32日目
32日目
「至高なる神」のファハーン中央礼拝堂は、壮麗で雄大で尊大で感動的で、やはり至高であった。伊勢の感想を一言で言うと、『すごい』。
この街の中心部には議会議事堂や図書館や集会場や迎賓館や劇場や各種の役所、凱旋門や尖塔などが並んでおり、どれも美しく圧迫されるほど大きいものだが、その中でも中央礼拝堂は群を抜いて『すごい』のである。中に入るのがこれほどためらわされる施設は無い。
林立する複雑な柱と壁と彫刻で構成された、一辺50mを超える正方形の建物の上に、直径三十mくらいありそうなターコイズブルーの飾りタイルで彩られた美しいドームが乗っている。建物の高さも40mを超えていそうだ。
周囲を六方から囲むように尖塔が立っている。細いが、高さは70m近くありそうだ。礼拝の時間にはこの上の鐘が鳴らされ、住民たちにその時間を告げるのである。
中に入ると、これまた、すごい。
白い漆喰に描かれたフレスコと色タイルの幾何学模様で全体が彩られ、そこはまさに『異世界』である。ドーム天井にも経典の文章が複雑な筆致の文字で描かれている。各所の複雑なステンドグラスから色の着いた光が射す。砂漠の強烈な光はここには届かない。静寂の中、柔らかに柱の影が、壁に、床に投げかけられるだけだ。
これを見てしまうと、「現代の日本の知識」など大したものではないようにも思えてくる。人間の力は、すごい。
アミルが伊勢とアールを無言でいざなう。
付き人の男性奴隷が持っていた絨毯を敷き、アミルはその上に結跏趺坐して礼拝を始めた。伊勢とアール、付き人もそれに従う。周囲にも何人もの人が、思い思いの場所で同じように礼拝をしている。
「…さあ、行こう」
数分で礼拝を終わり、静かに立ち上がって礼拝堂を後にし、併設されている僧院に入った。受付の僧侶にアミルが何事かを言うと、そのまま奥に通された。もう話は付いているのだ。
中庭に小さく別棟が建っている。ここが魔法を使えるようにする、儀式の場であるらしい。
東西南北に分かれた小部屋で構成され、それぞれが同じ儀式に用いられる小部屋のようだ。壁には手のひらほどの文字で、経典がびっしりと描かれている。静かだ。
敷かれた絨毯に座り、巫女を待つ。
数分してすぐに巫女が現れた。
金の髪飾りと腕輪をはめ、艶やかな赤い服を着た、8歳くらいの少女であった。老女の付き人を二人連れている。
「儀式を受ける方はこちらへ…」
付き人の老女に促され、伊勢とアールが前に進み出て立った。
一人の老女が捧げ持つ青い陶器の更に満たされた水と指先にとり、巫女が伊勢とアールの額に指を付けてかわいらしい声で呟いた。古語である。
『解放』
それだけだった。
巫女はアールをじっと見て小首を傾げ、何も言わずに出ていった。
「イセ殿、アール殿、おめでとう。これで魔法が使えるはずだが」
アミルの言葉にも、伊勢は戸惑うしかない。何も変わった気がしないのだ。額に水を付けられ、つぶやかれただけである。
「いやぁ…正直言って何も変わった気がしないんですが…古語で解放と言われただけですし…お前はどうだ?アール」
「ボクも同じです」
「まあ、私もそうだったからね。そんなものだよ。後で試してみるといいさ」
これで4000ディルも取られるとはなんとも釈然としないものだが、とりあへずは納得しておこう。そんなもの、なのであろう。
「じゃあ、私は店に戻るよ、では」
そう言ってアミルは帰っていった。
「じゃあアール。まだ朝のうちだ。俺は良い機会だから図書館に行くが、お前はどうする?」
「ボクは家に帰って鎧を作りますヨ。もう終わるから。」
ふむ、久々の別行動か。何やら懐かしいやらさみしいやら、といった感じがする伊勢である。
「そか、じゃあ気をつけてな」
「はい相棒」
そういう事になった。
^^^^^^
図書館は、この国では『知恵の館』と呼ばれている。ある程度の規模の街にはそれぞれの知恵の館があるらしい。
