ストリート
章タイトル通り、短いです。5回程度で終わります。
次は、2日後までには更新します。
駆ける。
息を切らして、ゴミの散乱した細い裏道を必死に駆け抜ける。
背丈に迫る大きさのフランスパンを一本ずつ抱えて、俺達は死ぬ物狂いで走っていた。そのフランスパンを抱える両腕はかなり汚れており、腕の中にあるフランスパンは泥まみれになっていたが、そんなの気にもしないし、実際に気にするだけの余裕も無い。
「ほら、早く来い! マサキ!」
「ま、まってよぅ……! 私、もうダメだよ……」
「あきらめんじゃねぇ! もうすぐいつもの裏道だ! そこまで逃げれば大丈夫だ!」
俺の後ろで同様にフランスパンを抱える一人の少女――――マサキ。全身を薄汚れたポンチョに隠すその少女は、泥まみれの顔に大粒の汗を浮かべ、俺に追いつこうと必死に走っている。しかしその足取りは安定せず、小石に当たれば躓きそうな勢いだった。
その時、後ろの曲がり角から怒声が響き渡る。
「このガキ共ォォ!! ウチのパン盗みやがってぇ!!」
「ッ! ヤベッ! もう来やがったッ!!」
トマトほどもある大きな鼻をぶら下げて、顔を真っ赤にして追いかけてくる中年太りのおっさんは、俺達が今回パンをくすねた『ドリー・マッド』という店のオーナーだ。店外のバスケットに差してあるフランスパンを2本頂戴した俺達を捕まえようと、コック姿のまま追いかけてきているのだった。
「ウチのパンを持っていきやがって! 止まれェ!!ちゃんと金を払えヤァッ!!」
「ヒィッ! ご、ごめんなさ~い!!」
必死に走りながらも大声で謝るマサキに、少し前を走っている俺は怒声を浴びせた。
「ユウキ、謝る必要はねぇ! いいからさっさと走るんだ!」
「止まれっつってんだよッ、このガキ共ッ!! 捕まえてとっちめてやる!」
「うっさい、このトマト鼻!! たかだかパン2本で文句言ってんじゃねぇ! こちとら、生きるのに精一杯なんだよ!!」
そう走りながら反論する俺といえば、最後に食したのは2日前にゴミ溜めで拾った食いかけのリンゴ。この後ろでヒィヒィ言いながら走っているマサキといえば、これまた食いかけのパンを昨日に食しただけだった。
「も、もうダメだよ……フーくん! 私、力が出なくて……」
後ろで走るユウキが、そんな弱音を漏らしてくる。現に走る速度の遅くなったユウキのすぐ後ろに、鬼の形相をした出鼻オーナーが迫っていた。
「く……そッ! ココで捕まってたまるかよ!!」
仕方なしに、俺は身を翻した。向かってくるユウキとすれ違う瞬間、手に持っていたフランスパンを彼女に託す。そして逃げて来た道を一直線に逆走し、自身の何倍も大きい出鼻オーナーに体当たりした。
「うぉぉお!? こ、このガキッ!!」
ガブリッ、と俺は出鼻オーナーの図太い二の腕に噛みついた。空腹に飢えてる分、噛む力だけは健在だったようで、流石のオーナーも絶叫を上げて騒ぎ立てる。
「イテェ! イテェっつってんだよ、この……ガキがぁッ!!」
「ぐぇ!」
出鼻オーナーが、俺が噛みついたままの二の腕を振り上げ、薄汚れた壁に叩き付けた。たまらず俺はコンクリートの壁に激突し、頭から地面に転落する。
出血とまではいかないが、打った頭がクラクラとした。霞む視界の中、地に伏せたまま視線を上げると、手をコキコキと鳴らしながら出鼻オーナーが近寄ってきていた。
「ちっ、もう一人のガキには逃げられたか……まぁ、一人捕まえられただけでも良しとするかァ」
ガッハッハ、と品性の欠片も感じられない笑いをした出鼻オーナーは、まるで物を扱うかの如く、伏せた俺の横腹に全力の蹴りを叩き込んできた。
