水曜日とトリップ
トリップです
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水曜日
昨日も安定剤を飲んで寝たのに、会社に行く必要が無くてもいつもと同じ時間に眼が覚めてしまった。
いい天気である。
一人っきりである。やる事がなんにもない。
数日前までは休日が嬉しいものだったのに、社会的・金銭的な限界まで休日日数が任意となると、とたんに困ってしまう。
このままでは腐って死んでしまう。伊勢はそう思った。
だから北海道に行く事にした。
カラ元気でも何でもいいから、動くのだ。日本の最後のフロンティア、悠久の自然の大地とやらの力を借りて、気合いを入れるのだ。気合いだ気合いだ気合いだ!若干の悲壮感をそこはかとなく漂わせながら、ビースト浜口ばりに叫んでみる。朝からアホである。否!アホになるのだ!
荷物は積んである。あとは…出発するだけだ!
クローゼットからクツタニのレザージーンズを引っ張り出して履く。伊勢のお気に入りである。バイクに乗らない時の普段着にも愛用している。尻ポケットに財布、右のポケットに携帯、左のポケットにマルメンライトとダンヒルのライターを突っ込んだ。
次に夫婦坂のレザージャケットをとりだした。レーシングスタイルのシングルジャケットで、シンプルで着やすい。さすがに普段着には着れない。一応、ささっと薄くミンクオイルをすりこんでみる。あまり意味はない。気分の問題である。気持ちが大事。気持ちで勝負。
グラブはイエ□ーコーンのレザーグラブである。これは少し大きいし、新しいため、あまり手に馴染んでない。ナックルに樹脂製のプレートが付いているのがあまり好きではないが、ライクランドの特売で安かったので買ってみた。反省はしている。後悔はしていない。
ヘルメットはアラヰのRR4。色は銀色である。伊勢の頭に合うようにインナーを換装してありジャストフィットである。
靴はエロフの黒い合成繊維のライディングブーツだ。歩きやすいから気にいっている。伊勢はフラットなソールが好きである。
背中には小さなバックをたすき掛けし、そこに水とカロリーメイトと帽子を突っ込んだ。
雨戸を閉め、戸締り確認、火の元確認、ブレーカーを冷蔵庫以外落とした。
準備完了!
家を出た。
ガレージから愛車を家の前まで押し出す。
跨った。耳栓をしてヘルメットをかぶり、空が眩しいのでサングラスをかけた。グラブをはめる。キーをONまで回してクラッチを握り、セルを回した。
――キュルルブロロロロ…
サイドスタンドを払った。
出発である。
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伊勢は東北道を北へ北へと進んでいた。
快調である。天気はいいし、道も空いている。
120キロほどの速度で巡航していた。経験上、伊勢にとってはこの位の速度が一番楽で、距離が稼げる。今日中に青森まで行って、そこで一泊して翌日にフェリーで北海道に渡るつもりだ。だが、仮に予定通りいかなくても、それはそれで良い。バイクの旅なんてそんなもんである。風任せ一人旅上等バッチコイ、なのであった。
今は福島、メーター横に張り付けてあるデジタル時計を見ると、11時の時刻。
伊勢はヘルメットの中で懐メロを大声で歌っていた。走行中の全力シンギングはバイク乗りの正義である。異論は認めない。
東北道では数少ないトンネルに入った。トンネルの中は空気抵抗が少し小さくなって走りやすい。自然と速度が少しだけ上がというものだ。
―ん?
―あれ?
おかしい。もう結構トンネルの中を走っているはずだ。長い。長すぎる。トンネルが長すぎる。他の車も一台も走っていない。
あせった。伊勢はアクセルをひねった。200キロまで加速した。
だが…そのまま10分走っても、トンネルから出られなかった。
「どうなってんだこりゃ…」
にっちもさっちも行かなくなって、混乱した。怖かった。当たり前である。冷や汗だらだらである。
とりあへず、緊急避難帯にバイクを止め、ヘルメットを脱ぎ、ミラーにかけた。
「なんなんだよ、これは…」
車道に出て、左右を確認した。出口は全く見えない。
状況がわからず、伊勢は恐怖しつつ考えた。これは夢か?どっかで事故って昏睡状態になって夢見てるのか?それとも俺の頭がただ単にいかれてんのか?
