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歪んだ図形  作者: 宝花匡将
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第1章 aの事件

第1章 aの事件


1.9月10日・金曜日(その1)


 最高気温が摂氏30度近くにのぼる、まだ残暑も厳しい快晴の9月の日だった。日中はさることながら、夜になっても、さのみ涼しくなったという感じはほとんどしなかった。気温で言えば、まだ優に20度以上はあっただろう。

 暦の上では、すでに『白露』のころの季節であるが、まだまだビアガーデンのビールが恋しい。仕事帰りのジョッキ1杯が、世のビジネスマンたちの、何にも増して『心の友』なのである。

 立花健夫は、普段とは別人のように仕事も早々に済ませ、新宿にある名曲喫茶『アンダンテ』に向かっていた。身長はそれほど高くはないが、その分がっしりとして、色も浅黒く、いかにもスポーツマンタイプといった中年男である。また、顔は今風の『イケメン』というよりも、一昔前の昭和時代の男前、といった感じの男性である。

 そして、薄いブルー系のDAKSのカフスボタンをつけた、小奇麗な真っ白いROBERTAのワイシャツに、RENOMAの濃紺の幾何学模様があるネクタイ、そしてDOLCEの黒のパンツを身につけている。

 

 喫茶店の古めかしい木のドアを開けると、静かだが重厚な曲が涼しい快適な店内に響きわたっていた。それが挽きたてのコーヒーの香りと相まって、入店した途端に誰もがほっとできる『異空間』の雰囲気を醸し出していた。

 聴き慣れた、ほの悲しく、そして情緒的でもの静かな低音の弦楽器群で始まり、続いた美しいオーボエのメロディーは、この曲が世界三大交響曲にも数えられる、フランツ・シューベルトの『未完成交響曲』の第1楽章であることをすぐに悟らせた。

 身につけている、これもスイスのブランド物LONGINESの腕時計にふと目をやると、午後9時を10分ほど過ぎた時刻を指している。喫茶店は満席とまではいかないまでも、7分から8分ぐらいの入りであろうか。空席を捜すために店内をひと通り見渡し、奥の窓際の席にある柔らかめのソファにゆっくりと腰をおろした立花は、各テーブルに備えてあるメニューには全く目もくれず、即座にウィンナコーヒーを注文すると、出された水を一気に飲み干し、ネクタイも緩めて、ようやく一息つくことができた。これらのテーブルも全てチーク材を使っており、これが落ち着き感と温かみを高く感じさせるアイテムの1つとなっている。さらに、床の材木がきしむ音や、何とも言えぬ塗装の油の匂いが、その思いをさらに一層増長させる。

(なかなかいい雰囲気じゃないか。是非御贔屓にさせてもらおうかな)

 この喫茶店は駅から徒歩で10分ほどの歓楽街のど真ん中にある。今の時代からはかなり『レトロ』とも思われるこの名曲喫茶の窓からは、デートを楽しむ若者たちが腕を組んで歩いている様や、帰宅を急ぐOL、制服を着た塾帰りと思われる高校生、さらには残業を終えたビジネスマンたちがこぞって居酒屋に繰り出している様など、大都会ならではの様々な情景を見ることができる。銀行員の、しかも管理職として忙しい日々を送っていた立花は、そのビジネスマンたちの景色と自分の姿を重ね合わせて思いにふけっていた。新宿という場所柄も勿論あるのだろうが、人の多さはさすがに金曜日の夜であることをうかがわせていた。

 注文してまもなくウィンナコーヒーが運ばれてきた。そのほのかに甘い香りと、コーヒー本来のコク、さらにほどよく耳に心地よい名曲をしばらく楽しんでいると、ふいに声をかけられた。

「あの、すみません。恐れ入りますが、相席よろしいでしょうか」

 20代の後半ぐらいだろうか、わずかに微笑みながら、その女性は言った。

 立花はちょっと驚いた。

(え、この若い女性・・・・)


 髪は肩まで伸びた艶のあるこげ茶色のストレートヘアで、幾分だが赤みがかっている。少し色白の透明的な肌に、切れ長の目、すっと通った鼻筋に、比較的薄い唇の端をキュっとあげている。典型的な日本美人、大和撫子である。身長はそれほど高いわけではないが、どちらかというと細身で、スタイルも良かった。

 見知らぬ若い女性から声をかけられることなど、ここ何年もなかった立花だが、自分の若い頃を思い出しながら答えた。

「ええ、どうぞ」

 美しさもさることながら、赤すぎずシックな色の口紅、薄めのファンデーションなどの化粧の感じや、そのファッション、ショルダーバッグ等のセンスから、品の良さを醸し出した女性であったが、女性の表情などから、相反してどことなく疲れた感じを立花が持ったのも事実であった。

その女性も、相席のテーブルに置かれ、3分の1ほど減っているウィンナコーヒーを見ながら、立花と同じく、ウィンナコーヒーをすぐに注文した。

 気がつくと、店内に流れている曲は、『未完成交響曲』の第1楽章も終わりに近づいていた。

 立花は腕時計を見た。午後9時17分を指している。 

「この店にはよく来られるんですか?」

 と立花が訊くと、

「いいえ、実は初めてなんです。昔からクラシック音楽は好きで、いつ頃だったでしょう、ええと2年ぐらい前かしら、このお店があるテレビの番組で紹介されているのを見て、その時からいつか来たい、とずっと思っていたんです」

 と若い女性は答えた。

「ああ、そうなんですか。実は私もこの店ははじめてなんです。クラシック音楽が好きなのはあなたと同じですが、私の場合はインターネットのホームページで調べてきました。ちょうどこの店が検索でヒットしまして。最近仕事が忙しくて、週末ぐらいはゆっくり寛げるところで、ひとときを過ごしたくなったんでね」

「へえ、お仕事大変なんですね。でもとても落ち着いていて、雰囲気のいいお店ですね。ウィンナコーヒーもすごくおいしいし。来てよかったわ」

「ああ、この店、ウィンナコーヒーがお勧めらしいですから。見ての通り、私もそれを注文しましたし」

「あら、そうなんですか。あなたと同じものを注文してよかったわ。それもインターネットで調べたんですか?」

「ええ、まあね」

 立花は照れ臭そうに答えた。

 名曲喫茶という性質上、小さめの声で会話せざるを得なかったが、若い女性も自分と同じ感性であったことに、ある種の安心感のようなものを抱いた立花は、流れている音楽以上に大きな心地よさを感じずにはいられなかった。

 立花は、クラシック音楽のことは勿論のこと、それ以外の自分の趣味の話とかを切り出したが、その会話が途切れると、立花は腕を組んだ姿勢で目を瞑り、店内の音楽に聴き入っていた。そして、普段の疲れて乾いた心を大いに癒していったのである。それを見て、女性も立花を真似て、2人で同じ仕草を続けていた。

 しばらくして、急に

「何かお好きな曲はあるんですか?」

 立花がそう口火を切ると、

「ええ、そうですね、ドヴォルザークの『新世界から』なんて結構好きですね。新世界というと、一般的には『家路』とか『遠き山に』という名前がつけられているぐらい、第2楽章のラルゴが有名みたいですけど、私は特に第4楽章の、あの金管楽器の煌びやかな響きが大好き」

 と答えた。

(へえ、そうなんだ。確かにいい曲だ。この女性、年齢に似合わず結構渋めが好きなのかな?)

「ほう、なるほど。いい曲ですね。それでは、私がリクエストしてきましょう。マスターにお願いしてきますから、ちょっと待っててくださいね」

 立花はそう言うと、徐に席を立ち、がっちりした体格ゆえに、大股でカウンターの方へ進んで行った。 

 5分ほどして、立花が戻ってきて言った。

「リクエストしてきましたよ。すでに先約がいくつかあったみたいなんですけど、マスターに掛け合って、かけてもらえるようにお願いしました。ちょっと遅い時間になるかもしれないですがね。ただ全曲だと長いので、あなたのお気に入りである第4楽章のアレグロだけにしてきましたけど」

「あら、どうもありがとうございます。早くかかってほしいですね。でも、私のだけでは申し訳ないわ。あなたのほうは何かリクエストしたい曲はなかったんですか?」

「いえ、いいんですよ。私も実は『新世界』は大好きですんで。あなたから『新世界から』が好きと聞いたときは、あれ、趣味が合うなぁと思ったくらいですよ。だから今日はちょうど聴きたい気分なんです。だけど、ちょっとマスターには強引過ぎたかもね」

 2人は顔を見合わせ、にっこりと微笑んだ。

 『未完成交響曲』が終わり、フレデリック・ショパンの『ノクターン』第2番が始まった。品が良く繊細で、ショパン独特の美しいピアノの旋律が店全体を包んでいた。

 立花は腕時計を見た。ちょうど午後9時30分である。 

 その後、立花は一頻りウィンナコーヒーの香りと若い女性との久しぶりの会話を楽しんだ。

 ショパンの『ノクターン』も終わり、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの『くるみ割り人形~花のワルツ』、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、フェリックス・メンデルスゾーンの『無言歌集~春の歌』といった、名立たる大作曲家の、美しく軽快でかつ心地よい名曲が次から次へと奏でられていた。

 曲はルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの『ピアノソナタ 月光』になった。第1楽章が始まり、今までの軽快な感じの曲とは正反対の、ほの暗く静かでもの悲しい調べが、喫茶店で心の洗濯をしている客たちの全ての心に沁みわたっていた。

「まだかかりませんね、『新世界』」

 と立花が言うと、女性は誰が見ても残念そうな表情を浮かべて、

「そうですね・・・・」

 とつぶやくように言うと、ウィンナコーヒーのカップに手を伸ばした。

「もう1度、マスターと話してきましょう」

 立花はそう言うと、再び大股で歩いていった。

 自分の席に戻ってくると、立花はまた腕時計を見た。午後10時25分である。 

女性が、飲もうとしていたウィンナコーヒーのカップを持ったまま、不思議そうな顔をして立花に尋ねた。

「さっきから時間を気にされているようですけど、これから何かお約束でもあるんですか?」 

立花はちょっと慌てた素振りを見せて、

「えっ、あ、いえいえ。そういうわけじゃないんですよ。約束ではないです。そんな風に見えましたか。この店確か11時で閉店になるんで、『新世界』がかかるかどうか心配だったんです。別に約束があるわけではないですから。あ、本当です」

 と、明らかに裏がありそうな感じで答えた。

(おお、こりゃ危ない、危ない。意識してあまり時計は見ないようにしたほうがいいな。どうも、知らず知らずのうちに時間を気にしている素振りが出てしまったみたいだ・・・・)

 それに対して、表面上女性はまったく疑う素振りも見せず、

「ああ、そうなんですか。このお店11時で閉店なんですね。そうすると、新世界がかかるかどうか、確かに時間的にはぎりぎりで、微妙ですね」

「ええ」

 立花は初めはほっとしたような顔を浮かべたが、すぐさま半ば諦めとも採れるような、ため息混じりで答えた。そして、もう1度確認するように、彼女に見せるがごとく、わざと腕時計を見た。案の定、時間はほとんど経過していない。

