4
「冗談でしょ?」
神の声を聴き神託を授ける御子が、妓楼の薄汚れた座敷で娼妓と向き合っている。それだけでも何の冗談だと言いたくなる状況なのに、彼女はこともなげに常識をひっくり返した。まるで王城に娼妓はいない、と言うのと同じように。神殿に神はいないと言い切ったのだ。
ビフレストで、創造主ザキラは絶対の神だ。神殿は国内の至る所にあるし、毎週決まった日に祈りを捧げる行事がある。娼妓たちも、その日は妓楼から出て神殿へ行くことが許されるのだ。ヴィリだって、幼いころは疑うことなくザキラを信仰していたし、姉さんたちと神殿で祈り、神官の説教を聞いていた。ザキラの神託と言う奇跡も、国民の信仰心を強めている要因だ。
「神がいないなら、神託はどうなるの?」
「神殿のでっちあげです。わたくしには、神の声を聴く力などありません」
ニニアンがそっと頬にかかる髪を掬い上げる。
神の声を聴くはずの耳は、ヴィリと何も変わらない人間のそれだった。
「でも、日照りの続いた夏に、その時の冬の水難を予言したって」
「それは予言と言うより予報、もしくは統計です。猛暑の年は、冬が例年より厳しくなることがままあるのです。神殿は何百、何千年と言う国の記録の中から、気候や自然現象から当て嵌まりそうなものを選んだにすぎません。冬に雪が降るのは当たり前ですし、雪が降ればそれに関係した事故も起きる。山間ならば雪崩の一つや二つ珍しくありません」
「じゃあ、流行り病で先王が崩御するのを言い当てたのは……」
淡々と語っていたニニアンが表情を硬くして、ヴィリに失言を気付かせる。
彼女にとって、先王は間違いなく父であったのだ。
わずかな間合いで平静を取り戻したニニアンは、父親の死と神託の関連も否定した。
「……病も、流行する年というものがありますから、それも記録からおおよそ検討がつきます。それに神殿は、父が亡くなると明言した訳ではありません。『高貴な方』と濁しただけです。実際、貴族や傍系の王族でも何名か亡くなりました。父が倒れなくとも、その方たちも十分『高貴』と言えるでしょう」
「……何で、そんなこと」
「神殿は、神の存在などたいして気に留めていません。所詮は見えぬもの。神殿と言う場では民は愚者となる。神官は己の欲のために、愚者から寄進を募って私腹を肥やしているのです。神殿にとって神託は、愚者を増やす道具でしかありません」
ヴィリは返す言葉をなくして、ただ目の前の少女を凝視した。
グーニャが目を輝かせて語ったザキラの奇跡は偽りだった。記録だとか統計だとか、そんな人間的なものを神の言葉と騙って信じ込ませていたのか。
「ふざけるな!」
失言の後ろめたさも何も吹き飛ばし、ヴィリがニニアンに掴みかかった。
さらさらと指から逃げる生地を鷲掴みにして、華奢な体を突き倒す。
「あんた、自分が何を言ってるか分かってるのか。あんたが言ったことは、ザキラを信じてる全ての人への裏切りだ。娼妓たちが――あたしたちがなぜザキラを信じると思う?あんたがいるからだ。何ものにも穢されない存在があるって見せられてるから、どれだけ汚れてもいつか救われるんじゃないかって、そんな希望に縋れるんだよ」
神は死んだと言いながら、神などいないと斜に構えて見せながら、神殿にいる御子の存在は確かにヴィリの憧れだった。
特区と蔑まれるこの街で、男の欲に翻弄される娼妓たちを見ながら、自分もその身で汚れを知りながら、日の当たる神殿を思い描いていた。
「それなのに!あんたは何なんだ。皆、あんたみたいになりたがってるのに。あんたを特別だって尊敬してるのに」
「そんなもの」
揺さぶられるままだったニニアンの唇が、簡潔に切り捨てた。
「迷惑よ」
「――このっ!」
ヴィリが腕を振り上げても、彼女は目を逸らさない。
「そこまで」
こぶしがニニアンの頬を弾く寸前、耳元でイツァンが囁いた。
「こう言うときの女って、平手だと思ってたんだけどな。威勢がいいのは嫌いじゃないけど、これ以上は俺の仕事に引っかかるんだよね」
振り下ろした手首を掴んだイツァンは、片腕でひょいとヴィリをニニアンの上から退かしてしまう。
「仕事?」
「これでも一応、王女さまの護衛官でね」
「異国の者が護衛官?せいぜい従僕だと思ってた」
「まぁ、それも外れじゃない」
イツァンは子猫でも宥めるような気楽さで、毒づくヴィリの両手を押さえると、「よっこいしょ」としゃがみ込んだ。
「しかしお嬢さん。人間ってのは立場によって、置かれてる現実も変わる」
そんなことを言いながら、イツァンが起き上がったニニアンのスカートの裾を掴む。何枚も布を重ねたスカートは床を引きずるほどの長さだが、ヴィリが暴れたせいで指先が覗いている。
「これがニニアンの現実」
乱れた衣装を直してやるのかと思ったのも束の間、彼はバサっとスカートをめくり上げた。柔らかそうな衣装が空気を含んで翻り、ニニアンの両脚が露わになる。
「イツァン!!」
声を上げたニニアンが、わたわたと膝まで引っ張り下ろす。
「何だよ、下はいてないのか?」
「はいてるわよ失礼ね!不敬罪だわ!」
「そこは女の恥じらいじゃないのか」
腕と同じで白くたおやかな脚に、ヴィリは釘付けになった。いや、正確にはその足首に絡みつく戒めに。
「どうして……」
「『この国の次期女王で、御子でもあるニニアンに足枷が?』」
代弁したイツァンに頷きながら、ヴィリはそれから目を離せなかった。
細く、ともすれば折れてしまいそうなニニアンの両足首は、囚人に施すような鉄の足枷で繋がれていた。
「話を、聞いてくれるかしら」
「………」
思いもよらないものを見せられて気勢を削がれたヴィリは、大きく息をついてその場に腰を下ろした。




