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Fの軌跡  作者: ひこうき
間章
43/60

リアカー

待っていて下さった希有な読者様、遅くなってすいません!

地元から離れての新生活が色々忙しく、中々時間を作れませんでした。

それに追い撃ちをかけるかのように、パソコンがダウンすると……。


大分久しぶりな更新となりましたが、すぐに本編にも戻れるように努力して参ります。

「ねぇ、本当に仕事をくれるの? ラジオ買えるだけのお金、貰えるんだよね?」

「ああ、貰えるとも。ぼーやが私のお願いする仕事を、ちゃーんとこなしてくれたらねぇ……」

 いつもの優しい笑顔を浮かべたラジオおばさんは、猫背のままゆっくりと歩いていた。そして俺はと言えば、目の前を歩くラジオおばさんに同じ質問を投げかけては、同じ返答が返ってくる事に疑問を感じたまま、ただ黙々と歩いている。

 ラジオおばさんが、俺に仕事をくれるというのだ。

「ぼーや、足下に気をつけるんだよ……。この道は転びやすいからねぇ……」

「う、うん……」

 辺りは暗い。元々貧しいこの地域では、街灯なんて代物は中心地付近にしか配置されておらず、その周囲に寄生虫の如く広がったこのスラムでは一本だって立ちやしない。立ったところで、すぐに誰かに壊される、または盗まれるのは目に見えていたからだ。

 子供である俺がビビるには十分に暗い裏道の中で、ただ黙々と歩くラジオおばさんを、俺は何だかいつもよりも恐ろしい存在に感じてしまった。いつも通りの優しいラジオおばさんにそんなこと言うのは気が引けたから、俺は黙って後をついて行った。

 そして歩くこと数分もしない内に到着したのは、暗がりの中にポツンの佇む、木造製の小屋だ。大きさとしてはちょうど俺達のボロ小屋の2倍ほどで、人一人が住むには十分とは言えないが(もちろん一般人にとって)、小さ過ぎるということもない。張られた木の板は年季が入っていそうで、見た目だけだったら俺達のボロ小屋と同等に扱われそうな家だった。

「この小屋は?」

「わたしのお家だよ……」

 ヒッヒッヒ、と体全体で笑ったラジオおばさんは、入り口のドアを開き、中に入る。半身だけ身を出して、俺を手招きしていた。

 コクリ、と頷いた俺は、素直にドアへと歩を進める。その途中で、小屋のすぐ近くに置かれたリアカーが目に入った。

 木の板を重ねて造られた、木造製のリアカーだ。荷物を積むために広々としたスペースが確保されている後部は現在、ゴロリと大きな丸太がたくさん載せられている。

 俺は歩くのを止めると、リアカーを指差しながらラジオおばさんに聞いた。

「ラジオおばさん……あの、たくさん丸太が積まれた人力車は?」

「それが、ぼーやにして貰う仕事だよ……」

「これが……?」

 一体何の仕事か、と俺が疑問に思っていると、ラジオおばさんは変わらず手招きをしているので、俺は慌ててドアの中に入った。

 部屋の中は真っ暗だった。一瞬明かりが無い家かと思ったが、俺の傍にいたラジオおばさんが離れたかと思うと、程なくして明かりが灯された。

 質素な部屋だった。小屋全体は木造で、古いのか床はギシギシと鳴る。こぢんまりとした部屋に配置されている家具は、毛布が被せられた揺り椅子と、小さな木製机だけだ。全体的に置かれている小物は少なく、目につく物といえば、淡い明かりを纏うランタンと、机の横に立てかけられたおなじみの手回しラジオ。何とも淋しい雰囲気の部屋だった。

「ラジオおばさんは、いつも何処で寝ているの?」

「そこの揺り椅子だよ……」

「部屋はこれだけ?」

「いーや、後一つあるよ……」

 ラジオおばさんは猫背で両腕を後ろに組んだまま、アゴで指し示す。その先には、人一人がギリギリ入れる程度の小さな穴が開いていた。ランタンの明かりが伝わらないのか、穴の先は真っ暗で、どのような部屋になっているのかは分からない。

