ラジオ
俺達の住むボロ小屋の前に、ポッチョの墓を建てた。
墓と言っても、石碑のある豪勢な代物では無い。野犬に掘り返されない程度には深い穴を掘って、そこに四肢を失ったポッチョを埋めただけだ。
ポッチョの死体は軽かった。もちろん両手両足が無い分だけ軽くなっていたが、それを考慮してもあまりに軽すぎた。失踪していた2週間、マトモに食事を採れなかったのだろう。野良猫とほとんど同じ重さの胴体からは、この2週間の間、彼の経験した辛さが滲み出ていた。
ポッチョを埋めた後、俺達は折れた木棒で墓標を立てた。せめてポッチョの名前くらい書いてやりたかったが、俺もマサキもハナズンも、誰も文字を読み書き出来なかったから、石を削って粉をつくり、みんなでポッチョの似顔絵を描いた。
その一通りの手順の間、マサキはずっと泣いていた。ハナズンはいつもより鼻水の量が多い気がした。
俺はといえば、必死に泣くのを堪えていた。一番最初に泣いてしまったという変な引け目もあったし、何より4人のリーダーだったということもあって、最後のプライドが働いて必死に泣くのを堪えていた。
それでもポッチョを埋め終わって、これで本当にポッチョに会えなくなったんだと悟ったとき、ついに泣き出してしまった。一度泣き始めると自分をコントロールするのは難しくて、涙は次から次へと生まれた。涙の出過ぎで、叫び過ぎで、喉が枯れるんじゃないかと思うくらい、大泣きした。
*
「ありがとうございますっ!」
運転席のドライバーに向けて、マサキが大げさにお礼を言っていた。鬱陶しい虫でも見るかのようにドライバーはマサキを一瞥すると、信号が青になったのを見計らって車を走らせていった。
「おーい、マサキー!」
「っ? ……あ、フーくん!」
裏路地の片隅から俺が名前を呼ぶと、暫くキョロキョロとしていたマサキはようやく気づき、無邪気な笑顔を見せながらトテトテと駆け足でやってきた。
近寄ってきたところで、マサキは手に握りしめた小銭を俺に差し出してくる。
「なんだ、また車拭きやってたのか」
「うん。今日は結構貰えたんだよ~! 市場でナッツ棒一本は買えるかなぁ」
エヘヘッ、と得意げな笑顔のマサキから、俺は寂れた小銭を受け取る。指で弾きながら枚数を数えて、腰にぶら下げている薄汚れた布袋に突っ込んだ。
この腰にある布袋が俺とマサキ、ハナズンと……ポッチョの、全財産だ。元々所持していた小銭に、今マサキから貰ったのを合わせて、今日はナッツ棒2本は買えそうだった。実に1週間ぶりに買う食事だった。
ナッツ棒とは、この地域で昔から食されているらしい伝統料理の一種。小麦粉に砕いたピーナッツを混ぜ加えて、30㎝前後のスティック状にして、竈型オーブンで数分焼けば出来上がり。オヤツ用にも主食用にも愛される、非常に簡単で安上がりなパンの一種だ。ピーナッツは栄養価満点で孤児には非常に有用であり、それでいてナッツ棒の相場の値段がバケットの半分以下なのだから堪らない。熱々のナッツ棒を4人分に分けて頬張るのが、俺達の一番の贅沢だった。
「ハナズンはどうしたの?」
「ああ、アイツは河に水汲みに行ってる。今日は寄りたい所があるらしいから、先に帰ってろってさ」
「ふ~ん、そうなんだ~」
じゃ、帰ろ? と照れ笑いを浮かべて、オズオズと手を差し出してくるマサキ。
「なんだよ、また手繋ぐのか? マサキは弱虫だなぁ」
「う~、いいでしょぅ。フーくんと手繋いでると安心できるんだもん」
ふくれっ面をするマサキを尻目に、「はいはい、分かったよ」と苦笑を漏らした俺は、いつものようにマサキの小さな手を握る。
「よし、帰ろう」
「うん!」
笑顔のマサキを引き連れて、俺はゆっくりと歩き出す。
最初から孤児だった俺やハナズンと違い、マサキは元々孤児では無かったらしい。聞いた話によると、両親との買い物の帰りに強盗に襲われて、そこで両親を亡くして路頭に迷うことになったそうだ。
もちろん治安の悪いこの地域では、そういった理由から孤児になる子供が後を絶たない。マサキもその一人というワケだが、俺と同い年くらいに見える彼女の場合、強盗に襲われたのが物心がつく前だったため、とりわけ他の同じ境遇者と比較しても強盗の事件を引きずっているようで、そのため過剰なまでに怖がりになってしまったのだ。
