歩兵中隊 11
歩兵中隊 11
砦の空気は張りつめた絹のようだ。もうすこし引っ張れば、一気に裂けそうである。
それもそのはず、砦の近くには800騎からのモングが居るのだ。
一昨日、侵攻してきたモングは、今は南東に陣を構えている。長期戦の構えだ。第二第三第四小隊と激烈な戦闘の末、東の方角に追い散らされて、今は戦力の整理再編を行っているのだろう。
第二小隊の宿舎には空いている寝台が多かった。戦死者と重傷者が合わせて十人も出たからである。現状は約三分の一が戦力外だ。その他のメンツも、殆んどが何らかの傷を負っている。一昨日の戦いは中隊設立後に戦った中では、最高の激戦だった。
「でだ、そこで俺はこうしてやったんだよ。シュパッと飛んでくる矢をしっかり見ながら――」
「おい鶏、お前はちょっと休んでろ。熱が上がるぞ。ほれ、これでも食ってな」
マイマイは第五小隊の新兵に向けて一人で喋り通ししゃべっている鶏に、干しブドウの小袋を投げた。持って来たうちで、最後の干しブドウだ。
鶏は一昨日の戦闘で肩に怪我をした。怪我をして血を失っている身体には、鉄分が多い干しブドウが良い。たしか軍曹殿は座学でそうおっしゃっていたと、マイマイは記憶している。
「うひょ! ありがてぇ! でだ、俺はその矢をしっかり見ながら思ったね。コイツを食らったら――」
鶏には、休め、という助言を聞く気は無いらしい。相も変わらずくっちゃべっている。
――まあ落ち込んでいるよりは良いか…うるさい奴が一人いれば、隊の周りの空気も明るくなるかもしれないし。
マイマイは、彼を放っておく事にした。それで無くとも戦死者が多いので、少しばかり隊の雰囲気がどんよりしているのだ。こちらを圧倒する兵力のモングに囲まれているので、砦の外にも出られない。外部陣地をほぼ全て放棄しての籠城だ。一昨日第二小隊が守った土塁も守兵不足から放棄された。
戦闘では勝ったといえ、戦果としては戦力差を少しばかり縮めた事だけである。そんなのは、仲間の死にはおっつかないと、マイマイは思う。みんないい奴らだった…かどうかはともかく、あいつらは仲間だった。戦友だったのだ。
「マイマイ、居るか?」
「あ、ジロウ小隊長。どうしたんですか?」
第二小隊長のジロウがやってきて、隊舎の扉の所からマイマイに呼びかけた。
「おう、ちょっと来い」
「はい」
おそらく、厨房への攻撃がばれたのであろう。完全に籠城するとなれば、食料の管理は格段に厳重になる。おそらく死刑は無いと思うが、鞭で8発、あるいは12発、叩かれるくらいの事は覚悟せねばならない。
だが、マイマイの数倍も厨房を攻撃している奴がいる。石だ。とにもかくにも、石の罪までもかぶせられないように、マイマイは祈った。
ジロウ小隊長は外に出ると、マイマイを従えてズンズンと大股で歩いていく。士官用隊舎に入った。そのままドアが開けっぱなしの司令室に進んでいく。
「中隊長、連れてきました」
「おう、ごごくろう。ままマイマイ、座ってくれ」
「は、はぁ…すいません」
司令室はかなり大きい。中央には砦を中心とした絵図面と、近郊の地図が置かれている。共に中隊が作ったものだ。
部屋にはファルダード中隊長他、第五小隊のサブロウ小隊長、支援騎馬隊長のジャイアンがいた。ヴィシーからはマフボド司令官とナヴィド戦闘士が席についている。
ジロウ小隊長に促され、マイマイは末席近くに座るジャイアンの横に座った。ここには砦の幹部が集まっているのだ。厨房への攻撃についてどんな判決が下りるのか、マイマイは気が気では無かった。
