エレクトラ
【第13回フリーワンライ】
お題:満月の夜に
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
今宵は新月。
真の闇が満ちる夜。
誰にも見咎められず、密やかに動くにはうってつけの夜。
行動するならば今日を置いて他にはない。
いつもならばとうに眠りこけている時刻に、彼女は目をしばたたいて起き出した。
あらかじめベッドの下に用意しておいた荷を引っ張り出し、薄い寝間着から動きやすいが頑丈な軽装に着替える。
当面必要になる物は全て背負い袋に詰め込んでおいた。
持って行くのはこれ一つでいいが、とりあえずはそのままにしておいて、彼女は部屋の入り口に向かった。
ドア越しに聞き耳を立てる。
「――――」
「――――?」
「――――」
ドアや壁をいくつか隔てていてほとんど聞き取れないが、誰かの話し声が聞こえた。やはりまだ家人は起きているようだ。
もしもこのまますたすたと出て行ったら、家中上を下への大騒ぎになるだろう。何しろ彼女は箱入り娘だ。夜更かししていると知れるだけで母親などは目を回してしまうだろう。
顎に手を当てて、俯きながらベッドへと戻る。下を見もせずにすとんとベッドの縁に腰を下ろした。
両親はどうも、一人娘の自分を儚く脆いガラス細工の人形だと思い込んでいる節がある。
そんなことはない。
今まで生きてきた十数年間、見聞きしてきたことは覚えているし、世の中の仕組みもよく理解している――全て本で読んだ知識だが。
貴族の一門に連なる血のおかげで、家から出たことがない、ということを除けば何一つ不自由したことはなかった。比較することは出来ないが、三階建ての本館に離れまである我が家は、かなりの規模の邸宅だろう。木立を擁する庭は外壁に囲まれているが、歩いて回る分には充分に広い。
彼女は外の世界だけ知らなかった。その目で実際に見たことがなかった。
一度、たった一度だけ門の外に出られそうなことはあった。遠出していた母親が馬車で帰ってきた時に、門前まで出迎えに行き、普段は頑丈に閉じられた門扉の外を伺おうとした。しかしそれは叶わなかった。馬車を飛び出てきた母親が、凄い剣幕で彼女を引き戻したのだ。
それ以来、彼女は正門どころか裏門に近付くことさえ許されなくなった。
そして、閉じ込められていると感じるようになったのは、つい最近だ。
――外に出てみたい。
一度そう意識してしまうと、もうその感情を止めることは出来なかった。
どうにか出来ないものか、と思案しながら木立を歩いている時にある発見をし、名案が浮かんだ。
とにかく外に出る算段は付いたが、問題なのはどうやって抜け出すかだった。
家は夜中でも誰かが起きていて、時折見回りまでしている。彼女は思いも寄らなかったが、時折彼女の部屋を覗いて確認しているかも知れなかった。
見回りはある程度定期的に行われていて、巡回路は一定のようだったから、目をかわして階下に向かうのはさほど難しくない。
屋敷の周囲は見通しが良く、正面は正門まで続く道以外何もなく、他の三方も裏の木立に至るまでに背の低い花壇の迷路や池がある程度だった。無策に建物から這い出ても、月明かりに照らされてすぐに見付かってしまうだろう。
そこで重要になるのが新月だった。
街路にガスの通った街と違って、山奥のこの屋敷には周囲を照らす街灯などはない。新月の深い闇に飲まれてしまえば、よほど夜目の利く者でも見分けることは困難なはずだ。
もしも家を出るのならば、月に一度の新月にしか機会はなかった。
いや、実を言えばもうその機会も、いつ失われてもおかしくなかった。
彼女は数日前、家屋敷の周囲に照明を設置する計画があることを、母親が漏らしているのを立ち聞きした。
今日この日。
この時だけ。
もう二度と、新月に紛れて抜け出す機会が巡って来ることはない。
「よし」
小さく呟いた彼女は、決意を固めた表情で荷物を手にし、再び立ち上がった。