話を聞く限り、ファハーンの知恵の館はかなり大きなもののようだ。市民であれば50ディルの使用料で自由に使用できるとアミルに聞いた。値段は高く感じるが、この世界の書物はとても高価だし、知識と言うものには金がかかるものなのである。
図書館のサイズは、地方市の中央図書館と言ったレベルだ。先程までいた中央礼拝堂のような際立った大きさは無いが、白い石造りの壁や、規則的に並ぶ柱や採光の為のガラスには、高度な洗練が見て取れる。
「こんにちは。利用させてもらえますか?初めてなんですが…」
中に入り、受付カウンターにいた女性に声をかける。人はほとんどいないようだ。
「はい、こんにちは。利用料は50ディルです。市民証を拝見できますか?…はいイセさま、結構です。御説明が必要ですよね?」
「はい、お願いします」
「はい。ファハーン知恵の館は約8万冊の蔵書・巻物を収集しています。公開しているのは約2万冊です。ご要望の本があれば司書と共にお探し下さい。1つの資料あたり5ディルでお貸ししますので、貸出票に記入してから閲覧所でご覧下さい」
なんということか。資料を読むだけで金がかかるのだ。盗難を警戒しているのか、自由に見せても貰えないらしい。まあ、仕方ないだろう。異世界クオリティである。
しかし、意外と蔵書数が多い、と伊勢は思った。紙が無い状況で、ここまでの蔵書をするのは大したものである。この社会の上層部は知識に対する価値を高く見ているようだ。
「その他の注意は飲食禁止、静かにする事…」
あとは日本の図書館でも通じる基本的なマナーのようである。安心である。
伊勢は男性司書の一人を呼び出してもらい、閲覧する本を選ぶことにした。
「では…この国の歴史の本。地図。旅行記。エルフの双樹帝国や西のカトル帝国やナードラ国に関する本。数学の本と数学史の本。機械技術の本。錬金術。医術。…あーとりあえずこの辺の本をください」
「随分と…沢山ですね…わかりました。この国の地図はお見せできませんが…もっと大きな世界の地図ならありますが」
「世界地図!!それください!!」
ビンゴであった。
気を落ち着かせて1時間ほどかけて司書と本を選び、閲覧ブースに座る。伊勢の他には10名ほどが居るだけだ。高額なので仕方が無いのだろう。
メモ帳を傍らに置き、大きな世界地図を期待を込めて開いた。
「ふむ…これはアレですね。地球のパクリだわ…」
地図と、各国に描かれた本をざっと読み比べて、伊勢はそう結論付けた。
地球のパクリである。もちろん測量技術もクソもないので縮尺はめちゃめちゃだが、大体の形状はわかる。大陸の形は明らかにユーラシア大陸に酷似していた。
このアルバール帝国はトルコからアラビア半島全域、ペルシアを通り、パキスタンの中ほどまでの国のようだ。このファハーンはイラン中部のように思える。西の神聖カトル帝国はヨーロッパとアフリカの地中海沿岸とイベリア半島の一部。獣人の国ナードラはインドからインドシナの一部。エルフの双樹帝国は中国、中央アジアからモンゴル高原にかけては遊牧民のモング族の支配地域、という住み分けのようだ。カスピ海中部ヒンズークシ山脈に向かって大規模魔境が広がっていて、ここでアルバール帝国と分けられている。残念ながら日本は描かれていない。無いのかもしれない。
ただし、一部では陸地の形状が異なっている。例えば黒海とカスピ海が合体し、地中海と完全につながっている事、ナイル川が分かれて紅海と地中海の両方に繋がっている事、インド亜大陸とユーラシア大陸との間にわずかに細い湾がある事、などである。カラコルム山脈やヒマラヤ山脈は書かれているが、もしかしたら地球ほどは高く無いのかもしれない。
地中海沿岸を除くヨーロッパはどうかと言うと、殆ど記載が無い。わずかに書かれている事がらをまとめると、吸血鬼が支配する人外魔境、とこ事である。吸血鬼!
