レイラーの飛行機械 5
レイラーの飛行機械5
恐ろしい事だ。本当に恐ろしい。
しかし、レイラーは今、医者なのである。恐ろしいと思ってはいけない。だめだ泣くんじゃない!患者に悟られてはいけない!自信を持て!
「ロスタム君、良く頑張ったね!私が診るからには、もう大丈夫だよ!」
「はい…レイラー先生…」
ロスタムはレイラーの顔を見て、ほんのりと笑った。この状況で、彼は笑うのだ。
「レイラー、大丈夫だよな?」
「何を言っているのかねイセ君!私が診るのだよ?大丈夫に決まっているじゃないかね!」
レイラーの言葉に、伊勢は血走った目をほんの少しだけ緩ませた。
本当は確信など持てない。ただ、アール君と私がいれば出来るはずだ、絶対に。できないわけが無い。レイラーはそう思って自分を鼓舞した。
「さあ、運ぶよ!」
レイラーは魔法を使って静かにロスタム持ち上げ、ザンド・ナイヤーンの店で一番綺麗な寝室に運び込んだ。ロスタムは歯を食いしばって、うめき声も上げない。
すぐに暖炉に火を入れて、治療を始めた。まずは開放骨折からだ。
「アール君、前にイセ君の骨折を治した時と同じだよ。もっと急ぐけどね」
「はい、レイラーさん」
「ロスタム君、痛いと思うけど我慢するのだよ」
レイラーの言葉に、ロスタムはしっかりと頷いた。何と気丈な…。
「ビジャン君、湯ざましを持ってきてくれたかね?」
「ここにある」
「よし」
長い夜になりそうである。
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「ああイセ君、ロスタム君の怪我はもう大丈夫だろう。応急手当は終わったので、後は私の家でしっかり治療するよ。フィラー君もね」
「助かるよレイラー、ありがとう。本当に…ありがとう」
レイラーの言葉を受けて、伊勢の顔から険が落ちた。眉毛がへの字になっていた。たぶん、自分も同じような顔をしているのだろうとレイラーは思う。
本当に大丈夫かどうかはまだわからないが、今はこれ以上の対処は出来ない。まあロスタム君は若いから、多分大丈夫だと思う。
二時間ほどかけて左腕の骨折は仮とはいえ繋ぎ、皮膚も縫合して魔法をかけておいた。これほど全力で魔法を使ったのは、27年の人生で初めての事だ。思ってもみなかったほど、早く、上手くやれた。こんなに治癒魔法が上手かったとは、レイラー自信も驚きである。
「私は家に帰って休むからね。どうせ近いから、何かあってもすぐに来られる。さあ、弟子の顔を見てきたまえ。」
伊勢はレイラーに頷いて、治療室に入っていった。
レイラーは下を向いて、長く静かな、ため息をついた。
魔法の力が途切れることは無いが、さすがにもう集中が全く出来ない。頭が焼き切れそうで、吐き気がする。これ以上は逆に危険である。失敗をしかねない。魔法がヘタに発動すれば、骨の接合部は粉々になるのだ。
骨折部分はアール君のチート魔法で作った固定具で固めてあるし、彼女が診ていれば問題ないだろう。
レイラーは頭を振りながら、店を出た。店の前の道には警邏隊が沢山いるが、彼らを構っている余裕はもう無い。
「キルス」
「お嬢様、お疲れ様でございました。さあ、帰りましょう」
「そうだね」
キルスと一緒に帰り途をトボトボと歩いた。昨日はロスタム君と一緒にイセ君の講義を受けたのに、今はこんな事になっている…
「うっ!?」
レイラーは道に膝まづいて、吐いた。ビシャビシャと大量の吐瀉物が飛び散って、服にも沢山かかってしまった。お気に入りの服だったのに。
キルスが背中をさすってくれた。
「すまないね、キルス。もう大丈夫だよ」
「お嬢様、私の背中にお乗りください」
コクンと頷いて、レイラーはキルスの背中に体を預けた。枯れた匂いがした。
「キルスはこんな匂いだったかね?」
「私も、もう歳ですから」
「そうだね」
キルスはいくつだっただろうか…48歳と64日か。
家までは歩いて数分の距離である。ベフナームは灯りを持って、門の前に出て待っていた。
レイラーはキルスの背中から降りて、門に歩いて行った。ベフナームはレイラーの手をとり、家の中に導いた。
「お父様、ロスタム君は大丈夫だよ」
「レイラー、ご苦労だったね。さあ、水をお飲み。今日はもう休みたまえ」
「はい、お父様」
ベフナームはレイラーの顔を、濡れた手拭いで不器用に拭いてくれた。こんなことをされた事は、レイラーの記憶にない。3歳から今までで、初めての事だと思う。
冷たい手ぬぐいの感触が、気持ち良かった。
「お父様、ロスタム君が死にそうだったのだよ」
