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月曜日と火曜日

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月曜日

 

 電車でいつも通り出勤し、朝礼の後、伊勢はいつもの業務を始めた。

 メールを処理し、返信をしていく。これだけでも結構な時間がかかるものである。

 早速、金曜日の出張に際して、電話とメールで先方の○×工機に打ち合わせのアポを取った。すでに伊勢の意識の3割は週末からのツーリングに割かれている。4日後には北へ向かっているのである。浮かれポンチである。

 

「伊勢君、ちょっと第3会議室までいいかな?」


 ピピピピピピ…社員全員に配られている社内PHSで部長から呼び出しがあった。


「あ、はい。ちょっと待ってください。今行きます」


 伊勢は作業中のCADを閉じ、PCの画面をスクリーンセーバーにして会議室に向かった。

 

 コンコン「失礼します…」


 伊勢が会議室に入ると、そこには所属する第3開発部の部長と、直属の上司である斎藤課長、総務部長が居た。開発部長と斎藤課長は苦虫をかみつぶしたような顔を、総務部長は落ち着きつつ神妙な顔をしている。悪い予感がした。

 でっぷり太った体に似合わないシャープなふちなしメガネの総務部長が切りだした。この人物を見るたびに、体型とおしゃれメガネがあっていない、と伊勢はいつも思うのであった。


「伊勢さん…最近のウチの業績の低迷はお分かりかと思います。断腸の思いですが早急な人員のカットが必要です。社内全体で3割の人員カットをする事になります。開発部でも人員整理をせざるをえません。伊勢さんには…まことに突然で、すいませんが、会社都合での整理解雇という事で…」


「え?なんですかそれ?本当ですか?え?クビですか??」


「本当にすいません。こんなことはしたくはないんですが…仕方が無いんです」


「あー…そうですかハハ…突然ですね。もう決定なんですか?本決まりですか?」


「はい。決定事項です。突然で、伊勢さんには迷惑をかける事になってしまい申し訳ありません。コンプライアンス的には問題ないのですが」


 開発部長と斎藤課長がそろって深く頭を下げた。


「伊勢君…すまん…どうにもできなかったんだ」

「伊勢、すまん、俺も今さっき聞いたんだ」


「あー、顔、あげてください。良いですよ。部長と斎藤課長のせいじゃないですから。斎藤課長だって、実際は今さっき聞いたんでしょう?わかりますよ。二人が尽力してくれたのは聞かなくてもわかりますから。

ああ、開発3部で人身御供だすなら、まあ冷静に考えて俺ですね。俺が部長の立場だとして、切らなきゃいけないならやっぱり他の同僚より俺を切ります。今の担当案件もほぼクローズして斎藤さんの方で、なんとかフォローできますし。後はアシスタントを切るくらいしか無いですからね。トレーサーの女子社員も何人か切るか外注に切り替えたり?ああ、やっぱそうですか。可哀想に。

…はあ、コンプラ的には問題ないですか。はは。…あー、コンプラ云々の問題じゃねぇだろははははは」


 思わず笑ってしまった。

 この期に及んで、解雇される側の者に対してコンプライアンスなどを盾にとって話す人間に、もはや笑うしかないのである。

 一気に話して、笑ったら少し、頭と心が冷えて落ちついた。人間の体なんてそんなものなのである。凄いね、人体。


「伊勢さん、まことに申し訳ありません」


 総務部長は頭を下げて丁寧な口調で謝っているが、実のところ全く気持ちがこもっていないのが、伊勢には良くわかった。ゾンビみたいなものである。何を言っても無駄。会話の次元が違うのだ。同じ日本語をしゃべっていても、本当の意味で言葉は通じない人種だ。良く居るタイプと言えば、よくいるタイプかもしれない。


「部長と斎藤さんはもういいですよ。私の事は心配いりません。別にこの会社じゃなくても食っていけますから。仕事に戻ってください。総務部長、離職に際して後の説明はあなたから聞けば?」


「伊勢さんがよろしければ、これから担当の者をよんで説明いたします。伊勢さんの場合、有給がたくさん残っていますから、引き継ぎが終わればいつ退社なさってもよろしいかと」