北部ヨーロッパにはドワーフが住みついているらしいが、これもあまり記載が無い。まあ知りたければ鍛冶屋の親父の所にいるドワーフに聞けばいいのかもしれないが。
その他、借りた本をパラパラと流し読みしていく。
数学の本は読むのを殆どあきらめた。数学記号がまるで違うので全然理解出来ないのだ。数式に翻訳チートは働かないのだ。
歴史に関しての本はダラダラと平板な文章で非常に分かりにくい。まあ、普通の遊牧国家のように、支配部族の興亡が繰り返されているような印象だ。至高なる神の使い、とやらがこの世に顕現なされたのは500年前のことらしい。とりあへず、同じ帝国内でも西と東の仲が悪い、と言うのは良くわかった。帝都グダードは西の領域に位置し、200年前にこの国を統一した初代皇帝も西の部族の出身だ。80年前の内戦でも揉めたとの事。ちなみにファハーンは帝国の東側に位置する。
機械は絵が多かったので、非常に分かりやすかった。現代にも通じる機械の基礎的な構造のかなりの部分はもうあるようだ。大型水車や風車もあるし、その動力を使った製粉や製材もやられている。針金もある。ネジも多少はあるらしい。伊勢はまだ見たことは無いが。
医学においては良くわからなかった。体液がどうのこうの、精気が云々…といった具合だ。気が高ぶったら静脈から血を抜いて抑えるらしい。ある意味、実に効果的である。
伊勢はかなり疲れた頭を冷やす為に、席を立って休憩所で水を飲んだ。いままで作ってきたこの国のイメージがかなりガラッと変わってしまった為、頭を修正するのが大変であった。
「見ない顔だね。随分と一生懸命に資料を当たっていたようだがね」
顔をあげると、二十代半ばくらいのくっきりとした顔立ちの女性が、キセルをくゆらしながら近づいてきた。
「知識を蓄えるのは良い事だね。うむうむ。素晴らしい事だね」
「は、はぁ…」
綺麗だが、変な女である。布を多く使った服装の多いこの国の衣装とは多少趣の違う、シンプルな青いワンピースを着ている女であった。
「どうだねわたしのこの服は?カトル帝国の服だがね。良かろう?わたしの名前はレイラー・モラディヤーンと言うんだがね」
そんなことは聞いていないのである。確かに服は綺麗だが、いきなり名前を名乗るとは変な女であった。しかし、名乗られたからには無視するわけにもいかないであろう。
「はあ、戦闘士の伊勢修一郎といいます…」
―タンッと灰皿にキセルを叩きつけて灰を捨て、女はほほうと満足げに頷いた。
「戦闘士なのに知識の館にて勉学を磨くとは、実にすばらしいね!顔立ちから言ってキミは異国の出だろう?どこの出身だね?」
「…日本という海を渡った国から…」
「ニホン!私の知らない国があったとは驚きだね!教えてくれないかね?!」
頭を冷やす為に休憩所に来ているのに、なぜか更に疲れる伊勢である。仕方が無いので、話せる事を適度に話した。
「なるほどねぇ…面白い国のようだ。そこでキミのやっていたという”えんじにあ”とかいう仕事は何かね?学者かね?」
興味を持ってくれる人間に話すのは楽しいものだ。いつしか伊勢はそれなりに話しこんでしまった。
「エンジニアって言うのは…そもそもこの国で学者の定義って何ですか?」
「ふむ、学者というのは神を理解しようとする者だよ。経典はもとより、人間も動物も石も木も数も心の動きさえも神の一部だ。」
つまり現代の日本のように学問が細分化されていないのだ、と伊勢は理解した。この国では神学を中心として、哲学も社会学も政治学も数学も博物学も医学も天文学も全て一まとめなのだろう。宗教が科学であり、科学が宗教であり、それはつまり神そのものなのだ。
「ああ、では学者というのとは違いますね…我々が言うエンジニアとは…ん~神とは切り離して、数学や論理に基づいて自然や物事を細分化して観察して…そこから得られた知見で何かモノを設計したり作ったり作ったり、っていう感じの仕事の事ですね」
「神と切り離すとは…面白い事を言うね!キミは数学に詳しいのかね?是非わたしの家に遊びに来たまえ!」
火がついてしまった。
「い、いや…調べ物の途中ですし…」
「わたしの家で調べればいいよ!父にも紹介しようじゃないかね!」
「あ、いやレイラーさん…え、ちょちょっ…」
そうして伊勢は引きずられるように連行されてしまうのであった。
「さあ、わたしの自操車はこれだ。乗りたまえ!」
「レイラーお嬢様…この方は?またですか?」
駐車場に行くと自操車の中で白髪で細身の四十男がどんよりした眼でレイラーを詰問した。苦労人の顔が滲み出ている。
「キルス、今回の客は一味違うよ!早く家まで頼むね!」
「分かりました…はぁ」
キルスと呼ばれた男がため息をつきながら自操車を出す。ちょっと気持ちがわかる気がした。
