決着
――――長い。
真っ暗な世界を一直線に突き落ちている宮谷は、そう心の中で呟いた。
崩落したマザー・クリスが243フロアを跡形もなく決壊させ、その結果足場を失った宮谷は、無数の瓦礫と共に真っ逆さまに落下しているのだった。
一体何処まで落ちれば、終わりが見えてくるのだろう。
そう疑念を抱いてしまうほどに時間の経過を長く感じていた宮谷だが、実際のところは落ちはじめてから未だ数秒しか経っていない。何十倍にも長く感じてしまうほど、宮谷の思考はある事で占拠され、無理矢理加速させられているのだ。
宮谷の思考を支配しているのは、当然ながら白銀の少女――シロの事だ。
彼女の、まるで宮谷を知っているかのような素振り。そして別れ際に放った、『助ける』という言葉。虚無な宙を掴もうとしているかの如く、宮谷はこれっぽっちもそれらの真意を理解できていなかった。
宮谷の記憶では、あのシロという少女に出会った事は無い。しかし頭は否定したところで、宮谷の体が、心がその少女を覚えていた。懐かしんでいたのだ。
世界は真っ暗だった。敵の襲撃によって電力が落とされた事で、建物内部が闇に飲まれていた。
こんな闇の中を突っ切って大地に叩き付けられても、自分は死なないという。では、もし自分が弱かったら。地面に叩き付けられて、簡単に死ぬような脆い存在だったら。あの敵の少女は、自分を助けてくれたのだろうか。
宮谷には分からなかった。その少女が。どうしようもなく浮かび上がるその姿が朧気で、それに伸ばす手が届かない自分があまりに無力で、堪らなく悔しかった。
「私が無力だったから……浦田さんも……」
少女の思考は、自分と同じく闇を突っ切っている男に割かれた。手を伸ばしてみるが、空を掴むだけ。何処にいるかも分からないその男に、宮谷の手が届くことは決して無い。
自分は、全員を救えるだけの力を持っていたはず。求められるから手を差し伸べるのではなく、自らが手を伸ばす力が。
しかし、今の彼女にその力は無い。その力――『橙』のモールドの最後の一つを、身勝手な理由で使ってしまったから。自我を維持するために、化物へと変わった少女を殺めるために使ってしまったから。もし敵との戦闘まで使用を控えていれば、今すぐにでも仲間を助けられたかもしれないのに。
それでも。
侵入者も。白銀の少女も。不器用な仲間の男も。
「私……諦めたくないよ……!」
宮谷は涙を溢れさせた。悔しさからいくらでも溢れ出てきた。
大粒の涙は宮谷から離れ、虚空へと飲まれていくと。
何かにぶつかり、弾けた。
「――――え?」
宮谷は目を見開く。そして自身と平行するように落下する、涙粒に濡れたカプセルを視認した。
――――『橙』のモールドだ。
小さなカプセルに入った『力』が、手を伸ばせばすぐ届く所にあった。
「どうして、こんな所に――――」
そのカプセルは、浦田が右手に握りしめていた物。自ら右腕を切り離すことで、必ず侵入者を倒してくれると信じて、宮谷志穂に託した物。
『これは必要ない』。
浦田の言ったこの言葉は、クロにではなく、宮谷へと向けて放った物だった。
それでも無数の瓦礫が空間を埋め尽くす中で、宮谷の目前へと託された『橙』のモールドが躍り出たのは、全くの偶然だった。
言うなれば、宮谷の決して諦めない心が生みだした、ささやかな奇跡。
言葉の裏に隠された事実を、浦田が『橙』のモールドを託していたという事実を、宮谷は知らない。それでも、少女は驚くことも無く、ただ必死に、ひたむきに、一直線に、まっすぐ手を伸ばして。
託された『橙』のモールドを、力強く握りとった。
「間に合ええぇッ!!」
叫び、宮谷はカプセルを腕に刺した。
そして、再び彼女に戻ってきた力――――重力を司る能力を使用し。
ありったけの上向きの重力場を、宮谷は発生させた。
周囲を高速で落下していた瓦礫が、黒獣が、浦田が、そして宮谷自身が、急速に速度を失っていく。その圧倒的な引力は重力を打ち消すどころか、完全にそれを上回っていた。
そしてたったの数秒で落下していた全ての物が停止すると、宮谷は能力を調節して引力を弱める。重力と釣り合うようにして、再び無重力となった世界を、宮谷は移動し始めた。
「浦田さん!」
探し始めてすぐに、目的の人物は見つかった。宮谷のいた場所から大分離れた場所で浮かんでいた浦田に、宮谷は急接近する。浦田の傍まできた宮谷は、傷だらけの浦田を抱き、そして能力を切った。
