色に彩と趣を加えるには全く申し分ないのだが、はるかに桜の季節の「桃色」とのコントラストは見事で、まさに圧巻である。特に、約2キロにも及ぶ桧木内川の『花のトンネル』は大変有名だし、武家屋敷の、枝が垂れた桜もまた乙な風情で、如何にも、また何時でも『絵になる街』という比喩がぴったりであろう。

 また、角館は、阿仁合・鷹巣方面へと向かう、秋田内陸縦貫鉄道の乗換駅かつ始発駅ともなっている。ただ、乗換駅とはいうものの、地方鉄道特有の、小さく可愛らしい駅舎が、向こうの方に、随分奥まって見えるのみである。


 駅前でタクシーに乗った2人は、美智代の父が入院している、角館中央総合病院へ向かった。その運転手は、根上修作といい、都会の運転手とは違い、地方に多い愛想の良いおしゃべり好きな、50路中年のオジサン的運転手であった。角館中央総合病院は、角館駅からタクシーで約15分ほどの、市街地からは少し離れたところにあるが、根上は、宮部夫妻がタクシーを降りるまでの間、ほとんど1人で話をしていた。

 この病院は、8階建ての大きな建物で、内科、外科はもとより、眼科、歯科、皮膚科、精神科など、ほとんど全ての診療科が揃っており、またそれぞれの科の専門性も非常に高く、優秀な医師も揃っている。すなわち、秋田県下だけにとどまらず、東北地方でも有数の総合病院なのである。今の時代に、経営効率の悪さや、医師の過重労働等の問題で、加速度的に少なくなっている、小児科や産婦人科も当然設置されている。さらに、施設・設備も一流で、診察券は全てICカード、受付・会計も、初診以外は専用の機械で患者自身が行う、といった具合に、IT化も進んでいる。とにかく『最先端』の病院なのだ。

 

 途中、病院近くの花屋でタクシーを降り、見舞い用の花束を見繕った後、午後2時40分頃に、角館中央総合病院に到着した。病院の入り口を入ると、2人は、早速父の病室に向かった。広い受付を抜け、その先を右に折れると、廊下の突き当たりに3機のエレベータがある。最上階へ上がり、建物の一番奥にあって、最も見晴らしの良い、801号室の、『佐々本大蔵』とある特別個室の前に来た。 

良彦の妻の宮部美智代は、透き通るぐらいの色白で、肌もきめ細かく、まことに綺麗である。目鼻立ちも素晴らしく整っていて、髪は胸のあたりまでのロングヘア。スタイルも完璧で、正に『秋田美人』というのに相応しい、大変美しい女性である。

 美智代は、大学の同級生だった良彦と結婚して、かれこれ4年目になるが、旧姓は『佐々本』であった。父の大蔵は今年で66歳になるが、一代で『こまち錦』という銘柄で全国的に有名な造り酒屋を創業し、地元ではかなりの名家として知られている。彼女の母は既に10年前に病気で他界し、入院中の大蔵の世話は、専ら大蔵の実妹である飯塚房乃が行っていた。


 美智代がノックして、病室へ2人で入ると、房乃の姿はなく、佐々本大蔵は、静かに眠っていた。さすがに特別個室だけあって、見るからに随分と高そうな病室である。大蔵の背丈はそれほどなくむしろ小柄だが、もともと恰幅の良い、いかにも造り酒屋の頭といった、昔の面影は微塵もなく、約半年間の闘病生活のせいで、彼の体は無残にも痩せ細っていた。その反面、腹水が溜まるので、お腹だけが不気味にぽこっと膨らんでいて、かなり異様である。さらに、頬が痩せこけていることが際立ち、肝臓疾患特有の黄黒さもやけに痛々しかった。

 美智代は、病室の花瓶に、ほとんど生気が感じられない萎みかけの花と、自分が買ってきた花束を差し替えるため、一旦病室を出て行った。その間、良彦はソファに深く腰掛け、表情を全く変えずに、ずっと大蔵の寝顔に見入っていた。

(随分と具合が悪そうに見えるけど、この人は、いったい、あと、どのくらい持つのだろうか・・・・)

 美智代は、病室へ戻ってくると、活き活きした新しい花の花瓶をもとの場所に置くと、ソファの良彦の隣へ腰を下ろした。

 やがて、乾いたノックの音が響いて、1人の体格の良い女性が入ってきた。その白衣からすぐに看護師だと理解できた。彼女の姿を目で追っていると、どうやら、定時の点滴交換のためらしいことが判断できた。その看護師は、渡辺葵といい、大蔵が入院してから、ずっと彼を担当している。

渡辺葵は、今年33歳になるベテランであるが、まだ独身で、ずっと看護師を10年近く続けている。明るい性格で愛想もよく、年齢に似合わない無邪気な憎めない笑顔、それに体格の良さ、さらには、持ち前の信頼のおける仕事ぶりも加わってか、患者たちからとても人気があった。

 彼女は、美智代の顔を見ると、まだ幾分幼さが残る顔でにっこり微笑み、

「あら、美智代さん、お久しぶりですね。1ヶ月ぶりぐらいかしら」

 と話しかけてきた。軽く会釈をしながら美智代も笑顔でそれに応えた。確かに、1ヶ月前のお盆の時期に、美智代だけこの病室を訪れていたのである。


 良彦は、大蔵が入院してから病院を訪れるのは初めてであり、初対面となる看護師の葵に軽く挨拶と自己紹介をした。

(ほう、なかなか可愛らしい看護師さんじゃないか・・・・)

 その後、良彦は大蔵の病状について、いろいろ彼女と会話した。勿論、美智代もそれに加わった。葵の話より、やはり病状はかなり悪く、最近は日中もほとんど眠っているということであった。さらに、食事も満足に摂れずに衰弱しているらしい。いよいよ死期も近いということだろうか。


 美智代が大蔵の病名を知ったのは、半年前である。叔母の房乃からの、突然の電話で知った。その時点で、大蔵が肝臓癌であって、余命としては、せいぜい半年か、どう長く見ても1年と、既に宣告されていたのである。

 休みもほとんど取らずにずっと仕事に打ち込んでいた大蔵は、いわゆるモーレツ社長であった。自分の身体の変調に気づかなかったため、発見が遅れたことがひどく災いした。いや、正確に言うと、変調に気づかなかったのではなく、実際は気づかないフリをしていたのだった。何となく身体がだるく、疲れやすいという自覚症状は、少し前からあったのである。これまで頗る健康で、大病らしい大病をしてこなかったことで、定期的な健康診断もろくに受けておらず、かなりの自信過剰と幾分油断があったことも、それに輪をかける結果となった。ただし、大蔵本人に肝臓癌の告知は行っていない。今となっては本人もうすうす気がついているだろう。

 手遅れに近い状態ではあったものの、癌の切除手術は一応行い、放射線治療など、金に物を言わせて、効果は度外視した、考えられる全ての治療を行ってきたが、いかんせん、発見が遅かったことが致命的であった。


 渡辺葵は、良彦と会話しながら、てきぱきと機械的に、慣れた手つきで点滴を交換し終え、また可愛らしい笑顔で2人に挨拶すると、そそくさと部屋を出て行った。このとき、良彦は思った。

(ほう、ベテラン看護師ともなると、こんなものかなぁ)

 2人はその後も病室には3、40分ほどいて、ほとんど会話もせずに静かに大蔵を見守っていたが、全く起きる気配もなく、弱っている患者をそのまま寝かせてあげたいという気持ちもあって、明日改めて訪れることにして、2人は病室を後にした。

 病院を出ると、またタクシーに乗り、仙北市内の、美智代の実家へ向かった。美智代の実家、つまり大蔵が創業した造り酒屋であるが、角館駅から徒歩20分ほどの、武家屋敷通りにほど近い、土蔵造りの大きな旧家である。到着したのは、ちょうど午後4時30分となっていた。

 実家では、いつも大蔵の世話をしてもらっている、叔母の房乃が、奥の台所で何やら忙しく家事を行っている様子が見えた。大蔵の世話のために病院へ行くのも、かなり衰弱している大蔵の今の病状では、自然と頻度が低くなってしまったのだろう。良彦と美智代は、房乃に丁重にお礼を言い、美智代は着替えもそこそこに手伝いをし始めた。良彦は、旧家特有のだだっ広い客間へ通され、座布団に胡座をかいて座った。程なくして日本茶と和菓子が運ばれてきた。お茶を一口啜ると、和菓子には手もつけずにしばらくボーっとして座っていた。そして、そのまま畳に横になり、手を組んで枕代わりにし、太い梁が特徴的な、旧家の広くて高い天井を、右から左へ見渡しながら今日を振り返って思った。

(うーん、やれやれ。ようやく一段落か。しかし、いくら新幹線ができて時間がかからなくなったとはいえ、さすがに長旅は疲れたな。それに、慣れない長旅故の、いつもの「仕事」の疲れとは全く性格の違う疲れ。まあ、気疲れも相当あったしな。だけど、見れば見るほど古い家だ。広さだけは一級品だがね・・・・)