「今、イスを出すからね……。ココで待っているんだよ……」

 ランタンの明かりを調節して、部屋全体が程よい明るさになったのを確認したラジオおばさんは、ゆっくりとテーブルを離れると、奥の部屋に続く穴へと向かっていく。

「あっ、俺手伝うよ」

 そう言って、ラジオおばさんの元へと駆け寄ろうとした瞬間。


 ギロリッ、と。


「――――ッ!」

 ラジオおばさんの表情が、激変した。

 一瞬にして笑顔が消え失せ、刺さるような鋭い物へと変化したのだ。

「ここから先は、入っちゃいかんよ……」

 いつもより数倍も圧迫感のある声でそれだけ言うと、その恐ろしい表情は溶けるようにして消え失せ、後には最初の笑顔が残っていた。俺は驚いて何度もコクコクと頷くき、満足した様子のラジオおばさんは、ポッカリと開いた真っ暗な部屋へと入っていった。

 何をしているのかも分からないまま俺がじっと待っていると、ラジオおばさんは古びた小型の木製イスを抱えて、ゆっくりと出てきた。

「さぁ、ココに座って……。仕事の説明をしようじゃないか」

「う、うん……」

 先ほどの変わり果てたラジオおばさんの顔に、俺はまだ恐怖を抱いていた。半ば警戒心を持ちながら、促されるままに置かれたイスに座る。俺が座ったのを見てから、ラジオおばさんは揺り椅子に座り、俺に向き直った。

「それじゃあ、仕事の説明をしようかねぇ……と、その前に」

「な、何?」

「ぼーやは今、幾つだい……?」

「分からない」

「……誕生日は?」

「分からないよ」

「文字は読めるかい?」

「ううん、読めない」

「数は?」

「100までなら。足し算引き算はできるよ」

 そうかい、とラジオおばさんは一人呟いた。質問の意味を理解出来ずに困惑している俺を置いて、説明を始める。

「ぼーやにはね、おもてに置いてあったあの木材を、積んだリアカーごとある場所まで運んで欲しいんだ……」

「あの、でっかい丸太を?」

「そうだよ……。ぼーやは、この町の外れにある、廃墟になった大きな建物を知っているかい?」

「うん、よく知ってる」

 昔は病院だった建物だ。つい数年前までは、地域で一番大きな病院だったそうだが、最近になって町の中心部に新しい病院が建ったものだから、あっと言う間に廃されてしまった。それでその病院は死体処理をする際に、焼却では無く埋め立てをしていたので、実際に廃墟となった今でも大量の死体が傍に埋まっている。薄気味悪くて、俺達のような子供はもちろん、地元の大人だって近づきやしない。

「そんな場所に、木材を運ぶの?」

「ああ、そうだよ……」

 仕事の内容を語るラジオおばさんは、笑顔を絶やさなかった。ゆっくり数回頷いてから、何処からともなく懐中時計なる物を取り出す。

「取引先への木材の搬送を頼まれていてね……。その引き渡しに指定された場所が、ここからはとっても遠いあの廃墟前なんだ……」

 だけどねぇ、と嘆かわしげに呟いたラジオおばさんは、右手で自身の太ももをさする。

「私はこの通り、足が弱いからねぇ……。それにもう歳だし、あれだけ重い荷物を運べるだけの元気は無いんだ……」

「何でラジオおばさんは足弱いのに、その客は重い荷物を運ばせようとしたのかな?」

「私はね、物資搬送の仲介の仕事をしているんだよ……。いつも運んでいるのは、私じゃないのさ……。今回は、搬送係が行方不明になってしまってね……」

「それで、その搬送係の代わりに、俺に運んで欲しいの?」

 ラジオおばさんは頷いた。

「で、でもどうして俺なの? 他にもそういう仕事を探している人は、いーっぱいいるのに」

「ぼーやがあのマサキとかいう女の子のために、ずーっと頑張ってるからだよ……。私も応援したくてね……」

 確かに、ラジオおばさんにはラジオを購入しようとしていることを伝えていた。つまり彼女は、俺がラジオを買おうと必死になっているのを見てきて、それで応援するために仕事をくれるというのだ。

