夏、異国、熱帯夜
纏わりつくような湿気に苛々とする。時刻は既に夜というべき時間だというのに、この街は未だ酷く蒸し暑い。小さな小さな部屋、くたびれた集合住宅の中の安い安い部屋。自分でこれを選んだというのに、誰かに当たり散らしたくなるような気分になる。この街ではこの気温が、この湿度が当たり前で、周りに高層建築物が立ち並んでいることも当たり前なのだろう。ただ、それ故に空気は篭ってしまっている。 故郷のそれよりも格段に重い空気、湿っていて、全身がからめとられてしまうような。背中からは絶えず汗がしたたり落ちる様な、日の下を歩けば服の色が変わってしまうような。夕刻に頻繁に発生する雷雨のせいで、この世界は余計湿り気を帯びてしまう。
窓を開ける、空調を着けてもいいのだろうが、生憎と壊れてしまっている。数日前から無言を貫くそれにいくら愛を囁いても、まるで興味がない男に言い寄られた女のように冷たくあしらわれている。それも、心に棘が生えている原因なのだろう。それにしても、今日は酷く暑い。汗が背中を伝わり、垢の層を厚くしていく。背中に爪を立てれば、ぬるぬるとした液体と、垢が爪にこびり付くことだろう。不快で、不衛生だ。背中だけではなく、脇も、肘も、膝も、足首も、掌も、汗にまみれている。扇風機の電源をいれて、その前に座布団を敷いて頭を乗せる。動くことすら億劫になってしまうような暑さ、横になり、西瓜と氷を混ぜて砕いた飲料をストローで啜る。時折口の中に転がる氷塊や、繊維質の果肉が眠りかけた体を呼び起こしてくれるような。扇風機とそれのお陰で大分暑さは誤魔化されたけれども、それでも気分が悪くなるような暑さだ。
開いた窓からは外の音が聞こえてくる。遠く警音器の音が聞こえ、どこかで誰かが怒鳴ったような気もする。部屋には自分が立てる音以外聞こえてこないから、そういった音が耳に入ってくるのだろう。喧騒と、ストローが氷を揺らす音、扇風機が鳴る音、それだけが部屋の固まった空気をぐるぐると掻き混ぜている。扇風機の音がその中だと一番大きいだろうか。空調が壊れてしまったから、そこらの電気屋で買った中古品、それ故にかたかたと五月蠅い。それでも、今の自分にとっては十分だ、この音に苛々するよりも、これが与えてくれる冷感に感謝したほうが建設的だとわかっているのだから。
空になったグラスを床に置き、体を起こす。リモコンでテレビを付けて、座布団に腰を下ろす。先ほどまで頭を載せていて、これからも幾度となく頭を載せるであろう場所に尻を載せるということはどうかとも思うが、もともとの使い道はこちらが正解なのだから見当違いだろう。扇風機の前から体の位置を変え、テレビの前に向ける。テレビも中古品で、安さを求めたあまりに起動が遅い。それに少しばかり苛々としながらも、映像が映るのを待つ。
やっとこさブラウン管に色が走る。バラエティだろうか、ひな壇に座った人々が笑っている。ただ、何を言っているのかはわからない、別の言語からということもあるだろう、もとより理解するつもりがないということもある。チャンネルを適当にいじり、何か面白いものはないのかと回していく。何か人々がわいわいと騒いでいるだけの番組、サッカーの試合、幼児用の教育番組、自然番組、別段興味が湧かない。結局当たり障りのなさそうなニュース番組に固定する。ただただ気分でテレビをつけただけで、見たいものがあるなんてことはない。軽くこの部屋に彩りを持たせようと思っただけだ。殺風景な、テレビと冷蔵庫と扇風機とベッドと箪笥のあるだけのこの部屋、灰色一色だ。窓を開けても音は入ってくるが、それも街の喧騒、色は違えど似たようなものだ。テレビをつけてみたのは、それが嫌で別の色が欲しかったからだ。でもニュースでは結局一緒なのかもしれない。
キャスターが何かを読んでいる。重大なニュースなんだろう、顔には焦りのようなものが見えているし、何よりも原稿を手に持っているから。キャスターならば、普通のニュースなら机の上に置いた原稿をちらりちらりと見つつ話すことだろう。それができないのだから、今ここで入ってきたニュースなんだろう。当然、それも何を言っているのかわからないのでどうしようない。きっと、これを見ている人たちは焦り、驚き、話題の種にするような事柄なんだろう。中継とかが入ったら中身もわかると思うが、それも入らずにキャスターが話し続けているだけ。