 それから、暫時沈黙が続いた。

 沈黙を破るように、2人ともウィンナコーヒーを再度注文した。

どのくらい経っただろうか、『月光』の第3楽章が終わりに近づき、2人の間には、期待と不安の両方が渦巻きはじめた。

ようやく『新世界から』の第4楽章のアレグロが始まった。弦楽器のユニゾンと、金管楽器の力強いフレーズの掛け合いが、けたたましく、しかし決してうるさ過ぎることもなく、豊かに響いた。特に、冒頭のホルンとトランペットは荘厳である。さすがに金管楽器のなかでも花形的存在だ。

「ようやくかかりましたね。あなたのお気に入り」

 と立花が口を開くと、

「ええ、おかげさまで。間に合いましたね」

 女性は、一目でわかるうれしそうな笑みを浮かべてそう言うと、大好きな曲に聴き入っていた。それを見た立花も、自分のことのようにうれしく感じ、大好きな曲に聞き入っている彼女の邪魔をしないよう、無理に会話を続けることもしなかった。同時にうれしそうな彼女の顔をずっと見つめていた。

 それから10分ほど経ったであろうか、この曲も終わり、閉店時刻が近づいてきた。感動をこのままにしたい、時間が止まって欲しいとばかりに、2人は別々にゆっくり会計をすませ、『アンダンテ』を出た。

店の前で、立花が

「あの、自己紹介が遅れましたが、私、立花と申します」

 と言いながら、これもブランド物のOROBIANCOの鞄からGUCCIの高級名刺入れを取り出した。そして、その中からプライベート用に用意した、裏面に自分個人用の携帯電話番号を手書きで書き記した名刺を、すっと1枚引き抜くと、丁重に女性に手渡した。女性も、

「あ、私、大森由起恵といいます。大きな森に、自由の由、朝起きるの起きるに、恵むと書きます。今はパートとして働いているので、名刺は持ってないんですけど。へえ、立花さん、銀行員なんですね。それも融資部の課長さんなんて、何かすごいわ」

 と返した。

「いえいえ。私はそれほど立派な人間じゃありませんよ。たまたまそうなっているだけです」

 2人は並んで、新宿駅に向かってゆっくり歩き始めた。名曲喫茶でのほんの2時間弱の短い時間だったが、2人にとって極めて有意義な『間』だったのは疑いようもない。しかし、金曜日の夜の新宿というのは、こんなにも賑わっているのか、と思わせるほど、遅い時刻にもかかわらず人通りは多かった。

 新宿駅までの道程の半ば辺りで、由起恵が切り出した。

「あ、立花さん、お住まいはどちらなんですか」

「私は、品川区の大井町です。新宿からこの時間だと、山手線で大崎まで、大崎でりんかい線に乗り換えて1駅です。あと5分早ければ直通で行ける終電に乗れたんですが」

 立花は銀行員らしく、帰宅経路まで詳細に答えた。

「立花さん、JR線ですか。残念ですが、私は中井が最寄駅なので、西武新宿駅から西武線で帰ります。それではここで失礼します。今日は楽しかったです。どうもありがとうございました」

「よかったら、また一緒にあの店へ行きませんか。お渡しした名刺の裏に私の携帯電話の番号がありますから、そこに連絡もらえるとありがたいんだけどな。何時になってもかまいませんから」

 立花は、また照れ臭そうに頭を掻きながら言った。

「そうですね。せっかくこうしてお会いできたんですものね。是非。今度はもう少し長い時間一緒にいたいです。そのときは立花さんの好きな曲をリクエストして聴かせてください」

 由起恵はそう言うと、若い女性らしく笑顔で手を振りながら西武新宿駅方面に消えていった。

 立花もそれに応えて手を振りながら、しばらく立ち止まって見ていたが、由起恵の姿が見えなくなると、神妙な面持ちで足早に新宿駅に向かった。

(あれが確か、ヤツが手紙で書いていた女性か。彼女の名前、大森由起恵って言ってたっけ・・・・)



2.9月10日・金曜日(その2)

 

 木村菜穂美は、締切が迫った案件がいくつもあるにもかかわらず、午後から全く仕事が手につかなかった。恋人から予め『大事な話がある』ということを聞かされていたからである。とは言っても、直接声を聞いたわけではなく、携帯電話のメールに送信されていたのであった。

 彼と付き合い始めて早3年。日本では、その中でも特に、東京のような大都会では、晩婚化が進んでいるとはいえ、30歳を過ぎていた菜穂美は、そろそろ『結婚』という2文字を大層意識し始めていた頃だった。いや、意識し始めたというより、もう既に焦りに近いものがあったという方が、より的確であろう。


 彼とは東京の上野にある西洋美術館で知り合った。その時は、ちょうど全国的に大きな話題となった『モネとルノアール フランス印象派展』が開催されていて、休日はかなりの混雑が予想されたため、2人ともわざわざ平日に有給休暇をとり、たまたま同じ日時に訪れていたのである。できるだけ混雑を避け、好きな絵画をゆっくり鑑賞したいという気持ちが一致したのだろう。その展覧会には、クロード・モネの『睡蓮』『印象=日の出』や、オーギュスト・ルノアールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』『ピアノに寄る少女たち』などの超有名、超人気作品に加え、同時期に活躍したアルフレッド・シスレーの風景画や、ベルト・モリゾの婦人画などの作品も、展覧会に色を添えていた。

 菜穂美は子供の頃から絵が好きで、また描くのも上手だった。中学生のときから美術部に入部し、高校へ進んでも勿論3年間美術部に在籍、かつ部長も努めた。美術の成績は抜群であった。大学も当然のように現役で美大に進み、卒業後は小さなデザイン会社に就職。現在もずっとその会社で働いている。会社の中では、もう10年クラスのベテランである。

 菜穂美の彼もまた、絵を描くのを趣味としていた。菜穂美が油絵を得意にしているのに対し、ソフトなタッチのパステルや色鉛筆画を専ら描いている、という違いはあったが、2人の感性は物の見事にぴったりで、程なくして当然のように相思相愛の深い仲になり、誰の目から見ても、お似合いのカップルであった。


 菜穂美の勤務しているデザイン会社は、東京メトロ東西線の東陽町駅から程近い、小さなビルの3階の1室にある。徒歩で7、8分といったところだ。江東アートデザイン株式会社というデザイン会社である。

 彼の勤務先は新橋で、菜穂美の勤務地との地理的な面から、普段の金曜日は、丸ノ内や銀座、日本橋辺りの、何となく無機質な手近な場所でデートを繰り返していたのだが、今日はなぜか『お台場』で待合せることになっていた。先ほど受信したメールの中で、彼の方から指定してきたのである。

 そんな状況下、菜穂美は勤務中にもかかわらず、東陽町からの経路や、時刻表を何度もチェックするのだが、その度に『そわそわ』感が増して行くことを抑えられない。お台場という、いつもと違うシチュエーションが、その気持ちを一層増長させた。周りの社員たちも、普段はきっちり正確に仕事をこなし、デザイナーとしても1人の人間としても優秀な菜穂美のそんな様子を、誰もが気にかけたほどだった。それとは裏腹に、菜穂美本人は、全く意に返さなかったが。

 何度時計を見たであろうか。また菜穂美が事務所の壁の丸時計に目をやると、まだ午後3時を少し過ぎたばかりである。

(ええ? まだあと2時間半もある。なぜ今日はこんなにも時間が経つのが遅いのかしら・・・・)


 ようやく終業時刻の午後5時半になり、社員達への退社の挨拶もそこそこに、菜穂美は大急ぎで会社を出た。待ち合わせ時刻は午後7時で、時間的にはかなり余裕があったのだが、彼女は居ても立ってもいられない状態だった。

 東陽町の駅には6分後に着いた。

 東陽町から東西線で門前仲町、都営大江戸線に乗り換えて月島へ、そしてさらに有楽町線に乗り換えて豊洲へと、地下鉄を乗り継ぎ、豊洲から新交通ゆりかもめに乗り換えた。お台場も有名なデートスポットの1つだが、まだ多少早い時間帯であるせいか、金曜日の夜にもかかわらず、豊洲から乗った乗客は思ったほど多くなかった。カップルも疎らだったが、有明、国際展示場正門、テレコムセンターと進んでいくうち、途中から仕事やイベント帰りの乗客が徐々に増え、ゆりかもめの空席はあっという間になくなった。

 ゆりかもめに乗ってからは15分、待ち合わせ時刻の30分以上も前に台場駅に到着してしまった。

(やっぱりちょっと早すぎたかな・・・・)

 そう思いながら、菜穂美は待合せ場所である、駅に隣接するホテルへ向かった。

 案の定、彼はまだ来ていなかった。

 菜穂美は、何をするわけでもなく、ひたすら彼を待ち、台場駅の方向を見続けた。

約束の時刻より20分ほど遅れて、男がやって来るのが見えた。この男こそ、菜穂美の彼氏、池田敏明である。彼は、遅れたにもかかわらず、笑顔で手を振りながらゆっくり歩いてきた。

 だが、菜穂美にとって、そんなことはどうでもよかった。彼女の心臓は、いつも以上に大きく大きく高鳴っていた。

「ごめん、ごめん。仕事が終わらなくて」

 敏明がそう言うと、

「いいのよ、仕事なら。銀行員は大変だもの。私も7時ぎりぎりになっちゃったから、それほど待たずに済んだしね」

 と嘘を言って、菜穂美は彼を気遣った。


池田敏明は、長身でかつスマートな男性であった。ただし、それは弱々しいということではなく、筋肉質で余計な贅肉がついていないという意味でのスマートである。自然なウェーブがかかったほんのり茶色の長めの髪、それから少しエラが張った感じの男らしいがどちらかというと色白の顔に、太い眉、彫の深い二重で切れ長の目、筋がきりっと通った細い鼻、それに小さめの口が絶妙のバランスで配置されている。今どきの言葉で言えば、それこそ所謂『イケメン』という表現がぴったりである。明らかに女性にモテるタイプのソフトな男性であった。


2人は腕を組み、並んで歩き始めた。そして、ホテルの中二階にある、ラウンジ・バー『バルコニー』へ入った。ムーディなストリング系の音楽が流れ、2人の雰囲気を、否が応でも盛り上げた。

 このラウンジ・バーは、お台場の夜景を見るのに最適な造りと、ロケーションを最大の売りにしており、レインボー・ブリッジの方角は一面大きなガラス張りとなっている。また、全ての席からライトアップされたブリッジを見ることができる、大変凝った設計となっていて、品の良いおしゃれな店として、口コミで噂が広がり、隠れ家的な人気を博していた。

 2人は、店員に導かれるままに、入ってすぐ左手の、窓際の4人席に、向かい合って腰をおろした。

(ロマンチックで雰囲気のいいお店だけど、もしかして、以前に別の女性と来たことがあるのかしら・・・・)

 菜穂美はまもなく、彼の左隣へ移動し、

「ねえ、こういうお店、よく来るの?」

 と、思わず口走った。

「前に1度、仕事の付き合いで連れてきてもらったことがあるんだ。俺もすごく気に入ったんで、人生の『勝負』となる日には、ナオと一緒に来ようと、ずっと前から決めていたんだよ」