 それならば、俺に断る理由はない。ただリアカーを指定の場所まで運べばいいのだ。ラジオおばさんの厚意も無下にできるはずがない。

「あ、ありがとう、ラジオおばさん……! 俺、頑張るよ! やらせてくれ!」

「そうかいそうかい……」

 カッカッカ、と短い笑いを続けたラジオおばさんは、俺に懐中時計を見せてくる。

「搬送期限は明日の午後3時だよ……。お金は、仕事が終わったらまたおいで。そしたらちゃーんと、あげるから。……それじゃ、今晩は休んで、また明日の朝……」

「いや!」

 と大きな声を出して、俺は勢いよく椅子から立ち上がった。

「今すぐ、行くよ! 早いに超したことはないんだろ?」

「それは、そうじゃけぇど……」

「なら、今から行ってくるよ! 俺、早くお金を貯めて、ラジオを買わないといけないし!」

「……そうかぇ」

 ラジオおばさんは、ふぅと息を吐き出してから、手に持っていた懐中時計を手渡してくる。

「……これは?」

「時間を確認するのに必要だろう……? ぼーやは文字が読めないそうじゃけぇど、大丈夫けぇ……?」

「うん、時計は大丈夫だ!」

 それだけ言い残して、懐中時計をポケットに突っ込むと、俺はドアから飛び出した。すぐ傍にある、俺の何倍も大きいリアカーの取っ手を掴んで、前部を浮かばせる。

 そして、いざ進もうとしたところで、嫌にくっきりとした、ラジオおばさんの声が聞こえてきた。


「頑張るんだよ」


 *


「ぐぬぬ……」

 引っ張る。

 ただただ、引っ張る。

 何の思考も伴わないこの単純な行動がいかに大変か、俺は今身をもって思い知っている所だ。

 ラジオおばさんから、木材を所定の場所まで運び届けるという仕事を得た俺は、超巨大な木製リアカーを死ぬ気で引っ張っている。不穏にも軋む音を発するリアカーの後部には、俺の二の腕の何倍も図太い丸太が何本にも渡って重ね積まれており、そのためリアカー全体の重量は子供一人が運ぶには無茶極まりない物となっていた。

 それでも俺は、砕けんばかりに歯を食いしばり、全力でリアカーを引っ張っていた。力の掛かり具合が最高潮に達した所で、ようやくリアカーは重い腰を上げて、数十センチ程度動いてくれる。それを何度も繰り返す事で、俺は何とかリアカーを移動させていた。

「いっつ……」

 全身から汗が吹き出して、血の滲んだ両掌に染みる。ジンジンと広がるような痛みが両手を襲い、俺はリアカーの取っ手を離してうずくまってしまう。あまりに長時間、かつ力強く取っ手を握っていたものだから、掌の皮膚は完全に擦りむけ、そのため血が滲んでいるのだ。

「ちくしょう……汗が染みる」

 手の甲を使って、オデコに浮かぶ大粒の汗を拭き落とす。そしてぎゅっと下唇を噛んで痛みを堪えながら、血だらけの両手で取っ手を掴んだ。

「つ~~~!」

 錆から凹凸の激しい鉄製の取っ手は、負傷している手で掴めるような状態ではない。それでも掴んで引っ張らないとリアカーは動かないワケで、リアカーが動かない限りは、後ろに山積された丸太を届けるという仕事は達成できないため、我慢するしかない。

 痛みを堪えて、両手に力を入れる。全力で大地を蹴りながら、取っ手を倒し込む。これによってリアカーは再び動き出し、引っ張り続ける俺が限界に到達するまでゆっくりと動き続けた。

「急がないと……」

 日の出前に始めたこの仕事だが、全行程の半分にまで到達した現在、太陽はてっぺんにまで昇りつめている。暑さが容赦なく体力を吸い取っていき、ジメジメとした空気が発汗を押さえ込んでしまうため、体に溜まり込んだ熱がさらに体力を奪う。