「うむ、キルスから聞いたよ。レイラーも良く頑張ったね」
「はい」
ベフナームはレイラーをぎこちなく抱きしめた。こんな感触も、初めてだと思う。
気持ちいい。
「お父様、汚れてしまうよ」
「構う事かね」
レイラーは、ちょっとだけ泣いた。ほんの、ちょこっとだけだ。
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翌日の朝、イセ君が家に来た。
「レイラー、今さっきロスタムを見てきたよ。しっかりしていた。…本当にありがとうな。レイラーのおかげだ。キルスさんも。ベフナーム先生にもお世話をかけました」
「いいんだよイセ君!当然の事じゃないかね!ロスタム君なのだからね!」
「そうだよイセ君、私とレイラーにとってはロスタム君も半ば弟子のようなものだからね!僭越だがそう思うよ!」
そう言うレイラーとベフナームに対して、彼は何度も礼を言って急いで出て行った。キルマウス邸に行ったのである。彼の仕事はむしろこれからなのだろう、とレイラーは考えた。
それはともかく…
「キルス!その模型を私の部屋に持って行ってくれたまえ!…ああっそこを持っちゃダメだよ!」
「かしこまりました、お嬢様」
隠さないといけないのだ!これからロスタム君とフィラー君が、治療のためにモラディヤーン家に来る。看病にアール君もだ。数日は泊りこむ事になるだろう。更にはイセ君も見舞いに訪れるだろう。実に危険である。
決して彼らに飛行機械の事を漏らすわけにはいかないのだ!
使っていない客間に放置していた模型をレイラーの部屋に運びこむと、部屋の中は一杯になってしまった。よくもまあ、一年でこんなにも沢山の飛行機械模型を作ったものである。学問のためとはいえ、自分でも少々あきれるレイラーなのであった。
「さて、キルス、自操車を回してくれないかね。ロスタム君は寝たきりだから、荷物用の自操車だね。振動が来ないように、藁と絨毯か何かを厚く敷いてくれたまえ」
「かしこまりました」
キルスはテキパキと準備を整えた。自操車には麦藁と絨毯と、居間から持って来た羊の毛皮を敷いた。完璧である。レイラーにも彼の手際のよさの秘密が全くわからない。おそらく、屋敷の中の物品を全て記憶しているのであろうが、それだけでもなかろう。
「さて行こうかね」
「はい、お嬢様」
という事で、現場であるザンド・ナイヤーンの店には数分で着いた。
昨日は夜でわからなかったが、店内には血痕が点々と残っていた。おそらく、激しい戦闘があったのだろう。
レイラーとキルスは警邏隊に挨拶をして、治療室に使っているザンドの寝室に入った。
「アール君、ロスタム君、おはよう。調子はどうかね?」
「おはようございます、レイラーさん、キルスさん」
「レイラー先生!」
「うむ、まあ、熱があるけど、大丈夫そうだね」
骨折をしているから、熱が出るのは当たり前である。高熱にならなければ問題は無い。
「フィラー君はどうしたね?」
「別室にいますヨ。連れてきますか?」
「ああ、私が行くよ」
ロスタム君にはフィラー君をまだ見せない方が良いだろう、とレイラーは考えた。互いのためだ。彼女の顔は、まだパンパンに腫れてしまっているのだ。
―コンコン
「フィラー君、どうかね調子は。頭は痛くないかね?気持ちはわるくないかね?」
レイラーが部屋に入ると、フィラーはベッドの上でビクッと身をすくめた。
「…先生!私は顔が痛いだけで大丈夫ですけど…ロスタムさんは?!」
「ああ、ロスタム君も大丈夫だよ。私とアール君でしっかり治療する。キミも大丈夫そうだね。数日すれば君の顔の腫れも引くから、心配しなくてもいいよ。前歯は残念だけどね」
レイラーの言葉に、フィラーは小さくホッと息を漏らした。彼女は自分なんかより、ロスタムの事が遥かに心配なのだろう。
「キルス、先にフィラー君を家に連れて行ってくれたまえ」
「はい、…フィラーさん、行きましょう」
フィラーは不安そうな顔をしつつも、キルスと一緒にレイラーの家に向かった。足取りはしっかりしていたから問題は無いだろう。
レイラーは、ロスタムとアールの待つ部屋に戻った。
「ロスタム君、フィラー君には問題ないね。私の家に先に行ってもらったよ。彼女は顔が腫れてるからね。元通りになるから心配はいらないよ」
「ありがとうございます」
ロスタムは小さく目を細めた。安心したのだろう。彼はフィラーの為に命を失いかけたのだ。
「さ、治療の続きを始めるよ。まず、皮膚の大きな傷を……」