「さて、じジャイアン、まマイマイ、お前らに、たた頼みたい事がある」
「あい、中隊長」
「はぁぁ…は、はい」
どうやら、話は全く別件らしい。マイマイはほっと安堵のため息をついて、ファルダード中隊長の話に集中した。中隊長はどもりながらではあるが、落ちついた様子で話し始めた。
「まず聞け。もモングの奴らは、し湿地を除けて南東に、大急ぎで防御陣地を構築している。魔獣の危険があるからな。
で、だ。ここは、ま魔境近くで周囲はずっと、そそ草原だ。まぐさは十分だし、み水もある。き危険を度外視すれば魔境からの採取で、ほ補給は長く持つ。魔境から木を切って、と投石器も作れる。つまり相手は、ちちょ長期戦の構えで、じっくり攻めようとしている。あのモングの兵力なら、たた短期ではこの砦は絶対に落ちない……永遠に持つわけではないがな。
一方、おお俺達はここに押し込められてしまっている。ひひ彼我の戦力差が大きいから、う撃って出る事も、で出来ない。あ相手は騎兵だ。俺達には、と砦を放棄して退却する事は、で出来ないし、言ってしまえば、そその必要も無い。
よ要するに、おお俺達には外部からの援軍が必要なんだ。ええ援軍と呼応してモングを叩くか、もモングの補給が切れるまで待てば、お俺達の勝ち。逆に援軍が来なくて、モングが長いあいだ粘れたらモングの勝ち。モングが投石器を作ったり、あいつらに援軍が来たらもっときつくなる。
そしてこの砦の、びび備蓄食料は50日分。ああ、これは極秘だぞ?な仲間にも漏らすな。
さて、びびヴィシーからの補給と連絡員は、ほぼ二週間から三週間に一度やってくる。ぜぜ前回来たのがついこの前だから、次に来るのは二、三週間後、ここに駐屯予定の第四帝軍の先発隊と共に来るだろう。本隊は更に二週間程度、遅れてくるからな。せせ先遣隊の規模は不明だが…ここに駐屯する本隊が2千名なので、おそらく500かそこらだろう。
つまり、おお俺達は補給部隊と、だ第四兵団の先遣隊が順当に来れば、おそらく勝てる。こここ来なければ、ま負けるかもしれん。そう言う事だ。お前ら、ここまでいいか?」
「あい、中隊長」
「はい、中隊長」
小さく頷くと、中隊長は唇を舌でなめて続けた。
「よ、よし。じ重要なのはこの点だ。ここに、800名からの、ももモングが来ている事を知らなければ、せせ先遣隊程度の兵力では、て敵に蹴散らされてしまうかも知れん。しし輜重隊を連れていれば尚の事だ。……そうなれば典型的な、か各個撃破になってしまう。
そこで、だ。
おお前らの任務は、ここの現状を伝える事だ。ひひ一つ目の連絡先は、とと当然ながら第四帝軍先遣隊。て敵の規模やそそ装備、砦の状況、ひ彼我の士気、地形、食料や資材の備蓄、そういった事だ。俺と、ままマフボド司令官からの、し書状は同じものを二通ずつ用意してある。い一応、これを見ればわかるようにはしてあるが、お前らの口からも出来るだけ伝えろ。
もう一つの連絡先は、し白山羊族の族長だ。て帝軍先遣隊と一緒に動くように、し書状に書いてある。ついでに、、む婿が窮地だと大げさに言っておけ……ただ、今の時期だと移動しているかもしれないから、捕まえられないかもしれないな。へへ兵もあまり集まらないだろう。ヴィシーまで行って捕まらなければ、第四帝軍だけで良い。お俺は、しし白山羊族の方には期待していない。今回はな。