だからといってはなんだが、物心ついた頃には隣にいたマサキとは、よく手を繋いでいる。こうしているとマサキは安心できるそうで、それならグループのリーダーとしても繋がない理由は無かった。
それに、最近は彼女に対して、違う感情も持ち始めている。
隣に並ぶ、無邪気な笑顔を浮かべたマサキ。
かわいいなぁ、と思う。
俺は彼女を、マサキを、守ってやりたい対象として『かわいい』と感じているのだ。この弱虫な性格に加えて、小動物的な可愛らしい顔。孤児で無ければ、どこかのマスコットキャラクターとして起用されてもおかしくはない。そんな可愛い女の子が、男ばかりのグループに一人ポツンといるのだ。まだ子供と言えど、既にそういった恋心が芽生え始めている年頃の俺達が、守ってやりたいと感じるのは当然のことだろう。
というわけで、これまで手を繋ぐことに一切の抵抗や感情を伴わなかった俺であるが、現在といえば結構ドキドキしていた。
その小さな手から伝わる温もりと周期的な鼓動を感じる度に、こっちの脈拍まで上がってきそうだった。あまりよろしい状態ではない。
――――このドキドキを抑えるために、手を離すべきか。ああ、でもそれだとマサキが怖がっちゃうし。でもこのままだと顔が赤面しそうだし。
と、俺が内心で混乱しているのをつゆ知らないのだろう。俺をドキドキパニックに陥れている張本人といえば、先ほどから実に愉快そうに鼻歌を歌っているのだった。
とにかく何か会話をして落ち着けようと、唐突に俺が話しかける。
「なぁ、マサキ。お前、車拭きなんかしてて楽しいのか。盗みに行った方が、食料もいっぱい手に入るぜ?」
マサキは昔から、基本的に盗みをしなかった。むしろ嫌っている傾向すら見られたのだ。盗み万々歳の俺とハナズン、ポッチョに対して、マサキは信号で止まった車の窓拭きなどをして小銭を稼いでいた。今回の件も、俺とハナズンの説得を受けて、ポッチョのためと割り切って盗みに赴いたフシがあった。
えへへ、と困惑気味の笑顔を浮かべて、マサキが答える。
「私、鈍くさいから。それに、盗みって人を傷つけるし……。私は、ちゃんと働いたお金でゴハン食べたいなぁ」
「んな事言ってたら、お前いつかホントに餓死しちまうぞ」
「うん、それでもいいよ。私、どうしても人を傷つけたくないから……」
悲しそうな表情を浮かべたマサキに、俺はしまった、と叫びそうになった。
マサキが盗みを嫌うのは当然のことだ。何故ならマサキの両親は、その盗みを働く人――――つまり強盗に襲われて、命を失ったのだから。その事件を引きずっているマサキが、盗みという行為に嫌悪を抱かないはずがない。
それでも、数日おきに盗みを働いて帰ってくる俺達を笑顔で受け入れてくれるのは、マサキの持つ優しさ所以に他ならない。
この隣で歩く少女が一層可愛く思えて、俺はさらに激しくドキドキしているのだった。
「ま……その、なんだ。いつか……俺がお前を養って……」
「……? フーくん何か言った?」
「ッ! 何でもねぇよッ! ほら、さっさと帰るぞ!」
「あっ、待ってよぉ!」
ぐいぐいと握った手を引っ張ると、早歩きの俺に対してマサキは小走りになる。てへへ、と眩しい笑顔を放ちながら付いてくるマサキを直視できずに、俺は誤魔化すように問いかけた。
「そういえば、マサキ。お前、誕生日が近いよな」
「うん? そうだけど」
「何か欲しい物、あるか?」
「欲しい……物?」
「ああ、あんまり高くない物でだけど」
別段これまでは、誕生日だからといってプレゼントなど用意してこなかった。誕生日プレゼントなどという物は、日々の食料に困っている俺達からしてみれば贅沢品もいいところで、基本は無視か、あったとしても少し多めに食料を分ける程度だった。
しかし今回はポッチョの件もあって、仲間を包む暗い雰囲気を払拭するためにも、マサキに何かプレゼントをあげようと密かに計画していたのだった。
うーん、と目を閉じ、唇に指を当てて考え込むマサキは、数秒だけ唸った後にいつもの笑顔を見せてきた。
「いらない。私は、こうやってフーくんと手を繋いで帰れれば、満足だから」
「……ッ!」
「どうしたの? フーくんお顔真っ赤……」
