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――神は死んだ。
そう、少なくともヴィリの神は死んだのだ。
そうでなければ、今のこの状況に説明がつかない。
薄い板を通して、階下のざわめきが耳に届く。格子窓から見上げる日は高く、もう食事の支度が終わるころだ。
ヴィリは目を閉じ、大きく息をついてからゆっくりと体を起こした。
「痛っ――」
途端に走る痛みに動きを止める。
何の痛みか、など考えたくもない。
昨夜の客は40手前で、“そう言うこと”にも慣れているからと楼主に言われたが、相手がどれだけ経験豊富だろうが、初めての自分には関係ないことだ。
「クソジジイ……」
不能になれ、と呪詛を込めて毒づくと、ヴィリは今度こそ布団から抜け出した。
この日の為にと新調された衣装は、畳の上に脱ぎ捨てられてぐちゃぐちゃだ。仮に綺麗に畳まれていても、二度と袖を通す気にはなれない。
そのままにしておけば、部屋付きの禿が片付けるだろうと、高価な衣装を足蹴にして部屋の隅へと寄せた。
部屋の隅に置かれた行李から着古した衣装を引っ張り出して、傷む体を庇いながら身に着けていく。
――部屋付きの禿、か。
たった1日で偉くなったものだ。少し前まで、自分も階下で姉さんたちの食事を作っていたというのに。
明日からはこれが日常になる。そう考えると、深い沼に沈み込むような不安を覚えた。
けれど、どれだけ逃れようともがいても救いはない。
ヴィリの神は死んだのだ。
ヴィリは昨日15歳になるとともに――水揚を終えた娼妓だった。
※※※
ヴィリは妓楼で生まれた。
もちろん楼主の娘でなどではなく、娼妓と客の間の子供だ。
娼妓が身籠るのは珍しいことではない。しかし、実際に子を産むとなるとその数は一気に減る。
子を産むまでの長い時間、客を取ることができないし、生んだとてまともに育てられるはずもない。そんな余裕があれば、そもそも娼妓などに身を落としてないだろう。
ヴィリが生まれることを許されたのは、母ではなく父に因るところが大きかった。
母は大層な美人だったとヴィリは記憶している。当時の花街では規模の大きな妓楼で、水揚直後から人気をさらった一番の売れっ妓だった。ヴィリの大きな黒い目も濡れたように艶やかな黒髪も、すっきり整った顔の造作も、母から受け継いだものだ。
その母をしばらくの間、金にものを言わせて買っていた男がいた。それがヴィリの父だ。
父はかなり身分の高い貴族であり、母を気に入っていて子ができたと知っても堕胎しろと言わないばかりか、足しげく母の元へ通っていた。
それらのことから、楼主側は父が母を身請けするのを期待した。売れっ妓の身請けともなれば恐ろしいほどの大金が妓楼に入る。母としても、親子で幸せが掴めると夢見たことだろう。
しかし父はある日、あっさりと身重の母を捨てた。
妓楼へ通わなくなり、母からの文も拒否しながら、他の妓楼へ顔を出していると知った母の悲嘆はどれほどのものであったか。
一方、打ちのめされた母をしり目に、楼主は新たな計算を始めていた。その頃には、堕胎できる期間などとうに過ぎており、子は産むしかない。ならば莫大な財産を持つ父から、子の養育費を請求するのはだろうか。断られたら、娼妓との間に子を成した醜聞を盾にゆすればいい。母を1年近く売れなかった分を取り返さなければ割に合わないと考えたのだ。
楼主はそのために、ヴィリを産ませ5歳まで母と同じ妓楼で育てた。
5年間、一度として訪れなかった父を妓楼へ呼び出し、店で娘を育てたのだから養育費を出してくれと言った楼主に、当然のように父は妓楼が勝手にしたことだと突っぱねた。
当時、5歳のヴィリはうっすらとだがその時のことを覚えている。
向かい合って話をする楼主と父。部屋の隅でただ黙っている母。それを、ヴィリは扉の隙間から覗き見ていた。
話の内容まではさすがに覚えていないが、後から聞いた話では楼主は父に言ったらしい。
『跡継ぎが必要ではないのですか』と。
それを聞いた時は、楼主のあくどさに呆れた。
楼主が5年ヴィリを育てたのは、年数を区切って明確な金銭を要求する他に、父に正式な跡継ぎがいない場合を見越していたのだ。
事実、父は母を買う前に貴族の女を娶っていたが、この時まだ二人の間に子はいなかった。楼主は貴族の大家の跡継ぎとして、ヴィリを担ぎ出したのである。
この先、もしも夫婦の間に子ができなければ、ヴィリだけが父の血を引く子となる。ヴィリの価値は父にとってとても高いものになると楼主は踏んでいた。
だが、父は全く興味を示さなかった。どころか、勝ち誇った表情の楼主に笑みさえ浮かべた。
父が何事かを言って、楼主が息を呑んだ。
――まさにその日の朝、父の妻の懐妊が分かったとのことだった。