ええ援軍は……出来るだけ早い方が良い。帝軍を、あ煽れ。お俺達の中隊は問題ないだろうが、びびヴィシーの兵がな……一度負けてる分、士気が持たんかも知れん。ににニタマゴの訓練が一番きつい所だったから……心がすこし弱っている。もう少し後なら、じじ自信が持てるのだが、じ時期が悪かった。
……さて、じジャイアン、お前はこの辺の、し白山羊族出身だから地形に詳しい。て偵察兵としても、さ最高の達者だ。し白山羊族とも渡りをつけやすい。さらに、まマイマイ、おお前は体力があり足が速い。中長距離では中隊最速だ。ぎ擬装と追跡も上手いし、ぶぶ武術も地味だがかなり達者だろう。お前らは補い合いながらこの任務をこなすには、ささ最高の組み合わせだと俺は考えている。
こういう、じじ重要な連絡業務は本来なら、しし士官が担当すべきものだが、おお前らなら大丈夫だろう。
し質問は?」
「あい中隊長。帝軍と族長に情報を伝えた後、戻ってくる必要はあるんすか?」
ジャイアンが聞いた。たしかに誰だって気になる点である。
「ふ不要だ。敵の目も、ふ節穴じゃ無い。戻ってきて、とと砦に入るのは、まず不可能だからな。おお前らは、だ第四帝軍と共に行動して、援軍としてここにくればいい」
当然であろう。筋金入りの遊牧民であるモングの目は、節穴どころか鷹並みに鋭い。その鷹並みの目が常に砦を監視しているのだ。
「中隊長、歩きで行くと考えて良いんですよね?」
マイマイが聞いた。これも気になる点である。
「あ歩きだ。ほ本作戦は完全に隠密行動だ。うう馬ではバレる。
出発は本日の夜。具合が良い事に、つつ月がほとんど無い。み南側で陽動を起こして相手の監視をひきつける。おおお前らは魔境のある北側から密かに出ろ。迂回しながら、びヴィシーに向かえ。ひひ必要なものは言え。すぐに揃える」
「あい中隊長、わかりやした。俺の居ない間、支援騎馬隊の指揮はシズカチャンに取らせます」
「よ、よし。良いだろう。まマイマイは何かないか?」
「旨い干し肉をください。斑鹿の。……それとゲロ袋に一杯のゲロを。肉を入れた最高のゲロをください。」
「わわかった。ゲロだな」
そうやって、みんなで細々とした状況を詰めていった。
「じゃあ、かがり火を……」
「陣太鼓は無しで……」
「背嚢は引っ張っていった方が……」
「小さな水場があそこに……」
中隊長、ジロウ小隊長、サブロウ小隊長、マイマイ、ジャイアン、そしてヴィシーのナヴィド戦闘士が、それぞれ頭を寄せ合って淡々と計画を練っていく。なにやらきょろきょろと眼を泳がせて落ち着かないのは、司令官のマフボドだけだ。マフボド司令官は兵士達の間で「白うさぎ殿」と揶揄されている。的確な命名である。
大方の行動としてはこうだ。本日の9時に南門から大々的に出撃する「振り」をする。その隙に北門近くからジャイアンとマイマイがはしごで壁を降り、西に移動してから、ヴィシーのある南に向かう。
単純な計画である。だが、錬度が十分に高ければ、成功率はかなり高いと思われた。
「以上で軍議を終わりとする。いいか?」
「ああ、マイマイ……」
ファルダード中隊長が閉会を宣言しようとした時に、ジロウ小隊長がポツリとマイマイにむけて呟いた。
「あのな……石に攻撃を控えるように言っとけ。これから先は死刑になるぞ。俺からも後で小隊全員に言っておくが、念の為、先に、な。……お前もいい加減にしとけ」
「は……はいっ!」
ヤバイッ! バレていた!