ドアに耳を付ける。
足音は聞こえない。この時間、まだ巡回がここを通るはずはないから当然ではあった。
ノブを回して、そっと肩でドアを押した。
がちゃり。肩に金属の感触が帰ってきた。外側から鍵がかかっている。
想定の範囲内だったが、少しショックを受けた。晩餐の後、彼女は自室に篭もると朝まで一歩も部屋を出たことはない。だから鍵がかかっているなど知らなかったが、あの過保護な母親ならばやっていてもおかしくないとは感じていた。
(そっちがその気なら……)
髪留めを外すと、そこから針金を取り出した。解錠の仕方なら何かの本で読んで覚えている。二本の針金を駆使して、難なく鍵を開けた。
そっとドアを押し開け、忍び出る。廊下は外の闇夜を反映して、黒い色彩に沈んでいた。外に面した窓に近付くと、漆黒しか見えなかった。
廊下の先は窺い知ることが出来なかった。
竦み上がりそうになる自分を叱咤する。
ここで怖じ気づいて部屋に戻れば、籠の鳥さながらに、外の世界を知らずに一生を終えることになる。そんな強い予感。
目を開いているのか閉じているのか、それすらわからない闇の中を、足音を殺して進んだ。幸い、選んでいた外履きの靴と毛の長い絨毯のお陰で、ほとんど無音だった。
角や階段を降りる度、足を止めて耳を懲らす。
今しも後ろから誰かに肩を掴まれるのではないか――そんな幻覚に纏わり付かれながら、とうとう一階まで降り切り、屋敷の端にある裏口にまで達した。
外に出ると、窓から見えた以上に濃い闇がわだかまっていた。月もなく、星も出ていない。
まるで墨を解かしたような暗い外気に、彼女は一歩後じさった。
暗い。
あまりにも暗かった。
普段ならば向こうに見える木立も、池も、花壇も、短く刈り揃えられた下草も、何もかもが闇に沈んで見ることが出来なかった。
これは予想外だった。
ここまで目の前が見えなくては、歩くことも覚束ない。そもそも、木立に隠されたあの場所も見付けられるわけがない。
思わず振り返りそうになった自分の足を手で押さえつけた。
駄目だ。
引き返してはいけない。
一歩を踏み出すのは今この時だ。
前なんて見る必要はない。
私はこの箱庭で育ってきた。隅から隅まで踏破した。見えなくても、何がどこにあるか、体が覚えているはずだ。
はっと、彼女は顔を上げた。
星を覆い隠す雲の向こう、例え新月で見えなくとも、月はいつもそこにある。
見えないものもそこにあるし、見ようとさえ思えば、見えないものでも見えてくる。
道標を照らす月明かりはなくても、行き先は自分が知っている。
自分が踏み出す一歩を、自分の中の満月がくっきりと照らし出す。
心の中に満月があれば、暗闇に足を踏み出すことが出来る。
彼女は最早臆すことなく、闇夜に歩を進めた。
花壇をかわし、木立を危なげなく抜けて、その終端、壁の向こうに枝葉を伸ばす木の前に立った。
この木を伝えば、壁の外に、外界に出ることが出来る。
彼女は誰にも見られることのない闇の中で、ふっと笑った。
なんだ、こんな簡単なことだった。
向き合ってみて初めてわかった。道なんて最初からどこにもない。自分で一歩踏み出すから前に進めるのだ。
彼女は踵を返し、屋敷へと戻り出した。
こんなこそこそと出るのはやめだ。
あの頑固な母親と正面から向き合おう。
必ず説き伏せてみせる。そうしたら、大手を振って門から外に出るのだ。
彼女の心は今、晴れ晴れとしていた。
時を同じくして、星々を遮っていた暗雲はどこかへ行ってしまっていた。
見付かったらなんと言われるだろうか。血相を変えて飛び出してくる家人の顔が目に浮かぶようだった。
それすらも楽しみだった。
光のない暗闇の中で、希望の星が輝きを新たに瞬いた。
『エレクトラ』・了
なんか精神的なあれ。成長的な。
タイトルに深い意味はありません。たぶん。
ユングってなんですか。
今回はだいぶ時間オーバーしました。てへ。