「――――っ!」
再び重力が力を取り戻し、宮谷を下へと誘う。浦田を抱えた宮谷はそれに逆らうことなく、下方へと落下し。
そして数秒後に、瓦礫で満たされたフロアに着地した。続けざまに、大小様々な瓦礫も次々と落下してきた。
宮谷は抱いていた浦田をそのフロアに寝かせる。大きな深呼吸をしてから、ゆっくりと見上げた。
遙か上空から、一筋の明かりが漏れている。それがシロが脱出用に開けた穴であることは、宮谷にはすぐ分かった。
「逃がさない……!」
再び宮谷の瞳に、戦意が宿る。まだ何も終わっていない。体は動く。能力も使える。仲間の安全も確保できた。
宮谷は近くの壁を目がけて跳ぶ。そして跳んだ勢いから壁に足を押しつけ、体全身を屈曲させると、バネの要領で斜め上へ跳んだ。放物線を描く自身の体が頂点に達したところで能力を瞬間的に発動させ、引きずり下ろそうとする重力を打ち消す。
そのまま向かいの壁に着地した宮谷は、同じように向かい壁目がけて跳ぶ。そして途中で能力を発生させて落下を防ぐ。
この1セットを何度も繰り返すことで、宮谷はジグザグに建物内部を駆け上がっていった。実に6フロア分も駆け上がった所で、壁から伸びていた折れかけの柱にぶら下がり、その動きを止める。
「ここまで来れば、下の浦田さんを巻き込まないで済みそうね……」
下で横たわる浦田を一瞥してから、遙か遠くに漏れる光を見据えて。
宮谷は、全精神力を振り絞って能力を発動させた。
宮谷の能力は『重力を操る力』であるが、正確に言えばその能力は2種類に分かれる。
一つは、地球の重力そのものに干渉することで、文字通り周囲の重力を変化させる『重力操作』。宮谷が最もよく使用する能力だ。
そしてこれまでの戦闘において、宮谷が一度も見せなかった能力が、もう一つ。
重力操作の最終発展能力、『質点操作』。
理論上において形を持たず、無限に圧縮されてなお質量を持つ『質点』。宮谷はこの質点すら操ることができた。
しかし、十分な引力を得られるだけの質量を持った質点を生み出すのには、途方もない情報量が必要であり、そのためには使用者の全身に影響を及ぼすほどの感情を消費しなくてはならない。
例えば、無理を越えた感情出力に耐えられず、宮谷の全身が崩壊しかけている今のように。
「う……あぁ!!」
全身を裂かれたかのような痛みが宮谷を襲う。頭が割れそうな程に痛み、あちこちの骨から軋む音がする。血管のような細い管が切れる音がすると、口一杯に血の味が広がった。
しかし、それでも宮谷は質点の生成を止めなかった。全ては、確実に侵入者と白銀の少女を捉えるため。
宮谷は自身の感情の最大出力を持って、最大級の質量を持った質点を、漏れる光の一点に集中させた。
周囲の壁が剥がされ、バラバラに砕けながらその質点へと飲まれていく。壁だけではない。空気がその質点目がけて圧縮され、そのため嵐を彷彿とさせるほどの突風が生まれる。宮谷がぶら下がる柱もその身を軋ませるや否や、容易く折れて質点目がけて引っ張られていく。
通常の重力操作が一方向への引力と斥力を生み出すのに対して、質点操作は周囲の全てを飲込む質点を生成する。
言わば、小さなブラックホールだ。
宮谷が生み出したのは、万物を飲込む暗黒の点。如何なる者も脱出不可能な空域。それに漏れることなく、自身の生み出した質点へと飲込まれている宮谷が見たのは。
血まみれの侵入者を抱えたまま、引力による拘束から逃れようと藻掻く白銀の少女。質点によって形成された巨大な瓦礫の塊に押さえつけられ、マトモに動けないでいる。
「つかまえた」
全身が痛む中でも、宮谷は不敵な笑みを浮かべた。そして体全体を捻り、右腕を限界まで引き。
超高速で宙を疾駆し、侵入者2名目がけて殴りかかった。
「――――ッ!」
味方を背負った白銀の少女――シロの反応は早かった。唸りを上げて迫り来る宮谷を視界に入れるや否や、展開していた2対の盾を移動させ、宮谷と一直線上になるように並べる。
構うことなく、宮谷は遮られた黒盾に挙刀を放った。
ゴンッ!という鈍い音を発して、宮谷の拳が盾へと叩き付けられる。
恐るべき堅さだ、と宮谷は内心で呟く。弾丸の如き速度で叩き込まれた宮谷の本気の拳を受けて、凹みの一つすら形成されないのだ。