 菜穂美の言い方でピンときた彼は、彼女を逆撫でしないように、当たり障りのない受け答えをして、その場をやり過ごした。

(本当は、元カノと何度か来たけどね・・・・)

 菜穂美は、急に安堵した表情に変わった。

(ふうん、そうか、勝負となる日か・・・・)

 そして、はずんだ声で言った。

「店内も意図的に照明が薄暗くしてあって、テーブル一つひとつにキャンドルがあるなんて、とっても素敵なお店ね。いい雰囲気。私もすごく気に入ったわ」

 しばらくして、オーダーしたギムレットが2つ運ばれてきた。2人はカクテルグラスを軽く合わせ、キーンと高く軽い響きを伴いつつ、じっくり味わいながら、喉の奥に一口流し込んだ。ベースとなるジンの深い辛味と、フルーティなライムの香りが、9月なのにまだ暑さが残る晴れた日の夜には、殊の外爽やかだった。

(ギムレットって、こんなにもおいしいお酒だったのね。しかも、なんか不思議とムードを盛り上げる感じがする。さすがは敏明さんだわ)

 窓の外に目をやると、辺りはもうすっかり日が落ちていた。静かな海の色の黒さは際立ち、ライトアップされたレインボー・ブリッジの青白い光と、その背後にあるダークグレーの高層ビル群、点滅あるいは不動光の航空障害灯の真紅、澄んだ空の薄群青色が絶妙のコントラストとなり、テーブルの黄色いキャンドルと橙色の炎を加え、さらにはカクテルのかすかな薄緑色も合わせて、例えようのない、大変見事な『自然の彩色画』を完成させていた。

 2人は、寸刻言葉を発することなく、その完璧な『彩色画』にしばし見入っていたが、ついに焦れた菜穂美が口を切った。

(ああ、何か、すごいドキドキする!)

 確かに、彼女の心臓の鼓動は、レーシングカーのエンジンのような、とても激しいピストン運動のごとくなっていたのだ。

「・・・・ところで、昨日のメールにさ、あの書いてあったんだけど、ええと、・・・・大事な話って、・・・・なあに?」

 誰が聞いても、ぎこちない口の運びであったのだが、菜穂美本人は、平静を装うことに、有らん限りの相当な努力をしていた。

「あ、うん、これを渡そうと思って」

 敏明はそう言いながら、CERRUTIの鞄の中から指輪ケースをさっと取り出すと、蓋を開けて中の宝石を彼女に見せた。ひと目で値の張るダイヤモンドであることはわかった。そして、キャンドルの炎による、そのブリリアントの輝きもまた一興だった。

「気の利いた言葉は思いつかなかったんだけど、2人でこれからの人生を歩んでいきたいんだ。ずっと俺のパートナーでいてほしい。ナオが大好きなんだ。これ、受け取ってくれるかな」

 まさしくプロポーズであった。

(やったー!)

菜穂美は、この世で最高のシチュエーションの下でのプロポーズに、痛く感動し、かつ感激した。嬉しくて仕方がなかった。もう少しで涙がこぼれそうになるのを必死で堪え、満面の笑みでそれに応えた。その反面、ほのかに期待していた通りの展開に、大きな安堵感で、今までの緊張がすーっとほぐれていく感じを覚えた。

それから、彼の手の中にある指輪ケースから、きらりと輝く婚約指輪をそっと右手に取り、白魚のような左手の薬指を、ゆっくりとくぐらせるのであった。

 敏明もにっこりと、幸せそうな表情を浮かべて彼女のその仕草を見守っていた。

(うん、これで、演出だけでも二枚目を決めることができたかな)

「さすがね。サイズもぴったりよ。ねえ、婚約を祝して、マイタイをたのみましょうよ。それ、お祝いの席には打ってつけのカクテルなんだから」

 菜穂美はそう言いながら、ウェイターを呼び、オーダーした。

「今日は私たちにとっての記念日となるから、マイタイを2つお願いね」

やがて、ウェイターがマイタイを運んできた。その傍らには、何やらメッセージカードが添えられていた。菜穂美が不思議そうな顔をして、すぐにカードを開くと、

(末永く、お2人が幸せでありますように・・・・  バルコニー店長より)

と書かれてあった。

「わあ、うれしい。どうもありがとう!」

ウェイターは少し微笑みながら、軽く会釈をして立ち去った。

 オーダーしたときの菜穂美の嬉しそうな顔や、オーダーするときの会話、テーブルに置かれた指輪ケースなどで、ウェイターが即座に状況を把握したのだろう。心憎い演出である。

 2人はマイタイで2度目の乾杯をした。

「なあ、ナオ、マイタイがお祝いの席で飲むカクテルなんて、初めて聞いたけど、それって本当?」

「実はね、今まで秘密にしていたけど、私の大好きなカクテルなの。お祝いの席で飲むかどうかはぜーんぜん知らなーい!」

「なあんだ。そうだったのか」 

(ああ、だまされた!)

 2人は顔を見合わせ、屈託なく笑った。

 その後、しばらく『会話』と『彩色画の鑑賞』及び『お祝いのカクテル』で楽しんでいると、先程のウェイターが再びやってきた。ラストオーダーの確認だった。

「あら、金曜日の夜なのに、9時半で終わりなのね」

(何て時間が過ぎるのが早いのかしら・・・・)

 菜穂美にとって、会社で仕事をしていた時と同じ時間軸にいるなんてことは、到底信じ難かった。もう少しの時間でよいから、耳と目と舌を楽しませ続けたかった。菜穂美は、お気に入りのCOACHの黒いショルダーバッグに指輪のケースとメッセージカードをしまいこんだ。

 閉店の少し前に店を出て、しばらく台場駅周辺を2人で歩いた。彼のプロポーズを受け、菜穂美は有頂天だった。歩きながら何を話したのか、ほとんど頭に入っていない。それどころか、老若男女、人通りが意外と多いことも、ようやく気づくといった有様だった。

 建物の形が極めて特徴的なテレビ局の、横の通りを抜けて、数分歩くと、りんかい線の東京テレポート駅に着いた。長いエスカレータを下って、改札口の前に来たとき、徐に敏明が言った。

「俺、この後急用ができて、残念だけどナオを送って行ってやれないんだ。本当にごめん。また明日必ず連絡するよ」

 一瞬、菜穂美の表情が曇ったのを見逃さなかった。

(え、そんなことって、アリ?)

 しごく残念に思った彼女だが、

「うん、寂しいけど仕方ないね。また明日。絶対連絡ちょうだいね」

 と、わざとらしい、精一杯の笑顔を浮かべて言うと、身体を反転させ、他の乗客と共に改札口の奥に消えていった。

 男は、菜穂美が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていたが、腕時計で時刻を確認すると、またエスカレータを上って、駅を後にした。時刻は午後9時35分を回っていた。


 菜穂美にとって、これが彼との最後のデートになり、「9月10日=最高の記念日」という恒等式が成り立つはずだったのが、一転、史上最悪の日となってしまうことなど、その時は知る由もなかった。



3.9月11日・土曜日 事件a発生


 昨日とは打って変わって、薄曇りの、肌寒い日だった。朝から、今にも雨が落ちてきそうな、そんなどす黒い色が空に広がり、低い雲が全体に陰気に垂れ込め、その配下では、黒く汚れた秋風が冷たく走っていた。

 お台場にある、新交通ゆりかもめの、テレコムセンター駅の周辺は、土曜日の朝早い時間帯ということもあって、まだ人影も疎らである。駅から少し離れたビルの1階に、コンビニエンスストアがあるが、客は1人もおらず、店の看板の人工的な、かつ義務的なライトだけが、何か場違いに輝いているように見える。

 さらに、土曜日であるためか、ビジネスマンの姿もほとんど見ることができなかった。

お台場は、開発途中で、どんどん進化し続けている街、ということもあるのだろうか、お台場の中心街から幾分離れている、このテレコムセンターの周辺は、車道はきれいに舗装されて整備されているものの、まだ空き地が結構残っている。その中に、無機質で冷たい感じを漂わせる、灰色から白灰色をした高層ビルが、にょきっと顔を出した若筍のように点在している、といったところだろう。いかにも最近造られた、『人工の街』という言葉がよく似合う都会の一風景である。


 テレコムセンター駅の南西側にある、『テレコム東京ビル』の、9階にある会社に勤務している、古川賢治は、大きな驚きを隠せなかった。また、自分がこんな目にあうとは、微塵も思っていなかった。

自分が働くビルの、裏口近くにある草むらで、若い男の遺体を発見してしまったのだ。

(うん? こんなところに、あれは何だ? まさか・・・・)

 その場所は目立つところではないものの、草のかげから何やら青白いものがちらっと見えたため、確認しようとしたところ、水色のワイシャツを身に着けた、この男の遺体を発見してしまった、というわけである。

一瞬、心臓が凍りついた。すぐにこの場から離れたかったが、放っておくわけにもいかず、とにかくその『物体』に近づいて、既に生きてはいないことを、再確認するだけの余裕は、まだ彼は持ち合わせていた。呼吸もなく、脈もない。完全に死亡していることだけは確実だった。


 古川は、来週はじめの、重要な社内会議に提出する資料の作成が間に合わず、今日も資料づくりをしようと、休日出勤するためにわざわざ朝早くから出かけてきて、不幸にも遭遇してしまったのであった。

しかも、通常の勤務よりも早い時刻に家を出たのであった。いつもどおり、最寄駅の五反田からJR山手線に乗って浜松町へ、そして浜松町からビッグサイト行きのバスに揺られ、レインボーブリッジを渡って、というように、全く普段と変わらない経路で、普通に出勤しただけなのだ。変わっているのは、今日が休日ということだけである。

(こんなことなら、徹夜してでも、資料を仕上げておけばよかった。しかし面倒なことになってしまった・・・・)

 ただ、今更悔やんでも仕方がない、と思い直した古川は、気持ちを落ち着かせて、すぐに自分の携帯電話から110番へ電話をかけた。  

「もしもし、警察ですか。私、古川賢治と申しますが、テレコムセンター駅近くのビルの裏で若い男性が死んでます・・・・・・・・」


 間もなくして、鑑識官が何人かやってきて、慌しく車通りの一部と人通りを制限した後、現場写真を撮ったり、足跡がないかどうか、また遺留品のチェック等をテキパキと機械的に、黙々と行っていた。古川は、この光景を見て、さらに興奮状態が高まった感じを持った。

 めったに見ることのできない光景に、食い入るように、それぞれの鑑識官の動きを細かに追っていた。

 古川は、ちょっと小太りの中年男で、黒縁の眼鏡をかけ、頭は後ろのほうが少し薄くなっている。休日出勤ゆえ、あまり身形を気にしないからなのか、ごましおの無精髭が結構目立つ風貌である。ジーンズにクタクタの臙脂色のTシャツを身に纏い、しかもシャツのすそは年相応ではなく、ジーンズの外にだらしなく出している。それを、よれよれのベージュ色の麻ジャケットで包み込み、白いスニーカーといった出で立ちだ。それに、鞄だけは普段通勤時に使っている、牛革のブランド物のしっかりした鞄なだけに、かなりアンバランスである。