2.9月17日・金曜日(その2)


 佐々本幸次は気持ちの良い朝を迎えた。朝と言っても、もう時刻はそろそろ午前10時に近づいていた。幸次は、普段から目覚まし時計のような強制的な代物は使うのを極力避けているので、起床時刻は毎日まちまちであった。

 幸次がゆっくり目を開けると、ベッドの傍にある窓辺の、薄青いカーテンの隙間から、木洩れ日のごとく、太陽の光がいくつかの細い白い筋となって鋭く差し込んできて、さんさんと輝いていることが、カーテン越しでも容易に想像できた。眠っていたときは、不思議なくらい全く聞こえなかったはずなのだが、自動車や近隣の物音などの、人類の生活音の騒々しさで、さすがに東京という大都会の平日なのだということを、実感することができた。この日の早朝から吹いていた風は、すでに止んでいた。


 幸次は、2ヶ月ほど前から、近くのコンビニエンスストアで、夜から朝方にかけて実働で8時間程度アルバイトをしているが、日中は定職を持っていなかった。いわゆる今時の『フリーター』なのである。幸次は、とうに30路になっていたのであるが、幸か不幸か実家がかなり裕福で、特に、一代で造り酒屋を創業した父親が、あらゆる部分で甘やかすだけ甘やかして育てたことが大きく災いして、実家の家業も継がず、未だにブラブラしている窮境なのだ。

 幸次には、実家の角館での、田舎色が強く、かつ古風で退屈な、造り酒屋の頭などという生活は、毛頭合っていなかった。というより、幸次自身がそう感じたからなのだが、地元の高校を卒業すると、すぐに東京に出て、一人暮らしを始めた。普通であれば、必死にアルバイトでもして、安くて狭いアパートで節約生活、というものを余儀なくされるはずなのだが、ここでも悲しいかな、子離れできていないダメ父親の性で、毎月決まった額の、それもかなりの額を仕送りしていたものだから、贅沢三昧とまではいかないまでも、彼には分不相応な、一般ビジネスマン並みの暮らしが保証されてしまっていたのである。さらに、現在は大好きなバイクを乗り回すのを唯一の趣味としていて、東京に出て直ぐに免許を取得したのだが、さすがに実家からの仕送りだけでは足りなくなり、ほぼ1年前に、家賃が安めの現在のアパートに引越し、なおかつ最近ようやくコンビニでのアルバイトを始めたばかりだったのである。


 これには、彼の実姉の存在も大きく影響していた。美智代という5歳違いの姉は既に結婚して家庭を持っていた。姓は「宮部」となって現在は専業主婦であるが、彼女が大学時代からずっと東京で暮らしていることもあり、幸次がはじめて東京に出て来たときにも、いろいろ世話になった。普段も密に電話やメールで連絡を取り合うなど、仲のいい姉弟であった。もともと仲が悪いわけではなかったが、2人とも地方の退屈な生活ではなく、都会暮らしに憧れる気持ちが強いことなど、共通点が多かったことが、より絆を強く深くしたのである。そういう事情であるから、幸次のアルバイトの件も、当然美智代のアドバイスによるものだった。幸次も最初はひどくためらっていたのであるが、結局は彼女の説得に屈する形となった。要するに、『生活力』のひとかけらは幸運にもまだ彼は持ち合わせていたのだ。この歳になって、生まれて始めて、自分で稼ぐことを決断し、実際に経験することができ、なおかつ、とりあえずそれが継続できているのだから。 


 幸次は、ベッドから起き上がって一欠伸すると、カーテンを開け、太陽光線を一身に浴びるとともに、雲一つ無い晴れ上がった空を眩しげに眺めた。それから、決して広いとはいえない台所の片隅にある、おもちゃのような小さな濃紺の冷蔵庫から、缶コーヒーを1本取り出し、一気に飲み干した。そして、特に見たい番組があるわけでもないのだが、時計代わりに、これもおもちゃそのものの、リモコンすらついていない小さなテレビのスイッチを入れた。さらにそのテレビをろくに見るわけでもなく、シャワールームへ直行し、暫時、少し熱めのシャワーを浴びて目を覚ます努力をした。冷たいコーヒーと、朝シャンのおかげで、心も身体もようやくリフレッシュし、同時に体内時計と脳内時計を共にリセットすることができた。その後、厚切り食パンをトーストし、全体に薄く、しかし荒々しくマーガリンを塗りつけて、そこにスライスチーズをのせて食べるのが習慣だった。これは、特に変化があるわでもない、幸次にとっては通常の1日のスタートの光景である。

(さあ、今日も1日、遊び回るとするか)


 今日も、好きなバイクで、バイク仲間の竹内満と一緒に、湘南か、内房辺りでもぶっ飛ばしたい、という気になっていたのだ。竹内満は、まだ20代であり、幸次よりも4歳ほど若いのだが、彼もまた幸次と同じようにブラブラして、定職を持っていなかった。が、幸次と違うところといえば、アルバイトはしておらず、かといって親からの仕送りがあるわけでもないところであった。それどころか、真面目に職探しをする意思すら皆無であった。それでも何とか生きていけたのは、水商売をしている永井めぐみという、27歳の女性と同棲しており、いわゆる『ヒモ』状態となっていたからに他ならないのである。

 2人ともバイクには多額の金をつぎ込んでいた。バイクは人生そのもの、と言い換えたほうがより正確にその状況を物語っているだろう。幸次はホンダのCBR1000RR、満はヤマハのXJR1300を所有していた。どちらも、100万円以上はする、メーカーの中では最高級に位置付けられる車種だ。そのバイク自体、値が張るのも勿論なのだが、毎日のように遊び呆けているために、ただでさえ値上げを繰り返しているガソリン代が、それ以上に馬鹿にならない状況で、相当の経済的負担となっていたのは紛れもない事実であった。

 幸次にとって、バイク仲間はもう1人、村瀬哲人という、同世代の男がいるのだが、彼だけは、自動車整備工という、真っ当な定職を持っており、平日はもちろん働いていたわけで、日中は仕方なく専ら満とつるんで、バイクを乗り回すといった具合だった。3人の中では、年齢が少し上だということで、自然と佐々本幸次がリーダー的存在になっていた。

 3人は、バイクを個人的な趣味として興じていただけで、暴走族のように迷惑行為を日夜繰り返していたわけではなかった。つまり、どこの暴走族にも属していなかったのである。これだけは唯一の救いであろう。


 佐々本幸次は、竹内満と連絡を取って、これからどこに遊びに行くか、決めることにした。自分自身では、ほぼ湘南、それもなぜか無性に鎌倉か逗子辺りの海岸線を走って、自然の風を体中に存分に感じてみたい、という気持ちが次第に大きくなっていた。  

 早速携帯電話を手にすると、登録済みの電話番号から竹内満の電話番号を選択し、通話ボタンを押した。満は直ぐに電話に出た。

「おう、幸次か。ツーリングの話か? 今日はどこへ行く?」

「おう、満、もう起きてたか。天気もいいし、ちょっと海へ行きたい気分なんだ。海を見ながら海岸線を走って、スカッとしたいんだけど、どうだい?」

「おいおい、今何時だと思っているんだ。さすがに、この時間なら起きてるよ。まだ彼女はすやすや寝てるけどね。うん、海か。いいね。俺も幸次と同じような気分だよ。ところで、場所は決めたのか?」

「そうだな、海であれば、鎌倉、江ノ島、逗子辺りを考えているんだけど」

 と、幸次がさっきから思い続けている気持ちを伝えた。

「湘南か。OK! 待合わせ場所と時間を決めてくれれば、こっちは直ぐにでも出発できるぜ」

 場所はすんなり決まり、幸次が望んだ通りになった。

「ところで幸次、哲人と何か揉めてるんだって? この前哲人と電話したんだけど、あいつ、かなり気にしてたみたいだからさ」

「ああ、ちょっとね。実は、そのことで今日の夕方、哲人と会うことになっているんだ。ちゃんと話をつけるつもりだよ」

 幸次の声質があらわに変化したことで、ただならぬ気配を感じ取った満は、不安を感じながらも、それ以上深く事情を聴き出すのをやめた。

「そうか、わかった。何があったのか詳しいことはわからないけどな、でも、もし何かあったら俺にも絶対連絡くれよな。俺みたいな人間でも、少しは力になれるぜ」

「うん、哲人のことは大丈夫だよ。ありがとうな。じゃ、待合わせについては、今から調べて直ぐにメールするよ。場所はシモキタの直ぐ近くにするつもりだから。たぶんいつもと同じだけどな」