しかし高速で飛翔していた宮谷の勢いが勝ったのか、叩き付けられた拳は2枚の盾を押し切り、身動きの取れないシロへと迫る。
「……っ!?」
想定外の事態だったのか、僅かに目を丸くするシロ。しかしその表情からは焦りが感じられず、むしろ余裕すら感じ取れる。
宮谷の拳が、シロの腹部を捉えた。
はずだった。
「嘘っ……な……」
宮谷の拳を、3枚目の巨盾が防いでいた。
「私の盾は2枚だけなんて、一言も言ってないよ。志穂」
そう微笑みかけられた宮谷は、背中を冷たい何かが駆け巡るのを感じた。
「ま、まだッ!」
宮谷はその新たに生成された漆黒の盾を蹴りつけ、シロから距離を取る。
今現在、シロとクロの両名は質点によって形成された瓦礫の山に押さえつけられて、身動きを取れない。それが事実であることを内心で強調し、取り逃がす心配は無いことを再認識することで、宮谷は自身を必死に落ち着ける。
質点から距離を取ることで、引力からもう一度勢いをつけた宮谷は、再びシロに襲いかかる。
「ウアアアァァッ!!」
自らを鼓舞するように雄叫びを上げて、宮谷は拳を振りかぶった。それに瞬時に反応したシロは、宮谷の進路上に3枚の盾を配置する。
予想通り、と宮谷は内心で呟いた。
宮谷は一枚目の盾には、全力の手刀を叩き込んだ。先ほどと同じく勢いだけで弾き飛ばすと、二枚目の盾にも拳を叩き込む。
しかし1枚目で勢いを殺されていたのか、宮谷の拳を盾が受けきった。
それを見越していた宮谷は、盾の端を掴み、自らの腕を軸にして盾の背面へと回る。そして足場の無い空中戦での踏み台として蹴りつけ、再び勢いをつけて3枚目へと迫った。
しかし。
「4枚目」
「ッ!?」
シロの呟いた言葉と共に、どこからとも無く4枚目の巨盾が出現した。言葉通り横槍を入れられ、真横から4枚目の盾に激突された宮谷は、堪らず吹き飛ぶ。
「5枚目、6枚目」
「――――えっ?」
直後、吹き飛ぶ宮谷を、さらに生み出された2枚の盾が挟み込んだ。
押し潰さんばかりの勢いで両側から挟み込まれたため、宮谷は肺に溜まった空気を思いっきり吐き出された。衝撃でダメージを受けた上、両側から押さえつけられることで全身から悲鳴が上がる。
「く……アアッ!」
痛みを堪え、宮谷は必死に盾から脱出を試みる。しかし圧倒的なまでの力で挟み込まれるため、肢体は僅かにも動かせず、唯一動く手首から先だけではどうしようもなかった。
「この盾は……一体……引力を受けていない……!?」
「当然だよ。質量なんてないんだから」
なっ、と宮谷は絶句する。
これほどまでの力で押さえつけてくる盾に、質量がないはずがない。それ以前に、この世界に質量の無い物質など存在するのだろうか。
しかし、もし仮に目前の少女の言葉が本当ならば、全てのツジツマがあう。漂うように宙に浮かんでいるのも、宮谷が創りだした質点の影響を受けないのも、質量がないからだと言えば説明がつく。
そうなれば、目前の少女――シロは、宮谷と最悪の相性ということになる。宮谷の行なう一切の重力操作が、シロの持つ武器に通用しないのだから。
そう考えながらも、宮谷は冷静だった。少女の言葉が真実と仮定した上で、この状況を打開する策を巡らすべく思考を続ける。
しかし宮谷の冷静な思考を、飛び込んできた衝撃的な光景が打ち破った。
「あれ? これ何枚目だっけな?」
そう可愛げに呟いたシロの周囲では、無数の巨盾――最早数えるのを躊躇ってしまう程の盾が、ゆらゆらと漂っていた。
それらはまるで生物のように集団を形成しながら、シロとクロが押さえつけられている瓦礫の塊を囲むと。
ムシャムシャと、喰いだした。
そう、喰っていると表現するのが適切だろう。巨大な塊を数で取り囲みながら少しずつ削り取り、光の粒子へと変えていく。そして消化するかのように、光子へと変わった瓦礫を吸収していくのだ。
10秒も経たぬ内に、大型飛行船の数台分はあった鉄の塊が、綺麗さっぱり食べ尽くされた。
与えられた餌を食べ尽くした盾達が次に見据えたのは、形すら持っていない『質点』。
その、宮谷の命がけで生み出した力に、無数の盾が殺到した。
形を持たない質量だけの物質が、質量を持たない形だけの物質に喰われていく。
この世の現象とは思えない光景に、宮谷は心の底から恐怖した。自身の生み出した力の象徴が餌の如く扱われるという、想像を絶した衝撃的な光景にどうしようもなく臆した。