 人通りの多い大通りを、俺はただひたすらリアカーを押していく。

 仕事完遂の約束の時間まで、後3時間。

 それで全行程の半分しか終わっていないのだから、絶望的とさえ思えてしまう。

 でも、諦めるわけにはいかなかったのだ。この仕事を完遂できなければ報酬は貰えず、結果マサキにラジオをプレゼントすることができない。

 しかし裏を返せば、この仕事を完遂できた時点でラジオを買えるだけの報酬が貰えるワケで、後が無い俺は、背水の陣なる気持ちでこの仕事に打ち込んでいたのだ。

「ぐぎぎ……」

 引っ張る。

 ただただ、引っ張る。

 何の思考も伴わなかったはずなのに、いつの間にか俺はこれ以上なく焦っていた。

 真夜中から仕事を始めた手前、始めるのが朝でも間に合うと思ってくれたラジオおばさんに応えるためにも、絶対にこの仕事を完遂しなければならなかった。

 急げ、急げ。そう何度も心の中で呟いては、力を込める。リアカーは僅かに動き、再び重い腰を落としてしまう。

 

 *


 さらに1時間が経った。

 あれからどれくらい進んだのだろうか。少なくとも1㎞はないだろう。

 俺が目指しているのは町の外れなのだから、進むにつれて周りの風景も淋しい物へと変化してくる。

 建物の数が少なくなっていき、家やお店の代わりに木々が多くなってきた。あんなにいた人々は完全に消え失せ、辺りには俺以外に一人としていない。

「急げ……もう時間が……」

 ぜぇぜぇと息を切らしながら、必死にリアカーを引く。

 正直、もう一人では限界だった。元々子供の力では、マトモに動かせないような重量だ。

 せめて後一人いれば、もう少し楽に動かせるのに、などと弱気になってしまうが、そんな自分にムチ打って、ひたすら力を込め続ける。

 止めるワケにはいかなかった。立ち止まるワケにはいかなかった。俺を見込んで、仕事をくれたラジオおばさんのためにも、何よりも待ってくれているはずのマサキのためにも。

 俺が今通っているのは、周囲を木々に囲まれた一本道。荒れ道のためリアカーは引きづらいが、その代わり道に迷うこともない。ただ一直線に目的地を目指せる。

「ぜぇ……ぜぇ……」

 約束の時間まで、あと2時間。ラジオおばさんから預かった懐中時計で確認したのだ。時間がないという現実を、時計の針が残酷なほど正確に教えてくれたのだ。

 酸素不足で、頭が真っ白になる。ただひたすらリアカーを引いて、指定の建物を目指す。

 既に体の方は限界近くまで到達し、リアカーを引く両手から力が抜け出し始めた時。

 

 物静かだった木々の間から、獣のうなり声が聞こえてきた。

「……?」

 ゆっくりと顔を右に向ける。

 そこにあったのは、木々間の暗闇に浮かぶ、生物のシルエット。

 俺が見つめること数秒、低い呻き声を発しながら、ある動物たちが顔を覗かせる。


 ――――野犬の、群れだ。


 正確な数は分からないが、見えている頭だけでも悠に5匹を超えている。俺と同じくらいの大きさの野犬が群れをなして、口からポタポタとヨダレを垂らしながら唸っている。

 飢えた野犬ほど恐ろしい存在はない。衰弱した子供の首が、凶暴な野犬に噛み千切られる光景を何度も見てきた。俺達のような力の無い孤児達の間では、野犬の群れに遭遇したら『逃げる』のが鉄則だった。

 何でこんな時に、と思ってしまうが、今の自分の状態を鑑みて考えを改める。こんな疲れ切って、今にも大地に倒れ込みそうな子供がいたら、食料を欲する野犬の群れが放っておくハズがない。


 つまり、この野犬の群れは、俺を食べようとしている。


 ぶわぁ、と。

 湿度を無視するかのように、全身から汗が噴き出した。やばい。やばいのだ。一匹でも手がつけられないのに、5匹同時に襲いかかってきたら、間違いなく喰い殺されるに決まっている。

 逃げろ。逃げろ。

「う、うわあああああああああああ!!」

 恐怖のあまり、俺はリアカーを手放す。取っ手部分が大地に倒れ込むよりも早く、俺はその場から駆け出していた。

「うわあ! うわああああ!!」

 叫び声を上げて、全力で走る。後ろを振り向くと、5匹の野犬が取り囲むようにして俺に迫っていた。

 殺される。喰い殺される。

 恐怖のあまり、腹の底から叫び声を上げて、俺は走った。

 しかしながら、走って振り切れるような相手ではない。俺は近くの大木に駆け寄ると、躊躇うことなく飛びついた。元々木登りは得意だったこともあり、火事場のバカ力が効いたのか、俺はいつもよりも早いペースで登り始める。