 総務部長はそう言って首からストラップで下げているPHSを取りあげ、いじり出した。


「そうですか、ああ斎藤さん良かったら明日引き継ぎをしたいんですが時間大丈夫ですか?明日中で終わると思いますから」


「わかった…」


 開発部長と斎藤課長は伊勢にもう一度頭を下げ、「すまん」といって会議室を出て行った。


 世の中、一寸先は闇。人生をひん曲げる地雷だらけである。


 亜由美になんて言おう…伊勢にそんな事をぼんやりと考えていた。


^^^

 午後から伊勢は社内各署に話を通し、付き合いのあった下請けや客先にメールと電話で連絡を入れ、「以後の窓口は弊社斎藤の方にお願いします」、と伝えた。

 すぐに2件ほどの近隣の下請けの営業が、最後のあいさつとして直接会いに来た。

 そんな義理なんてのは、どうでもいいと感じる人にはどうでもいいのかもしれないが、伊勢にとっては少しだけ、嬉しかった。

 皆、悲しい顔で「残念です」と言う。こういう時の日本人的決まり文句みたいなものである。

 半ば社交辞令なのは伊勢にも十分わかっているのだが、それでもそう言ってもらえると少し救われた気持ちになるのであった。

 甘い男である。


 最寄駅から自宅への帰路を歩む伊勢の足取りは重い。

 右足を出したら次は左足、左足を出したら次は右足、右足を出したら…、と一昔前の国会の牛歩戦術のような足取りである。

 それでも3次元を生きる生物である以上、前に進んでさえいればいずれ家に着いてしまうのである。悲しい自然の摂理である。

 神のバカ野郎め、と伊勢は天を仰いで、いつもよりずっと重たい自宅ドアを開けるのであった。


 妻の亜由美は先に帰っていた。当たり前である。今は9時過ぎ。亜由美は大体毎日7時過ぎには帰宅している。 

 部屋着に着替え、ソファに寝っ転がってアイスを食べながらバラエティ番組を見ていた。


「ただいま…」


「ああ、おかえり。もう先にご飯食べちゃったよ。ん?元気ないね?どうかした?」


 いきなりの看破であった。女は鋭い。伊勢の退路は一瞬で断たれた。もはやこれまで、である。


「あー、うん…。すまん。ホントにごめん。えーっと…会社、クビになった。ごめんなさい」


「え?えええっ?いきなりなんで?!」


「ああ、ウチ、業績悪くて…人員整理で整理解雇。ごめんな、マジでごめん。ごめんな本当に…ごめん…」


「なんで謝るのよ!!!」


 いきなりの激怒。亜由美の怒声に伊勢はまた少し、小さくなった。 


「いや、だって…でも…俺には…ごめん」


「なんで謝るのよバカ!!なんでいつもそうなの?!」


 仕方が無いのだ。謝る以外には何もできない。伊勢はここから動けないのだ。


「でもだって…ごめん…ごめん」


「そんなんじゃ無かったでしょ!!なんでそんなになっちゃったのさ!なんでよ!情けない!!」


 亜由美はそう言って拳で伊勢の肩を打った。腕がしびれた。

 彼女はしばしばポカポカと伊勢の体を殴る事があるが、体の肉の薄い伊勢には結構つらいものがある。殴られると、たとえ遊び半分であっても、悪意というのは伝わってくるのだ。

 今の一撃は過去最高に痛かった。

 そのまま数分、沈黙した。


「…そんなに…俺が嫌いか?」


「あなた…だれ?…嫌いよ…」


 刺さった。

 体がずしっと重くなった。

 嫌い、という言葉は、自分で思っていたよりずっときつかった。

 味方であったはずなのだ。

 伊勢は亜由美の、亜由美は伊勢の味方であったはずなのだ。

 嫌い。

 だれ?

 俺は伊勢修一郎だ。たぶんそうだ。

 亜由美の知っている伊勢も、今の伊勢も伊勢の一部だ。そのはずなんだ。

 嫌い。

 何も、頭が働かなくなった。

 口から出せないのではなく、いつもと違って、言葉が一言も頭に浮かんでこなくなった。

 謝る選択肢さえも拒絶されたら、どうすればいいというのだろうか。

 ここにいる事さえ許されないならどうすればいいのだ。伊勢には分からなかった。


 結局、逃げた。

 

 どうにか無表情を装って、体を自室に運んで、服を脱いで、ハンガーにかけて、浅くベッドに座った。

 気配をじっと殺した。

 心もだ。

 そのまま、何分か、何十分か、じっとしていた。


 ゴロゴロゴロ、ガタガタ、バタン……ガシャン……………………ゴロゴロゴロ

 キャスターバッグを引きずる音と、玄関ドアの閉まる音がした。

 伊勢には、追いかける勇気もなかった。

 否定されるのは怖いのだ。慣れる事はできない。

 だからそのまま座っていた。


 しばらくして、煙草を手に取った。

 窓を開ける。

 ふと窓からガレージを見ると、R75○が倒れていた。

 伊勢のバイクだ。


 ガレージに出て、バイクを起こして、伊勢は少しだけ泣いた。



-----

 火曜日


 その夜は軽い安定剤を飲んで寝た。

 朝はいつもと同じ時間に起き、水だけを飲んで朝食を採らずに、いつもより早く家を出た。電車はいつもより空いていた。

 会社に着いた。いつもの水色の作業服を着た。何千回も袖を通したおなじみのデザインだ。席に着いた。フロアにはまだ誰も出勤していなかった。初めて一番早く来たな、と思った。