 しばらくしてから、何度目かのパトカーのサイレンがけたたましく鳴って、警視庁捜査第一課の本郷翔一警部と、梅沢公太郎警部補、速水俊輔警部補、竜崎優太巡査の4人の刑事が現場に到着した。4人は捜査一課の、本郷班の刑事たちだった。彼らは、到着してすぐに、鑑識官たちと、しばらく現場の状況について話をしていた。

 古川は、その間も、引き続き捜査の邪魔にならない場所に、ずっと1人で立ち尽くしていた。資料作りを行うという、『本来の』自分の仕事もそっちのけで、その光景を黙って見続けていた。まあ、彼にとって、本業どころではない、というのが本音であろう。

(すげえなぁ。テレビの刑事ドラマなんかより、何倍もすごいぜ。殺人事件の現場に遭遇するなんて人生の中でそうはないからな。しかも、俺が第1発見者になるなんてさ。ようく見ておこう)

 そんな風に思わざるを得ないぐらい、現場はテレビドラマそのものだった。いや、滅多に遭遇しない一般人にとっては、それ以上だったに違いない。現に、古川がはじめに抱いた(ああ、やっかいだ。休日出勤なんかしなければよかった)などという気持ちは、被害者には申し訳ないと、頭の中では葛藤が繰り返されつつも、もうとっくにどこかへ吹き飛んでいたのだ。


警視庁捜査一課の本郷班には、班長の本郷を初め、梅沢刑事、速水刑事、吉野刑事、遠藤刑事、高杉刑事、竜崎刑事の7人の刑事たちが所属する。


 本郷班長は、本郷翔一警部。現在47歳。既婚者であるが、子供はいない。

 いつもスーツをビシッと着こなす、ダンディで男前の刑事である。ネクタイのセンスも抜群である。的確な指示と、人情派で部下思いの刑事であり、部下からの信頼も大変厚い警部である。頭脳明晰で切れ者なのも勿論であるが、班長として部下を纏める、マネージメント能力についても、上司からも一目置かれている要因の大きな1つとなっている。

 趣味は美術鑑賞。なかなか取れない休みの日は、妻と共に美術館に出かけることも多い。印象派やバルビゾン派、シュールレアリズムなどの絵が好みであるが、その中でも特に、DALIの絵が最もお気に入りだ。それと、渋いホットコーヒーをこよなく愛す根っからのコーヒー党で、自分のコーヒー用のマグカップも、美術館で購入した、そのDALIのイラスト入りのものをいつも愛用し、今やそれがトレードマークにもなっている。

 神奈川県横浜市港北区日吉本町(最寄駅:日吉)在住である。


 梅沢刑事は、梅沢公太郎警部補。現在57歳。こちらも既婚者で、子供も2人いる。

 55歳を優に超えた、ベテランの刑事であるが、『現場』を愛する、根っからの職人気質という性格が災いし、出世競争という4文字からは完全に取り残されていた。というより、自身はもうとっくにそんなものは諦めていた。しかし、年下である、本郷警部にとっては、この上ない、よき相談相手であり、また、本郷だけでなく捜査一課の刑事たちも、皆厚い信頼を寄せている。

趣味は、特になく、強いて言えば散歩である。だが本人は「仕事が趣味だ」と事ある毎にいつも言っている。

 それと、日本茶(特に玄米茶)と演歌が好物で、『和』が良く似合う、愛すべき中年オジサンである。彼のお気に入りの湯呑みは、有田焼・赤絵かすり調風の渋い感じの安物茶碗である。

 東京都中央区佃(最寄駅:月島)在住である。


 速水刑事は、速水俊輔警部補。現在37歳。独身。

 頭脳明晰で、彼の推理力、直観力、分析力は、本郷班のみならず、捜査一課内で一目置かれている。さらに、様々な幅広い知識を有している。推理に行き詰まった時には、1人で会議室に篭り、妙なポーズを続けながらひたすら考えを巡らすというのが彼の中でのキマリ事となっている。幾分風変わりだが、事実、事件を解決している実績も多いことで、本郷班の中では、班長も含め、皆が黙認しており、逆にこのポーズが出ると、事件が解決するというジンクスもあって、期待されているくらいなのである。だが、それだけでなく、彼は人情にも厚い。

趣味は音楽鑑賞で、特にクラシック音楽が大好きである。その中でもお気に入りの作曲家は、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ショパンである。

 それと、彼は根っからの紅茶党で、特にアールグレイやレモンティ、アップルティなどを好み、お気に入りである、海外ブランドのウェッジウッドのパステル調マグカップで飲んでいる。

 東京都文京区音羽(最寄駅:護国寺)在住である。


 吉野刑事は、吉野智晴巡査部長。現在35歳。独身。

 生粋の江戸っ子で下町育ち。おまけに見るからに肉体派の体育会系刑事で、体格も大柄。180センチ以上の長身、かつ筋骨隆々である。常にトレーニングを欠かすことはなく、時折開かれる警察内部の柔道の大会などでは、常時入賞するほどの実力を持っている。柔道、剣道とも有段者の腕前である。

趣味は、1つはやはりスポーツ絡みで、登山である。ロッククライミングも行い、山をこよなく愛する、これまた生粋の山男である。季節にかかわらず、暇があると山登りに出掛ける。もう1つの趣味は釣りである。

 それと、彼も日本茶党である。夏は専ら冷えた麦茶を、冬は熱い煎茶を好んで飲む。だが、茶碗やグラスについての拘りは全くない。

東京都台東区浅草(最寄駅:浅草)在住である。


 遠藤刑事は、遠藤美樹巡査部長。現在32歳。独身。本郷班で紅一点で、パソコン操作が得意である。

 彼女は、大学時代、心理学を専攻し、特にNLP(コミュニケーション心理学)についてを学習していて、その資格も持っているという異色の刑事である。差し詰め、心理行動分析官といったところだろうか。参考人や容疑者の証言時の微表情を読み取って、それが本当かウソかを見極めるのが特技である。実際、それがよく当たるのだ。

 趣味は女性らしく、ショッピングとグルメ関連である。暇さえあれば出かけ、食べ歩きをしている。そのため、少々ふっくら体型である。

 それと、彼女も紅茶党である。特にミルクティーに凝っており、お気に入りのブランドキャスキッドソンのマグカップを愛用している。

東京都目黒区八雲(最寄駅:都立大学)在住である。

 

 高杉刑事は、高杉康徳巡査。現在28歳。独身。

 現在の若者の象徴と言えるであろう、何かちょっと冷めたようなところや、あるいは世の中を斜めに見るようなところを持っている。だが、こと仕事に関しては非常に優秀で、後輩の面倒見もいい。

速水刑事を尊敬している反面、我を通す性格が災いし、彼と意見が衝突することも意外と多い。パソコンやAV機器等の機械に強く、またITやシステム関連については、本郷班の中で最も詳しいので、皆に頼られている。

 趣味はピアノである。子供の頃から習っていたこともあり、相当な腕前である。好きな作曲家はドビュッシー。また、学生時代は吹奏楽部に所属していて、トランペットの演奏も特技である。

 それと、彼は、本郷班唯一の烏龍茶党である。給湯室にある冷蔵庫には、常に烏龍茶の大きなペットボトルが入っているほどである。

海外ブランドのベルナルドのシンプルなデザインがお気に入りで、よくそのマグカップを使っている。

東京都千代田区神田紺屋町(最寄駅:神田)在住である。


 竜崎刑事は、竜崎優太巡査。現在25歳。独身。

 最も若手の刑事である。まだ配属されてから1年ほどしか経っていない新米の刑事だ。関西生まれで、体型はとてもスマート。しかも若手らしく、長髪でしかも幾分茶髪気味。

 まだまだ失敗することも多い白面の書生だが、先輩たちに臆することなく、どんどん意見や疑問を投げかけてくる。また、若い割りに古風なところも多分にあり、本郷班の刑事たち皆から可愛がられている。

趣味はドライブである。少しでも暇があると、愛車の『ホンダ ストリーム』を乗り回し、遠方まで出かけてしまう行動派だ。それ故、運転テクニックは本郷班随一である。

 それと、彼もコーヒー党である。だが、特に砂糖を2個とミルクも入れるという甘党である。マグカップには特にこだわりはなく、安物を使用している。 

東京都中野区東中野(最寄駅:東中野)在住である。

 

 やがて、本郷警部と梅沢警部補が、第一発見者の古川に近づいてきて、警察手帳を見せながら、彼に尋ねた。

「あなたが第一発見者で通報者の古川賢治さんですね。警視庁捜査一課の本郷と申します。こちらは同じく梅沢警部補。お忙しいところすみませんが、遺体を発見したときの状況を詳しくお話していただけませんか。ご協力願います」

1人で立ち尽くしていた時間は、古川に幾分落ち着きを取り戻させ、逆に多少興奮気味であったが、刑事に事情を説明するという義務感から、彼の表情はやや硬いままで、本郷警部の質問に淡々と答え続けていた。

 本郷警部が聞き取りした話をまとめてみると、次のことがわかった。


 1.古川賢治は、テレコムセンター駅の南西に位置する、テレコム東京ビルの9階にある、通信関連会社に勤めている。

 2.古川賢治の自宅は、品川区。山手線の五反田駅近く(徒歩10分程度)の分譲マンションである。家族構成は、妻と息子1人の3人家族。

 3.遺体を発見したのは、警察に電話をした、午前8時40分前後である。

4.古川が今日ビルに来たのは、休日出勤するためである。平日の通勤経路と同じく、五反田駅から山手線で浜松町へ出、浜松町駅からビッグサイト行きの都営バスに乗って、ビルの入り口にある停留所で降車した。(停留所は、ビルの裏口のすぐ前にあるとのことであり、本郷と梅沢も、停留所の場所を確認した)

5.停留所からビルの裏口を入ろうとしたときに、草むらに水色の異物があるのが目に入ったので、何かと思って近づいたために遺体を発見した。

 6.昨日の夜は、遅くまで残業をしていて、終バスを逃してしまったため、ビルの表口からテレコムセンター駅に向かった。そこから新交通ゆりかもめを使って、新橋経由でまっすぐ帰宅した。そのため、この遺体がいつからこの場所にあったのかはわからない。

7.昨日、古川がビルを出たのは午後11時ごろで、自宅に到着したのは午前0時近くになっていた。

 8.遺体の男とは、全く面識がない。


 大体、以上のようであった。


「どうもご協力ありがとうございました」

 古川の態度を観察していた本郷は、彼が殺人には関係していないと確信したが、念のため、古川の勤務先の電話番号も聞き出してから、彼を解放した。古川はそそくさとビルの奥へ消えていった。その後姿を見送っていた梅沢が、

「休日出勤までしたのに、彼も災難でしたね。この後、仕事になりますかねえ」

 と、ぼそっと口走った。 

 