 そんな中。


「――――ッ! うッ!」

 残り僅かの力を振り絞って登っていた俺だが、その動きが完全に止められた。下方を見れば、俺を追いかけてきていた野犬の一匹が、ポンチョの裾に食いついているではないか。

 獰猛な目をギラつかせた野犬が、俺を引きずり下ろそうとしてくる。

「うわあああああ! 止めろ、離れろぉ!」

 ぶら下がる野犬を、足で蹴りつける。引きずり降ろされたらすぐさま喰い殺される事は目に見えている。だから俺は、がむしゃらに犬を蹴りつけた。

 何度目かの蹴りが入り込み、ようやく野犬が振り落とされた。その際にバランスを崩して落ちそうになったのをギリギリで堪えて、一気に木を登り上がる。

 頂上近くの太い枝に絡まるようにしてしがみついて、呼吸を整えた俺は、恐る恐る木の根元を見てみる。

 そこには5匹の野犬がいた。まるで獲物を逃した事を悔しがるように、低い呻き声を発しては、木の幹をガリガリと引掻く。どうやら5匹とも木登りはできないようで、しかし諦めの悪いことに何度も登ろうと試みては、虚しく木を引掻くだけで終わってしまう。

 視線を自身の体に戻す。薄汚れたポンチョの裾が、ビリビリと破れていた。どうやら噛みついてきた野犬を蹴り落とした際に、食い千切られたのだろう。もしあのまま引きずり下ろされていたら、今頃俺の全身が食い千切られていたかもしれない。

 ふぅ、と。命の危機から脱出することに成功した俺は、それこそ最近で一番大きな安堵のため息をついた。野犬たちが木を登って来られない以上、この枝にしがみついている限り襲われることはない。後は諦めて帰るのを待ってから、木を降りてリアカーを回収すればいい。

 野犬たちとの根比べに乗り出した俺が、再び木の根元に視線を送ると。


 そこに、野犬はいなかった。

「――――?」

 まさか、もう諦めて帰ったのだろうか。いくらなんでも早すぎると不審に思った俺が、不穏な音を捉えた。


 ガリガリ、と。

 それこそ、先ほどの木の幹を引掻く音のような。まるで、木に噛みついているような。

 その音が聞こえてくる方面へ、不安を抱えて視線を送ると。


 野犬たちが、リアカーの後ろに載せられた丸太を襲っていた。


 そう、襲っていたのだ。まるで何かを探すように、漁るように、図太い丸太の上に乗り上がって、木の幹を引掻いては、押しどけようとしている。5匹の群れの中には、丸太自体に噛みついている奴もいるのだ。

「どうして……? 何で……?」

 野犬が木を食うなんて話は聞いたことがない。しかし現に分かる事は、依頼者に届けなくてはならない大切な商品が、5匹の凶暴な犬によって壊されつつあるということだ。

「止めろよ……大切な商品なんだぞっ!!」

 木の上から叫んだところで、ただの犬が言うことを聞くはずがない。いや、それ以前に、俺の言葉さえ理解していないだろう。野犬たちは、まるで何かに取り憑かれたかのように丸太に傷をつけ、滅茶苦茶にしていく。