「う、うるさいうるさい! 暑くて血が上ってるだけだよ!」
「もしかして……風邪!?」
大変! と大変騒がしい音量で叫んだマサキは、慌てながら俺の正面に回ってくる。そして俺の前髪を掻き上げると、自身のオデコと俺のオデコを合わせてきた。
いわゆる、オデコごっつん、て奴である。
「~~――――!!」
「どうしたの? 暴れないで、フーくん!?」
ビックリ3割ドキドキ7割の俺は、再び顔に血が上ってくるのを感じて、マサキから飛び退いた。その表情をマトモに見れずに、つーんと顔を背けてしまう。
その俺の横顔を見たマサキが、再び声を張り上げた。
「大変、さっきよりも赤くなってる! やっぱりフーくん風邪!?」
「ちげぇよ、風邪じゃねぇ!! 暑いからって言ってるだろ!?」
帰るぞ!? と真っ赤に染まった自身の顔を隠しながら、俺は慌てふためくマサキを残して帰路を急いだ。
「あ、待ってー! フーくん手繋いで~!」
「~~!! い、いいから早くこ~い!!」
これでマサキには自覚が無いのだから、純粋無垢な少女は罪深い存在だと思った。
*
帰る途中で市場に寄って、小銭全部を注ぎ込んでナッツ棒を2本買った俺とマサキは、住処であるボロ小屋では無く、ある場所へと赴いていた。
その場所は、ここら一帯の子供達の遊び場を兼ねた、まとまったスペースを確保している比較的新しい空き地で、毎日多くの子供達がここに溜まっている。
その中でも、週に1回の今日という日には、さらに多くの子供達がこの空き地に集まってくる。俺とマサキもその子供達の一員であり、俺達はナッツ棒を半分に分けて齧り付きながら、この場所を訪れていた。
そんな多くのストリートチルドレンを集めているのが、一人の人物である。その人物は、現在こども達に囲まれている実年の女性のことであり、実に穏やかな物腰のこの女性は、週1回この空き地にやってきては、子供達にキャンディなどのお菓子を配ってくれるのだ。
だがこの場所に来る多くの子供達の目的は、配られるお菓子ではない。俺とマサキを含めた多くの子供達が楽しみにしているのは、その女性が所持している『手回しラジオ』だ。
この女性は、毎回やってきて最初にお菓子を配った後、いつも片手にぶら下げている手回しラジオを聞かせてくれる。普段から楽しみのない子供達は、この週1回のラジオだけを楽しみにして、毎回この場に赴くのだ。
当然ながら俺とマサキもこのラジオが目的であって、その女性から一番近い席に陣取って、二人して目を輝かせながら、いつ始まるのかと期待に胸を躍らせているのだった。
そして、ラジオおばさん――いつもラジオを持っていることからそう呼ばれる――のすぐ近くに座る俺達は、先週の番組について熱く語っていた。
「いや、違うって! だから、ヤイバーマンの攻撃をこう避けてだなぁ……」
「そうじゃないよ、フーくん! タコ怪人は、触手を使ってだね……」
そう夢中で番組について話す俺達だが、ふと向けられた視線に気づく。
ラジオおばさんが、とても穏やかな笑顔を浮かべて俺達を見ていた。俺達は目線だけで『早く』と訴え、それが通じたのか、集まった子供達の興奮が最高潮に達したとき、ラジオおばさんがゆっくりと呟く。
「さて、そろそろ初めようかねぇ……」
そのしゃがれた声を引き金に、一瞬にして場が静まりかえる。日が沈みはじめ、少しずつ薄暗くなってきた空き地で、ラジオおばさんは一度子ども達を見渡してから、ゆっくりとラジオを回し始める。
「うわぁ……」
毎回味わう、この始まる瞬間の高揚感。
子供達全員が押し黙り、聞こえてくる音に耳を澄ませている。視線を隣に送れば、マサキも目をキラキラと光らせて、これから始まるラジオに聴き入っていた。
そして数回のノイズの後、ラジオ放送が始まった。最初に聞こえてきたのは、何処かの歌番組だ。その歌番組が俺達の聴きたい番組でないことは、ラジオおばさんは重々承知しているようで、片手で大きなラジオを回しながら、番組を切り替えていく。
そして目的の番組が始まると、俺達のテンションは一気に跳ね上がる。
この好きな番組を聴いている時間だけは、辛い日々の事を忘れられた。他の子供達も同様で、身を寄せ合って寒い夜の中で暖をとっては、興奮の叫びを押し黙ってラジオに聴き入っていた。