 と、幸次の声質が元のように明るくなった。

「OK! じゃあな」

 こうして2人は電話を切った。


 竹内満は、若者に人気のある街の1つである、世田谷区下北沢の豪華なマンションの一室に住んでいた。ただ、住んでいるとはいっても、自分の家でも何でもなく、それどころか、水商売の彼女、永井めぐみの部屋に勝手に転がり込んで、のべつ遊ぶ金をせしめるだけにとどまらず、生活そのものを依存してしまっている、単なる無様な居候の分際にすぎなかった。めぐみは新宿のキャバクラに勤めており、人気のホステスで、毎月かなりの収入があった。満ともその店で知り合ったわけである。


 念のため、鎌倉・逗子までの道順を地図で調べていた幸次は、待合せ場所としてよく使う「駒沢公園」で、午前11時30分に待合せることにして、その旨を満の携帯にメールした。そのとき携帯電話の時計は、午前10時37分を示していた。

(おぉ、のんびりしちゃいられない・・・・)

 幸次は、すぐに、黒い長袖のシャツとジーンズという軽装に着替えて、フルフェイスの赤いヘルメットをかぶり、これまた赤いブーツを履いて、彼なりの、いつものこだわりのツーリングスタイルを整えた。いつも玄関の下駄箱の中に仕舞うことにしている、免許証と現金数万円が入った財布を手にとって、携帯電話とともに無造作にジャケットのポケットに押し込むと、そそくさと部屋を出た。

 それから、外の駐車場まで歩き、こよなく愛する赤いCBR1000RRに跨った。「駐車場」といっても、これが庭付きの一戸建てだったとしたら、猫の額ほどもないような、アパートの一番奥の、庭の片隅である。そして徐にエンジンをかけると、ブオオー・ゴー・ゴー・ブオンオンという独特の力強いエンジン音を響かせる。バイクがようやく眠りから目覚める瞬間だ。幸次はCBR1000RRと一体になり、駐車場ならぬ庭隅から、バイクを押して表通りに出、再び愛車に跨ると、すぐさま消えるように走り出していった。


 幸次が住んでいる、東京都豊島区の南大塚にある一般的な2DKのアパートを出て、まず春日通りからすぐに不忍通りへ出た。平日の日中であるから、勿論どの道も、それなりの混雑はしているわけであるが、バイク特有の『すり抜け走法』を駆使して、どんどんどんどん自家用車を、トラックを、バスを、そしてタクシーを追い抜いていく。幸次にとっては交通ルールやマナーなどどうでもよかった。ヘルメットを通して目に入ってくる風景は、次から次へとめまぐるしく動いていく。左右の視界から、どれだけの絵が後ろに消えていっただろうか。

(本当にバイクは最高だぜ!)

 不忍通りをしばらく走った後、千登世橋から明治通りへと入る。はじめは都電荒川線を左手に、そして新宿、原宿と抜けていく。すり抜け走法という、こんな走り方は危険だし、決して許されることでもない。ただ、案に違わず、どの通りもスムーズに走ることができる。この調子であれば、わざわざお金を払って、高速ならぬ低速道路など使う必要は皆目無い。これこそバイクの真の醍醐味であろう。ところどころ渋滞している場所では、それにはまったどの車の運転手も、何かうらやましそうな顔をしているのが、また妙に心地いい。どんなに大通りであろうが、多少混雑してようが、バイクには全く関係が無い。敵といえば、ただ1つ、数多くの信号機が放つ憎々しい赤い光だけなのだ。

 渋谷まで来ると明治通りに別れを告げ、玉川通りへ。池尻、三軒茶屋を後にして、最後に自由通りへと左折する。自由通りに入ると、すぐ右手前方には、いかにもというような樹木の緑や、独特の自然の静けさ、それとは対照的な、人間たちが散歩する姿など、暗々裏に公園を連想させる風景が広がりはじめ、目的地まではもう少しだということを示してくれている。


 そうこうしているうち、待合せ場所の駒沢公園に到着した。公園の時計は、午前11時26分を指している。自宅を出発してからおよそ40分弱で到着できた計算になる。大塚から駒沢まで、直線距離でも約15キロある道程であるから、相当速い事がわかる。

 竹内満は、もう既にそこに来ていた。彼のご自慢の、ダークグレーのXJR1300に跨り、近くのファーストフード店で買ったハンバーガーをぱくついていた。もう一方の手には、ストローが付いた中サイズの飲み物の容器を握っていた。中には炭酸飲料が入っている。満は幸次が到着したことにすぐ気がついたようだった。満も、幸次と同じように、フルフェイスのヘルメットの天辺からブーツの先まで、自分なりのこだわりを持った、幸次とは対照的な『青』で決めたスタイルである。

 この2人は、見た目とは正反対で、今時の若い連中特有の、時間にルーズなところや、自己中心的なところ、また適当でいい加減なところは全くといっていいほどなかった。それどころか、今の若者にしては甚だ珍奇な、幾多の前時代を髣髴とさせるような、男気と厳格さを持ち合わせていた。


「よ、お待たせ」

 ヘルメットを脱ぎながら、幸次から声をかけた。

「いや、時間通りだぜ。俺はちょっと早く着いたから、腹ごしらえしておいたけどな」

 満はそう言うと、左手に持っていた飲み物をまるで小さい子供のようにズウズウ音を出して吸った。それから、飲み終わった容器を器用にゴミ箱に投げ捨てると、満が続けて口を開いた。

「幸次、早速行くか? それとも、その前に何か食うか?」

「うん、夕方から用事があるから、少し休んで、早速行こう」

「あ、そうだったな」


 軽く水分を摂っただけの15分足らずの休憩後、2人はヘルメットをかぶり、愛する単車に再度息を吹き込んで、すごい勢いで駒沢公園を後にした。

 自由通りから、環状8号線(略して環八)を経由して、国道1号線(通称第2京浜)へ出た。あとはずっと1号線に沿って、神奈川県の藤沢まで一気に走る。あくまでも高速道路は使わないのだ。というより、バイクでは使う必要がないと思い込んでいるのだが。そして、長いこと一緒だった1号線に別れを告げて、JR藤沢駅を右手に見ながら江ノ島を目指す。藤沢駅を過ぎてからの約3キロは、通りの右側に、レトロな雰囲気満点の、江ノ島電鉄(通称は江ノ電)がしばらく並走する、絶好のビューポイントとなる。眼前には、もちろん青く輝く海原と、江ノ島がぼんやりと見えているのである。

 眼前の江ノ島が次第に大きくなり、つき当たりを右折すると、海岸沿いの道に出たので、2人はここらで一休みすることにした。初秋の海岸は、さすがに人はほとんどいないが、海の色は、濃青というよりも、強い光線を反射した白が際立って、大海原が太陽の長所を最大限に引き出すかのごとく、美しく輝いていた。時刻はまだ午後1時20分ばかりである。


 2人は、バイクに跨り、海岸を眺めながら、途中に立ち寄ったコンビニで買っておいた鮭やおかかの握り飯とお茶を食した後、30分程休んで、今度は海を右手に、江ノ電を左手に見ながら、海岸線の道を飛ばした。晴れたいい天気の日の、しかも昼下がりであり、流れてくる風が殊更気持ちよい。身体全体を次から次へと伝わってきて、それを全身で受け止めながら走り続けるのだ。バイク好きな人間にとって、何という幸福な時間であろう。

 海岸線の国道134号線を、七里ヶ浜、稲村ヶ崎と、鎌倉市内を走っていく。バイクは、幸次が先導し、それに満が追従するというのが、いつものパターンであり、どこに行くか、どこで休むかは、ほとんど幸次に任されている。

海岸線を走り続けて鎌倉市内を抜け、逗子市内へ、そして逗子海岸を少し越えたところで、幸次が急に海岸とは逆の方向に左折した。満が時刻を確認すると、午後2時を幾分過ぎていた。

(そういえば、夕方から哲人と会うようなことを言っていたっけ。確かに道はもう海岸沿いでもなくなってきたし、それそろ帰るわけだな)

 方向転換をしてから、鎌倉街道に入り、鎌倉市内を北上する。この道は、同じ鎌倉市内でも、海岸線とは違って、むしろ正反対の『山』の静かな雰囲気を少しずつ醸し出す。さらに、道沿いに鎌倉を代表する鶴岡八幡宮や、名月院、円覚寺など、歴史を感じさせる神社・仏閣が多くなる。また、並走するのはのどかな江ノ電からJR横須賀線へとバトンタッチする。そして、鎌倉市内を抜け、横浜市栄区へ入り、今までの静かな雰囲気を少しずつ置いていきながら、横浜市内を北上するのだ。

 横浜市内といっても、伊勢佐木町や、関内、みなとみらいなどの市街地は避けるように、鎌倉街道に別れを告げて、戸塚方面へと左折した。やがて国道1号線へ入り、来た道を帰る形で駒沢公園への長い距離をひたすら向かう。帰りは、一度コンビニでトイレ休憩をしたが、それ以外はどこにも寄らずに、駒沢公園の、待合せた場所へ到着した。そのときの公園の時計は、午後3時24分を指していた。