「じジロウ、な何の事だ?」
「よくある事です」
「ん?……ああ、うん、そそそうか。じゃあ、へ閉会とする」
マイマイは素早くジャイアンに目くばせすると、一目散に部屋を逃げ出した。
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「ジャイアン」
「おう、マイマイ」
司令部の置かれた士官用隊舎の外で、マイマイとジャイアンは待ち合わせた。どちらからという事も無く歩きだす。ブラブラと二人で砦の中を見て回った。
「雰囲気、良くねぇな」
ヴィシー兵の眼に、力がない。彼らは今までの経験上でモングに負け癖が付きつつあったし、ニタマゴ小隊長の苛烈な訓練を二週間続けられてきたので、精神的に参っている。一方、中隊の兵士達にやる気があるが、ヴィシーのケツを拭く事にやさぐれている感も無くはない。
「ジャイアンの歌でも聞けば元気出るんじゃないか?」
「そいつぁ良いが、今は逆効果かもしれねぇ。食い物でもくれてやった方がマシってもんよ」
ジャイアンはフンッと鼻を鳴らして答えた。
「なぁ、マイマイ。第二小隊はどうだ?」
「ああ……五人死んだからなぁ。七人に一人の割合だ。大きいな……怪我人も多い。みんな、結構きてるさ」
「そりゃそうだな」
「騎馬隊はどうだ?」
「暇だぜ。ああ、蹄の悪い馬を一頭ばらすけどな。まあまぐさの節約にもなるし、俺達の腹も膨れるしよ……仕方ねぇな」
籠城となってしまえば騎馬隊には出番がない。出来るのは馬の手入れくらいのものだ。
「……持つと思うか?」
「フンッ、俺ら次第だべ? なら大丈夫ってもんよ。子供のお遣いに毛が生えたようなもんだ。俺らに出来ねぇわけがねぇ」
マイマイの問いに、ジャイアンはもう一度鼻を鳴らして、自信満々に即答した。彼には全く迷いがない。
「……そうだな、ジャイアン。お前の言う通りだ」
「出来るだけ早く行くべぇよ。そんで、戻ってくるんだ」
「ああ」
出発は夜だ。
二人は第二小隊の隊舎の前で分かれて、それぞれの準備に移った。
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九時。
新月の平原は殆んど真っ暗闇だ。月齢は一日目。かすかな眉月の明かりなど、人の目にはあまりに頼りなさすぎる。中隊が版築で作った城壁に掲げられた篝火だけが、狭い範囲の闇を払っていた。
「マイマイ、ジャイアン、用意は良いか?」
「はい、ジロウ小隊長」
「あい、大丈夫っす」
マイマイとジャイアンは利き眼を即席の眼帯で覆っている。闇に眼を馴らす為だ。
装備は二人とも同じである。茶色の戦闘服、同じく茶色の帽子、堅い革の小手、肘当てと膝当て、腰の後ろに前腕ほどの長さの短剣と手の平ほどのナイフ、弓一張りと箙を背負い、食料、医療品、毛布、水袋、ゲロ袋、そして中隊長とマフボド司令からの書状を背嚢に入れている。重いので胴鎧は着ていない。弓矢を背負っているため、今は背嚢を前に抱えていた。
顔には黒く炭を塗っているが、擬装はあまり施していない。月が無いので、行動のしやすさを重視した。
「よし、モングもそうだが、魔獣に気をつけろよ」
「魔獣は気をつけようがねぇっす」
「まあな」
ジャイアンの言葉にジロウは苦笑した。確かにこの暗さでは気をつけようがないかもしれない。気がついた時にはガブリとやられている公算が高い。
「マイマイも気をつけ……お前の背嚢は、なんかジャイアンのより随分デカくないか?」
「はい、小隊長。食い物をしっかり入れてますから」
マイマイは乾燥デーツをたっぷりと背嚢にぶち込んでいる。彼には食い物の余裕が無い行軍など、考えられないのだ。長距離行軍にはデーツに限るとマイマイは思っている。行商人達も、デーツの入ったデカい麻袋を自操車やラクダに積んで、長距離の交易をしているのだ。
「まあ、お前なら遅れる事も無いか……と、見ろ。動き出したぞ」
今彼らがいる場所とは逆の南門で、松明が急速に動き始めているのが眼に映った。ファルダード中隊長指揮の元、陽動として砦内のほぼ全隊が動いているのだ。走り、嘘っぱちの指示を叫び、松明を振り回している。支援騎馬隊が馬をチャカチャカと動かしている姿もあった。