結局それすらも煩わしくなって、テレビの電源を落とす。部屋の音はまた少なくなり、自分の心も落ち着かなくなってくる。扇風機は依然かたかたと音を立てているし、外の世界からの喧騒も未だ止むことはない。車が走る音が聞こえて、酔っ払いがまたどこかで怒鳴る。恐らく目の前の居酒屋だろう。
大学を卒業して、この街に越してきた。文系の弱小大学だったからだろうか、就職先がきまらず、空いた両手をぷらぷらさせることしかできなかった。勉強ができるわけでもなく、運動ができるわけでもなく、取り柄のない自分では面白みがなかったのだろうか。ただ、自分だって選り好みをしていたのだから文句は言えない。自分にはふさわしくない、もっと相応しい仕事がある、そういった結果無職となったのだから、因果応報と言うものだろう。
そうして無職になってみても、やりたいこともなく、やる気力も湧かずに適当に日々を浪費し続けてきた。この街に越してきたのは、それすらも面倒くさくなって刺激を求めたからだ。新たな場所で、今までと違う価値観の下で生活すれば、自分の中の何かも開花するだろうという適当な願望に全てをかけたからだ。皮肉なことに金はあった、大学生活を適当に過ごしてバイトにかけたからだった。
確かに、この街は故郷とは大きく違った。人種がまず違うし、価値観も違う、文化は違っていて当然だし、それ故に必要とされるものも全然違うのだ。それに楽しくなって、ここでならやっていけるような気がして、仕事も見つかった。仕事は最初楽しかった、言葉は通じないけれども、なんとか中学校で習った世界的な公用語を使えば意思疎通はできた。ちぐはぐでも、文章になっていなくとも、どうにか過ごせた。
ただ、途中で疲れてしまった。何かが原因で、やる気が削がれてしまった。それは今まで何度も経験してきたことだし、五月病に似ているのかもしれなかった。職場のかわいい娘に彼氏がいたからかもしれないし、なすりつけられたミスで酷く叱られたからかもしれない。故郷よりも蒸し暑いこの環境に嫌気がさしたのかもしれないし、張りつめていた緊張で疲れてしまったのかもしれない。そして、自分は仕事を辞めた。結局、二月弱しかもたなかった。
そのまま、貯めていた金を消費して食いつないでいく日々に入った。毎日朝起きて、うだるような暑さの下適当に観光地に向かったり、昼間から酒を飲んだり、賭博をしたり。金は前述の通りあって、余所者故に観光客と思われ、都合よく過ごすことができた。ただ、どんなに遊んでも遊んでも、自分の心の中の一抹の侘しさは埋まることはなかった。
そうして、ここ数日は部屋の中で過ごしている。買いだめていた果実を頬張り、水分を摂取し、共同の風呂にも入らず料理もせずに適当に過ごす。鬱に近いのかもしれない、外部とコミュニケーションをとることすら面倒で、管理人とも話していない。それでいて、窓を開けて音を聞いたり、テレビを付けたりするのだから、案外実は外部とコンタクトをとりたいのかもしれない。自分の感情なんて自分でもわからない。自分が造り上げたはずの迷路の中で迷ってしまったような。出口を探して這いまわるのだけれど、途方もなく広くて広くて、足が重くて重くて、考えることを放棄してしまいたくなるような。
ただ、一つだけいえることは、そろそろ隠れていられないということだろう。金が尽きてきた、貯蓄の額が物哀しい額になってきた。食料を購入する金ならまだしも、光熱費、水道代、何よりこの部屋の家賃を払うとしたならば心許ない。働かなくては、しっかりとしたところでは働けないので、妖しげな労働になるのだろうが、それでも働かなくては生きていけない。死ぬのは怖いのだ。それに、親から手紙が来た。どうやってここを知ったのだろうか、半ば家出のようにして出てきたというのに。いつでも帰ってくるのを待っています、仕送りもできます、心配しています、そういった内容の手紙だった。心臓が掴まれたような感覚に陥り、息ができなくなった気がした。だから、そろそろ動かないといけない。かくれんぼ、そろそろ自分が鬼になる番なのだろう。無理矢理にでも出口を探して、隠れている側から探す側に、受動的な姿勢を崩して能動的な姿勢になる頃合いだろう。