 ここでも、2人はヘルメットを脱いで、しかしバイクではなく、公園の近くのベンチに座った。いくらバイク好きとはいえ、さすがにほとんど休憩も取らずに走らせてきたことで、2人とも疲労の色を隠すことはできなかった。特に、幸次は、自宅から駒沢公園まで走った分だけ、満よりも疲れがあるのは当然のことであった。彼は途中の休憩時に買った飲みかけのペットボトルのミネラルウォーターを手に取り、7割方残っていた分を一気に飲み干して、水分を十分補給した。

(湘南の海岸線を走ったときの気分は最高だったが、この過密スケジュールはさすがに疲れたな。今度はもう少し余裕を持って行きたいぜ)


 ベンチに座って休んでから、かれこれ、20分ぐらい経っただろうか、幸次が徐に立ち上がった。

「幸次、そろそろ帰るのか?」

「うん、哲人と待ち合わせがあるしな。これがなければもっとゆっくりできたんだけど、悪かったな。疲れただろう?」

「いや、いいよ。でもやっぱり海はいいな。気分は最高だぜ。ところで、哲人とは何時に待ち合わせしているんだ?」

「ああ、今日は7時からバイトだから、5時半にしたよ。あいつもその時間なら都合がつくと言ってたし」

「幸次の家までやつが来ることになっているのか?」

「ああ」

「そうか。じゃ、まだ十分間に合うな。さっきの電話でも言っておいたけど、何かあったら隠し事せずに、すぐに俺に相談してくれよな」

「うん、わかったよ。ありがとう。恩にきるぜ」

 そう言うと、幸次は再び赤いヘルメットをつけて、赤いCBR1000RRに跨り、エンジン音を響かせると、駒沢公園を後にした。満はベンチに腰掛けたまま、何か嫌な予感を感じつつ、幸次の後ろ姿をずっと見送っていた。

(幸次と哲人、大丈夫かな。何をもめているのかはよくわかならいけど。何もなければいいが・・・・)

 そう思いながら、しばらくそこに座っていた。やがて、満も愛車とともに自宅に帰っていった。

   


3.9月17日・金曜日 事件b発生


 東京都豊島区南大塚3丁目の、『コーポOTSUKA南』の104号室に住んでいる、金子志保は、いつもと変わりなく今晩の献立をどうしようか迷っていた。

 志保は、5歳になる一人息子の聡を近くの保育園に預けていて、毎日午後6時ごろ自転車で迎えに行くことになっていた。近くといっても、自転車で15分はたっぷりかかる距離であった。その時刻が刻々と迫ってくる。

(ああ、あと2時間か・・・・)

毎週楽しみにしているテレビドラマが午後3時から放送されるので、テレビに噛り付くのだ。専業主婦の特徴ともいえる時間の過ごし方である。午前中に掃除や洗濯などの主だった家事はいつもと同じように済ませているし、別にテレビを見ていることが悪いわけでも何でもないのだが、志保は家族のために毎日一生懸命働いてくれている、サラリーマンの2歳年上の夫のことを考え、夫の勤務時間に合わせて自分も働くことに決めていたのである。家事はもとより、雀の涙ほどの庭先の、それも片隅にある植木鉢の花の手入れしかり、時間が空けばインターネットで資格取得のための勉強や情報収集をしたりすることもあれば、またある時には短期アルバイトやパート勤めをして家計を助けることすらあった。ただし、金曜日だけはどうしても連続ドラマを見たかったので、午後はいつもそうしていたのだった。ただし、これは夫も了解済みであったので、彼女にとって後ろめたさは全くなかった。


(ああ、今晩のおかず、どうしよう)

志保はテレビドラマが終わっても、まだ悩んでいた。『晩ごはんのおかず』というのは世の中の大方の主婦が、家事で最も悩んでしまうことだ。

(昨日はカレーライスだったし、ええと、一昨日は何だったかな、そうだ、豚肉の生姜焼だったんだ、その前の日はとんかつ? いやいや違うな、あれ、何だったっけなぁ・・・・)

そう考えながら、焦りといらいらの両方を募らせていた。

(聡の好きなものといえば、カレーライスとハンバーグ、それから手巻き寿司だけど。カレーは昨日食べたし、うん、まあ、いいや。とにかく買い物に行って、お店でいろいろ見てから考えることにするわ)

志保は、そう覚悟を決めて、さっと短時間で身支度を整えると、きちんと戸締りをして、いそいそと自転車で出かけていった。どうしても、夫よりも息子の好物に合わせた献立になってしまうのは、妻よりも母親としての役割のほうが勝ってしまうためなので、日本ではしごく当然であろうが、志保だけでなく、毎日の『献立』を決めることは、世の主婦達の悩みの種の、常に上位にランクされている。

 やがて1時間程して、志保は急ぎ買い物から帰ってきた。結局、近くのスーパーマーケットで、今日の献立に決めたハンバーグの食材を買ってきたのだが、まず献立を決めることと、食材をあれこれ選ぶのに予想以上の時間がかかってしまって、帰ってくるのがこれほど遅くなってしまったわけである。時刻は、もう少しで午後5時35分になろうとしていた。

(あら、もうこんな時間。そろそろ聡を迎えに行かなきゃね)

 いつも通り、自転車をさっさと部屋の前の置き場へ(実際は庭先であり、志保が勝手に自転車置き場所にしているだけなのだが)しまってから、前輪のかごの中から買い物袋を取り出そうとした、丁度そのとき、突然、隣の部屋から若い男がもの凄い勢いで飛び出して向こうの方へ走って行くのが見えた。いや、飛び出して行くというより、まるで逃げて行くといった感じだった。その若い男は、身長はそれほど高くなく、茶色の長髪で、油か何かで黒っぽく薄汚れた、グレーのつなぎの服を着ていた。

(あの子、何をそんなに急いでいるのかしら。どんな用件?)

 志保は、隣の部屋の住民である、佐々本幸次とは、時たま挨拶をかわす程度でそれほど近所付き合いが深いわけではないが、彼がバイク好きということぐらいは知っていたものだから、初めはその男がおそらくバイクの修理屋か、あるいはバイク仲間か何かだと高をくくっていた。だが、『もの凄い勢いで部屋から飛び出した』という若い男の様子から、何かただならぬものを感じた志保は、好奇心さながら、買い物袋を手に持ったまま、自分の部屋へ帰るよりもまず、隣の103号室を覗いてみたい衝動にかられたのである。

 男が飛び出した後、ドアは半開きであり、少し覗いてみると、容易に中を見ることができた。玄関先では特に変わった様子はなさそうだ。

「ごめんください、佐々本さん、隣の金子ですけど、いらっしゃいますか?」

 志保は、恐る恐る声をかけてみたが、しばらく待っても何の返事もない。 

「すみませーん、あのー、佐々本さーん、さっきどなたか見えてたみたいですよー。それにドアが開いてましたけどー。いないんですかー? 隣のー、104号室のー、金子ですけどー」

 今度は少し大きめの声で言ってみたものの、同じく返事がない。

(あれ、まさか玄関開けっ放しで出掛けたのかな?)

 仕方なく(というより好奇心で)、志保は佐々本幸次の家に上がりこむことにした。

「入りますよー。失礼しまーす」

 周りを見回しながら、ゆっくりと廊下を進み、左手にある台所や、トイレ、風呂場などを通り過ぎる。特に人の気配はない。最初の部屋も何らおかしいところはなさそうだ。続けて一番奥の右側にある、最後の部屋を覗いたとき、佐々本幸次が頭から血を流して倒れているのを発見した。それは全く動く気配もなく、既に死亡しているだろうことは、素人でも容易に読み取れた。

「ギャー!」

(佐々本さんが、し、死んでる!)