鳥肌を立てながら、右往左往した。
――キィ
金属がきしむ音がした。振り向くと避難用非常口の鉄製のドアがすこし開き、白い光がこぼれている。
伊勢は走り寄ってドアを開いた。
白いカウンター、白い椅子、白い壁紙。白一色の内装の部屋があった。白いカウンターの向こうに、白いスーツを着た、色白で黒髪をアップにまとめた、小柄だが美しい女がいた。美しかった。そしてその胸は豊満であった。
「こんにちは、はじめまして。伊勢修一郎さまですね?」
落ち着いた口調。そして美しい声であった。鈴を転がす、という陳腐な形容を投げ捨てたくなるほどの可憐な声である。
「はぁ…」
「どうぞ、こちらにおかけください」
伊勢は流されるまま、すいこまれるように部屋に入り、カウンターの席に着いた。
伊勢は眼をみはった。目が離せなかった。
形容のしようが無いほど、女は美しかった。とても美しかった。その真に驚くべき美しさは伊勢のリアクションにより証明されているが、この余白はそれを書くには狭すぎるのであった。まことに残念である。400年後に期待である。
伊勢はその美しさに驚愕しつつ、日本人スキルを総動員してファジイな愛想笑いを浮かべ、ギリギリのラインで己をごまかした。伊勢にとって、この女の美は凶器であるのであった。
伊勢が部屋に入ると同時に扉は勝手に閉まり、更に扉それ自体が消失して周囲の壁と同じになってしまったが、伊勢はそれに気付いていない。この場合はその方が幸せである。
「伊勢さま、今回はこのような形で突然お呼び立てする形になって申し訳ありません」
「はぁ…」
女は丁寧に頭を下げた。雅な所作であった。
「実は伊勢さまにとある提案を致したく思い、この場を設けさせていただきました」
「はぁ…」
「端的に申し上げます。伊勢さま、異世界に赴かれるおつもりはございませんか?」
「はぁ??!」
伊勢はさらに混乱した。無理もなかった。
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麗しい女が、訳の分からない爆弾発言をして数十秒、伊勢は自分の手をじっと見て気持ちを落ち着かせた。とりあへず、会話をしようと思った。
「異世界、ってなんの事ですか?何かの比喩ですか?」
「いえ、その言葉通りの意味です。この宇宙とは別の宇宙にある、しかしこの地球と酷似した世界です。テンプレートが同じなので」
女が何を言っているかは良くわからなかったが、スル―して次にいく。情報の無い今は深く考えない事にしよう。
「は、はぁ…そうですか。しかし、何のために私を異世界に行かせるんですか?なんで私なんですか?仮に私が異世界に行って、あなたに何のメリットが?…というか…そもそもあなたはどなたです?」
「一つずつお答えいたしますね。ああ、喉が渇いていらっしゃるのでは?よろしければこちらをどうぞ」
彼女はカウンターの陰から紅茶をとりだした。伊勢が見た事のないほど、精緻な意匠のティーセットであった。
ティーポットを繊細な手で持ち、紅茶を注ぐ。これまた見事な所作である。
「さて、まず私でございますが…私はこの世界の人間ではございません。無数にある異世界のひとつからこの世界に出張しに来ているとお考えください。今はこのように伊勢さまと同じ人間の姿を取っておりますが、本来の形態はこの宇宙における生命の概念では捉えられない形態の生命体でございます。
私の個体としての名前はございますが、音声では表現不可能ですので、この場では便宜上、私の事は陽子とお呼びください。」
陽子さんは美しいが完全にいってしまっている電波系残念女だ、と瞬間的に伊勢は思った。まことに残念であった。しかし、電波系女だと仮定すると、無限トンネルやこの部屋の存在を説明できない。やはり、すべて自分の脳内の夢ではないかと考えたが、とりあへず、もう少し話を聞く事にした。
「はあ、それで、どうしてなんですか?陽子さん」
「次に、私が伊勢さまを選んだ理由ですが、理由は三つです。