引力が少しずつ弱まる。
宮谷の生み出した、圧倒的な質点が。形を持たない物質が、本当に喰われている。
ついに、引力が全て無くなった。質点が、無数の盾によって完全に喰われたのだ。
「――――ッ!?」
宮谷を拘束していた2対の盾が、その身をゆっくりと離した。まるで、これ以上は束縛する必要は無いとでも言いたげに。興味が無いと言いたげに。
宙へと放り出された宮谷は、腹の奥を引っ張られるような浮遊感を感じる。重力に身を任せて降下を始める中、宮谷は確かに見届けた。
無数に展開された漆黒の盾が渦巻く中心で、宮谷に優しげな視線を送ってくる一人の少女。
純白のコートをはためかせる少女は、落ち行く宮谷を見下ろしながら、確かに微笑んでいたのだ。
「志穂、もうすぐだからね。待ってて……」
そして、再びこう言った。
「私が、アナタを助けるから」
「――――ッ!」
宮谷の中で、何かが弾けた。
しかし、それは前回感じた懐かしさでも無ければ、戸惑いでも無い。
――――怒りだ。
「なんなのよッ! アナタはッ!!」
次の瞬間、宮谷は落ちながらも叫んでいた。
「一体誰なのよ! 私を助ける? 何を!? 私を何から助けるっていうのよッ!?」
しかし、宮谷の叫びは白銀の少女には届かない。まるで自分の言葉に酔い痴れているかの如く、シロは色素の薄い頬を紅く染める。そして惚けとしながら身を翻し、宮谷には目もくれず、そのまま開いた出口から抜け出していった。
「くっ!?」
逃げられた。
それだけは分かる。
後から続くようにして抜け出ていく盾を見据えて、宮谷は怒りの中でも決意を忘れずにいた。
「まだよ……まだ終わってない。まだ出来ることは、残ってるわ……!」
落ち行く宮谷は、最後の力を振り絞って能力を発動させた。先ほど使用した『質点操作』では無く、頻繁に使用する『重力操作』。
浮遊感の消失と共に、空間が無重力と化す。宮谷は宙返りして近くの壁を蹴り、逃げ行く盾へと迫る。
そして無限とも思われていた盾が大方逃げ出し、最後の一つが逃げ去る直前。
「ウアアアアアアッ!!」
宮谷は叫び声と共に、出口の横から最後の盾に突撃する。四肢を駆使して、自身の背丈に迫らん大きさの盾を固定し、勢いに任せて壁にぶつかった。
「……くっ!? どっからこんな動力が……!?」
暴れ馬を相手にしているかのような手応え。藻掻く盾を、宮谷は全身を使って壁に押さえつける。
しかし、体力を使い果たした宮谷の押さえつけはあまりに非力だった。少しずつ押さえ込みを抜け出され、盾の半分ほどがはみ出したとき。
強固な覚悟を抱き、宮谷は最後の行動に移った。
近くにぶら下がっていた鉄筋を抜き取る。その巨大な杭を彷彿とさせるような、尖った先端を自身の手の甲に押しつけ。
宮谷は力の限りを振り絞って、手の甲を貫通させた。
「~~――――!!」
声にならない叫びを上げる。先端部に貫通された宮谷の手の甲から血飛沫が飛び散り、球形となって辺りに漂い始めた。
そして涙で滲む視界の先で、手の甲を貫通した鉄の先端が、強固な盾に僅かに食い込んでいた。
――――この好機を逃せば、この盾を、敵を知る手がかりを失うことになる。
痛みよりも何も出来ない悔しさを恐れた宮谷は、空間に張り巡らせていた重力場を消し。
杭の先端部に、ありったけの『質点』を生み出した。
限界を超えての『質点操作』。その代償は、重く宮谷にのし掛かった。全身が悲鳴を上げ、口元から血が伝った。裂かれるような頭痛に伴い、形容しがたい悪寒が全身を走る。
それでも耐える宮谷に追い撃ちをかけるように、鉄筋が質点へと引っ張られ、宮谷の傷口が抉られる。激痛から声ならない悲鳴を上げるも、歯を食いしばって痛みを堪える。
涙から滲む視界の先では、あれほどの堅牢さを保っていた盾を、多少ひしゃげながらも鉄筋が貫通していた。宮谷の手と盾を縫い合わせるようにして、奥の壁へと突き刺さっている。
これで、盾を逃がすことは絶対に無くなった。
その事実を理解しているかのように、盾が動きを止めた。それを見届けた宮谷の意識は朦朧とした状態になっていき、『橙』のモールドの効果が切れる頃には意識を完全に失う。
記憶の何処かに潜んでいた白銀の少女――――シロへの糸口である巨盾を握りしめ、壁に吊されたまま意識を無くしても、宮谷は微笑を浮かべているのだった。