 志保は腰を抜かしそうになったが、必死にこらえて、玄関まで小走った。とにかく、その場から一目散に逃げたかったのである。玄関でサンダルを履くのもままならないほど、急ぎ走って隣の自宅へ帰った志保は、すぐに電話で110番した。

「もしもし、警察ですか。あの、私、豊島区南大塚3丁目のコーポOTSUKA南に住んでいる、金子志保と申しますが、あ、私そのアパートの104号室に住んでいるんですけど、ええと、隣の103号室で、人が死んでます・・・・・・・・」

 すぐに警察がくることになるだろう。


 さて、志保は電話をしてから、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻してみると、スーパーの買い物袋がないことに気づいた。多分、死体を発見したときに驚いたことで、うっかりその部屋に置き忘れたのだろうことは想像できた。しかし、警察からは、現場のものは何一つ触らないように釘を刺されており、ここで取りに行って、下手な疑いをかけられても堪らないので、そのままにし、警察が到着してから事情説明をして、返してもらうことに決めた。

それから、夫の只司の携帯へすぐに電話を入れた。しかし、なかなか出ない。3度やっても繋がらなかったことで志保は直ぐにあきらめ、続いて会社のほうに電話をすると、OLらしい若い女性が電話に出た。只司はどうやら、重要な会議中だったらしいのだが、その女性に、緊急である旨を伝え、電話口に出てもらえるよう依頼をしたあとに、ようやく只司が電話に出た。只司が電話に出るまでの時間は、実際は1、2分程度の短いものだったのだが、受話器を持ったまま待っている志保にとって、それは、空腹時に人気レストランで長い行列の最後尾に並んでいるが如くの、とてつもなく長い時間に感じた。

 志保はやっと一安心することができ、気持ちが少し落ち着いた。そして、つい今しがたに自分がおそらく殺人事件となるだろう事件の関係者、それも第一発見者になったことや、それ故にもしかしたらテレビのニュースに自分が映るかもしれないといった、傍から見ると、ミーハーで早合点極まりない話、なんと被害者が隣に住んでいる佐々本幸次であったこと等を次々に捲くし立て、そして最も重要な用件である、息子の聡がまだ保育園にいて、志保が迎えに行けそうもないので、帰りに保育園へ寄ってきてほしいということが、結局話の最後になってしまったわけである。これだけ興奮していたことで、志保も当然のごとく頭の中が整理できていなかった。

 夫の只司は、電話が妻からで、しかも重要な会議を中座しなければならなかったことで、初めはかなり不機嫌な調子で電話に出たのであるが、志保がそんなことはお構いなしというばかりに次から次へと捲くし立てるものだから、事の重要性を直感した。

 途中、相づちをいくらか入れるだけで、妻の話をずっと聞いていたが、話の流れでそろそろ終わると思った只司は、

「わかったよ、大変だったね。帰りに保育園に寄っていくよ。もう定時は過ぎているから、電話が終わったら直ぐに会社を出るね。まあどっちにしろ、保育園に6時までに行くというのはどだい無理だから、俺のほうから遅れる旨、保育園に電話しておくよ。そっちも警察やらなんやら対応が大変だろうからさ。仕事は、重要な会議だったのだけど、こっちのほうが何倍も大切だからね。上司に一言言っておけば何とかなるし。あ、それはそうと、保育園の電話番号だけ教えてくれるかな」

 と言うと、それを聞いた志保も、さっき以上に平静さを取り戻し、

「ありがとう、そうしてくれると助かる。優しいのね。あ、それで、ええと、保育園の電話番号は・・・・」

 まず夫への感謝を口にした後、聡を預けている保育園の電話番号を伝えると、最後にもう一度感謝とお礼の言葉を言って、電話を切った。食材も置き忘れ、息子を迎えに行くこともなくなった志保は、自宅で1人おとなしくソファに座っているぐらいしかなかった。


まもなくして、鑑識官が何人かやってきて、建物の周りの人通りを制限する黄色い立ち入り禁止テープを巻きながら、写真を撮ったり、指紋、血痕、足跡、遺留品等のチェックを機械的に行っていた。そのころは、この騒ぎを聞きつけて、アパートの住人や、近所の人たち、さらには通りがかりの人たちらが野次馬として黒山の人だかりとなっていた。

 ずっとパトカーのサイレンが鳴りっ放しの状況であるが、ひとしきり大きくなったと思うと、警視庁捜査一課の刑事達が到着した。本郷警部と梅沢警部補、そして速水警部補の3人の刑事が現場にやってきた。

第一発見者かつ通報者の金子志保は、事件現場の隣に住んでいるというのもあるが、かなりの数の野次馬とは離れたところに1人立っていた。

本郷、梅沢、速水の3人は、いつもどおりまず鑑識官たちと現場の状況について話をしていた。3人は現場の状況を一目見て、紛れもない殺人事件であることは誰の目にも明らかだった。そして、死因が頭を強打されたことによるものだということも、容易に推測できた。速水はそのまま話を続けていたが、本郷と梅沢は途中で切り上げると、つかつかと志保の方に歩いてきた。

「通報者の金子志保さんですね。警視庁捜査一課の本郷といいます。遺体を発見したときの状況について、お話を伺いたいのですが、よろしいですか」

 本郷が警察手帳を見せながら彼女に尋ねた。

「ええ、わかりました」

 志保は、警察の捜査に協力するのは当然でしょうとばかりに、すぐさま返事をした。

「こちらは、同じく捜査一課の梅沢刑事です。一緒にお話を聞かせていただきます」

 本郷がそういうと、梅沢も警察手帳を見せながら軽く会釈した。

志保を見て、いかにもおしゃべりが好きそうな女性だなという感じを本郷は受けた。

野次馬はまだ多かったし、むしろ徐々に増えているような状況だったが、志保は意外と落ち着いていた。


 遺体の男性は、佐々本幸次という男性で、約1年前から隣に住んでいること、幸次との近所付き合いはそれほどないこと、幸次の趣味がオートバイであるのは知っていること、自分は献立が決まらずに、とにかくスーパーマーケットに夕方出かけたこと、そこで献立を決めて買い物をしたこと、一人息子を近くの保育園に預けていること、買い物から帰ってきたのが午後5時35分だったこと、一人息子を保育園に迎えに行くために急いでいたので、その時刻をはっきり覚えていること、帰宅した、まさにそのときに隣の部屋から若い男が走り去ったこと、その若い男の様子やが尋常ではなかったこと、玄関で何度か声をかけても全く返事がなく、部屋に上がりこんだこと、そこで死体を発見したのですぐに警察に通報したことなど、本郷警部や梅沢刑事の質問に対してもはっきりと答えたのと同時に、質問されていないことまで、自ら事細かに状況を説明していた。

本郷と梅沢の両刑事も、一方的に捲くし立てる志保の話に、興味深そうに耳を傾けていたが、その中で「走り去った若い男」の話が出たときには、特にそれが顕著であった。当然、その若い男が容疑者である可能性も十分考えられたわけで、さらに詳しいことを聞こうとしたちょうどその時に、速水刑事が3人のところに小走りに寄ってきて言った。

「警部、被害者の倒れていた部屋に、血のついた一輪挿しが見つかりました。血痕が付着していたので、おそらくこれが凶器だろうと考えられます。鑑識に回します。それから、スーパーマーケットのレジ袋が遺体の近くにありました。被害者本人が夕飯の支度でもしようとしていたのでしょうか」

 すかさず、梅沢が答えた。

「ほう、珍しい一輪挿しですね。ブランド物ですか。男の一人暮らしには似つかないもののように思えますね。誰か、女性からのプレゼントでしょうか」

そのとき、金子志保が3人の話に割って入ってきた。

「あのう、すみません、その袋私のなんです。さっきは言ってなかったんですけど、実は、私、買い物から帰ってきて、自分の家に行く前に若い男を見て、その後この部屋に入ったもので、買い物袋を持ったままだったんです。死体を発見したときに、びっくりしてしまって、その袋を置き忘れたみたいです。すぐに言わなくてごめんなさい。多分ハンバーグの材料が入っています。私が持ち帰ってもかまわないものなんでしょうか」

 非常に申し訳なさそうに、小さい声で呟くように言った。

「そうですか、あなたのでしたか。わかりました。一応中を確認させていただきましたし、指紋もとらせていただきました。確かに、挽肉や玉ねぎ、ケチャップやら、ハンバーグの材料が入っていました。ですが、事件現場にあったものは、証拠品となる場合も多いので、すぐにお返しするわけには行かないのですよ。申し訳ありませんが」

 速水刑事が志保を諭すように言った。そして、すぐさま

「あ、申し遅れました。捜査一課の速水と申します」

 と、他の2人の刑事と同じく警察手帳を見せながら自己紹介した。

志保は残念がったが、すぐに納得した。

(それはそうね。この刑事さんが言っていることも無理はないわ。今時点では、その袋が誰のものかを証明することはできないものね。残念だけど・・・・)

 その後、本郷が梅沢と速水の方を向いて口を開いた。

「部屋もほとんど荒らされていないし、物取りとは思えないねぇ。怨恨の可能性が大きいだろう。そうそう、さっき、金子さんから興味深い話を聞いたんだよ。もっと詳しい話を速水も一緒に聞こうじゃないか」

すると、今度は金子志保の方に向き直って言った。

「金子さん、話が途切れてしまいましたが、先ほどあなたは、自分が買い物から帰宅した午後5時35分ぐらいに、隣の部屋から若い男が走り去るのを見たとおっしゃいましたね」

「ええ、さっきも言いましたけど、時計を見て、そろそろ保育園に子供を迎えに行かなきゃと思って急いでいたのでよく覚えています。その時刻は間違いないです」

「わかりました。それでは、その走り去った若い男のことなんですけど、何か覚えていることはありませんか」

 本郷が真髄を突いた。梅沢も速水も、身を乗り出すかのように、その話に聞き入っていた。

志保は、その男が部屋から突然出てきて、反対方向に走り去ったこと、身長はそれほど高いというわけではなく、170センチあるかないか程度、髪は茶色の長髪、黒っぽく薄汚れたグレーのつなぎの服を着ていたことなどを順序良く説明した。梅沢と速水は、その話に耳を傾けながら、熱心に手帳にメモしていた。