一つ、現世界とのしがらみが薄く、異世界への転移を承知していただける可能性が高い事。
二つ、異世界へ赴いた場合、現世界へ与える影響が小さい事。
三つ、異世界に赴いて、何らかの大きな影響を残せる潜在的能力がある事。
つまり、承諾してくれる可能性が高く、この世界よりもあちらの世界の方で力をふるってご活躍いただける可能性が高い、というのが選定の理由です。選定の基準は私の観察力と情報収集能力と経験とノウハウ、後は勘ですね」
うん、まあいいとしよう。納得できる気もしないでもない、と伊勢は思った。
「最後に私が、いえ、我々が伊勢さまに異世界に赴いていただきたい理由ですが、我々が生きる為の食料のようなものを得るためです」
「え?食料?」
「はい。所定のA世界からB世界へと人間を転移させ、その人間が現世界より異世界で大きな影響を残した場合、その差分が食料となって届くのです。差が大きければ大きいほど我々に利益が出ます。もちろん、伊勢さまが考えておられる『食糧』とは概念がすこし違いますが」
陽子は自分のティーカップから美しい所作で紅茶を飲んだ。小首をかしげつつ息を吸って居住まいを正す。その胸は豊満である。伊勢としてはファジィな笑顔で誤魔化すしかない。自分の日本人力に期待するしか無いのであった。
「なぜそうなのか、我々の間でも研究は長いあいだされていますが、理由は確定していません。『中国語の部屋』みたいなものです。より上位世界があるのではないかとの仮説が有力ですが、その証明は不可能なこと自体が証明されています」
「ああ、つまりより我々もあなたの世界もより上位世界システムの一部、パーツにすぎないって事ですか?」
わかったようなわからないような説明だが、伊勢はわかったふりをしてみた。陽子には見透かされているかもしれないが。
陽子は「さすがに理解が早くて助かります」と言ってにっこり笑った。花のようである。伊勢は、あーやっぱ見透かされていると感じた。少し顔が赤くなった。自分より賢い相手に対しての背伸びは禁物である。
「私が異世界行きを断ったらどうします?」
「その場合はトンネルに入った所からの記憶を消して、そのままお帰りいただく形になります。時間的にすこし整合がとれませんが、『疲れてるからだ』と言う形で自己完結なさるかと。
正直申し上げますと、我々の種族で仕事の下手なものの中には、無理やり攫って大量に放り込む形をとる者もおりますが…そう言った場合は殆ど成果を残せませんし、マイナスになる場合もあります。
その点、これでも私は自分の手腕にいささかの自負を持っております」
ふむ、どうやら陽子さんは一種の腕の良い「技術者」みたいなものらしい。
「向こうの世界に行って、帰ってこれますか?」
「可能か不可能かで言えば、可能です。この世界と違って先方の世界の詳細を観察するのは不可能ですが、伊勢さまにはタグを付けてトレースできますから。ただし戻る場合は逆送になるのでよりエネルギーが必要です。要は、向こうの世界で極めて大きなインパクトが要ります」
「向こうに行くに当たって、何か能力はもらえますか?何か物品は持ちこめますか?」
「はい可能です。創造的な知的能力の付与は不可能ですが、より受動的な―そうですね言語や身体操作であれば、そういう『仕様』にする事が出来ますから。実を言うと私のおすすめパックがあります。
我々の共有データベースから現地の全言語能力を付与、完全病気耐性、伊勢さまの遺伝子上の最適条件である肉体、地球の超一流の身体操作・戦闘技能の付与、と言ったところです。私もあなたが死んでしまっては困りますし、沢山の影響を与えて欲しいですから、私の技術でできる事は全てやります」
完全にチートである。
「物品は…伊勢さんが構造をすぐに思い浮かべられる簡単なものなら、今作ってもいいですし、今お持ちのものなら『仕様』を付加して持ち込めますが…どうなさいますか?」
完全にチートである。