そして、時間はあっという間に過ぎていく。
たっぷり1時間以上もラジオを回していたラジオおばさんが、3つ目の番組の終了と共にゆっくりと腕を止めた。プスプス、という抜けた音と共に、ラジオから発せられていた音声が収束していく。
ラジオが終わると、皆が思い思いに礼を述べてから、自分達の住処へと帰って行く。現実に引き戻される瞬間だ。これから夜に備えて、それなりの準備が必要なのだ。
「俺達も帰ろう、マサキ」
そう隣で体育座りをするマサキに話しかけると、俺の声が聞こえていないのか、ラジオが終わった今でも上の空という感じだった。
「おいマサキ……マサキ!」
「っ!? ……あ、フーくん」
「おっまえ、ホントにラジオ好きだよなぁ」
毎度毎度こうなのだ。ラジオに夢中になるあまり、放送が終わったことに気づかない。俺やハナズンが呼びかけて、ようやく現実に引き戻されるのだ。
マサキは周囲を見渡して、ラジオの放送が終わっていることにようやく気がつくと、恥ずかしそうに照れ顔を見せた。
「うん、大好き。……ごめんね、聴き入ってた」
「ま、いいけどよ……」
ガシガシ、と頭を乱暴に掻いてから、俺は座り込んでいるマサキに手を差し伸べる。彼女は一言ありがとう、と言ってから、俺の手を取って立ち上がる。
「でも、裕福な奴らは『テレビ』ていう娯楽品を持ってるらしいぜ。何でも音に加えて、映像があるとか」
「うん……知ってる。電気屋さんの店頭に置いてあった」
「すげぇよなぁ。一度でいいから、テレビって奴でヤイバーマン見てみたいよなぁ」
「うん、そうだね……」
「どうしたんだよ、マサキ。お前だってテレビ見てみたいだろ?」
「うん……でも、私はラジオの方が好きかな」
あはは、と力なく笑うマサキ。彼女は暗くなった空を見上げて、ゆっくりと話し出した。
「ラジオってね。すっごく温かいの」
「温か……い?」
「うん。温かいっていうよりは、優しい感じがするのかな。聞こえてくる音から、私達がいくらでも夢を膨らませられる。音だけから、色んな世界を想像できる。全てが決まっちゃってるテレビには、無い魅力だと思わない?」
そう笑顔で聞いてくるマサキに、俺は頷き返すことしかできなかった。
「私、将来ね。ラジオのパーソナリティやってみたい」
「パーソナリティ?」
うん、とマサキは恥ずかしそうに頷いた。
「ラジオでパーソナリティをやって、色んな人を……ううん、世界中の人の想像を掻き立てたい。夢を与えてみたい」
そう話すマサキの瞳は、俺なんかとは比べものにならないくらいに綺麗で。
夜空に浮かび上がるその姿は、とても幻想的で。
子供の俺は動揺してしまって、初めて自分の夢を話してくれたマサキに対して、突っ張った返答しかできなかった。
「なーに言ってんだよ、マサキ! 俺達はストリートチルドレンだっつーの! 生きるのに精一杯なのに、ラジオのパーソナリティなんかできるワケねぇじゃん」
両腕を頭の後ろに組みながら、ははは、と小バカにした笑いを漏らす。自分で最低な事をしている自覚はあったが、こんな絶望的な生活の中でも、ちゃんと夢を持っている彼女に対して尊敬の念すら感じてしまい、誤魔化すのに必死であざ笑うことしか出来なかったのだ。
しかし、俺に笑われてもマサキは笑顔のままだった。一点の曇りもない笑顔を保っていたのだ。
「うん……分かってる。ちょっと言ってみただけ」
そう言うマサキの瞳ではしかし、先ほどの輝きが僅かに薄れていた。
何か言わなくてはいけない。このまま彼女を傷つけて、終わっていいはずがない。
かけるべき言葉を必死に模索する中、ついに悲しい瞳を浮かべてしまったマサキが、踵を返した。
慌てた俺は、勢いに任せてこんなことを言ってしまう。
「た、誕生日!! 俺が……ラ、ラジオ、買ってやんよ……」
「――――え?」
振り返ったマサキが、驚きの表情を浮かべる。一瞬だけ喜びの表情へと変わったが、すぐに悲しさと諦めを織り交ぜた表情へと移り変わっていく。
俺は、マサキには笑っていて欲しかった。喜んだ表情でいて欲しかった。だから、彼女の表情から期待の色が抜け落ちる前に、内心で冷や汗を掻きながらも、胸を張って宣言してしまった。