 2人の刑事と同様に、志保の話を熱心に聞いていた本郷がまた口を開いた。

「どうもありがとうございます。詳しい状況がだいぶわかってきました。最後にもう1つだけお聞きしたいのですが、あなたが買い物に出かけたのは何時ごろですか」

 志保は少しの間考える素振りをしていたが、

「ええ、金曜日は毎週楽しみにしているテレビドラマが3時からあって、終わるのが大体4時でしょ、うん、それでいつもそうなんだけど、あれこれ今晩の献立を考えていたから、そうね、着替えて戸締りとかして、出かけたのは4時半少し前ってとこかしら」

 と、また志保らしく順序だてて詳しく話した。

「そうですか、わかりました。出かけるまでは隣の部屋に何か変わったことはなかったんですか。例えば何か物音を聞いたとか、争う声がしたとか、誰かが尋ねて来たとか」

 梅沢が割って入った。それに対して、志保は

「ええ、物音とか争う声とか、全くそういうのはなかったです。あ、ちょっと待ってくださいね、今気づいたんですけど、あそこにオートバイがあるでしょ、あれ佐々本さんのオートバイなんですよ。佐々本さんが家にいるときは、いつもあんな風にあの場所に置いているんですけどね、私が出かけるときはなかったんじゃないかしら」

 と、いつも幸次がバイクを置いている奥の庭先を指差して、声を荒げた。

「間違いありませんか?」

「ええ、間違いありません。出かけるときオートバイはありませんでした」

「そうですか、貴重な情報、ありがとうございました。今後、改めてお話を伺うこともあるかもしれませんが、またご協力よろしくお願いします」

 本郷はそう言葉をかけると、志保に対して深々と頭を下げた。後の2人の刑事も同様にして頭を下げ、その場を立ち去った。

どれくらい経ったであろうか、鑑識官や刑事達がいなくなり、アパートが少しずつ平静さを取り戻していくのと合わせるように、膨れ上がっていた野次馬の数も、徐々に減っていった。


志保は気づかなかったが、事情聴取をしている間に、既に時刻は午後7時40分を回っていた。

それから約10分経ったころ、夫の只司と息子の聡が歩いて帰ってきた。志保は、夫との電話で言いそびれた、殺害現場に置き忘れた買い物袋が、結局警察に押収されてしまったことと、事情聴取が少し前まであって、夕飯の支度が全くできていなかったことを2人に詫びた。

 夫の只司が、

「うん、今日は大変だったね。夕飯ぐらいいいよ。今日はレストランでも行こうか。どうだ、聡」

 というと、息子の聡も喜んで、

「うん、レストラン、レストラン!」

 と、もの凄いはしゃぎようであった。その光景を見て、志保もほっと胸を撫で下ろした。

そして、金子家では急遽、滅多にない外食の日となり、3人で協議した結果決まった、JR大塚駅前のファミリーレストランへ仲良く出かけていった。


警視庁に戻る車の中で、まず梅沢警部補が口を切った。

「あの奥さん、いろいろ話してくれて助かりましたね。第一発見者なので、一応取り調べは必要ですけどね。今のところ、あの奥さんに動機があるとは思えません。自分が犯人だったら、あんなにぺらぺら喋りませんよ。やっぱり彼女が言っている、走り去った若い男というのが犯人なんじゃないですかねぇ」

「うん、あの奥さんの言っていることが正しいという前提に立てばですけどね。それが正しいとするならば、佐々本幸次が殺害されたのは、午後4時半から、午後5時35分までの約1時間に絞れますね。まあ、正式には鑑識の結果待ちになりますけど」

 そう本郷が答えた。

すると、今度は運転していた速水が、

「先週の金曜日も、例のお台場の銀行員殺人事件がありましたよね。今日の事件もその事件と何か関係があるんでしょうかね」

 と切り出した。

「どうだろうなぁ、調べてみなけりゃわからんな。君の直観力や推理力は、警視庁のみんなが一目置いているが、それはちょっと考えすぎと違うか。少なくとも、殺しの手口は全く違うようだしなぁ」

 そう梅沢が切り返すと、

「まあ、やっぱりそうですよね。考えすぎですよね。先週の事件も、まだ犯人が逮捕されていないし、特に進展がない状態なんで、ちょっと飛躍しすぎました。限りなくクロに近い容疑者はいるんですけどね」

 照れくさそうに速水が答えた。

「お台場の殺人事件も、所轄が一生懸命やってくれているよ。今回のヤマと関係があるかないかはまだわからないが、まあ、いずれにしろ、まず状況を整理しよう。そして捜査会議を開いてからだ。さあ本庁へ急ぐことにしよう」

 本郷がそう促すと、速水も、

「はい、わかりました、警部」

 と言って、帰りの本庁への道を急いで車を走らせるのだった。



4.本格捜査②開始


 次の日になって、鑑識から報告があった。まず、死亡推定時刻は、9月17日金曜日の、午後5時から、発見された午後5時35分までの間。要するに、死後ほとんど時間が経過していない状態で発見されたということであった。死因は推測通り、後頭部を鈍器で強打されたことによる頭蓋骨陥没。遺体の状況から、背後から殴られたものと判断された。当初凶器と思われた海外のブランド物らしき一輪挿しであるが、チェコの『ボヘミア』というメーカーが作っているブランド物の高級品であることが判明した。その形状と傷の形がきれいに一致したことと、凶器についていた血痕の血液型が被害者と同じO型だったことから、この一輪挿しが凶器と断定された。しかし、凶器からは被害者のもの以外は、指紋が全く検出されなかった。


 被害者は、佐々本幸次 30歳。フリーター。まだ独身で、約1年前から『コーポOTSUKA南』の103号室に住んでいたことがわかった。

殺害現場周辺の聞き込みについては所轄に任せ、捜査一課の本郷班の刑事たちは容疑者絞りの作業を始めた。

第一発見者である、隣人の金子志保の証言から、容疑者は比較的簡単に浮かぶと予想されていて、佐々本幸次の交友関係をまず洗うことになった。

 速水刑事と高杉刑事は、被害者宅から押収した携帯電話から、友人と思われる竹内満と村瀬哲人に事情を聞くべく、捜査課の部屋を後にした。

梅沢刑事と遠藤刑事は、交際相手と思われる鈴木彩夏のもとへ、また、吉野刑事と竜崎刑事は、アルバイト先のコンビニエンスストアへと出かけていった。

 班長の本郷は、念のため第一発見者の金子志保の証言のウラをとることにした。


吉野刑事と竜崎刑事は、佐々本幸次がアルバイトとして働いていた、大塚駅南口のコンビニエンスストア『サンストア大塚駅店』の店長である、内海夕希に話を聞いていた。その中で、佐々本幸次が働き出したのはほんの2ヶ月ぐらい前であること、勤務は月・水・金の週3回、午後7時から翌朝5時までの勤務(休憩が2時間で実働としては8時間)であること、勤務態度は意外と真面目で、遅刻や無断欠勤なども一度もないことなどが次々に明らかになっていった。

 内海夕希は42歳の人妻で、以前営んでいた、両親の代から続いている古い形式の酒屋を改装し、5年ほど前にチェーン展開する大手のコンビニエンスストアを開業した。婿養子の夫は会社員で、店の経営には全く関与しておらず、夕希が店長として、店の経営の全責任を任されていた。

内海夕希の話をずっと聞き続けていた両刑事は気になることを聞き出した。

「それは本当なんですね? それで、その口論していたのはいつの話ですか?」

吉野刑事が興味深そうに夕希に確認した。夕希が話した内容というのは、何度か幸次の個人用携帯に電話がかかってきて、その電話に出た後、すぐに口論が始まったという内容であった。

「そうね、仕事中に私用の携帯電話に出ていたから、当然のように注意したのを覚えているんですよ。確か、3日前と、一昨日もあったわね。ええと、時間はどっちも夜9時ぐらいだったかな」

「そうですか。それで、相手の名前とか言っていましたか?」

「ごめんなさい、電話がかかってきた時、彼が店の奥に引っ込んでしまったので、内容の詳細は聴いていないんです。さすがに仕事中だから大声で話してはいなかったし。だけど、興味があったから気付かれないように近くに行って、耳をすませて聴いちゃったのね。相手の名前まではわからなかったけど、電話相手と口論していたのは間違いないですよ」

「わかりました。ご協力ありがとうございました」

 そう礼を言って、吉野と竜崎は店を出た。

 ほどなくして、梅沢刑事と遠藤刑事も捜査本部に帰ってきた。交際中だと思われた鈴木彩夏は、実は佐々本幸次と結婚話が進んでいたことがわかった。梅沢が本郷に報告をし始めた。