 午前中いっぱいかけて、引き継ぎの資料をまとめた。意外と多かった。昼食には食堂でいつもの不味い仕出し弁当を食い、その後は喫煙所でタバコを吸った。喫煙所のタバコ仲間に別れの挨拶をした。彼らの、「タバコ仲間がまた減っちまうな」、なんてジョークにハハハハ、と笑った。

 午後から斎藤に抱えている案件の説明をした。元々、情報は共有しているから説明は楽だ。担当者だけがフォローしている細部や留意点を詰めて話した。3時過ぎには終わった。

 退職に関する種々の書類を書いて総務に提出し、作業服を返却した。机を片付けた。すぐに終わった。

 定時で退社し、斎藤と木村と共に、駅近くの居酒屋に入った。

 

 お通しと揚げだし豆腐でビールを飲んだ。

 3人とも、あまりしゃべらなかった。いつも明るい木村でさえもだ。これでこの三人の関係が終わってしまうわけではないけれど、自ずと環境が変わってしまう。同僚の友人から元同僚の友人に変わってしまうのは、よくわからないが少しさみしい気がした。


「伊勢」

 斎藤が真面目な口調で呼びかけた。


「真面目な話、お前は技術者としてはまあソコソコ程度のもんだ。自分でもわかってるだろう」


「ええ、わかってます」

 

 伊勢は苦笑しながら頷いた。


「ソコソコのもんだから、どの会社に行ってもソコソコ使える。俺が保証する。俺がお前くらいの年の頃と同じようなもんだ。だから心配すんな。そのまま次のところで地力をあげていけばいい。少なくとも俺は部下としてのお前をソコソコには評価してる。また仕事を一緒にしたいと思うくらいには、な」

 

 ジョッキのビールを煽って続けた。


「お前の長所は無理をしない事だ。有言実行。お前が自分からやれると言った事は必ずやる。絶対にやれる、と思わない事は、最初からやれると言わない。お前の仕事は確実だ。そして必ず約束を守る。100%だ。お前の長所は、一言で言えばそれしか無い」


 だが…、と言い、斎藤はもう一度ビールを煽った。


「だが、それはお前の欠点でもある。お前はもっとできるはずだ。能力を十全に生かし切れていない。もっと攻めていい。…伊勢、お前は臆病すぎる。チャレンジしろ。そうすれば、もっと大きくなれるはずだ。仕事以外でもな……」


 「今いい機会だから俺に言える事はそんくらいだ、後は好きにしろ」そう言って、斎藤は言葉を区切った。

 

 よく見てくれている、伊勢はそう思った。



「伊勢さん、俺ね」

 

 木村がデカイ体を小さくしながらつぶやくように言った。


「伊勢さんのおかげで、会社や業者のいろんな人と繋がれたんすよ。ウチの部の人間は偏屈な奴が多いっすからね。ちょっと色んなトコと良く揉めるじゃないすか。俺が今まで曲がりなりにもやってられんのは、伊勢さんが違う部署なのに相談乗ってくれたり繋ぎ役やってくれたりしたからっすよ」

 

 「だからね」そういいながらにやりと斎藤は笑った。


「だから次のトコでも俺みたいなアホを助けてやってください。それが伊勢先輩の似合いの姿っすよ。どこに行っても大丈夫。伊勢さんは伊勢さんす」


「ああ、どこに行っても伊勢なら大丈夫だ。思い切ってやれ。」


 二人の言葉に、伊勢は少しほっこりした。


「おう、まかせとけ」


 そう言って笑って、ジョッキのビールを飲み干した。



^^^


 平日の夜だ。二時間ほどで居酒屋を出て、家に帰った。

 家の電気は付いていた。


「ただいま」


 そういいながら伊勢がリビングに入ると、亜由美が外出着のままソファーに座っていた。


「これ、書いて」


 一枚の紙を、サイドテーブルの上に置いた。

 離婚届だった。亜由美の分はもう書かれていた。


 伊勢は無言で、記入し、ハンコをついた。

 亜由美は文面を確認して封筒に入れてバッグに収めると、ソファーから立ちあがり、玄関に向かった。


「亜由美、お前、これからどうすんだ?実家に帰るのか?」


 伊勢は聞いた。無駄な問いだった。自分でもわかっていた。


「あなたには関係ないでしょう」


 靴を履きながらそう言って、亜由美は出ていった。


 伊勢はリビングに戻り、ソファーに身を沈めた。

 家の鍵が置いてあった。

 

 名前を呼ばれなくなったのはいつからだろう、そんなことをふと考えた。


 わからなかった。



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