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そこには、対極がいた。
何もかもが白かった。
ひらひらと幾重にも重なった衣装、袖から見える小さな手、床に広がる長い頭髪、そして滑らかな頬も。一切の汚れを許さない絶対的な白。その中で、形のいい唇と半分だけ開かれた瞳だけに乗せられた赤が際立った。
ただし、その瞳は焦点を結んでいない。虚ろな人形の少女が、男の腕に抱かれてそこにいた。
「――あぁ、悪い。もう少し待ってくれ」
少女を抱いて座っていた男が視線に気付き、初めて――それまで彼はただ少女を見つめているだけだったのだ――ヴィリを見る。
楼主に答えたのはこの声だった。
その男は、ヴィリが妓楼で見てきたどんな男とも違っていた。
まだ少年を脱したばかり、多く見積もっても20歳前後だろう。彫りの深い顔立ちと褐色の肌からビフレスト人ではないことが分かる。時折流れてくると言う、西国の民だろうか。
少女を見つめる目はとても穏やかで、欲がない代わりにどこか憂いめいたものを宿している。
「あの、旦那さま……」
「俺はガムル・イツァン。あぁ、ウォルシャカの生まれだから、ガムルが家名でイツァンが名前。イツァンでいいよ。旦那さまなんて呼ばれる者じゃない」
やはり。ウォルシャカは大陸の遥か西にある国だ。しかし言葉に不自由している様子はないので、ビフレストは長いようだ。
2人とも着ているものは派手ではないが、麻や綿にはない光沢がある。普段着として絹を身に着けられるのは、上流階級に属する身分であることの証明。楼主が機嫌がよかったのは、客の身分がそこらの商人レベルではないからだ。
「あの……イツァン、さま?あたしを呼んだのは、あなたですか?」
「いや、コイツ。すぐ起きるから」
「起きる?」
男――イツァンにつられて視線を落とした。それに合わせるように、少女の目がゆっくりと瞬く。
「あ……」
たったそれだけの動作に知らず息をひそめてしまうほど、少女は繊細だった。
「ニニアン、寝すぎだ」
イツァンの囁きに応えて、しっかりと少女の目が開く。真紅の瞳には力があった。
だがすぐに少女は顔をしかめてこめかみを押さえる。
「……頭が痛い」
「最近、量が増えてるからな」
「最悪ね。殺す気かしら」
花弁のような唇から紡がれる物騒な言葉に、ヴィリは素直に呼ばれてやってきたことを後悔し始めていた。
「あの、あなた方は一体何ですか?」
とにかく話だけ聞くか、適当に流して帰ってもらわねば。楼主は儲け話と踏んだらしいが、どう考えても厄介事だ。
少女はヴィリを見ると、なぜか慌てたようにイツァンを見上げた。白い髪に挿した髪飾りが揺れるのか、シャラシャラと音がする。
「イツァン、彼女を上座へ」
「はいはい。お嬢さん、どうぞ奥へ」
イツァンは少女を抱えたまま立ち上がると、ヴィリに席の移動を求めた。
「お客さまが上座なのは当然です。そのままで」
「でも、わたくしたちが無理を言って会っていただいたのですから」
「お代を払っていただいた以上、娼妓に否はありません。どうかそのままで」
頑なに動こうとしないヴィリに、同意したのはイツァンだった。
彼は再びその場に膝をつき、少女を座らせる。そして自分もその脇に胡坐をかいた。
「お嬢さんが正しい。目的はどうであれ、お嬢さんの時間を買ったのは事実だ。ニニアン、妓楼には妓楼のルールがある。無駄なことに時間をかけてる猶予はないだろ」
「………分かったわ」
少女はイツァンに頷いて、数歩分、ヴィリの方へ這ってきた。
「脚が……」
悪いのか、と続く言葉は飲み込んだが、少女は察したように肩を竦めた。
「日常生活に支障はないのです。大抵、イツァンが運んでくれますし」
「それ以上重くなったら、考えるけどな」
腕を組んだイツァンがニヤニヤと少女を見た。
「年頃の女の子に触れられて嬉しいくせに」
「成人前のガキにゃ興味ない」
「あら、失礼ね。わたくしは来年で16よ」
「えぇ!?」
ヴィリが声を上げる。
昨日15歳になったばかりのヴィリでも、目の前にいる少女より大きい。個人差と言うくくりでは納得できないほど、彼女の体は細く小さかった。
ヴィリがしげしげと眺めると、少女は姿勢を正して頭を下げた。
「申し遅れました。わたくし、ニニアン・シフ・ビフレストと申します」
「……ビフレストって、もしかして」
「はい。わたくしはビフレスト王国第一王女。そして、ザキラの“御子”と呼ばれる者です。もっとも、“姫御子”と言った方が通りはいいかもしれません」
「姫御子……あなたが…?」
どれほど少女を見つめていただろうか。
驚きの波が過ぎると、今度は笑いが込み上げてきた。
うつむいて肩を震わせ、ヴィリは笑った。
「何て……にく…」
何と言う皮肉か。
神は死んだのだと言い聞かせた直後、神の遣いが現れるとは。
神を冒涜した罰でも下しに来たと言うのか。
突然笑い出したヴィリを、痛ましげな表情で見守っていた“御子”――ニニアンが、再び口を開く。
「あなたの父親は、ビフレスト王国に仕える“三公”の1人、太政官太師のスヴァルト・アールヴヘイムですね」
「なぜ、それを……」
「単刀直入に申し上げます。アールヴヘイム太師の持つ一切の権限の剥奪に、協力していただきたいのです。ヴィリ、あなたに」
今度こそ、ヴィリは声を上げて笑った。
「尊きご身分の王女さまも、俗物的なんだね。臣下の1人や2人、さっさと左遷すればいいじゃない。王女さまなんだから、簡単でしょ」
「それはできません。父亡き後、次期継承者はわたくしとなっていますが、わたくしはまだ成人に達していない。未成年の王族は王位に就けず、実質的な権限も与えられません」
「後見人に偉い人がついてるんじゃないの?」
「その後見こそ三公であり、中でも最も強い権力で政治を掌握しているのが、アールヴヘイム太師なのです」
つまりヴィリの父親の権限をしのぐのは、王位しかないと言うことだ。
しかし、ヴィリには政変など興味もないし関係もない。実際、大臣が変わろうが宰相が変わろうが、自分たちのような底辺にいる者には大した差ではないのだ。
「そもそも、何が問題なの?放っておいても、成人したらあなたが王になるんでしょ。だったら後1年くらい我慢すればいいと思うけど」
「それまで待てるのであれば、こんなバカなことはいたしません」
「じゃああれだ、神殿の偉い人に頼んでみたら?大切な“神の遣い”の言うことなんだから、何とかしてくれるよ」
「それは神殿にとって都合の悪いことなのです。わたくしがそんなことを言えば、神殿はわたくしを亡き者とするでしょう」
「亡き者って、それこそ神への冒涜じゃない」
神殿には“神の遣い”を殺す理由がない。崇め奉っている神からの神託が受けられなくなるではないか。
ヴィリの疑問を読み取ったのか、ニニアンは微笑んで断言した。
「神殿に、神などおりませんから」