 遺体の近くにあった被害者のものと思われる鞄の中から、免許証や名刺入れが発見され、遺体の身元が判明した。免許証には、


 池田敏明 34歳

 東京都荒川区東日暮里6丁目××× 


と記載があった。名刺にも、同じ氏名が記載されていることから、勤務先が『城東銀行 新橋支店 融資部』であることもわかった。

「梅さん、どうでしょう。遺体の首の痕を見ると、間違いなく殺しですね。遺体の状況を見ると、だいたい死後約10時間前後、ってところでしょうか。あまり争ったようには見えないですね」

 そう言って、本郷が梅沢に同意を求めると、

「そうですね、私も同意見です。争った形跡があまりないので、殺害現場がここだとすると、後ろから力づくで首を絞めたってとこでしょうね。まあ、正確には鑑識の結果待ちということになるでしょうが、昨日の夜10時から11時頃殺されたということで、ほぼ間違いないでしょう。被害者は銀行員で、しかも融資の担当らしいんで、金が絡んだ怨恨、ということも十分考えられますね」

 と、返した。 

 まだ47歳になったばかりの本郷班長にとっては、梅沢刑事はこの上ない、よき相談相手だ。  

「そうですね、その可能性が高いでしょう。でも、変に先入観は持たないほうがいいですけどね」

 本郷は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


 速水と竜崎は、この2人とは離れ、被害者の観察と、近辺の捜索を独自に続けていた。

「速水、竜崎、何か見つかったか?」

 本郷警部が、速水の近くに向かいながら言った。

「そうですね、特にありません。手がかりとなりそうな足跡等も、今のところ見当たりません。ただ、現金5万円ほどと、クレジットカード類が入っている、財布が盗まれていないところを見ると、どうやら単なる物取りの犯行ではないようです」

 と、先輩の速水刑事が、手を休めて答えた。

「そうか、ご苦労さん。速水と竜崎はここに残って、引き続き、この周辺の目撃者探しを続けてくれ。私と梅さんはとりあえず一課へ戻り、残りの3人と合流して、捜査方針を固めようと思う」 


 本郷警部と梅沢警部補が、捜査一課に戻ってきた。そこには、吉野智晴、遠藤美樹、そして高杉康徳の、本郷班の刑事3名が2人の帰りをずっと待ち受けていた。

 休む暇もなく、被害者の情報を伝えると、本郷が3人に指示した。

「吉野、遠藤君、高杉は、被害者の自宅の捜索と、自宅近辺の聞き込みに行ってくれ」

 3名は、そろって力強く返事をすると、被害者の自宅がある、荒川区の東日暮里へと向かうべく、部屋を出て行った。

 それを見送った後、本郷が言った。

「梅さんは、念のため、第一発見者の古川賢治について、調べてもらえませんか」

「了解しました。五反田の彼のマンションへ行って、裏を取ってきます」 

そう言うと、すぐに梅沢も出かけていった。

本郷はコーヒーを口にし、ようやく一息ついた。今後の捜査方針を決めるべく、大好きなほろ苦い香りと味を「脳細胞の餌」にしてフル回転させていた。

(殺された池田は、銀行員で、しかも融資担当だ。いまの段階で断定することはできないが、おそらく事件の裏に金が絡んでいることは、まず間違いないだろう)


 しばらくして、鑑識課より正式発表があった。

 死亡推定時刻は、9月10日の午後9時から10時30分の間。死因は頸部圧迫による窒息死。細い紐状のもので締められたらしいこともわかった。今のところ、凶器と思われるものはまだ見つかっていない。さらに、締められた痕の角度等から、どうやら背後からかなりの力で締め上げた可能性が高いこともわかった。

本郷は、ホワイトボードに、被害者の池田敏明の写真をマグネットで留め、その下に、まず氏名と年齢、住所、職業、勤務先を書き加えた。それから、死亡推定時刻と死因をその下に書き入れた。

 

夕方6時ごろ、被害者宅の捜索と、近所の聞き込みに行っていた吉野刑事より、電話が入った。池田敏明は独身で、家族と離れて暮らしていたこと、どうやら木村菜穂美という恋人がいたらしいということ、それから、近所の聞き込みでは、それ以外にこれといった情報が得られていない、という報告であった。

 本郷は、

「その恋人の住所はわかっているのか?」

 と確認すると、吉野は、

「ええ、被害者宅の住所録に記載されていました。江戸川区の、中葛西8丁目に住んでいます。これからそちらへ向かおうと思いますが」

 と答えた。本郷は少しの間考えてから、

「わかった。恋人にとって、かなりショックが大きいと思われるから、女性の遠藤君を行かせよう。彼女にその旨伝えてくれ。吉野と竜崎は、引き続き近所の聞き込みと、家族や親戚の中で恨みを持っているものがいないかどうかも洗ってみてくれ」

「了解しました」

 そう言って、吉野は電話を切った。


 遠藤美樹刑事は、木村菜穂美に会うために、江戸川区の中葛西に向かった。遠藤刑事は32歳で、未婚であり、恋人がいるわけでもないのだが、女性として菜穂美の気持ちは痛いほどわかった。このようなときは、やはり、同性である自分が話をするのが、一番適任だと感じながら車を走らせた。

 

木村菜穂美の自宅に到着した。

 東日暮里から中葛西まで、車で4、50分ほどであったが、その間、遠藤の気持ちはずっと重いままだった。

 菜穂美は在宅していた。休日でありながら、綺麗に化粧をし、部屋着ではあったものの、身だしなみもきちんと整えているという印象だったので、誰かを待っていたということも十分考えられた。遠藤が警察手帳を見せながら玄関を入ると、菜穂美の顔色がサッと変わった。

「え、警察の方ですか。あの、何かあったんですか?」

「木村菜穂美さんですね? 池田敏明さんはご存知ですよね。実は今日の朝方、お台場で遺体で発見されました」

 遠藤が小さく沈んだ声で、しかもゆっくり言った。

「え、うそでしょ。そんな馬鹿な・・・・」

 そう言うと、菜穂美はその場に崩れた。遠藤は菜穂美を抱きかかえると、リビングまで運んでいき、部屋のソファに座らせた。菜穂美を一目見て、自分と同世代の女性であることを直感した遠藤は、なおさら気持ちが沈んでいくのだった。

 木村菜穂美は、スタイルがよく、聡明で美しい女性だった。中背で、色白で小さな顔立ち、きれいで澄んだ目、鼻は小ぶりだが高く、少し厚めの唇である。髪は内側に少しカールしているセミロングストレートで、見るからに艶々である。だが、ただ見かけがいいだけの薄っぺらの美しさではなく、内面も清楚で美しい、理知的な女性であった。少なくとも遠藤はそう思った。刑事という仕事柄、比較的がっしりした体格の自分と比較して、女性として、内心かなりうらやましく思ったのだった。

 10分ほどすると、菜穂美も幾分落ち着きを取り戻した。

「突然のことで、お気持ちは痛いほどわかります。おつらいでしょうが、少しだけでかまいませんので、お話聞かせていただけませんか?」

 と、遠藤は女性ならではの心遣いで、菜穂美に言った。菜穂美はゆっくりと話し始めた。

「実は昨日の夜、彼とお台場でデートする約束をしていました。そのデートのときに彼からプロポーズされたんです。私、やっと婚約したんですよ。それで、今日も必ず連絡するって約束してくれたんです。でも、ずっと連絡がなくて、心配していたところなんです。何か嫌な予感がしたんですけど、まさかこんなことになるなんて・・・・」

 目はうつろで、全く力なく、か細い声で呟いた。遠藤も聞き取るのがやっとだった。

「そんなことがあったんですか。大変お気の毒です」

 遠藤は、沈痛な面持ちで言った。それと同時に彼女の表情を深く観察した。しかし、何かを隠しているような、あるいはウソを言っているような表情は微塵も見えなかった。心底悲しんでいるのは間違いない。

 ふと彼女の左手を見ると、細くて長い、透き通るような白い薬指に、確かに高価なダイヤモンドの指輪が、場違いのごとく、怪しく美しく光っていた。

(うわぁ、なんて気の毒なの! 婚約したばかりだというのに・・・・)

 仕事柄、このような状況は数多く経験しているはずの遠藤だったが、まるで自分のことのように悲しかった。そして、この状況でこれ以上彼女から話を聞き出すのはかなり難しいと感じた。ただ、(私は刑事なんだ)と自分自身に言い聞かせ、心を鬼にして言った。

「・・・・あの、池田さんは、ご家族の方と離れて、一人暮らしをされていたようですね。大変恐縮ですが、遺体の確認をお願いできますか? その後、警視庁のほうで、詳しい話をお訊きしたいのですが・・・・」

「そうですか。わかりました」

 そう言って、菜穂美は、薬指から指輪をはずしてテーブルの上にそっと置いてから、やおら立ち上がった。

「・・・・こんな状況で、大変恐縮です」


 遠藤刑事と菜穂美は、遺体の確認をするために車で移動している間、一言も会話をしなかった。というより、妙に重冷たい気体が2人を押し潰すかのごとく、全く会話できるような雰囲気ではなかった。車を降りて、2人で死体安置室へ歩いた。

「敏明さんに間違いありません」

 菜穂美が小さく呟いた。

 遺体を確認した菜穂美は、驚くほど落ち着いているように見えた。気が動転していて、何がなんだかわからないからなのか、それとも、ある程度覚悟を決めていたからなのか。おそらく後者であろう。

「木村さん、これが彼の遺留品なんですが、これも確認していただけますか?」

 と、遠藤が付け加えた。

 一つひとつ手にとりながら、そして、彼との思い出を噛み締めながらそれを確認していた菜穂美だが、突然口を開いた。

「あの、彼がいつも使っていた、携帯電話が見当たらないんですが、持っていなかったんでしょうか?」

「ええ、身につけてもいなかったですし、鞄の中にもありませんでした。もちろん、発見現場からも見つかっていません。そういえば、池田さんのご自宅でも見当たりませんでしたね」

 そう遠藤が答えた。

「ああ、そうですか。いつも必ず身につけていたはずなのに・・・・」

 遠藤も、それを聞き、妙に気になった。

(これは、犯人が持ち去ったのかもしれない・・・・。いや、持ち去ったに違いない)


 遠藤刑事と木村菜穂美は、2人で警視庁の捜査第一課に向かっていた。本郷班長には、あらかじめ電話連絡しておいた。その際は、勿論、池田の携帯電話を、犯人が持ち去った可能性があることも伝えていた。


 遠藤が捜査第一課に戻ったときには、他の5人の刑事たちは皆戻ってきていて、ホワイトボードの前で、班長を交えて捜査状況について話をしているところだった。

 遠藤が、刑事たちに木村菜穂美を紹介した。

 本郷が、班長として言った。

「大変お辛いところ、ご足労ありがとうございます。早速ですが、池田敏明さんのことについてお話をお訊きしたいので、ご協力お願いします」

 菜穂美の表情は、まだ硬いままだったが、何とか口を開いた。その声は小さかった。

「・・・・わかりました」

 その後、彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「それでは、早速ですが、昨夜のことについて、できるだけ詳しくお話していただけますか?」

 菜穂美は軽く頷くと、話を始めた。

「昨日は、お互いの仕事が終わったあと、お台場でデートする約束だったんです。ゆりかもめの台場駅に隣接する、『ホテル新東京』の前で、午後7時に待合せしました。場所も時刻も彼が指定してきました。

 私は、何かそわそわして、昨日の午後は仕事になりませんでした。私の会社は、5時半に終わるのですが、その後すぐお台場に向かいました。待合せ場所に着いたのは、6時半頃だったと思います。

彼が来たのは、7時20分ぐらいだったでしょうか、仕事が終わらずに遅れてしまったということでした。その後、ホテルの中二階にある、ラウンジ・バー『バルコニー』へ入りました。夜景がとてもきれいで、結構人気のあるお店だということを、そのとき知ったんです。

 そこで、彼からプロポーズされました。そして婚約指輪を指に通し、しばらくの間は本当に有頂天でした。

その店を出たのは、閉店の少し前だったので、9時20分ぐらいだったでしょうか、彼と台場駅周辺を一緒に海や夜景を見ながら歩いた後、そのままりんかい線の東京テレポート駅まで行き、そこで彼と別れました。確か、9時50分ぐらいの新木場行きの電車に乗ったと思います」

 そこで、急に本郷が口を挟んだ。

「あ、すいません、ちょっと待ってください。あなたの話によると、彼は、あなたと一緒にその新木場行きには乗らずに、駅で別れたということですか?」

「ええ、そうです。時間も時間だったし、私も当然、一緒に自宅まで送ってくれるものだと思っていたのですけど、駅に着いたら、突然、急用があると言い出しました。ですので、とても驚いたのですけど、東京テレポート駅で別れました」

「・・・・そうですか、わかりました。あ、続けてください」

(そうすると、池田は、別れた後、夜遅くにわざわざテレコムセンターまで行ったというわけか。誰かに呼び出されたということか?)

