土曜日と日曜日
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土曜日
次の日の土曜日。伊勢の朝は早い。休日でも7時には目が覚めてしまう。癖というものは恐ろしいものだ。
昨日の11時半ごろに帰宅したが、妻は寝ているようだったので、静かに風呂に入り、静かに茶漬けを食って、シンクに重なっている妻の亜由美が食べた夕食の食器を静かに洗って、明日の朝食の準備をして、2時過ぎに静かに寝た。寝室は別なので問題はない。問題はない。ないのだ。
毎朝、朝飯をつくるのは伊勢の役割だ。ちなみに昼飯と夕飯を作るのも伊勢の役割である。
「家事・料理が出来る男が良い」と良く巷では言うが、それは嘘だと伊勢は思うのである。正確には、「妻よりも下手な程度に家事が出来る男が良い」のだろう。過ぎたるはなんとやら、だ。
妻の料理の腕前がよければ何の問題もないが、そうでない場合は悲劇である。男の方が料理が上手いというのは、女にしてみれば忸怩たるものがあるらしい。
伊勢の妻、亜由美の料理は、残念ながら、美味しくはなかった。
料理というものは実験と同じだ、と伊勢は思っていた。決まったセオリー通りにやれば、間違いない結果が出せるのだ。セオリーを踏襲できる事が実験の技術の要諦である。材料系の学部を卒業している伊勢は、当然ながら化学実験は腐るほどやっており、料理も同じように扱っていた。ただ単にやるべき事だけをやればいいのだ。そこに創意工夫などはいらぬ。愛情で飯は上手くならぬ。技術を磨く努力の源泉こそが愛情である。
共働きのため、別段、女が料理を作らなければいけない、という感覚は伊勢には無い。余裕がある方、時間がある方、より上手な方が作ればいいと思っていたし、彼女にもそう言っていた。
しかしまあ、亜由美の方が仕事的に時間に余裕があったし、彼女自身「女として料理しなきゃ」という思いがあったため、付き合っていたころや結婚当初は彼女がメインで料理をし、伊勢はそれをちょこちょこ手伝っていた。
「不味い」と言った事は一度もない。「美味しいけど、こうじゃなくて、ああすればもっと良くなるよ」というアドバイスは偶にした。それがよくなかったのだろうか?ある時、亜由美が「それなら自分で作れば良いじゃんか!せっかく気持ちを込めて美味しく作ってるのに」とへそを曲げたのである。おかしな話だ。美味しく作っているなら文句のつけようがないではないか。
伊勢は自分で作った。料理は愛情?気持ちを込めて?バカを言うな。料理は技術である。技術を磨く気持ちを持て。若干、頭に来ていた為に全力で作った。手加減は一切なしだ。普通に普通に、手際良く。それだけを注意した。
今でもメニューを覚えている。ブルスケッタ、ベーコンとキャベツとアンチョビのペペロンチーノ、カプレーゼとイタリアンサラダ、カレイとアサリのアクアパッツァ、白ワイン、であった。
遥かに美味かった。実に満足した。久しぶりに、自分の舌に合う料理を食べた。
妻は無言で伊勢の作ったメニューを食べ、そして二度と料理をしなくなった。
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さて、土曜日の午前である。
伊勢は朝食を食べ、スーツとワイシャツをすぐそこのクリーニング店に出した。歩いて2分。実に便利だ。
風呂とトイレを掃除し、洗濯をして、ベランダに干した。家の中の掃除もするが、水回りの掃除はしない。妻の機嫌が悪くなるからである。
正午を過ぎて、妻が起きてきた。
「おはよう、亜由美。ご飯出来てるよ」「…おはようさん」
亜由美は31歳。年の割にかわいらしい見た目の女だ。150センチの小さな身長でクルクルした子犬のような印象である。彼女はけだるそうにテーブルに付き、「いただきます」とつぶやいて食べ始めた。あまり腹はすいていないが、伊勢も同じく食べ始める。今日のブランチメニューはフレンチトーストとスクランブルドエッグとシーザーサラダ。それにオレンジジュースとコーヒーである。伊勢は和食派であるが、パン派の亜由美に合わせているのだった。
4つ切りの耳を落とした食パンに、たっぷりと芯までバニラエッセンスで香りづけした卵液をしみこませ、低温でじっくりと焼き、メープルシロップを回しかけたフレンチトーストはふっくらとしていて、ボリューム満点で実に美味い。卵液をしみこませるには物凄い時間がかかるのである。このフレンチトーストを作るために伊勢は酒を飲んで帰って来た後でも頑張って下ごしらえをしていたのだ。このフレンチトーストは伊勢の努力の結晶なのである。きっとダスティン・ホフマンも褒めてくれるであろう。
「来週の金曜日から再来週いっぱいにかけて、北海道にツーリングに行ってくるよ。少しは有給を使えって言われてさ、良い機会だから北海道にロングツーリングに行ってくる」
「そこの胡椒とって?ああ、いいじゃん。こっちの事は気にせずに羽伸ばしてきなよ。午後から美容院行くから車で送り迎えしてくれる?」
「あいよ、わかった。いつものところだね?」
「そう。帰りに映画見て、夕ご飯は外で食べようよ」
「いいよ。うーん何が食べた「自分で決めて」い?うんわかった。適当に考えておくよ」
昔の二人はこうじゃ無かったのだ。今とは確かに違った。
いつの頃からか、伊勢が夜、出来なくなったからこうなったのだろうか。
それも違うだろう。
伊勢が亜由美に惹かれたのは、彼女の寛容さだったはずなのに。
亜由美は伊勢に、何かやるせない怒りを感じている。それはわかる。
しかし、もう伊勢には、どうすればいいのか、よくわからなかった。
何をしても否定なのだ。