「警部、面白いことがわかりました。鈴木彩夏の話なんですが、佐々本幸次と友人の村瀬哲人が何やら揉めていたらしいですね。彩夏と幸次は1年近く交際していて、最近では結婚話も持ち上がっていたのですが、ひょんなことから、彩夏が村瀬の悩みを聞いてあげていたことがあったらしいんです。仕事のことでいろいろ悩んでいたみたいです。そのときは2人とも少し酔っていたようなんですが、2人だけでいるところを運悪く佐々本幸次がどうやら目撃して、勝手に誤解していたようなんです。彩夏は何度も誤解だと言ったんですが、幸次は聞き入れず、一方的に村瀬を責めていたようです」

「そうですか、ご苦労さま。それで、村瀬哲人とはどういう人物なんですか?」

「まだよくはわかりませんが、彩夏の話だと、自動車修理工として働いている20代の青年のようです」

佐々本幸次が、誰かとトラブルになっていたらしいことは、先に本庁に戻った吉野がすでに本郷に報告していた。梅沢の話と照らし合わせても、村瀬哲人とトラブルになっていることは疑いようもなかった。本郷は速水刑事に電話連絡を入れたが、それは、既に速水が竹内満から聞き出した話とも全て合致していた。さらに竹内満より、幸次が哲人と金曜日の午後5時半に会う約束をしていたこともわかり、本郷は村瀬哲人を有力容疑者として断定した。

(そういえば、村瀬は車の修理工か。第一発見者の金子志保が目撃した逃げていく男も、つなぎの服を着て油まみれだったということだし、ほぼ間違いなかろう…)


速水と高杉は、本郷と連絡を取った後、すぐに村瀬哲人の自宅へ向かった。文京区の本駒込にある小さなアパートだった。意に反して村瀬は普通に在宅していた。速水たちが警察手帳を見せても、意外なほど村瀬は落ち着いていた。

(随分ふてぶてしいヤツだな…)

速水はそう思ったが、落ち着きすぎている彼を見て、ある種の不信感を持ったのも事実だった。

(うん、状況はこいつが犯人に違いないんだが、それにしても落ち着きすぎている…)

 そう思いながらも、まず昨日の午後5時から6時ぐらいまでのアリバイや幸次とトラブルがあったこと等を確認したが、これも驚くべき答えが返ってきた。

「ああ、昨日の5時半に待ち合わせしていたから、彼の家に行ったよ。幸次と揉めていたのも事実。俺も彩夏も、何度も誤解だって言ったんだけど、あいつは全く信用しなかったんだ。昨日も、また同じことを何度言っても無理だろうとうすうす感じながら、幸次の方から一方的に時間を指定してきたから、仕方なくその時間にあいつの家に行ったというだけの話だ」

 村瀬はすんなり認めたのである。

 詳しい話を聞くために、速水は任意同行という形で村瀬を本庁に連行することにした。そこでも村瀬はおとなしく全てに従った。

村瀬の取り調べも、引き続き速水が担当することになった。さらに、遠藤刑事も同席した。

 この時点で、第一発見者の金子志保に村瀬の写真を見せ、佐々本の部屋から逃げて行った男に間違いがないというウラも実は取れていた。

「おい村瀬、すでに知っていると思うが、佐々本幸次が殺害されたのは、昨日の5時から5時35分までの間なんだよ。しかも、遺体が発見される直前、お前が部屋から出ていくところを目撃されているんだ。佐々本とお前が揉めていたこともさっき自分で認めたよな。お前が殺したのか?」

「さっきも言ったけど、昨日幸次の家に行ったのも事実だし、5時半というのも間違いない。幸次と揉めていたのもその通りだけど、俺は殺していない。俺が家に着いたとき、もう幸次は殺されていたんだ!」

 村瀬はそのように話した。速水は、ずっと村瀬の様子を鋭い目で観察していたが、自宅を訪ねたときと同様、落ち着きはらっていた。(うーん、どうも気になる。落ち着きすぎている。ヤツが言っていることは本当なのかもしれない・・・・)

「それじゃ、なぜすぐに逃げ出したんだ? それと、なぜ警察に通報しなかった?」

「まずは死体があったことに驚いたこともあるし、このまま何もなかったように帰ろうか、警察に通報してきちんと説明しようか、いろいろなことが一瞬のうちに頭の中をめぐって、パニックになったんだ。でも、トラブルがあった俺が真っ先に疑われるのは当然のことだろう? どうせ、すぐに信じてもらえるとは思えなかったし、だからその場を立ち去ることにしたんだ。別に逃げたわけじゃない」

 村瀬は、全く表情を変えずに落ち着き払って答えた。

「目撃者がいるんだよ。お前がもの凄い勢いで走っていくのを見た人がいるんだよ。立ち去っただけなんて嘘をつくんじゃない」

速水は、このように意図的に目撃者の話をして、村瀬の様子を引き続き鋭く観察した。

「それはそうさ。さっきも言っただろう。一瞬パニックになったって。自分がやっていなくても、どんな疑いをかけられるかわからない状況で、悠々としていられるわけがないじゃないか。そりゃ、誰に見られたかはわからないけど、何も知らない人が見れば、逃げて行くように見えたろうさ。だけど、俺は素早く立ち去っただけなんだ。俺は殺人はしていない」

 村瀬は多少高揚したものの、話をした後は相変わらず落ち着いていた。

速水は、その後しばらく黙り込んで村瀬とずっとにらめっこを続けていた。

(どうも、本当のことを言っているようだ。慌てるところが全くない。約束した時刻にわざわざ出かけて行って、自分が真っ先に疑われることがわかっている状況で、いくらトラブルがあったとはいえ、むざむざと殺人を犯すだろうか。うん、衝動的な殺しはあり得るが。だが、今日も自宅に1人でいたし、全く逃げようという素振りが見えないのも気になる・・・・)

同席した遠藤刑事も、村瀬の表情をずっと観察していたが、速水と同じ感想を持った。速水と遠藤は、取調室を出、自分の思いを伝えるべく、捜査本部の部屋へ向かったのだが、その途中、2人が自分たちの思いについて会話をし、お互い同じ感想を持ったことを確認したのだ。

捜査本部に戻ると、そこには班長の本郷と、若手の高杉刑事がいた。そこで、速水は村瀬の取調べの内容と、自分たちの思いを本郷に伝えた。本郷はその報告を冷静に聞いていたが、それに高杉が割って入った。

「速水さんの言っている事もわからなくはないですが、間違いありません、村瀬が犯人ですよ。佐々本との話がこじれて、衝動的に殺したに決まってますよ。あいつは絶対に嘘を言っているんです。こんなにわかりやすい事件はないでしょう? 今度は自分に取調べを任せてもらえませんか」

冷静で慎重な理論派の速水と、事件のこととなると別人のように熱血となり、いささか勇み足的な行動を取る高杉は、衝突することが多かった。速水はいつものことだといわんばかりに、高杉に対して何の返答もせずに、謂わばわざと無視した。

高杉の話を聞いていた本郷も、まずは高杉を宥めながら、

「高杉、ではやってみろ」

 と、取調べ担当を高杉に代えた。それには、本郷なりの思いがあった。

高杉が取調室へ行った後、高杉によってさえぎられた先ほどの報告の続きを行うべく、本郷と速水と遠藤は椅子に座って議論を交わしていた。速水の分析力・推理力の凄さ、指摘の鋭さは本郷だけにとどまらず、班員全てが一目置いていたし、同席した遠藤の心理的分析力等も信用していたから、本郷は、今回も速水たちの言っていることの方が正しいように思われたのである。

 高杉も速水のことは尊敬していたが、その反面激しいジェラシーを持っていたこともまた事実である。それは、高杉の『高学歴』というプライドからきているものであった。

本郷は、そんな高杉に、頭を冷やす意味で、取調べをさせたのだった。おそらく、速水の読みが正しいであろうことは確信していたので、高杉がいくら取り調べを行っても、これ以上新たな事実は出てくるはずもないし、ましてや証言が覆るようなことは皆無だとおおよそ予想していたのである。


そんな中、独自に佐々本の家族関係を捜査していた梅沢刑事が本部に帰ってきて、梅沢が息を切らして言った。

「警部、佐々本幸次の家族を調べていたんですが、かなり気になることが出てきました。父親の佐々本大蔵は、秋田の角館で造り酒屋をやっているんですが、末期の肝臓がんで余命はもう長くて数ヶ月だということでした。一代で造り酒屋を創業した、秋田ではかなりの有名人で、資産も相当あるようです。警部は『こまち錦』ってご存知ありませんか? 有名なあの銘柄の酒屋です。何か遺産相続に絡んだきな臭いにおいがぷんぷんしてくるんですがね」