 本郷が促したので、菜穂美は話を続けた。

「私は、終点の新木場で京葉線に乗り換え、葛西臨海公園駅で降りました。そこからタクシーに乗って、葛西の自宅に帰りました。家に着いたのは10時半少し前だったと記憶してます。ですので、タクシーに乗っていた時間は、15分ぐらいだと思います。たいていそのぐらいの時間で自宅まで着きます。お台場から帰る時は、そのルートが1番早いのを事前に調べておきましたから」

 ここで、菜穂美の話が一通り終了したと判断した本郷は、メモを取る手を止めて、今度は自分の番とばかり、質問をし始めた。

「わかりました。それで、池田さんは、その後どこに行くか、あなたに言いましたか?」

「いえ、聞いていません。最近仕事が忙しいようだったので、おそらく仕事がらみの用件だとはうすうすわかりました。暗黙の了解で、お互い相手の仕事のことはあまり関わらないようにしてましたので、私もそれ以上聞き出すような行為はしませんでした」

「なるほど、そうですか。それでは、池田さんに電話があったとか、何か変わったことはなかったですか?」

「ラウンジ・バーにいたときに、2回ほど彼の携帯に電話がありました。何時ごろかは、はっきり覚えていません。彼が中座したので、話の内容は聞いていませんが、電話後の彼の様子から、どちらも仕事の件だったと思います」

「なるほど。おそらく、その電話を受けて急用ができたとあなたに言ったのでしょう。それから、先ほども遠藤刑事から携帯電話が見当たらないという件で報告を受けたのですが、昨日池田さんは確かに携帯電話を持っていたということですね?」

「はい。昨日は確実です。ですが、昨日に限ったことではなく、常に持っていたはずですから、遺留品の中に、携帯電話がなかったので不思議に思ったのです」

 本郷が頷きながら、質問を続けた。

「最後に1つ、これは関係者全員に訊いているのですが、あなたが帰宅するまでの間、誰か知人に会ったとか、あなたのアリバイを何か証明できるものはありますか?」

「いえ、誰にも会いませんでしたし、帰宅してからはずっと1人で部屋にいましたので、証明できるものはありません」

「そうですか。わかりました。お辛いのに、どうもありがとうございました」

 と、本郷が立ち上がり、心からお礼を言い、深々と頭を下げた。

 その後、近くにいた梅沢が

「必ず我々が犯人を逮捕してみせます」

 と力強く付け加えた。

 菜穂美は力なく頷いた。しかし、梅沢は、ほんの少しではあるが、彼女の表情が柔らいだように感じた。菜穂美は、椅子から立ち上がると、軽く会釈をし、捜査一課を出て、帰宅の途についた。時刻はすでに午後10時半を回っていた。彼女が帰宅する際も、遠藤刑事が車で送り届けた。


 菜穂美が去った部屋の中と、刑事全員の心は、なお一層重苦しい空気に包まれるのであった。


 本郷は、ひとり考えた。

(うん、菜穂美の話が本当だとすれば、断定はできないが、時間的に見ても、やはりお台場で殺害された可能性が高いということになるだろう)



4.本格捜査①開始


 本郷警部は、自分の中で捜査方針を固めた後、捜査会議を開くため、本郷班の刑事たちを召集した。まだ朝も早かったが、皆会議室に集まった。ホワイトボードと、いくつかの折りたたみができる長机、それから人数分のパイプ椅子があるといった、いたって普通の会議室である。いつも通り、6人の刑事が机を挟んで左右に3人ずつ腰をおろし、班長の本郷警部が、ホワイトボードを背にして、その中間に位置する形をとった。

 本郷の席には、通常と全く同じく、熱いブラックコーヒーの、DALIのマグカップが置かれていた。


「それでは捜査会議を始める。今までの捜査状況を報告してくれ。まず、速水、現場周辺の目撃情報から頼む」

 ホワイトボードの前で、班長の本郷が口火を切り、捜査会議が始まった。まず速水刑事が遺体発見現場となった、テレコムセンター駅周辺の、目撃者情報について報告した。

「池田敏明の死亡推定時刻が9月10日の午後9時から10時半ということでしたので、その時間帯の目撃者を重点的に探しましたが、現場周辺はその時間帯はほとんど人通りが無い場所のようです。しかも、ビルの表口ではなく、裏口のほうで、そちらは午後8時に全てのドアに鍵がかかってしまうので、会社帰りの人も、すべて表口から出ることになります。タクシーもビルの前で常時5、6台が客待ちをしていますが、すべて表口のほうです。運転手の何人かに話を聞いてみても、現場の側は、夜遅くなると、車も人もほとんど通らないということでした」

(やはり、あの場所で、夜遅くの目撃証言は難しいか・・・・)

本郷はそう思って、速水に言った。

「そうか、わかった。目撃者を探すのは、ちょっと難しいだろう。しかし、何で池田はそんな寂しいところへ向かったのだろうか」

 本郷は一瞬考え込んでいたが、こう続けた。

「それから、木村菜穂美の証言が正しいと仮定すると、東京テレポート駅で別れて殺害現場へ移動するのに10分から20分はかかるはずだ。つまり、夜10時近くまで生存していたと見ていいだろう。よって、死亡推定時刻を、9月10日の午後10時から10時半の間、この30分間に絞って捜査を進めることとする」

 次に、被害者の池田宅を捜索した吉野刑事が報告した。

「それでは、被害者についてわかったことを報告します。被害者池田敏明は、荒川区東日暮里6丁目にある13階建ての分譲マンションの11階に、一人暮らしをしていました。JR日暮里駅から歩いて5分程度で、部屋の間取りは2LDKです。1人で住むには広すぎる感じはしましたが、銀行員なので、それなりの収入はあったと思われます。隣や、上下階の住人、マンションの管理人、それから自治会の人たちにも話を聞いてみたんですが、誰に聞いても池田の評判はすこぶる良く、彼のことを悪く言う人は1人もいませんでした。このマンションはいわゆるファミリータイプで、住人の中に一人暮らしはほとんどいないのですが、池田は自治会のイベントなどにも積極的に参加していたようですし、今のところマンション内でのトラブルの話は出ていません。

 次に、交友関係のほうですが、彼の部屋の住所録にあったものをリストアップして、一覧表を作成しました。皆さんのお手元に資料をお配りしてあります。

 最後に、彼の家族についてですが、両親が茨城県の水戸に住んでいます。それから2歳違いの弟が1人いるんですが、同じく茨城県の日立市に住んでいます。こちらのほうは、現在茨城県警に協力をお願いしていまして、連絡をもらえることになっています」

 この報告に対して、本郷が答えた。

「了解。今のところ近隣や交友関係では怪しい人物は浮かんできていないということだな。どうやら、池田敏明という人間は、人に恨みを買うような人物ではなさそうだな。そうだとすると、動機は何だろうね、やっぱり何らかの金銭トラブルが考えられるかな」

 それに続く形で、梅沢が付け加えた。

「ええ。池田は銀行員で、しかも融資担当なので、どうも金に絡んだ事件と思えて仕方ありません。それから、これは先ほどからあるように、木村菜穂美の話が真実ならば、という条件がつきますが、池田の携帯電話が持ち去られた可能性も高いと思われます。携帯電話に、何か犯人が見られてはまずい、重要な情報が入っていて、それで犯人が持ち去ったのではないでしょうか」

「確かに臭うね。通話の送受信記録のみを恐れてという理由だけではないかもしれないね。それじゃ、最後に梅さん、念のため第一発見者の古川賢治について、報告してもらえますか」

「はい。それでは、私から第一発見者の古川賢治についてわかったことを報告します。古川賢治は品川区の五反田駅近くのマンションの8階に、家族3人で住んでいます。住所は品川区東五反田5丁目です。家族構成は、奥さんと10歳になる息子が1人の3人家族。それで、池田が殺害された9月10日の夜なんですが、彼の証言どおり、夜中の12時近くに帰宅しています。それは奥さんも証言してますし、コンビニへの買い物帰りの、隣の部屋の住人が、たまたまエレベーターで一緒になったようで、その隣人も証言してくれましたので、まず間違いないでしょう。翌日も、彼の証言の通りですね。家を出た時刻は奥さんが証言してくれたんですが、会社に到着した時刻とも辻褄は合ってますし、それに、殺された池田とは、やはり面識がないようです。古川は、捜査対象からはずしてもいいんじゃないかと思われますね」

 と、梅沢が最後に報告した。本郷も全面的にそれに同意し、深く頷いた。

(やはり、古川はシロか・・・・)

 ずっと腕組みをして報告を聞いていた本郷だったが、少しの間無言状態があって、ようやく口を開いた。

「今後の捜査についてだが、大きく3つに絞る。仕事関係、交友関係、そして婚約者の木村菜穂美。裏に男女関係のもつれがなかったとも限らないからね。現場周辺の目撃者探しと、家族については所轄にまかせて、速水と竜崎は、勤務先の城東銀行新橋支店を当たってくれ。吉野と高杉は、引き続き池田宅の近所の聞き込みと、交友関係、特に配布してもらった一覧表の人間を重点的に。梅さんは遠藤君と一緒に、婚約者の木村菜穂美の裏をとってくれますか」

 本郷がそう指示を出すと、梅沢以下、計6人の刑事が一斉に力強く返事をして、会議室を出て行った。 

 本郷は、それを見送った後、自分の席に戻ると、また好物の渋いブラックコーヒーを入れて、一息ついた。入れたての熱いコーヒーカップを手に取って、少しずつ啜りながら、頭の中の手帳に、今までの状況をこと細かに書き記した。そして、その脳手帳の内容を、コピーを取るかのように、ホワイトボードに早いスピードでどんどん転写していった。それが本郷の癖だった。