最後には門の前に部隊を整列させて、ファルダード中隊長が厳かに演説らしきものをぶっている。まあ、全部演技だが。
「演説なんて、中隊長も良くやるぜ」
「小隊長、わざとらしすぎませんか?」
「あれで良い。錬度の低い兵はあんなものさ」
中隊のやり方しか知らないマイマイやジャイアンには、どうにも不自然に見えて仕方がない。夜襲するなら事前に計画を練り、隊に周知し、静かに一斉に襲い掛かるのが、彼らにとっては普通のやり方だ。
「よし、監視が陽動につられているみたいだ。行け」
「はい」
「あい」
後は大して言葉も無い。二人は端を輪にしたロープに腕をかけた。逆側の端はサンマ、豆、白雪姫、石といった、マイマイの分隊の仲間が確保している。マイマイは、彼らに向けて頷いた。彼らは片手を上げたり、頷き返したりで答えた。暗いものの、なんとか見えた。誰も何も、言葉は交わさなかった。
城壁の上に並べている大盾を少しだけずらす。そこから二人そろって、殆んど無造作に見えるくらい、素早く身体を投げ出した。
城壁は精々が人の背丈の二倍ほどだ。分隊員がロープを少し送りだせば、すぐに地に足が付いた。腕をロープから抜き、一度軽く引いて合図をする。すぐにロープは引き込まれて、元のように大盾が並べられた。
マイマイとジャイアンはそんな事は無視して、土塁に挿した逆茂木を避けながら堀の一番下に素早く降りた。そこで低く伏せると、200程を数えて様子をみる。
特に、付近では動きはない。陽動をかけている南門の周辺だけが慌ただしい。
「行こう」
マイマイは小さく呟いた。ジャイアンもそれに頷く。素早く背嚢を下ろし、背丈の半分ほどの綱で腰と結び付けた。しばらくの間這って行くので、背嚢は綱で引きずる事にしたのである。
周りを見ながら、堀の外に注意深く背嚢を押し出す。その次は自分たちの身体だ。まずはジャイアンをマイマイが押し出し、次にマイマイをジャイアンが引き上げる。出来るだけさっと上がって、堀のそばから離れた。近くのちょっとした窪みまで這って、そこでまた少し様子を見る。……問題無いようだ。
ジャイアンが極ゆっくりと、草叢に向けて這って行く。マイマイも彼の後に続く。草叢までは30ヤルほどだ。砦の周りは土木工事の影響で草叢が無くなっている。二人を視認するのに障害物は何もないが、これだけ暗く、ゆっくりと動かれれば、単なる岩か地面の隆起にしか見えない。
二人はそのまま、草叢の中に入った。草叢とは言っても、膝丈くらいのものだ。大した高さでは無いので、身体を高くして急ぐ事は出来ない。そのまま這って行くしかない。
地形に詳しいジャイアンが前、マイマイが後ろ。西に向け、息を殺して静かに低く淡々と進んでいく。背後の砦の明かりを振り返り、進路を確認しつつ進む。傍目には実に地味だが、二人の神経は周囲の様子を探るために、ギリギリと張り詰めていた。
行動予定ではこのまま西に半サング(750m)以上を匍匐前進し、それから徒歩で更に西に4サングの水場まで進み、そこから南下してヴィシーを目指す事になっている。全部で60サング(90キロ)程度の行程だ。二日を想定している。
二人の足なら、特にマイマイの足なら1日で60サングを走破する事も可能だが、今回の作戦の要諦は確実に情報を伝える事にある。それなら無理をして1日だけを短縮するより、二日かけて確実に到達する方が良い。
そのまま数時間、匍匐前進で距離を稼いだ。おそらく4分の3サングは離れたはずだ。時間は月の角度から見て、とっくに0時を回っているだろう。
二人は周りの様子を見て、ゆっくりと腹這いから身体を起こし、座った。持ってきたゲロをゴクゴクと飲み、背嚢を背負うと、そのまましばらく動かずに様子を探る。
「大丈夫そうだな」
「ああ、行こう」
小声で二人が確認し合ったその時、草叢から飛び出る大きな影が、ジャイアンの視線をよぎった。影は一瞬にしてマイマイに飛びつく。魔狼である。
「ぐぐぅ…!」