話は終わりだと席を立つ父を、楼主は忌々しく見送った。母を身請けさせることも、養育費を取ることもできず、妓楼には損だけが残るのだから当然である。
ヴィリは父が部屋を出る前に玄関へ向かった。
客は全てそこを通ることを知っていたので、そこにいれば父に見つけてもらえると思ったのだ。
開け放たれた玄関の外には、見たこともない立派な馬車が停まっていて、周りに何人もの人が立っていた。
みんな大人で、腰に剣を差している。
『退け』
低い声に振り向くと、父が見下ろしていた。
ヴィリが避けた脇を、父は何も言わずにすり抜けて行った。
一歳の感情の揺らぎもなく、一切の情もなく。
呆然と見送るヴィリの横を、彼女に似た女が――母が父を追って駆け抜けた。
父に縋りついて、ヴィリを指さし懇願する。
『せめてあの子だけでも』そう叫んだ母の声は覚えている。
せめて娘だけでも連れて行ってくれ、そう頼んだのだろうか。この先、妓楼にいてはヴィリの行く末など目に見える。強欲な楼主のことだ。損をした分を取り返すように、ヴィリを売るに決まっていた。
けれど父は縋った母の手を打ち払い――。
※※※
「ヴィリ!いつまで寝てるんだい!?ヴィリ!!」
がらりと引き戸が開けられ、恰幅の良い中年の女が現れた。
騒音で目覚めたヴィリは、億劫そうに布団から身を起こす。
格子窓から射し込む光は橙に染まり、夕暮れ時であることを告げている。昼前に一度起きて着替えた後、今まで眠っていたらしい。随分と長い昼寝だ。
中年の女は強欲楼主の妻であり、娼妓たちを管理している女将だ。
「ヴィリ、あんたに客が来る。さっさと準備しな」
その女将が、何やら不機嫌に告げた。
「でも女将さん、あたしは明日まで休みだって……」
水揚の後は、2日の休みを与える決まりだったはずだ。
まさか今夜も、と蒼ざめたヴィリの腕をつかみ、女将は部屋を出た。
「そっちの客じゃないよ。何だか知らないが、あんたに会わせろって客が今夜くるんだとさ」
1階へ降りた女将は、玄関で待ち構えていた禿の少女たちに金子とヴィリを引き渡す。
「湯屋へ行って身綺麗にしてくるんだ。ただし30分で戻っておいで。いいね?――あんたたち、道草なんかするんじゃないよ!」
「はーい」
新しい衣装やらの荷物を手にした少女たちが、従順に頭を下げてヴィリを促した。
花の刺繍を施した布靴をひっかけて、ヴィリは店を出る。戸口でちらりと振り返れば、女将はいそいそと薄暗い店の奥へと戻るところだった。
そこまで大金ではなくとも、湯屋へ行くにも金がいる。妓楼としても娼妓たちを毎度湯屋へ行かせる余裕はないはずなのに、随分太っ腹なことである。
ヴィリを訪ねてくるのは正規の客ではないようだ。しかし、楼主はその訪問に金の臭いをかぎ取ったらしい。訪問の理由までは分からないが、商品は磨いておくに越したことはない、と言う思考が透けて見えた。
あの時、妓楼自体が潰される恐れもあったと言うのに、喉元過ぎれば何とやら。つくづく強欲な商売人である。
「ヴィリ姉さん、行きますよー」
少女たちのうちの1人、ヴィリの部屋付きであるグーニャが手を振っている。二つ年下のグーニャは活発で誰とでもよく話す娘だ。今もヴィリを待つ間、通りを歩く人とあいさつを交わしている。
「今行く」
ヴィリは足を返して店先へ向かった。
ヴィリが働く妓楼は、花街でもメインの通り沿いに建っている。妓楼を背にして西はもっと規模が小さく安い娼館がある地区で、東は王都の中心部へと繋がっている。
花街も地図上では王都に含まれるが、街の特性を疎む民や下級貴族は以前から花街を醜悪なものとして廃止すべきと声を上げてきた。しかし花街で動く金の大半は上級貴族が娼妓へとつぎ込んだものであるだけに、自分たちの居住地域から遠ざけてしまっては楽しめない。そうした事情から、花街を「特区」と呼び王都とは区別する、と言う建前ができあがっていた。かくして、花街は変わらず貴族が落とす金で潤い、夜は王都にも劣らぬ隆盛を極めている。
因果なものだ。
「見て!凄く綺麗」
「本当、素敵!」
不意に、先を行っていた少女たちから歓声が上がった。顔を上げれば、彼女らはうっとりと何かを見つめている。
その視線を追ったヴィリは瞠目した。
通りの先。家々が並ぶその向こうに、橙色に染まった塔と城がそびえていた。
昼間は真っ白の壁を誇るように存在を主張しているそれらが、燃えるような夕日の化身へと姿を変えている。
「綺麗ですね。さすがビフレストの王城と神殿です」
興奮気味に頬を上気させるグーニャの隣で、ヴィリはゆっくり喉を上下させる。
――炎だ。
ヴィリはそう思った。
厄を祓い、穢れを浄化する煉獄の炎。
清浄な城や神殿には必要ないものであるのに、ヴィリは喚起されたイメージを振り払うことができなかった。