「止めろって言ってるだろ! それは、それは……マサキのプレゼントに必要な物なんだよ!」

 俺の叫びを無視して、野犬たちの動きが活発になってきた。後ろ足で蹴りつけるようにして、丸太を押しどける。

 そして積み重ねられた丸太の一本が、重々しい音を立てて大地に転がり落ちた。

「……あっ!」

 俺の体重を遙かに超える重さの丸太だ。例え体力が全開の状態でも、一度リアカーから落ちた丸太をもう一度載せることは、子供の俺には到底無理だった。

「ちくしょおおおおおおおお!!」

 俺はついに、木から飛び降りた。

 僅かな浮遊感を感じた後、地面に着地する。その際バランスを崩して膝を着いてしまったが、すぐに俺は立ち上がって駆け出した。

 向かう先はもちろん、5匹の野犬。

「うわあああああああああ!!」

 後先なんて考えていなかった。身の危険なんて完全に忘れていた。ただマサキにプレゼントを渡したい一心で、そのため仕事を守りたい一心で、俺は走っていた。

 駆けながら、転がっていた木の枝を拾い上げる。一番近くにいた野犬に走り寄りながら、全力で叩き付けた。

 お腹に木の枝を叩き付けられた野犬が、大きく仰け反る。さすがに子供の力で殴られたところで大したダメージは無いのか、すぐに元の態勢に戻ると、俺に視線を向けてきた。

 愚かにも獲物が帰ってきたことから、その目は狩人の持つそれだった。

「ヒッ!」

 その目で睨まれただけで、俺は竦み上がってしまう。それでも荷物を守るため、勇気を振り絞って、俺は再び木の枝を振った。

 運のいいことに、振るわれた木の枝、その先端が野犬の目にヒットした。これには流石の犬も効いたようで、か細い声を発すると、その場から退散していった。

 一匹を撃退したところで安心できるはずがない。今だに群れは4匹残っており、その全匹が残忍な瞳で俺を見ていたからだ。

「お、お前らもあっち行け! 行けっての!」

 にじり寄ってきた野犬を、木の枝を振り回して近づけないようにする。それでも闇雲な俺の動きを完全に見切っているのか、振り切った隙をついて、一匹が飛びかかってきた。

 そこから先は、子供の俺に抵抗できるはずが無かった。飛びかかってきた野犬に押し倒されると、残りの3匹も一斉に飛びかかってくる。地面に倒れ込んだ俺は、首を守るように丸まって、ただ恐怖から震えていた。

 ゲシゲシッ、とたくさんの前足が頭部を引掻いてくる。野犬は獲物を仕留める際、必ず首を狙う。それが分かっていた俺は、何としても首を露出されないように必死に丸まり、前足による攻撃をただひたすら堪えた。

 そしてついに、一匹の犬が噛みついてきた。右足に激痛を覚えた俺は、思わず飛び上がりそうになる。その際に生まれた僅かな隙をついて、残りの3匹が一斉に噛みついてきた。

「う……く……!」

 一匹は二の腕に、もう一匹は脇腹に。そして最後の一匹は完全に首狙いで、俺はその野犬の口を両手で押さえ込んだ。

 ギギギッ、と強烈なアゴを大きく開こうとするのを、俺が必死で押さえ込む。そして馬乗りになっている犬を口ごと押し返し、何とかしてどかそうとする。

 噛みつかれた箇所から激痛が走る。食い千切ろうと引っ張ってくる度に、言葉にしがたい痛みが全身を走り抜ける。

 そんな圧倒的に不利な膠着状態が、長く続くはずが無かった。押し返そうとしていた口が、ヨダレにまみれた鋭利な歯が、俺の首を食い千切ろうと迫ってくる。

 そして、ついにその歯が、俺の首に触れそうになった時。


「どけどけぇ!!」


 聞き慣れた声がした。同時に、騒がしい足音が聞こえる。周期の短いその音は、俺の方へと近づき。

 次の瞬間、俺の首を狙っていた一匹の野犬が、ぶっ飛んだ。

 俺が唖然とする中、視界に入り込んできた人物は。

「は、ハナズン……?」

「フー、大丈夫か!? ……ズズッ!」

 ぜぇぜぇと息を漏らすハナズンは、全身ボロボロの俺を一瞥してから、すぐに視線を野犬たちに戻す。

「てめぇら、フーから離れろぉ!」

 彼にしては珍しいくらいの大声を出しながら、ハナズンが木の枝を振った。近くにいた犬たちが慌てた様子で飛び退き、俺達から距離を取る。

「な、何でお前がここに……」

「俺だけじゃないぜ」

 ズズッ、と得意げに鼻を啜るハナズン。彼の合図と共に、その背後の草むらが騒がしくなったかと思うと、別の人物達が飛び出してきた。

「おらおら~! 犬っころめっ!!」

「お、お前達……!」

 草むらから飛び出してきたのは、昨夜会った4人グループだった。皆が両手に木の枝やパイプを握りしめ、正面にいた野犬に襲いかかる。

 途中からハナズンも加わり、野犬4匹を5人で相手する形となる。流石に分が悪いと判断したのか、野犬のグループは数回彼らとやり合った後、背を向けて逃げ出す。視界を覆う森の中へと飛び込み、そのまま姿を消した。