「さあ着いた。入りたまえ!」
自操車で15分と言ったところであろうか、街の中心部からほど近い場所、100坪程度の敷地の家であった。場所を考えると、高級住宅地なのだが、外観も中身も高級という感じはまったくしない。飾り気のない家である。せまい庭にレモンの木が申し訳なさそうに葉を付けている。
「さあ来たまえ!父に紹介しようではないかね!」
レイラーは伊勢の腕をとってずんずん進んでいく。後ろでキルスが「すいません…」と小さく謝っていた。
「お父様!お客人です!えんじにあの方だそうだ!」
どばんっ、と大きく音を立てて重い扉を開けながら、呼びかけた。
「何だというのかね!わたしは今、何かが掴めそうなところだったのだがね?!」
丸っこいおっさんが居た。小さくて、丸っこい。まるで似ていないが、レイラーと全く同じ口調であるからには親子なのであろう。
「お父様!あなたは異国の知識が欲しくないのかね?!ならそこに座って思索を続けるといい!」
「異国の知識とな!ふむそこのキミかね?ぜひ教えてくれないかね?!」
二人の全く同じハイテンションな口調を聞いているうちに、伊勢はなんだか訳が分からなくなってきた。混乱である。
「お客様、どうぞ」
「あ、どうも」
いいタイミングでキルスが椀に満たした水を持ってくる。レモンの香りがしてなかなかに旨いものであった。ちょっと落ち着いた。周りを見回してみる。
雑然とした部屋であった。いたるところに、石ころや何かの原石や水晶や本や巻物など、さまざまな物が置いてある。
ちょっと好奇心がくすぐられるような面白い部屋だった。伊勢としても良く片づけられた部屋より、こういう雑多なものがある方が逆に落ちつく。
レイラーの父はベフナーム・モラディヤーンという名の学者であった。アルバール帝国ではかなり有名なそうである。伊勢は自己紹介がてら、レイラーに話したのと同じ話をした。
「神と切り離すとは…面白い事を言うね!キミは数学に詳しいのかね?」
何か既視感のある言葉だ。さっきも聞いたような気がする。
「あー、数学は分かりますがそれほど得意じゃないですねぇ。専門ではないので」
伊勢は一応の工業数学は使えなくもないが、あまり得意ではない。というか、苦手な方だ。数学屋さんのような高度な近代数学などチンプンカンプンである。
「そうか…得意じゃないのかね…そうかね…」
親娘は悄然とした。肩を落とす、という形容がこれほどぴったり合う姿は見た事が無かった。随分がっかりさせてしまったようである。
「すいません。よろしければ今研究なさっている事を教えてくれませんか?なにか助言できる事もあるかもしれません」
「ふむ…まあよいかね…」
ベフナームとレイラーは傍らの羊皮紙に葦の枝でガリガリと図を書きつつ、共に説明をしだした。この二人は共同研究者のようなものらしい。
伊勢に数学の素養が無い事もあるが、彼らの説明は極めて分かりにくい。素晴らしい建築物を建てる事から考えても、数学はかなり発展していると思っていたが、案の定である。説明に付いていけない部分が多い。話が省略され過ぎ、あっちこっちに飛び回り、ハイテンションすぎるという問題も多分にあったし、数式や記述方法に言語チートが効いていないこともあって、彼らの目的を理解するのに小一時間かかった。
「なるほど、ようやく分かりました。要するに、彼らの目的は3次方程式の解法を、幾何的に得る、って事ですか?うーん、すごいですね」
「うむ、この凄さがわかるかね!それだけでも大したものだね!」
「ええ、すいません。協力は難しいようです。一応、代数的に求められた3次方程式の解の公式もありますが、俺は覚えてないし導出もできないです」
3次方程式は代数的に解ける。たしか高校では二次方程式までしか習わないが3次方程式や4次方程式の解の公式はある。
しかし、そんなものは伊勢は覚えていないのである。
「…は?代数的に公式?」
「え?あ、はい。らしいですけど…」
モラディヤーン親子はそのまま停止してしまった。時が凍りついた。
「お客様…」
しばらくして、部屋の外からキルスの声がした。
「お二人がそうなってしまっては、もう無理でございます。お帰りになられた方がよろしいかと…」
「…そうですか…では」
「ご迷惑をおかけいたしました、よろしければご自宅までお送りいたしますが?」
「すいませんがよろしく…」
伊勢はキルスの言葉に甘える事にした。もう地平線に太陽が大きく傾いているのだ。
「お帰りなさい相棒。お疲れですね」
「ああ、疲れたよ」
「ご飯出来てますヨ」
今日のご飯は、鳩のトマト煮、ナスのみそ汁、生パスタで作ったペペロンチーノと、やっぱり飯盒で炊いた白米だ。
味噌汁は相変わらず辛いけど、それでもおいしい夕食だった。