「へえ、もちろん『こまち錦』は知ってますよ。そうなんですか。それで、資産はどのくらいかわかりますか」

 と本郷が確認すると、

「あ、申し遅れましたが、今の話は、大蔵の娘の美智代に聞いた話なんですけどね、彼女の話だと、株券や土地も含めて少なく見積もっても、十数億円だろうと言っていました。美智代というのは殺害された佐々本幸次の実の姉で、今は結婚して姓が宮部となっています」

 梅沢はまだ少し興奮気味で答えた。本郷も、新たな容疑者が浮かぶかもしれないという期待感から少し声を荒げて梅沢に訊いた。

「それで、佐々本大蔵の相続人は、美智代と幸次以外にはいなかったわけですか」

「ええ、美智代の話によれば、母親、つまり大蔵の妻はかなり前に死亡していて、相続人は実子である美智代と幸次の2人だけのようです。大蔵の実妹で飯塚房乃という女性が秋田に住んでいて、大蔵の看病や身の回りの世話をしているようですが、彼女に相続権はありません」

「そうか、それじゃ、佐々本幸次がいなくなったことで一番得をするのは、宮部美智代ということになるね。殺害の動機は十分だ。それで、彼女の金曜日のアリバイは?」

 本郷の言葉に対し、梅沢が続けた。

「警部、それが、美智代の話では、金曜日は夫の宮部良彦と一緒に、佐々本大蔵が入院している角館の病院にお見舞いに行ったということなんですわ。それで、殺害時刻の午後5時から6時の間は、2人とも大蔵の実家にいたと言っています。秋田県警に依頼して、ウラを取ってもらっていますが、どうやら嘘を言っているようには私には見えませんでしたが」

 梅沢はさらに付け加えた。

「それと、美智代と幸次は仲がよかったようですね。メールとか電話のやり取りも、今でも頻繁に行っていたようです。何もしなくても十数億の半分は自分に転がり込んでくるわけですし、なにも幸次を殺さなくてもと思わざるを得ません。アリバイのことを抜きにしても、美智代は犯人ではないと思いますね」

「わかりました。美智代の方は、秋田県警からの連絡を待ちましょう。ご苦労様」

 本郷はそう言うと、梅沢を労った。梅沢はデスクの椅子にどっかと腰を下ろした。それを見た遠藤は、女性らしく、梅沢の分と自分及び本郷班長の、3人分の飲み物を用意すべく、給湯室へ消えていった。

傍らで梅沢と本郷の会話をメモをしながらずっと無言で聞いていた速水は、メモした内容を再度振り返りながら、考え込んでいた。しばらくその様子を見ていた本郷は、遠藤が入れた大好物のコーヒーを片手に、

「速水、何か気になることがあるのかね」

 と速水が見ているメモを覗き込むような姿勢で口を開いた。

「ええ、警部。よりによって事件の日に角館に行ったというアリバイが、ものすごく気になりますね。完璧すぎるんですよね。作られたアリバイということです。でもなぜその日にわざわざ出かけたんでしょうか。休日でもないのに」

 いつも通り、冷静な分析をしているが如く、速水が答えた。本郷は、自席で休んでいる梅沢刑事に尋ねた。

「梅さん、その辺は聞いていますか?」

「はい、警部。夫の良彦からも美智代と一緒に話を聞けたんです。金曜日のことは詳しく話してくれたわけではありませんが、急に有給休暇が取れたので、父親が入院していることもあって角館に行くことにしたと話していました。良彦は、大手町にあるIT関連会社に勤めてます」

「そうですか。ありがとうございます」

 続けて、今度は速水の方に向き直って、

「速水、まだ、ウラが取れたわけでもないし、まあ確かに君が言っているような考え方もないわけではないが、考えすぎのような気もするがね。理由はどうであれ、秋田にいた人間が、東京で殺人を犯すのは不可能な話だからね」

 と言ったものの、一方で速水の分析も一理有り、確かに気になることも事実なのであった。

「警部、どうしても気になるので、美智代の夫の宮部良彦をもう少し調べてみたいのですが。もしかしたら不発に終わるかもしれませんが、十数億円という金は動機には十分ですし、もしかしたら、良彦は、美智代が遺産相続をした後に、その美智代の殺害まで考えていたのかもしれません。最終的に、自分がその金を独り占めできるわけですから」

「うん、ありえないことではないな。君の気の済むまで調べてみてくれ」

 本郷は、速水の能力と刑事のカンにかけてみることにした。


しばらくして、村瀬哲人の取調べをしていた高杉が疲れ切った顔で捜査本部の部屋に戻ってきた。案の定、新しい事実も、証言が覆るようなことも、何の収穫もなかった。彼は自分の席に座ると、一息ため息をついた。そんな高杉の様子を、速水は見て見ぬ振りをした。いや、速水だけでなく、その場にいた刑事たちも皆同様だったが。高杉の顔には疲れと共に悔しさがまじまじとにじみ出ていたが彼にはこれ以上どうすることもできなかった。これで、村瀬哲人への疑いは、ますます弱まっていくことになった。


週明けの月曜日になった。

 速水は、宮部良彦がわざわざ平日の金曜日に秋田へ向かったことがとても気になっていた。速水刑事と高杉刑事は、宮部良彦の勤務先である、大手町にある千代田システムエンジニアリングへ向かっていた。

あらかじめ良彦の上司の正津輝臣に連絡済みであったため、受付の対応は殊の外スムーズにいった。7階の会議室に通された。そこには、既に正津が座って速水たちを待っていた。

正津輝臣は、50前後の初老の男である。黒縁の眼鏡をかけ、こげ茶色の上下のスーツを着ていて、どちらかというと地味な感じを受けた。輝臣は、金融システム課長という役職で、宮部良彦は係長的な役割をこなす直属の部下にあたる彼の右腕なのであった。


速水は、宮部良彦の義弟が先週の金曜日に殺害されたことを伝えた上で、良彦の勤務態度、業務内容、仕事上の立場、社内での評判、最近変わったことがなかったかどうか、何かトラブルに巻き込まれていなかったか等を細かく聞き出していった。さらに、金曜日に良彦が有給休暇を取ったときの経緯、最後になぜ金曜日に休みを取ったのか、理由を知っているかどうか尋ねてみた。正津からは、有給休暇は半ば強引に、直前の2日前に宮部良彦の方から取得依頼が出たということがわかったが、休暇の理由まではわからないという答えが返ってきた。その後、丁重にお礼を言ってから千代田システムエンジニアリングを後にした。しかし、彼が殺人に関わっているという証拠や、有力な手がかりは得られなかった。

(しかし、やはり気になるな。普段有給休暇もそれほど取らない、真面目な仕事人間の宮部良彦が、先週の17日に限って、半ば強引に、しかも2日前に急に有給休暇を申請したとは・・・・)


午後になって、秋田県警から連絡があり、駅から病院まで宮部夫妻を乗せた根上修作というタクシー運転手、入院中の佐々本大蔵を担当している角館中央病院の渡辺葵という看護師、それから、大蔵の実妹の飯塚房乃、大蔵の家の隣人で、酒造の杜氏を任されている稲葉剛等の複数の証言内容から、17日の金曜日は、宮部美智代、宮部良彦ともに彼らの証言どおり角館に来ており、午後5時には、造り酒屋である、父親の佐々本大蔵の家にいたことが確実となった。よって、2人のアリバイが証明されたことで、どちらか(あるいは両方が)犯人である可能性は完全にゼロとなってしまった。


速水刑事と高杉刑事は、コンビニエンスストア店長の内海由希、友人の竹内満、そして恋人の鈴木彩夏など、幸次の関係者に再度会って話を聞いたが、捜査を進展させるような新情報は得られなかった。


梅沢刑事と遠藤刑事は、姉の宮部美智代に再度話を聞いた後、わざわざ角館まで行って飯塚房乃に会ってきたが、これまた収穫なし。


吉野刑事と竜崎刑事は、村瀬哲人や宮部美智代・良彦とは全く別の、佐々本幸次の怨恨の線から捜査をしていたのだが、こちらも犯人逮捕に繋がるような有力な情報はほとんど得られなかった。


本郷は、いつもそうしているように、給湯室でお気に入りのマグカップに好物の渋いブラックコーヒーを入れて、早速一息ついた後自席に戻り、入れたての熱いコーヒーを少しずつ啜りながら、頭の中の手帳に、今までの状況をこと細かに書き記した。さらにその脳手帳の内容を、ホワイトボードに転写していった。しかし、先週の事件のときのような、スピードも勢いもなかった。


本郷だけでなく、本郷班の6人の刑事たちも現在の捜査状況に、頭を抱えるしかなかった。流石の速水の推理・分析も、立ち止まってしまった。結局、現時点で最も怪しい人物として、村瀬哲人の横に、宮部良彦と美智代の名前をホワイトボードに書きとめておくぐらいしかできなかった。


先週の9月10日に起きた、『aの事件』同様、暗礁に乗り上げる形となってしまった。

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