どの方向を向いても道が無い。
今の場所を動かず限界まで死守する以外にできないのだ。
言葉は沢山頭に浮かんでくるが、壊れてしまうのが怖くて、どうしても何も言えないのだ。
だから、いつものように、気付いていないふりをするのだ。
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日曜日
日曜日であった。
妻の亜由美は朝から友達に会うと言って出かけて行った。
伊勢はこれ幸いとバイクのメンテを始めた。今日は整備日和である。
伊勢のバイクはススキのSSGSX-R75○K4だ。9年前のバイクだから型は古いが、それでも速いバイクである。とても速いのである。
とは言っても、彼の腕は大した事が無いので、バイクの性能を十分に引き出しているとは全然言えない。しかし、それでもいいのである。バイクにかける愛情に関しては、伊勢は自信を持っていた。自己満足?それがどうした?ってな具合である。当然ながら妻の理解は得られていない。
伊勢の趣味は、すべてこのバイクに集約されている。サスはオーランス、マフラーはアコラポプッチのチタンカーボンのフルエキ、ホイールはマロケシーニのマグネシウムに換えて紅いパウダーコートを施し、フェンダーはCFRPだし、ナンバーステーは自作、低容量ならACインバータで家庭用電源も取れるし、ポータブルカーナビも付けてある。その他細かいところも自分で部品を作ったり削ったりして改造しているのである。
大したことではないが、自分の古いSSが世界で唯一の伊勢のバイクである事に、伊勢は小さな小さな誇りを抱いているのだった。
「う~む、俺の相棒はいつ見てもカッコいい…」
伊勢は自分のバイクが世界一かっこいいと思っている。何の根拠もなく思い込んでいる。いや、根拠はある。小遣いの7割を突っ込んでいるのだ。世界一かっこ良くないわけが無いのである。そうであって当然なのである。
バカである。
しかし、バイク乗りなんて多かれ少なかれ、みんなそんなもんだと言われれば否定できないのも、これまた事実であった。
さて、メンテである。
「フンフフンフーン♪」
鼻歌交じりで整備を始めた。中途半端に上手い、なんとも嫌味な鼻歌であった。
実はメンテと言っても、実は大してやるべきことはないのだ。レーシングスタンドで車体をジャッキアップして、エンジンをかけて軽く暖気した後にエンジンオイル暖め、ドレンからこれを抜いて新しい交換した。後はチェーンのテンションを少し張って、チェーンクリーナーを吹いて掃除をし、乾かした後に一つ一つのリンクにチェーンルブを吹いていく。後は各所の掃除とグリスアップ、タイヤの空気圧の確認をするくらいだ。閉口しながら慣れた作業をしていくだけなので30分で終わってしまった。
なので次は持っていく装備の確認を始めた。
まずはパニアケースである。これは一言で言えばトランクだ。リアシートの後方に張り出すように合成樹脂製の硬いトランクケースが置かれる形である。これを取り付ける為のステーも伊勢が図面を書いて知り合いの金属加工業者に個人的に作ってもらったものだ。
次にリアシートの左右に振り分ける形の合成皮革製のサイドバック。容量はわからないがかなりデカい。
さらにタンクに小ぶりのマグネット式のタンクバッグを装着する。ここにちょっとした小物とか、小銭とか、高速の通行券とか、旺○社のツーリングマップル等を入れるのだ。バイクにポータブルナビは付けているが、やはり紙媒体の地図が一番良い、と伊勢は思っていた。手軽に書き込めるし、計画を練るには紙媒体が一番だ。
次に思いつくままに荷物を詰めていく。伊勢は整理が下手なので。キレイに詰めるのは最初からあきらめている。振り分け式のサイドバッグの左右の重量が最終的に同じならいいのだ。入ればいいのだ。
各種車載工具。チェーングリス。パンク修理キット。キャンプ用テント一式。LEDライト。LEDランタン。十徳ナイフ。防水マッチ。ファブリーズ。電池。携帯用充電器。蚊取り線香。洗濯ハサミ。パラシュートコード30m。タコ足用タップ。換えパンツ×2。靴下×2。換えロンT×1。換えTシャツ×2。フリース。タオル。ティッシュ。カミソリ。寝袋。マット。レインコート。料理用の携帯型石油コンロとその燃料。アルミの子鍋。飯ごう。箸とスプーン。ステンのマグカップ。ガムテープ。エマージェンシーブランケット。大きめのジップロック10枚。石鹸。シャンプーとリンス。洗濯用洗剤。歯磨き。消毒液と応急処理セット。ミネラルウォーター500ml2本。タバコ3箱。デジカメ。米4合。インスタントラーメン×3。晩酌用のラムの小瓶。アルミホイル。醤油。塩。ポケットレモン。海苔。胡椒。サバ缶×3。サプリメント。カ□リーメイト×2.インスタントコーヒー。スティックシュガー。味噌チューブ。だしのもと。昆布。乾燥ワカメ。一味唐辛子。革貼りのメモ帳。あとは小型のスケッチブックと絵具とパレット。
気分が乗れば現地でスケッチなどしようかと思ってもいるのだ。伊勢は中途半端に絵も上手いのである。嫌味な男である。
パニアケースとサイドバッグとタンクバッグとリアシートにかけたネットにこれだけ詰めて、もうかなりパンパンである。あとは出張用の打ち合わせファイルは当日に準備する事として、筆記用具とネットブックPCとスーツとYシャツとネクタイと靴をパニアケースに放り込んだ。これらは用が済めば宅配便で家に送り。帰りはそのスペースにお土産を詰めて帰ってくるつもりだ。
「よっしゃー!こんなもんか!」
楽しい事の準備はしているだけで楽しい。
辛抱たまらずニヤニヤしてしまう伊勢であった。