 その後、池田が持っていたはずの、携帯電話の通話記録を調べる作業に入った。

(池田の携帯電話が何らかの鍵を握っているに違いない・・・・) 


通信会社に依頼していた、池田敏明の携帯電話の、9月10日の通話記録がメールで送られてきた。個人携帯電話であったため、思ったほど件数は多くなく、送信・受信併せて20件ほどであった。ただ、午後8時過ぎに、3度、同じ携帯電話番号から受信していることがわかった。そのうちの1本は、死亡推定時刻直前のものだった。本郷はその電話番号に電話をして、電話した主を調べたところ、本人が出て、城東銀行新橋支店に勤務する立花健夫という人物であることがわかった。

(池田敏明が勤務していた城東銀行新橋支店の、それも同じ融資担当か。これは怪しい)

 そして、城東銀行の新橋支店に聞き込みに出かけた速水刑事に、立花健夫を重点的に調べてみるように連絡を入れた。


やがて、木村奈緒美を洗っていた梅沢と遠藤が捜査本部に戻ってきた。梅沢はハンカチで顔の汗をふき取ると、遠藤に冷たい飲み物を持ってくるように依頼した。遠藤はにっこり微笑むと、給湯室に消えていった。

「やあ、ご苦労様。それで、梅さん、何か進展はありましたか」

 本郷がそう言うと、まだ飲み物も手にしていないのにもかかわらず、すぐに話し出した。

「警部、あの木村奈緒美ですが、会社での評判はすこぶるいいですね。勤務態度も真面目だし、性格もいい。デザイナーとしての腕も確かで、おまけに美人ですからね。特に、一緒に仕事をする機会が多いという、同僚の森中真衣というデザイナーが言っていたんですが、後輩の面倒見もとてもいいようです。森中真衣はまだ25歳で入社2年目なんですが、教えられることが多いし、わからないことは丁寧に教えてくれると言ってました。木村奈緒美に彼氏がいたことは、うすうす感づいていたようです。あ、それからこれも彼女の話なんですが、池田敏明が殺害された、あの婚約をした日のことなんですが、珍しく木村奈緒美の様子がいつもと違っていたということもわかりました。普段はきっちりと仕事をこなすのに、その日に限って、仕事のことで質問しても何かこう、うわの空のような感じだったと彼女は証言しています。よほど池田と会うのを楽しみにしていたということなんでしょうかねえ。・・・・彼女が池田を殺害することはありえませんな」

 本郷は、その話をずっと黙って聞いていたが、

「そうですか。やはり彼女の言っていることは正しいようですね。しかし、婚約した日にフィアンセを殺害されるなんて、奈緒美は本当にかわいそうな女性ですね」

 と低めの声で言った。

 そこへ、冷たい麦茶を持って遠藤がやってきて、梅沢に手渡すと、梅沢の報告に続けるように言った。

「それと警部、木村奈緒美さんの証言にあった、お台場の『バルコニー』というラウンジバーにも行って、店員に話を聞くことができました。彼女の言っていることに間違いなさそうです。店員の浅倉宏斗さんによると、池田敏明さんと木村奈緒美さんが2人で店に来たことをよく覚えていると言っていました。オーダーを取るときに、テーブルに婚約指輪のケースが見えたのと、2人が話している内容から、プロポーズをしたことを察知し、店長に報告してメッセージカードを手渡したことも、詳細に話してくれました。浅倉さんの話では、2人の入店時刻は定かではありませんが、閉店時刻近くまでこの店にいたことは確実のようです」  

「そうか、わかった」

 本郷は、先ほどと同じく低めの声で答えた。

 梅沢は、遠藤が入れた冷たい麦茶を1気に飲み干してから、遠藤の話を本郷と一緒に聞いていたが、遠藤の話が終わったことを確認してから口を開いた。

「これまでの内容から、木村奈緒美に、池田敏明を殺す動機は全くないので、死亡推定時刻、言い換えれば殺害時刻に彼女がお台場にいなかったことが証明できれば、完全にシロということになりますね。これから遠藤君と2人で、葛西臨海公園駅から彼女の自宅まで乗せたタクシーがあるかどうかを調べてみます」

 そう言うと、また遠藤と一緒に捜査本部を出て行った。


速水刑事と竜崎刑事は、新橋にある城東銀行新橋支店の融資部に到着していた。JR新橋駅のすぐ前で、徒歩でも1分程度の立地である。移動の途中、本郷班長からの電話連絡を受け、特に池田敏明の上司にあたる立花健夫に話を聞くのが目的であったが、あいにく立花は出張しており、今日1日戻らないということであったため、立花の上司で、融資部長の津山和哉にまず話を聞くことにした。融資部の会議室に通され、3分ほど後になって津山が入室してきた。いかにも銀行員というような、身なりのきちんとした、礼儀正しく少々硬い感じの50代の紳士であった。そこで、予想外の大収穫となる話が聞けることとなった。

 津山部長の話では、どうやら城東銀行新橋支店内に、業務上横領の疑いがあり、それも融資部の立花健夫が最も疑わしい人物であり、どうやら多額の金を使い込んでいるらしいということであった。業務上横領の事実は、城東銀行全体で、1ヶ月前に大規模な内部監査があり、そのなかで明らかになったということであった。立花が課長の立場を利用して、システムデータベースの内容を書き換えたらしいという疑惑が浮上し、内密で部下の池田敏明に調査を依頼していたということがわかった。銀行内のシステムデータベースは、課長以上の権限をもったユーザIDでないとアクセスできない構造になっていたことと、そのデータベースは必ずアクセスしたIDを記録することになっていたのだが、アクセス履歴に立花のIDが頻繁に記録されていたことで彼に容疑がかかったたためである。だが、アクセス履歴はあったものの、どのような操作をしたのかまでは記録が残っていなかった。横領した者が巧妙に細工をして記録を削除していたのだろう。

おおよその事情がわかった速水は、より詳細な事情を聞き出すべく、津山に尋ねた。

「それで、池田敏明さんには、具体的にどのような調査を依頼していたのですか」

 それに対し、津山は、

「システム的な調査ではなくて、立花君の普段の行いをチェックしてほしいと頼んでいました。池田君は立花君の直属の部下ですから、仕事の内容とか、できればプライベートに至るまで、できるだけ情報を収集するようにお願いしていました」

「そうですか。それで、何か情報は収集できたのですか?」

「いいえ。実際にはまだです。定期的に報告は受けていましたが。立花君は自分が疑われていることをおそらく知らないはずですが、池田君の報告によると、なかなかボロを出さないと言っていました。ですが、先週の木曜日だったかな、急に証拠をつかんだようなことを言ってきたんですよ。私は金曜日は都合がつかなかったので、週明けの今日話を聞くことにしていたんですが・・・・。とても残念でなりません」

 津山は肩を落としてそう答えた。速水は、津山のこの暗い表情から、池田敏明が殺されたことそのものよりも、横領の証拠について聞けなかったために、立花の悪事を立証できなかったことを残念がっているように思えて仕方なかった。

(同じ部の人間が1人死んでいるんだぞ。もうすこし悲しんだらどうなんだ。銀行の人間はこんなものなのか?・・・・)

速水は津山に対し丁重に礼を言って、津山は部屋を出て行った。

 それから、池田と同期入行で、銀行内では親密だった行員の二階堂ひろみにも話を聞いた。窓口の受付を担当しているだけあって、制服がよく似合う、品のよい魅力的な美しい女性であった。

ひろみの話の中でも、池田敏明が業務上横領の件で立花健夫を調査していたことは本人の口から聞いていたこともわかった。ただ、横領の何らかの証拠を掴んだらしいということまでは、ひろみは知らなかった。また、池田敏明が誰かに恨まれているとか、何かトラブルに巻き込まれているようなことは全くないと彼女は断言した。

速水と一緒に話を聞いていた竜崎が口を開いた。

「二階堂さんは、池田敏明さんとはかなり仲がいいとうかがっていますが、池田さんが婚約したことは知っていますか?」

「ええ、婚約したことは知っています。相手の方のお名前までは知りません。彼とは同期入行なので、いい友達という意味で特に仲がよかったので、本人から聞いていました。池田君、すごくうれしそうに話してくれたんです。・・・・今回の件では私も辛いですが、婚約者の方は私とは比べ物にならないくらいお辛いでしょうね・・・・。大変お気の毒です」

 二階堂ひろみも、当然ショックは隠せなかった。竜崎がさらに続けた。

「それから、犯行現場や彼の自宅からも携帯電話が見当たらないのですよ。婚約者の女性も、池田さんは常に携帯電話を持っていたと言っていたんですが、それについて何か心当たりはありませんか?」

「ああ、そうなんですか。もちろん携帯電話は持っていました。そうですね、彼は何かあったときに、携帯電話のメモ機能やカメラ機能を使って情報を記録しておく癖がありましたね。何度も見たことがあるんです。でも記憶容量はそんなに大きくないから、おそらくある程度情報がたまったら、それを手帳やパソコンとかに入力し直していたのだと思います」

「そうですか、わかりました。貴重な情報ありがとうございました」

 今度は先輩の速水が口を開き、その後二階堂ひろみは退室した。

2人だけになった会議室で、まだソファに座ったまま速水が竜崎に言った。

「もしかしたら、立花健夫は自分が疑われていることを知っていたんじゃないかな。それも、自分の直属の部下が調査をしていたこともね。二階堂ひろみが言っていたような、池田の携帯電話へのメモの癖も、おそらく立花は知っていただろうね。もし立花が犯人だとしたら、池田の携帯電話を自分でまだ持っているか、既に廃棄しただろう。これで携帯電話が消えた謎も説明がつくし、動機も十分だ。殺害当日、池田が立花と何度か電話しているのも、おそらく横領の件についてだろう。もしかしたら、池田の方が立花をゆすっていたのかも知れない」

 それに対して、竜崎も頷いて答えた。

「そうですね。動機があるのは今のところ立花健夫だけですね。池田を悪く言う人間は1人もいませんでしたし」

その後2人は同時に立ち上がり、会議室を後にした。

義務的に津山和哉と二階堂ひろみの、先週10日金曜日の午後10時から10時半までについてのアリバイも一応調べたが、2人とも確固たるアリバイがあった。動機がないことを考えても、容疑者リストからは完全に削除されることになった。

速水と竜崎は、翌日また城東銀行新橋支店を訪れて立花健夫の話を聞くこととし、今日は取りあえず本庁に戻ることにした。


2人が本庁に戻り、本郷に捜査状況を報告した。本庁には、梅沢、遠藤、吉野、高杉の4名も戻ってきていた。梅沢の話によると、10日の夜、JR京葉線の葛西臨海公園駅から中葛西の自宅まで、木村菜穂美を乗せたというタクシーの運転手が見つかり、彼女の証言通りであることが裏付けられたことがわかったが、吉野と高杉の報告からは、手がかりと呼べるようなものはほとんどなかった。