「いっよっしゃああああ!!」

 犬たちを追い払った4人グループとハナズンが、勝利の歓声を上げる。武器を高々と振り上げ喜ぶ様子を、俺は何故彼らがここにいるのか理解できないまま、呆然と眺めていた。

「お、お前達……なんで……。ハナズンはともかく、お前らプログラムに参加しに行ったんじゃ……?」

 地面に伏せたまま、俺が話しかける。昨夜俺に掴みかかってきた一人が、そっぽを向きながら投げやりに答えてきた。

「べっつに。これから皆でプログラム参加しに行く途中で、フーが野犬の群れに襲われてたから、気まぐれで助けてやったんだよ、気まぐれで」

 はぁ~、と後ろにいた奴がため息をつく。

「素直じゃないね~。心配で後をつけてたって言えばいいのに」

「……な! ちげーよ! ホントに気まぐれだっての!」

「誰に言ってるんだよ……」

 困惑する俺を置いて、彼らのグループ内部で会話が進められていく。見かねた様子のハナズンが、俺に手を貸しながら耳打ちしてきた。

「昨日の夜さ。お前が飛び出していった後、暫くしてから俺が追いかけたんだよ。……ズズッ」

「う、うん……」

「で、そしたらさ。道中でアイツらに会って、それでお前と会ったって言うんだ。……ズズッ。中の一人がやたらと怒ってるようだったから、事情を聞いたワケ。フーの不器用さには呆れるよ……。俺がお前の状況を説明して、そしたらアイツら急に『フーを追いかける』って言い出してさ。……ズズッ」

「……で、俺の後をつけてきたと?」

 ハナズンは小さく頷く。

「途中で追いついたと思ったら、お前がラジオおばさんに話しかけられてるワケだよ。あれはビックリしたなぁ……ズズッ」

 ハナズンは続ける。

「それで小屋の前で、仕事内容を盗み聞きして、皆でこっそり追尾してたんだ。途中で何度も手伝いに飛びだしそうになったんだけど、お前の必死さに皆気圧されちゃってな……ズズッ。それで犬に襲われるんだから、流石にフーがヤバイと思って、皆で装備を固めて登場したワケだ」