「おげぇ!」
蹴りの衝撃で吐き出されたのは、僅かな胃酸だけ。当然だ。この二日間何も食していないのだから、溶けかけのパンなど出てくるはずも無い。
「この、ガキが、汚ねぇ手で、ウチのパンを、触りやがって!」
そう何度も蹴りを叩き込んでくる出鼻オーナー。俺はと言えば、一番大事な命を守るため、甲羅に籠もった亀の如く丸まっていた。無言を貫き通して、ただ暴力が収まるのをじっと耐える。
肩で息するまで蹴りを叩き込んで、出鼻オーナーはようやく満足したのか、痛みに悶える俺を見下ろしながらこう言ってきた。
「二度とウチのパンに手ェ出すなよ。ドリー・マッドの焼くパンは、婦人の間でも評判だからな。お前らみたいな薄汚れた孤児が口にしていい代物じゃあ、ねぇんだよ」
あの2本はくれてやらァ、と吐き捨てた出鼻オーナーが、俺に唾を吐きかけて、店に戻るべく翻したとき。
俺は高らかに、叫んだ。
「今だ! ハナズン!!」
「――――ッ!?」
突如、オーナーの背後に俺の仲間が現れる。俺が事前に、この裏路地のゴミ捨て場に配置しといたのだ。
その仲間の少年は、オーナーが振り返るより早く背中に飛び乗った。足でオーナーの背中を蹴りつけながら、ちょうどオーナーの視界を奪えるよう、薄汚れた布きれを頭に被せて、有らん限りの力で引っ張っていた。
「チャンスだ、フー!!」
「良くやった、ハナズン!!」
ニッ、と笑顔を見せるハナズンに応酬して、何も見えずに慌てふためくオーナーに駆け寄ると。
俺は全力で、オーナーの股間を蹴り上げた。
「ぐええええええええ!?!?」
オーナーが何とも奇妙な悲鳴を上げて、荒々しく裏路地に倒れ込んだ。辺りに散乱したゴミを荒らしながら、白目を剥いて転げ悶える。
「敵オーナー、討ち取ったり!」
ビシッ、と指を伸ばし、高らかな勝利宣言をした俺のポンチョのフードを、ハナズンが引っ張る。
「ほら、フー。……ズズッ。バカなことしてないで早く行くよ。……ズズッ」
垂れ下がる鼻水をすする戦友に頷き返してから、今だに股間の痛みに悶える出鼻オーナーを尻目に、俺は裏路地の奥へと駆けていった。
*
「うぉおおおおおッ!? すっげぇ! それ、ドリー・マッドのバケットじゃねぇか!!」
「おう、どうだどうだ。すごいだろ」
2本のフランスパンをトロフィーに見立てて、高らかにかざしている俺の周囲には、同じストリートチルドレンの人だかりができていた。彼らの全員が薄汚れた衣服を纏い、大量の涎を垂らしてフランスパンを見上げていた。その瞳は明らかに俺に対して『おこぼれ』を期待しており、もしかしたら貰えるかもしれない、という期待混じりの表情を浮かべている。
「なぁ、フー。俺達にも、そのパン少し……」
集団の中の一人が痺れを切らしたのか、そんな事を言い出した。それに同調するかのように、他の連中は生唾を飲み込むと、より一層深々とした期待の色を滲ませて、パンを見上げる。
俺はその反応に満足し、掲げた2本のバケット、その1本を千切った。
「ほら、半分だけやるよ。後はお前らで分けろ」
おおお~、と集団が歓声に包まれる。俺がその千切ったパンを路上に置くと、まるで全員が獣に化けたかの如く、我先にと飛びかかった。
ケンカすんなよ~、と言葉を残して、俺はその集団から立ち去る。そして残りの1本半を両手に抱えて、少し離れた所からその様子を眺めていた、マサキとハナズンに合流した。
「フー、いいのか? ……ズズッ。アイツらに半分もあげちゃって。……ズズッ」
