二年と79日目 幕間
二年と79日目 幕間
「こりゃ美味そうなヤギ肉だね、いくらだい?…あんたも、もう良く分かってるね。あいよ」
マルヤムさんは大量のヤギ肉を格安で買い込むと、店主にむけて小さな袋を放った。
「こりゃなんだい?ばあさん」
「息子にでも食わせな。甘い菓子だよクシシ」
「おう、わりいな!」
マルヤムさんの買い物の技は本当にすごい。これが、フィラーが今もっとも学ぶべき技術の一つだ。
彼女は安く買いたたく代わりに、自分で作ったお菓子やおもちゃを店主に渡している。
これで、両方が嬉しくなるんだ。そして次からはもう少し安く買えるようになる。
これが、真の買い物なんだ!
「フィラー、持ちな…あーしんどい」
「はい、お持ちします」
しんどい、などと言って全然しんどくはなさそうだが、そういう事は言ってはいけない。フィラーは素直に荷物を持ってついていく。ちょっと体調が悪い気がするので、フィラーの方は地味にしんどい。
「次は…豆だね」
「はい、マルヤムさん」
マルヤムさんは凄い。読み書きそろばんも完璧で、旦那様とアール様から千ディル以上の買い物でも任されている。本当にすごい人なんだ。
旦那様の工房の中でも何か仕事をしているし、近くの鍛冶屋に働きに行く事もある。掃除や洗濯もやる。何でも出来る。旦那様や奥さま…アール様とも対等に話している。
マルヤムさんみたいにすごい人は、フィラーは始めて見たと思う。
…あ。…あの飴はもしかして…。
「あの、マルヤムさん。飴、ありがとうございました。レモン味、美味しかったです。」
「何の事だい?ババアはもう忘れちまったよ」
とぼけているのか、本当に忘れたのか、それとも知らないのか、…多分とぼけているんだとフィラーは思う。
ロスタムさんから貰ったあの飴は、本当に美味しかった。美味しくて、美味しくて、涙が出た。フィラーは、あんなに甘いものを食べた事は、今まで一度も無かったから。
「あの、マルヤムさん」
「あんだい?」
「シューイチロー家の稼業は…何なんですか?」
「ふむ、アタシにも、まるでわからないねクシシシシ」
マルヤムさんにもわからないなんて!それなら自分なんかにわかるわけが無い、とフィラーは思った。
旦那様は、なにかよくわからないモノをたくさん作っておられるし、偉い族長さんもいらしたし、学者さんに学問を教えていらっしゃるし、豪商とも話をなさるし、鍛冶屋さんとも話をなさるし、戦闘士もなさっていて、みた事も無い透明な板のはまった窓の、素晴らしい豪邸に住んでおられる。
すごいお金持ちであることはフィラーにもわかるけど、旦那様は偉そうでも無い。旦那様のズボンの裾は、犬のツンに噛まれていつもボロボロだ。
アール様はいつも丁寧で、物凄くきれいだ。しかも二級戦闘士で魔法師。フィラーの胸はアールさんを見ると、少しドキドキする。
フィラーの狭い世界では理解できない人たちだ。
この前なんか、帝都の宮殿に行って偉い人と話をしてきたという。たいそう危険な事だったようだ。ロスタムさんはご飯も喉に通らないくらい、ずっと心配していた、
この間、なんだかよくわからないうちに、シューイチロー家の人たちが、フィラーをあの店から助け出してくれた。
ロスタムさんなんて、死にそうになって…
ロスタムさん…
ロスタムさんが…
あたしはロスタムさんが…
あたしはロスタムさんの…
「フィラー、あんたいつから奴隷なのかい?」
マルヤムさんの問いかけに、フィラーはふと我に返った。
「えと…わかりません…生まれた時からだと思いますけど…」
フィラーがもの心ついた時には、もうすでに奴隷として働いていた。
両親も奴隷なのだが、もの心つく前に離されたので、全く覚えてはいない。覚えていないので、寂しくは無い。
奴隷として働いて来た時の事も、フィラーはあまり覚えてはいない。5年くらいはザンド・ナイヤーン様の店で、雑用の下働きをしてきたはずだ。
「そうかい。アンタは生まれた時からかい。昔はアタシも奴隷だったよクシシ」
「えっ?!」
「もう30年も前の話だけどね」
マルヤムさんが奴隷だったなんて…奴隷というのはもっと…何というかもっと…小さくて怖がりなはずだ。フィラーの常識では、そのはずだ。
「しっかりやれば、アンタもそのうち解放してもらえるよ。旦那はそういう人だからねキシシシ」
「解放…されたら…どうすれば良いんでしょう…」
フィラーには何もないのだ。少しだけ買い物ができるくらいの、そろばんしか分からない。この間、ザンド様に折檻されて、前歯が折れてしまったから、見目もよくない。
でも…解放されたらロスタムさんと…ダメだ!あたしにそんな価値は無い!あたしは奴隷で…
「解放されるまでに勉強しておけばいいのさ。アンタなんてどうとでもなるよ。人生なんて、簡単なもんさキシシシ」
「勉強、ですか?」
「ロスタムなんて、二年前はアンタよりバカだったね!」
マルヤムさんはそう言って、キシシシシ、と笑った。この笑い声だけは良くないと、フィラーは思う。
ロスタムさんが羊飼いだった事は彼から聞いたけど…
「勉強すれば、いい事がありますか?」
「さあね。朝夕の飯は腹いっぱい食えるようにはなるだろうね」
凄い!それだけで十分だ!打たれなければ更にいい!
「マルヤムさん!あたしはがんばります!」
「そうかい、じゃ、まずは豆屋の値切り方から教えようかねクシシ」
「はいっ!」
フィラーは意気込んで山羊の肉を抱え直すと、マルヤムの後ろについて行ったのだった。