 本郷は、

「うん、やはり立花健夫か。現時点では最も怪しい人物だな。速水と遠藤君で、明日も城東銀行新橋支店へ行って、立花に事情を聞いてみてくれ」

 そう言うと、また渋いコーヒーを啜りながら、いつものように、ホワイトボードに状況を書き入れた。


翌日になって、速水と遠藤は、城東銀行新橋支店へ向かった。もちろん、融資部の課長である立花健夫の証言を取るためである。

昨日と同じ会議室に通され、立花を待つ形になった。会議室に入ってから5分ほどして、立花健夫が入室してきた。見るからに銀行員といった、硬い感じの紳士ではなく、いかにも高そうなブランド物を着込み、イメージしていたよりもがっしりした体格で、色も浅黒かった。さらに、思ったより若い感じを受けたが、その一方で、いささか人間味にかけるような印象も刑事たちは持ったのだった。

 早速、速水が口を開いた。

「今日はお忙しいところ、捜査にご協力いただきまして、ありがとうございます。多分、ご存知だと思いますが、あなたの部下の池田敏明さんが、先週の10日金曜日に殺害され、お台場で死体が発見されました。そのことについて、いろいろ伺いたいのですが」

 立花は表情を全く変えずに、頷いて答えた。

「ええ、勿論です。ニュースでも見ましたし、今朝も上司の津山からその話がありましたので。あなた方のことも聞いていましたよ」

 速水は、その表情をずっと観察していたが、全く悲しんでいるようには見えなかった。

(そうだな、この男が横領をしていたのだとしたら、池田が死んでくれたことは好都合だったであろうし、無理もないか。まあ、こいつが殺したのかもしれないし・・・・)

速水が続けた。

「率直に聞きますが、あなたと池田さんとの間で何かトラブルはなかったですか?」

「いいえ、そのようなことは全くないです。行内でそんな噂が立っているんですかね」

 立花は全く平然としていた。速水がさらに続けた。

「いえ、一応、何か手がかりはないかどうかお尋ねしたまでです。それと、池田さんが殺害された日の夜、彼に何度か電話してますね。それは間違いありませんか?」

「ええ、間違いありませんよ。その日が特別なわけではなくて、仕事上、電話連絡なんてしょちゅうですから。それが事件と何か関係があるんですか?」

「いえ、これも確認しているに過ぎません。その日も要件は仕事のことだったということですね?」

「そうです。今週の業務内容についての件で、できれば早めに連絡しておいたほうがいいと思われることがあったものですから。逆に仕事以外の要件でわざわざ個人の携帯に電話することは全くないですね」

 立花の表情を引き続き注視していたが、これといった変化もなく、淡々と答えていた。速水は思った。

(言っている事は確かに筋が通っているが、妙に落ち着いているな。立花が犯人ではないのか?・・・・)

幾ばくかの沈黙の後、今度は遠藤が続けた。

「これも、関係者の方々皆さんにうかがっているのですが、10日の夜10時から10時半まではどちらにいらっしゃいましたか?」

「ああ、アリバイですか。その日は仕事を早めに切り上げて、新宿の喫茶店に行ってましたよ。早めにと言っても、銀行を退社したのは午後8時半を過ぎていましたけどね。喫茶店に着いたのは9時を少し過ぎていたと思います。あ、ちょっと待ってください・・・・」

そう言って自分の手帳を開き、ページをめくっていたが、手帳を見ながら話を続けた。

「・・・・ええと、喫茶店の名前は、『名曲喫茶アンダンテ』ですね。閉店までずっとこの店にいました」

遠藤が間髪入れずに

「誰かそれを証明できる人はいますか?」

 と、普段の捜査と変わらない、いつも通りの質問を投げかけた。

立花はあくまでも表情を変えることなく、

「うん、1人で行きましたからねぇ。証明できる人ね、それだったら、相席になった若い女性の方がいましたけど、名前は知らないし、あ、そうだ。店内でかけてもらう曲をリクエストするために、マスターに掛け合ったので、マスターが覚えていてくれると思うんですが」

 と、答えた。相席だった大森由起恵の名前は意図的に出さなかった。

「なるほど。わかりました。立花さん、お忙しいところ、ありがとうございました。またお話を訊くことがあるかもしれませんが」

 速水がこういって締めくくり、立花は退室した。退室した後、速水が本郷へ電話で報告した。特に、彼のアリバイのことについては事細かに報告した。

本庁に戻る途中で、速水と遠藤はそれぞれが持った立花健夫についての印象を話していたが、何か落ち着きすぎている態度の点と、自信に満ちた様子については、2人で一致していた。さらに、

「なあ遠藤、立花は自分が横領を疑われていて、それを池田敏明が調査をしていたことを知っていたと思うか?」

 と切り出した速水に対し、遠藤が答えた。

「ええ、多分知っていたと思いますね。金曜日にかけた電話の内容も、実はそのことだったのではないかと思いますね。彼にとっては、池田さんが死んでくれて、この上ない好都合となったわけですし」

「そうか、やはり君もそう思ったか」

「ええ。でも、私たちに話をしているときの立花さんの表情をずっと見ていたんですけど、アリバイについてウソを言っているような感じは全くありませんでした。名曲喫茶に行っていたのは事実でしょうね。作られたアリバイという気がしないわけではないですけど」

 また、速水は思った。

(池田が横領の証拠を掴んだとすれば、立花の殺害動機としては十分だな。ただ、遠藤が言った通りで、あれだけ自信を持って話をしているからには、アリバイもでっちあげではないのかもしれない。アリバイのウラを取る必要はあるが、証言内容が事実で、彼が犯人ではないとすると・・・・)


速水から連絡を受けた本郷は、すぐに吉野と高杉を「名曲喫茶アンダンテ」に向かわせた。


吉野刑事と高杉刑事は、大都会新宿のしかも歓楽街のど真ん中にひっそりと佇むような、名曲喫茶アンダンテに到着した。2人の刑事が共に思った。

(いやあ、今時こんなレトロな店があるなんて。しかも新宿で・・・・)

 古めかしい木のドアを開けた。中に入ると、そこは正に「異空間」で、香ばしいコーヒーの香りと、美しい優雅な旋律にたちまち包まれた。吉野は、それほどクラシック音楽に詳しいわけではないが、店内で流れている曲がモーリス・ラヴェルの『ボレロ』であることはわかった。そしてカウンターの向こう側には、気のよさそうなマスターが、にこにこ顔で出迎えてくれた。仕事中とはいえ、とても癒される空間である。

「警視庁捜査一課の吉野と申します。こちらは同じく高杉です。ご存知だと思いますが、先週10日の金曜日の夜、銀行員の池田敏明さんが殺害され、お台場で発見された事件がありまして、その件で、いくつかお聞きしたいことがあるのですが」

 早速、吉野が切り出した。マスターは、2人がお客ではなく警察の人間だということがわかっても、いやな顔は全くしなかったが、殺人事件の捜査だということを聞いて、たいそうびっくりした顔をした。

「ああ、そうですか。殺人事件の捜査でいらしたんですか。それで、私なんぞに何を聞きたいのでしょうか?」

マスターの野島清が言った。野島は、現在75歳になる。現在は、ほとんど趣味だけでこの店のマスターをやっている男である。根っからのクラシック音楽好きが高じて、50代の初めに脱サラし、退職金を含めた自己資金と多少の借金でこの店をオープンするにまでこぎつけた。時代の流れで、この『アンダンテ』と同じような情緒のある喫茶店は、都内だけでなく日本中からどんどん消えつつある昨今、20年以上もこのレトロな店をひたすら守ってきた努力家であり、且つかなり頑固なところもある老人である。

吉野が続けた。

「実は、容疑者の1人が浮かびまして、その男のアリバイを調べているんですが、その男は、10日の夜は午後9時ごろにこの店に来て、閉店までいたと証言しているんです。それで、店内でかけてもらう曲をリクエストするために、何度かマスターに掛け合ったので、マスターが覚えているかもしれないと言っていましてね。この男なんですが」

そう言って、立花健夫の写真を出した。それを見た途端、野島は身を乗り出すような格好で、慌てて答えた。

「あ、ええ、この人は金曜日確かにいましたよ。店に来た時刻までは覚えてないですけどね。ええと、確か9時半ごろと10時半ごろだったかなあ、私のところへ2度来て、連れの女性が好きな曲があるから、店内で是非かけてもらえないかということを言ってきたんですよ。それは、ドヴォルザークの『新世界から』なんですがね。しかも4楽章だけってね。あまりにしつこく言ってくるんで、こちらも閉店間際にかけたんですよ、新世界。だから、よーく覚えてますよ。この人に間違いないですけど、この人が容疑者なんですか・・・・」

「いえ、まだ情報を集めている段階で、彼に容疑がかかっているということではありません。そうですか。彼は9時半と10時半の2回、あなたのところに来たということですが、その間もずっと店にいたんですか? 途中いなくなった時間帯はありませんかねぇ」

「ええ、あの人のように強引なお客さんはそういないですから、こちらも気になってちらちら見ていたんで。2人でウィンナコーヒーを何度か注文していただきましたし、この店にいらしてから閉店までずっといましたよ」

「つまり、連れの女性と一緒にいたんですね? ずっと1人でいたわけではなく」

「ええ、連れかどうかはわからないですが、若い女性と一緒で、それこそ会話を楽しんでらっしゃいましたよ」

 吉野と高杉は、野島の様子を注意深く観察しながらその会話にずっと耳をすませていたが、野島清がウソをついているようにはどうしても思えなかった。しかも、その内容は、立花健夫の証言と寸分たがわなかったわけである。要するに、午後10時から10時半までの30分間の立花健夫のアリバイは完璧であった。

「そうですか。わかりました。ご協力ありがとうございました」

吉野は、最後に丁重に礼を言ってから、念のため自分の名刺を渡し、他に何か気づいたことがあったら連絡してほしい旨伝え、2人はこの店を後にした。

店を出たすぐ後、高杉が口を開いた。

「あのマスターの話はおそらく間違いないでしょうね。だから、立花健夫のアリバイが完璧だということになるんでしょうが、でも立花はマスターに自分を印象づけようとしているように思いませんか?」

「それは、意図的にアリバイづくりをしたということを言いたいのか?」

「ええ、何かウラがあるような感じがしてならないんですが。かなり引っかかるんですよね」

2人の間でこのような会話がなされたが、吉野の次の一言で高杉は言葉を発することがなくなった。

「ああ、まあそうかもしれないが、立花が実行犯ではないことだけは確かだな」

そして、吉野は本郷に電話で報告を入れた。


警視庁の捜査一課にある会議室で、本郷は吉野刑事からの報告を受けた。近くには、梅沢と速水がいたが、彼らも本郷の電話のやり取りを聞いて、会話のはしばしより、報告内容のほぼ8割ほどは既に理解してしまった。

 吉野からの報告を受けた後、3人の刑事たちは、本郷を中心に、現在までの捜査内容を全て振り返って、整理をし、あらゆる意味で再検討を重ねたのだが、どうしても立花健夫より疑いの強い人物は浮上しなかった。

結局、有力な容疑者が1人もあがらない状態で、早くも捜査は行き詰ることになった。

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