「嘘じゃないぜ! 今度の誕生日に、俺がお前にラジオ買ってやんよ! 男に二言は無ぇ! 今度からは毎日聞けるぜ! これでパーソナリティの練習もできるだろ!」
半ば叫びとなったその言葉に、マサキは戸惑いと期待の表情を浮かべていたが、やがて悲しみを含んだ笑顔になる。
そして、儚げな笑顔のまま、こう言った。
「うん――――楽しみにしてる」
「――――ッ!」
マサキには分かっているようだった。所詮ストリートチルドレンである俺達が、ラジオなんて娯楽品を買えるはずがないことを。
でも、俺はマサキには笑っていて欲しかった。あと正直、カッコイイという視線で見て欲しいという、個人的欲求もちょっとはあった。
だから、意地でもラジオを買うと心の中で誓い、目の前のマサキ目がけて指を突きつけた。
「見てろよ、マサキ! お前に必ずラジオをプレゼントしてやるっ!」
そう格好良く宣言して、呆然とするマサキを残し、恥ずかしさのあまり一目散に退散したのだった。
*
「ラジオおばさん!」
勢いよく駆け寄ってくる俺の声を聞き、ラジオおばさんはゆっくりと振り向いた。背中をネコのように丸めて、近づいてくる俺に優しく微笑む。
「どうしたんだい、ぼーや……?」
ラジオおばさんは、ちょうど片手に手回しラジオをぶら下げて、帰る支度をしている最中だった。それでも息を切らした俺が駆け寄ってくると、体を向き直して相手をしてくれる。
ゼェゼェと息をする俺は、少しだけ呼吸を整えてから、半ば叫びながら言った。
「お、俺はラジオを買うんだ!」
「……え?」
ラジオおばさんが目を丸くする。そりゃそうだろう。こんな薄汚い子供が、いきなり訳の分からないことを言い出すんだから。
「俺はラジオを買って、マサキにプレゼントするんだ!」
「そ、そうかぇ……。頑張ってーな……」
ラジオおばさんは困惑気味だ。状況がよく分からないのか、首を傾げているラジオおばさんに、俺は問い詰めた。
「だから、ラジオおばさん教えてくれよ! ラジオって、どれくらいするんだ!? ナッツ棒何本分だ!?」
「ナッツ棒……かい?」
状況がようやく掴めてきたのか、ラジオおばさんは指を折り始める。たっぷり十数秒も費やしてから、ゆっくりとした動作で頷いたラジオおばさんは、おもむろに言い出した。
「まあ、ピンからキリじゃけぇど、安いのなら……ナッツ棒、40本分かねぇ……?」
「よ、よんじゅ……!」
顎が外れるかと思った。そりゃ、ナッツ棒よりずっと高いとは思ってたけど、まさかラジオを買うのにそんなにかかるとは思っていなかった。
出鼻をくじかれた思いだった。誕生日まで1週間ちょっとしかないのに、それだけの大金を掻き集められるとは思えなかった。
そのことを分かっているのか、ラジオおばさんが優しげな微笑を浮かべて、俺の頭をゆっくりと撫でてくる。
「まぁ、ぼーや。頑張りんさいや……。オバサンは応援しちょるけぇ……」
ラジオおばさんは分かっていたのだ。いや、誰でも分かったはずだ。今俺が言っていることは、達成の見込みがこれっぽっちもない、子供がほざく大言だと。子供がよく抱える、無理難題な夢であると。
ラジオおばさんのあやすような態度からその事を理解してしまった俺は、マサキに続いてラジオおばさんにまで、指を突きつけて宣言してしまった。
「見てろよ、ラジオおばさん! 絶対に俺はラジオを買うからな! もう聴きに来てやんないからな!」
「そうかぇ、それは淋しいねぇ……」
「っ! あ、いや、その……」
ラジオおばさんを傷つけてしまったかと思い、俺は狼狽した。パニック状態の子供にマトモな言葉が浮かんでくるハズも無く、支離滅裂な事しか言えない。
「ま、まあ、ラジオ買っても、おばさんの所には来るよ。ラジオ聞きたいし……」
「おやおや、ラジオを買うんじゃなかったのかい……?」
「っ! か、買うよ! でも、ヤイバーマンはおばさんのラジオで聞きたいの!」
「そうかぇ、そうかぇ」
かっかっか、と陽気に笑ったラジオおばさんは、また俺の頭を撫でてくる。それが子供扱いされているようで、俺は何度も強く反発しては、その度に困惑するのだった。
Fの出会い編、第三話の非現実の冒頭部分を読み返していただくと、何かに気づくかもしれません。