押し殺した叫びがほんの少しだけあがった。
魔狼はマイマイが喉を守るためにねじ込んだ左前腕に、激しく噛みついている。腕を噛みちぎろうと、激しく頭を振っていた。唸り声も上げない。
「ううっ…!」
マイマイは腰を落とし、残った右手で魔狼の頭を押さえている。ジャイアンは素早く魔狼の後ろに回り込み、短剣を抜くと、体当たりするように魔狼の腹に突き刺した。
「ううぅ……!」
それでも魔狼はマイマイの腕を離さない。抑えつけられながら、激しく頭を振り続ける。
「がまんしろっ!」
ジャイアンは小声でマイマイに叫ぶと、続けざまに狼の腹と言わず胸と言わず、何度も繰り返し突き込んだ。7度目に剣を突っ込んだ瞬間に、魔狼は突然事切れた。剣が心臓に当たったのだ。
「見せろ」
ジャイアンは魔狼の死体を転がすと、マイマイの噛まれた左腕を確認した。堅い革の小手を付けていたおかげで、千切れてはいない。だが、間違いなく折れて、噛み痕からはゆらりゆらりと血が湧き出している。
「ジャイアン、小手の上から紐で縛ってくれ。止血しないとダメだ……」
「わかった」
ジャイアンはマイマイの背嚢からロープを取り出し、手慣れた様子で小手の上から思い切り強く縛った。圧迫止血だ。骨折した上から激しく抑え込まれたのだから、マイマイは激しい痛みを感じている。だが、何も言わない。
「行くぞマイマイ。ここには居られねぇ」
「ああ、行こう……」
魔狼の血が飛び散っている以上、魔境近くのここには、すぐに新たな魔獣がやってくるだろう。二人の服にも魔狼の血がじっとりと染みこんでいる。出来るだけ早く、ここから離れなければいけない。
ジャイアンとマイマイは全力で南西に走りだした。今は身を隠すどころの騒ぎでは無い。ぐずぐずしていたら、魔獣に喰われる。弓はあるものの、二人は槍を持っていないのだ。剣で攻撃態勢にある魔獣と戦うなど、無謀もいい所である。距離を取る以外に対処のしようがない。
「はぁはぁ……」
「はぁ…はぁ……」
そのまま2サング近くを、ひたすらに全力で走った。
魔境近くの草原が、少しだけまばらになってきた頃、
「ま、待ってくれ…」
先に根を上げたのは魔獣に襲われたマイマイでは無く、ジャイアンの方だった。腹を押さえながら身をよじって走っている。ついさっき飲んだゲロが胃に重かった。
「おう…はぁはぁ…ジャイアン、傷を洗ってくれ…いてぇ…」
「おう…はぁはぁ……」
小手を外し、傷口を確認した。頼りない月明かりの元だが、鋼のバネを束ねたような前腕に、ひきつれた穴がいくつもあいているのがわかった。流れ出た血は黒く、墨のようだ。
ジャイアンはマイマイの背嚢を開け、えたのぉるを取り出し、傷全体に丁寧に振りかけた。その後に腕に開いた穴に流し込む。獣の牙には毒があるので、念には念を入れてしっかりと消毒する必要があるのだ。もちろん傷には盛大にしみるが、マイマイは歯を食いしばって、うめき声一つ出さなかった。
「おめぇ、小手してて良かったじゃねぇか」
「ああ……じゃ無ければ千切れてる所だよな……クソ……傷に良い干しブドウを持ってくるんだった…あ、鶏に全部やっちゃったな……」
「なぁに、こんなもん、すぐに治るぜ。おめぇはしばらく休暇貰ったようなもんよ」
「……だな」
「おう」
ジャイアンは息を弾ませながらテキパキと治療する。本職の衛生兵と比べれば稚拙なのだろうが、偵察兵として怪我の治療はそれなり以上に学んでいる。藪医者よりは上が良い。
包帯を巻くと、壊れた小手を地面に埋め、ジャイアンは自分の小手を洗ってマイマイの腕に付けた。折れた骨の固定具の代わりにするのだ。
「さて、マイマイ。正直思いっきり走って来ちまったが……モングのクソに襲われてねぇ所を見ると、俺たちにゃ運があるぜ」
マイマイは暗闇の中で小さく苦笑した。ジャイアンの目には、闇に浮かびあがる彼の前歯の白い輝きだけが見えた。
「俺たちにゃ運があるか……まあ、そう言う事にしておくか」
「しておけ。……いけるか?」
「いく」
「よし」
ヴィシーまでは、60サング。
たった60サングである。