緑玉色の人生は、結局自分とは縁遠いものなんだろう。赤色の人生ですら、青色の人生ですら、遥か遠い。性と生と勢に満ち溢れた人生、落ち着きを知らず喧しい人生にも、省と牲と静に沈んだ人生、浮付きを知らず黙りこくった人生にも、辿り着けない。そんな自分では、安定しそれでいて昇り過ぎず降り過ぎない人生には程遠い。三原色のどれにもたどり着けない自分は、出来損ないというわけだ。
冷蔵庫から缶ビールを取り出す。最後の一本だ、あんなに買い溜めて置いたのに、もう飲んでしまった。酒ばかり飲んでいても事態は好転しない、そんなことはわかっている。それでも、酒に逃げておけば気楽だ。それに、西瓜は先ほどので食べきってしまった、アイスなんてものはない、他に涼めそうなものはない。果物はある事にはあるが、空気に温められ生温い。晩飯の残りもあるが、香辛料の効いた食べ物なんて体の熱を余計上げるだけだ。
ぷしゅ、音を立てて缶を開け、喉にその液体を流し込む。薄い薄い液体が胃に流れ込んで、一瞬体が違和感に反応する。明日、明日から動くことにしようか。ベッドの上に転がっている手紙を取り、真っ二つに裂く。座布団にまた腰を下ろし、缶ビールを煽る。顔と、喉に当たる冷風が心地よくて、はためく服に少しばかり苛々して、それをつまみにする。
どんな仕事をしようか、どこで仕事を探そうか。この街には、仕事が溢れている。いや、どの街にも仕事は溢れている。ただ、見つけようと思って目を凝らさなければ見つからないだけだ。砂浜によく似ている、綺麗な貝殻や、綺麗な硝子片は転がっているが、よくよく目を凝らして歩いてみないと見つからない。
缶ビールが喉を通り過ぎるたびに、身体は冷たい物を欲しがる。飲んでも飲んでも、身体は冷たい物を欲しがるのだから、無視するほうがいい。根本的にここが暑すぎるのだ、扇風機なんかでは誤魔化しにしかなりえない。空調を早く直さなければ、しかしその金も危ういのだから救えない。水を浴びようか、飲むのには適さないが、頭から被る分には問題ない。共同のシャワーは管理人室を通らなければならないし、誰かが使っていると面倒くさい。缶ビールの缶をどんどん傾けて、中身をどんどん胃の中に入れていく。気が付いたら空っぽで、振っても振っても水滴がぽたぽたと僅かに垂れてくるだけ。ほぼ一気に飲んでしまった、体は冷涼を求めて疼く。それに苛々として、感を屑籠向けて放り投げる。放物線を描いて飛んで行ったそれは、屑籠に入ることなく音を立てて床に転がる。それにまた苛々として、首筋を掻き毟る。指に汗がまとわりつかないのは扇風機のお陰か、掻いた部分に痛みが少しばかり走る。
転がっていた常温の果物に齧りつく。星形の果物は本来ならば皮をむいて食べるのだろうが、手が寂しいのだ、口が寂しいのだ。生ぬるい液体が口の中に広がって、酸味が広がって、苦みが広がっていく。あまりの苦さに、あまりの酸っぱさに、あまりの不味さに果物を吐きだし、手に持つそれを放り投げる。苛々する、二度とあの果物を買うことはないだろう。前食べた時は美味しかったのに、今回は大外れだ。
大きな音を立てて、扇風機が突然止まる。電源を入れ直しても、どう動かそうにも応答はない。先ほどまで部屋を掻き混ぜていたそれがなくなったことで、一気に部屋の空気が体に纏わりついてくる。それにどうしようもなく苛々して、座布団を壁に投げつける。
遥か遠く窓の向こうから、サイレンが聞こえてくる。先ほどのことに怒った隣人だろうか、ドアが強くノックされる。本当にどうでもよくなって、暑さに閉口して、苛々をぶつける場所も見つけられなくて、ベッドに横になる。ドアのノックが強く、多くなっていく。サイレンがどんどん近づいて、五月蠅くなっていく。それから逃げ出したくなって、耳を塞いで目を閉じる。放っといてくれ、邪魔しないでくれ。