「ああ。別にいいよ」
鼻水を啜りながら話しかけてきたのは、俺達がハナズンと呼ぶ仲間だ。いつも鼻水をズズッ、と啜っていることから、付いたあだ名が『ハナズン』。盗みを働く際には、ハナズンは地理を把握しているということもあって非常に役立つため、出会った頃からコンビを組んで行動を共にしている。
「そ、そうだよね。みんな助け合わなくちゃねっ……!」
「うるせー、お前は黙ってろ、マサキ」
そんなぁ~と力なく項垂れる少女は、名をマサキという。当然ながら本名では無いが、当初からこの名前で通っていたため、俺とハナズンはそう呼んでいた。
たくさんのストリートチルドレンが集うこのスラムでは、毎日何十人もの子供達が餓死していく。皆が生きるのに精一杯で、他人のことなんか考えようが無い世界で、俺は何百人もの子供が死んでいくのを見てきた。
そんな食料を争う過酷な環境の中、逆にグループを組むのが有効な手段であったりする。
食料でケンカが起きそうな気もするが、そんなのは滅多にない。集団で行動するだけで盗みの成功率は格段に上がるし、お互いの持っている情報は全て共有できるため、生存率はぐっと向上する。そして何より、仲間というのは生きていく上で厄介な『孤独』という物を取り払ってくれる。よって俺は物心ついた頃から、自身を含めた4人のグループで行動しており、今回はドリー・マッドからは2本のフランスパンをかっさらい、加えてさんざん追い回されてきた出鼻オーナーを撃退するに至ったのだ。
それでも、グループを作るデメリットもある。本当に食糧難に陥った時はケンカも起きるし、何より不慮の事故などで仲間を失ったときの悲しみは、想像を絶する程の物だと聞く。
しかし、俺達のグループはギリギリとはいえ、基本的に食糧難に陥ったことはない。それに、今日という日まで仲間を失う辛さなど味わったことがないから、正直無縁なデメリットだと思っていた。
そう、今日という日までは。
「ま、真面目に俺達はマシな方だからなぁ。アイツらの中には、もう1週間も何も口にしていない奴もいる。もちろん毎回食事を分ける余裕は無いけど……今回は俺達にとっても『特別』だ」
「そう……だよね。『特別』……だもんね」
そう呟くマサキの言葉には、明らかに力が籠もっていなかった。表情も少しずつ悲しみを帯びていく。ふと隣を見れば、ハナズンも同様の状態だった。
俺、ハナズン、そしてマサキ。その全員が黙りこくって、ゆっくりと歩いていく。
数分もせずに辿り着いたのは、一つのボロ小屋。寂れた裏路地からさらに奥地に存在するこのボロ屋は、俺達3人組と、それからもう一人の仲間が活動拠点にしている場所だ。
自分達の住処へと帰ってきた俺達は、蜘蛛の巣を手で払いながら、入手した戦利品を大事に抱えて奥へと進む。
そしてベッドとさえ呼べない藁の塊に寝ころんだ、もう一人の仲間の前に辿り着いた。
「ただいま……ポッチョ」
そう呟くと、そのポッチョと呼ばれた少年はゆっくりとこちらに振り向いた。俺達3人を見るや否や、表情が一気に穏やかな物になる。その限界まで痩せこけた頬でぎこちない笑みを作ると、右肩を動かして、手を差しだそうとしてきた。
「――――ッ!」
ポッチョは、握手をしようというのだ。
俺達4人の間では、盗みなり捜索なりで食料を得て帰ってきたとき、必ず握手をするクセを付けていた。
それは、自分達がまだ生きているということを確かめ、得た食料で明日を生き延びられる喜び、それを仲間と共にかみ締めるための儀式のような物だった。
でも、今のポッチョにはできない。