 ハナズンは、ようやく立ち上がった俺に木の枝を示してくる。

「助けるのが遅れてすまなかった、フー。流石に5人でも、素手じゃ野犬相手には勝てないからさ……ズズッ」

 ふらつく俺は、仕方なしにハナズンに肩を借りる。そしてニヤッ、と口元を吊り上げたハナズンは、気まずさなどお構いなしに、俺を4人のグループの前へと連れて行った。

「ほら、何か言うことがあるんじゃないのか? ……ズズッ」

 ニヤニヤとした笑みを浮かべたハナズンが、俺に向けて話しかける。

 俺と4人グループ。両者の間に沈黙が続いた。流石に助けて貰った身だから、俺から切り出さなければいけないことくらいは分かった。

「ありがとな……助かった」

「お、おう……」

 会話が止まった。時間も無いし、これで十分な気がしたから、俺はこれ以上言葉を重ねる必要は無いと判断した。

 俺は肩を借りていたハナズンから離れる。噛みつかれた右足と脇腹が酷く痛み、よろけてしまうが、何とか堪える。

「お、おい、フー」

「大丈夫だ。もう、大丈夫。……ハナズンもありがとうな」

 寄ってくるハナズンを手で制して、俺はリアカーの方へと向かった。取っ手部分を引き上げて、再びゆっくりと動き出す。

「おい、フー! お前これからどうすんだよ!? ……ズズッ!」

「この荷物を届けに行く」

「な……」

 後ろでハナズンが絶句しているのが、手に取るように分かった。それでも俺は、リアカーを必死に引き続ける。

「無理だって! お前、今の状態じゃ絶対に間に合わないだろ!? ……ズズッ。さっき町の時計を見た段階で、既に3時間を切っていたんだ」

「大丈夫だ」

「だ、大丈夫ってお前……この転がり落ちた丸太はどうするんだよ!? ……ズズッ!」

「このリアカーに積んであるのを先に届けて、もう一度戻ってから転がしていく」

「間に合うわけないって」

「大丈夫」

「間に合わないって!」

「大丈夫だって言ってるだろっ!!」

 しつこいハナズンに、俺は振り返って怒声を浴びせた。その際に傷口が痛んで、思わず取っ手を離してしまう。

「俺は、諦めたくないんだ……」

 ぜぇぜぇと息を荒げた後、再び地面に傾いたリアカーを引き上げる。

 誰に向けるワケでもなく、俺はリアカーを引きながら話し始めた。

「この仕事を達成して、それで報酬を貰って、マサキにラジオを買うんだ。そのために、ずっと頑張ってきたんだ……!」

 俺は後ろに佇む4人グループを尻目に、呟くように話す。

「弱虫なんて言って悪かった……。だから、さっさとニホンに行っちまえよ。俺は、誰の力も借りない。借りたくない。自分の力だけで乗り越えないと、俺は……俺は……」

 その後の言葉は続かなかった。喉まで迫り上がったその言葉を口にしたら、既に助けて貰っている自分が滑稽過ぎて、一人じゃ何も出来ない自分が情けなさ過ぎて、涙が出そうだったからだ。

 必死に泣くのを堪えて、俺はただリアカーを引いた。リアカーは俺に応えて、実に滑らかに動く。


 そう、実に滑らかに。


 滑らかに……動く?


「――――! お、お前ら!?」

「へへ……」

 後ろを振り向いて気がついた。4人グループの内の2人が、リアカーの後部を押していたのだ。

 それだけではない。さらにその後ろでは、ハナズンと残りの2人が、地面に落ちてしまった丸太を3人がかりで転がしていた。

「な、なんでだよ! 俺は手伝いはいらないって……」

「あー聞こえねぇな!!」

 わざとらしい大声で、後部を押す一人が叫ぶ。

「俺達は早くプログラムに参加しに行きたいけどよー! 通路を遮ってるこのリアカーを押しどけないと、いつまで経っても先に行けないや!」

「そーそー!」

 リアカーを押すもう一人が、大声で同調する。

「俺達は、自分たちの理由でリアカーを押したいんだー! 誰かさんの仕事を『手伝いたい』ワケじゃないんだぞー!」

「……」

 プログラムに参加しに行くのに、このリアカーが邪魔なワケ無かった。受付は、俺が目指す方向とは正反対の方向にあるのに。

 視線を宙に向けながらも、しっかりとリアカーを押してくる2人組。後ろで丸太を転がす3名、その中のハナズンが、俺の視線に気がつくと、コクリと頷いてきた。

 じわっ、と。目頭が熱くなった。鼻の先がつーんとして、喉いっぱいに涙の味が広がった。

「すまねぇ……ありがとう……ありがとう……」

 ようやく素直になった俺はしかし、涙が溢れるのを必死に堪えていた。それでも滲んでくる涙を、絶対に見られまいと正面に顔を固定して、黙ってリアカーを引く。

「ま、このままフーを残してニホン行ったら、胸くそ悪いしな」

「そうそう、ドリー・マッドのパンを分けてくれたお礼もあるし」

「あ、俺あの時、食べられなかったんだぞ!」

「あんなに旨いバゲット、初めてだったなぁ!」

 そう4人グループの会話を聞いて、俺はようやく言葉を発せた。滲んだ涙を腕で拭って、リアカーを引きながら声を張り上げる。

「よーーし!! ラジオを買ってお金が余ったら、みんなでドリー・マッドにパンを買いに行くぞ! オーナーに見つからなければ大丈夫だ!」

 おー! と後ろから歓声が上がる。

 残り時間は、1時間と少し。まだまだ道程は遠かったが、この速度なら、もしかしたら、本当に間に合うかも知れない。

 随分と軽くなったリアカーを、俺は全力で引っ張っていく。

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