「マジですか!!ぜひ!じゃ、じゃあ外に止めてあるバイクそのまま持ち込めますか?『仕様』って言うとどういう感じで?変形したりとか壊れても勝手に治ったりとか消耗品なしで走れたりとか喋ったりとかできるようにできたりしちゃいますか?!」
「え、ええ。対象の異世界では初めてですが、伊勢さん合わせて400kg以下なら送れますし、意志を物品に付与したり化合物でもいいから原料さえあれば消耗品をそういう『仕様』も付与した経験があります」
完全にチートである。
「陽子さん。あなたは神だ」
さて、実は伊勢はここまで聞いても、99.9%はこれが自分の脳内の妄想だと思い込んでいるのである。自分がどこかで知らぬ間に事故を起こしており、体は集中治療室化なんかに入っていて、頭の中だけお花畑、という具合であろうか。陽子さんという超異世界レベルの美人を脳内で作れた事が、なにより最大の驚きである。
それはそれとして、夢なら夢で構わない、徹底的に最後まで夢に付き合ってやろう、と思っていた。夢なんだから。
そして仮にこれが現実であっても、それはそれで構わないと思っていた。
『どこに行っても大丈夫。伊勢さんは伊勢さんす』『ああ、どこに行っても伊勢なら大丈夫だ。思い切ってやれ。』
昨日聞いた、木村と斎藤のフレーズが何度も脳裏をよぎるのである。
まさかこんな事になるとは思っていなかったが、それでもできるだけやろうと思った。
『なんで謝るのよバカ!!なんでいつもそうなの?!』『嫌いだよ!女みたい!嫌いよ!!』『関係無いでしょう』
亜由美の言葉も浮かんでくる。いや、亜由美のことはいつも考えている。考えても無駄だから、痛いから、忘れたふりをしているだけだ。
「異世界、行きます」
伊勢修一郎は陽子の眼を見て、はっきりと答えたのだった。
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「伊勢さま、では転移に当たって条件項目を確認いたしましょう」
改めて陽子はそう言った。
・肉体改造
・病気耐性
・言語付与
・身体操作・戦闘技術付与
・バイクとその装備一式持ち込み
・バイクとその装備一式に現状を基準として変質・変形・合成能力を付与し、バイク本体に付与した意志の元に統合
・伊勢の着用品全てに自動修復を付与
・いつか戻れるようにトレースを依頼。帰還の是非はその後に判断。帰還可能であれば携帯メールする。
陽子曰く、モノが壊れないような不壊の『仕様』はできないそうである。形あるものは全て壊れる。諸行無常である。
その代り、壊れたものがパーツや原料さえあれば自動修復する『仕様』にはできるそうである。諸行無常とは何だったのか。まあ、伊勢としては助かるから良いのであるが。
携帯でメールはできるんだ…と、伊勢はあきれた。まっこと謎技術である。
おまけとして、武器を貰った。
銃が欲しかったが、そんなもの今持ってるわけもなく構造も複雑すぎて伊勢には想像できない。想像できなければ作れない。よって、もらったのは大刀と脇差、銃剣のような堅牢なダガーナイフと小さなトマホークである。黒皮(のような何か)で剣帯も作った。
我ながら欲張った、と伊勢は思う。ああでもないこうでもないと悩む伊勢に、陽子は少しあきれたようである。後悔はしていない。
大刀は刃渡り2尺8寸で柄は木製、鞘は漆塗り、全長4尺弱の大業物である。伊勢の体には長すぎると自分でも思うのであるが、短い刀で戦うのは怖すぎる、ということで長くしてみたのである。後悔はしていない。
脇差は刃渡り一尺二寸。反りの小さい堅牢な出来だ。
「さて、ではそろそろ…」
「はい、陽子さん。お願いします」
部屋の中には既に全てを積んだR750が納められている。伊勢はひらり跨った。
「では行ってきます。いつかまた」
「はい、いつかまた。では行きます。はい!」
軽い掛け声と共に、伊勢の意識は消失したのだった。
そして…
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