――――何故なら、彼には両手両足が無いからだ。
もちろん、かつては両手両足があった。
誰よりも早く走れる両足と、手癖の悪さでは右に出る者がいなかった両手を使って、たくさんの食料をかっさらって、俺達に分けてくれたポッチョ。その勇敢な姿を、どうして忘れようか。
でも。
そんなポッチョの自慢の四肢は、突如にして奪われた。
ある日に、ふとポッチョの姿が見えなくなった。すぐに帰ってくるだろうと高をくくっていた俺達は、最初の数日間は食料を探すなりして気楽に待っていた。
しかし1週間が過ぎても帰ってこず、ここでようやく俺達は事態の深刻さを把握した。それからは毎日交代でポッチョを探し回り、そしてさらに1週間が経過した所で、俺達はようやくポッチョを見つけた。
しかし、ようやく見つけたポッチョは悲惨な状態だった。ゴミ捨て場に放棄されたポッチョは四肢を失って、今にも息絶えそうな状態だったのだ。
それが、今朝の出来事。
俺達はすぐにポッチョに問いただした。一体誰がこんな酷いことをしたのか、どうして四肢を失っているのか。でも、ポッチョには話す余力すら無かったのだ。
ポッチョの余命があと僅かだということは、すぐに分かった。その痩せこけて、衰弱しきった体を見れば明らかだった。
だから、俺達3人は犯人捜しをすることよりも、ポッチョへの恩返しをすることにした。いつも食料を分け与えてくれるポッチョに、これから死に行くポッチョに、ポッチョのためだけに食料を取ってこようと。
そして、これまでにないご馳走をとってきた。バケット2本という、4人で1週間は保つ食料を取ってきた。
これを全てポッチョに食べさせれば、きっと元気になる。四肢は無くても、きっと昔みたいに笑いあえる。そう信じて、俺達は捕まるのを覚悟で食料を取ってきたのだ。
「さぁ、ポッチョ。これ、お前が全部食べていいんだぜ? 俺達3人で取ってきたんだ。なぁ、食えよ」
俺がパンを差し出すと、虚ろな瞳を浮かべたポッチョは、優しく微笑んだ。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「ッ! ……なんだよ、遠慮することは無いんだぜ? ホラ、あのドリー・マッドのパンだぞ? こんなの俺達ストリートチルドレンじゃあ、一生食えないぜ?」
それでも、ポッチョは首を横に振る。
「何だよ。あ、わりぃ、そんなカッコじゃ、パンを千切れないよな? ほら、俺が千切って食べさせてやるから」
俺は一口サイズにパンを千切って、ミイラのように干からびたポッチョの唇に持っていく。しかしポッチョは僅かに吐息を漏らすだけで、そのパンを口にしない。
「何だよ。どうして食わないんだよ、ポッチョ。……分かったよ。俺達も少し貰うからよ。お前も食えよ」
左手で握りしめたパンに、俺はかぶりつく。僅かに暖かみを残したバケットを強引にかみ切り、俺は大げさに咀嚼する。
「うぉ、めっちゃウメェ、このパン! こりゃぁ、食わなきゃゼッタイ損だぜ、ポッチョ!」
ウマイウマイと言いながら、無我夢中でパンを頬張る俺に対して。
――――ポッチョはもう、動かなくなっていた。
口から漏れていた僅かな吐息すら消え失せ、全身から水分が抜き出たかのように痩せこけて。
――――それでもポッチョは、優しい微笑を浮かべていた。
「何だよ、ポッチョ。こんなウメェ、パン食わねぇでよ。ホントお前、バカだよ。こんな……こんな……」
震える俺の頬に、涙が伝う。
「こんな……しょっぺぇパン……食ったことねぇよ。……しょっぺぇ、しょっぺぇよ――――」