そのように、レイラーとアールによる治療は午後まで続き、それから自操車に乗ってモラディヤーン家に移ったのであった。
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「ああ、さすがに疲れるね…」
夕方、レイラーは自宅の居間の長椅子にだらしなく寝転んだ。彼女にしては珍しいだらしなさだが、魔法による治療というのは神経を使うのだ。全力疾走中に両手で皿回しをしながら、足の指で米に文字を刻み続けるようなものである。
「レイラーさん、本当にありがとう」
「いいんだよ、アール君」
本当に良いのだ。昨日のロスタムの姿を見たレイラーなのである。こんな疲れなど、なんてこともない。
「イセ君は大丈夫かね?」
「大丈夫だと思いますヨ。エルフの事は、数日後にキルマウス様と一緒に帝都まで行ってカタをつけるみたいです」
「それは、おおごとだね…」
レイラーには政治の事は良くわからないが、外交官を皆殺しにしたとあっては、タダではすまないことぐらいはわかる。彼らにとっては、これからが正念場なのだろう。
「だから、それまでにロスタム君の治療を進めておかないと…フィラーさん、どうしました?」
居間にフィラーが顔を出した。
「あの…私もなにか…お仕事をさせていただきたいと…」
フィラーは静かに寝ている事が出来ないのだ。そんな経験は今まで一度もないのである。
「フィラー君、君は脳を揺らしているからね。仕事はしなくていいんだよ」
「それでは…ロスタムさんのお世話でも何でも…」
「ダメだよ。君は絶対に静かに寝ていたまえ。君にはそう命じる」
「っ!はい、かしこまりました」
レイラーの発した『命令』にフィラーは深く頭を下げて、部屋に戻っていった。レイラーの胸が少し苦しくなった。
それにしても…
「フィラー君はロスタム君の事が好きなんだねぇ」
「そうですね。ロスタム君はずっとフィラーさんにご飯を届けてましたし」
「ふむ」
レイラーは考えてみた。
フィラー君のロスタム君に対する感情は恋愛感情と感謝を核とする『好き』と推測できる。ロスタム君はフィラー君を直接的に二度救い、半年間にもわたって食事を届けてきたという事から多大なる感謝を受けている事であろう。状況証拠と、彼女の反応から見ても、彼女が持つ感情は恋慕と敬愛と感謝、といったところであろう。
敬愛と感謝はわかるが…恋慕とは何なのだろう。推測は出来るが、レイラーには確信が持てない。どの感情を恋慕というのだろうか…うーむ………
「レイラーさん?」
「はっ?!どうしたね?アール君?」
「どうしました?」
どうもしていない。いつものように、思考の彼岸に行きかけていただけである。
「ふむ、なんでも無いよ。…アール君はイセ君の事が好きなのかね?」
「好き、ですか?…うーん………」
今度は彼女が考え込んでしまう。思索の海に漕ぎ出す気持ちは良くわかるので、レイラーは黙っている事にした。
アール君の普段の様子や、イセ君が馬に体当たりされた時の彼女の様子から考えると、イセ君を誰よりも大事に思っていることは確かだ。絶対に間違いは無い。イセ君が、馬に体当たりされた時の彼女の様子を見れば、明らかな事だ。
問題は、その誰よりも大事、という感情の源泉が何処にあるか、である。
…難しい。
人の心というのは、時として数学よりもはるかに難しく感じる。数学はエレガントだ。常に答えは正しい。数学的に答えが出ないという答えも正しいのだ。完全なのである。
一方で人の心はあいまいで、その時々で勝手に動き回る。正しい事とわかっていても、出来ない事が多い。逆に無理だと思っていた事が、感情の発露で乗り切れてしまう事もある。極めて不完全なのである。
このように、人の感情に対して分析する事が無意味だとはとても思わないが、さりとて―
―ドバンッ
「レイラー先生!新しい模型が出来まふぐぅぅ―…」
…危なかった。
「レイラーさん?今の人は…」
「い、いや、なんでも無いよアール君!出入りの職人だがね、うん!いや、うん、ちょっと驚いたもんだからね!暴漢かと思ってね、うん!魔法で吹き飛ばしてしまっただけだよ!はははは!」
「すごい勢いで飛んで行きましたヨ?」
…まずいっ!
「アール君!ち、ちょっとロスタム君とフィラー君の様子を見て来てくれないかね?!」
「??はい、良いですヨ?」
幸いにもボルズーに怪我は全くなく、葡萄酒の小壺を持たせたところ、「ありがとうございます!」と、上機嫌に帰っていった。
今だけは、彼の鈍さに感謝するレイラーなのであった。