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Fの軌跡  作者: ひこうき
Fの覚醒 編
22/60

変化

 俺の目の前で、深紫色のワインが入ったグラスを揺らす、高身長の男。

 ライエル・ウェーバーは香を嗜んだ後、その果液を口に含んだ。鼻腔をくすぐる味わいを楽しむかのように目を瞑り、ゆっくりと喉に通す。そして短い呼吸を挟んでから、ようやく口を開いた。

「少々はしたないかもしれないが、やはり運動の後はワインに尽きる。メドック産のシャトーラトウールは、私のお気に入りでね。体に染み渡るような、芳醇な香と舌触りが心地よい」

 はあ、と言葉を濁す俺。

 最初この流暢な日本語に多少の違和感を覚えたが、俺はすぐに考えを改めさせられた。

 宮谷曰く、ライエルの適合率は92%。適合率が90の大台に乗った人物は、ICDA全体でも僅か4名しかいないそうで、そんな人類のトップ4に入る程の鬼才を誇るのだから、複数の言語を完全にマスターしていても何も不思議では無い。

 あの衝撃的な能力を披露した後、ライエルは真っ先にこのモニタールームへと上がってきた。

 訓練場からこのモニタールームまではエレベータを経由せずに上がってこれる。

 そして副会長ことユウリちゃんと、雅美さん、そして最も丁重に宮谷に会釈した後、何をしでかすかと思いきや、いきなりワインを取り出した。モニタールームにはそう言った類の物は一切存在していなかったから、訓練場から持ち込んできたと思われる。

 そして今は壁に背を預け、恍惚とした様子で一級品らしいワインを擽っていた。隣の宮谷と雅美さんも呆れた様子だった。

「アナタという人も懲りないですね、ライエル。こんな結果が目に見えた訓練を重ねて、無駄に感情を消費して」

 雅美さんの言葉に、ライエルがおどけた様子を見せる。

「私としては、何故皆の者が動かぬのか不思議でならない。他者をいかようにでもできる超能力を得ながら、感情消費を抑えるために全く使わない腑抜けもいるそうではないか」

 いいやダメだ!とライエルは声を張り上げる。

「力ある者は、その身を持って行使する義務がある。私はそれを果たしているだけだよ」

 

 そして、そんな彼の隣に、きょどきょどした様子で立っている少女が、一人。


 大事そうに一つのバッグを両手で抱えているその少女は、雅美さんから頭2つ分ほど小さく、全体的にほっそりとしている。顔つきはとても可愛らしく、小動物的、とでも言おうか、肩から少し下がる程度に伸びた、きめ細やかな黒髪も相まって、とにかく全体的に小柄な印象が強い女の子だった。

 名を、椎名花蓮、というそうだ。

 椎名が名字で、花蓮が名前。年齢は、まだ中学1年に上がったばかりの13歳。身に纏う制服は、何処かの女子校の物のようだ。

 先ほどライエルがこの部屋に乗り込んできた際、後ろにちょこちょこと付いてきていた。雅美さんからの情報では、一応ICDAの司令部所属らしいが、適合率はICDA全体を通して最低値らしい。それが影響してか、あまり組織内での扱いがよろしくない、とのことだった。


 そして驚くべきことに、この少女はICDAのナンバー2である、ライエル・ウェーバーの専属オペレーターなのである。


 そんな最中、先ほどから挙動不審な様子であった椎名が、口を開く。

「あ、あの、ライエル様……。訓練お疲れ様でした。こ、これ良かったら……」

 大事に抱えた鞄から、そそくさとタオルを差し出すが、ライエルは見向きもしない。まるで彼女という存在がこの場に存在しないかの如く、ワインを口に含み、軽く味わってから口を開く。

「ところで少年。時にワインとは、人と異にする存在だとは思わないかね?」

「は……?」

 と思わず呟いてから、俺は冷や汗をかく。世界で2番目、超能力としては世界最高峰の力の持ち主に、ため口にも近い応答。

 しかし俺の不安を拭うかのように、ライエルは特に気にする様子も無く続けた。

「ワインは、年月を置けば置くほどその価値を増す。少しずつ熟成させ、己の存在理由、価値を極地に至らしめ、私達愛飲者の魂を存分に震わせる。だが人間とは、何とも残酷な生き物だろうねぇ。生まれたその瞬間から、価値が決まってしまうのだから」

 クックックッ、と実に愉快そうに笑みを溢すライエル。彼の言葉の意味するところを、俺はその身を持って十二分に理解している。

 今のこの世界は、モールドという薬への『適合率』で全てが決まる。努力ではその才能の壁を越えることは、絶対出来ない。それは非日常に身を浸している今でも、全く変わらない。

 ライエルは続けた。

「弱者とは、存在自体が罪。それは、あの薬品が登場する前から分かっていたことだがね。モールドが登場してから、この思想には微塵の狂いもないことが証明されたではないか。現に外の世界では、どうしようも無く下らない人間が次々と消え去っているだろう?自殺だの行方不明だの、色々理由は付けられているが、あれは全くの虚実だ。彼らを実に惨めな道へと誘ってきたのは、紛れも無く彼らの身にする、罪自身なのだから。弱者である、というね」

 ライエルの口にする、強者のみが発することのできる言葉の内には、アイツのことも含まれているのだろう。

 無駄だと分かっていながらも必死に抗って、何度失敗しても立ち向かう、バカの極み。


 哲平の事も。


 この男は、その哲平の存在自体が罪だとでも言うのか。

 あのバカのすることが、非生産的な行為であることに違いはない。挑戦することに意味が無いのは、当然と言ってもいい。

 だがしかし、その行為を否定する材料として、果たして『罪』などという大仰なモノが、本当に相応しいのか。

 『諦め』が身に染みた俺には、実際にどうなのかは分からない。

 だが、一つだけ今の言葉で理解出来たことがある。

 ライエル・ウェーバー、世界の頂点に君臨するこの男は、どうしようもなく正しく。


 どうしようもなく、ツマラナイ男だということだ。


 彼は決して『悪』では無い。むしろ、あまりに優等な『善』だ。

 だからこそ、哲平からはヒシヒシと伝わる人間としての味気さが、彼からはこれっぽっちも感じられなかった。

 生物的な魅力に満ちてはいるが、人間としての魅力が、全くと言っていいほど感じられなかった。


 そして自然とそう感じてしまう俺自身も、つまりツマラナイ人間であることに違いは無い。


 俺とは正反対の世界に君臨し、同時に俺と同じ思想を持ったツマラナイ男が、再び口を開く。

 だがその言葉は、俺に向けられた物では無かった。

「私の言いたいことが分かるかい、志穂?君のように、美しい強者は、こんな陳腐な国にいて良いハズが無い。ゴミのような罪人達、日本の人間に関わるのはもう止めて、私と一緒にアメリカ支部へ飛ばないか。世界を救うヒーローとして、私の最愛のパートナーとして、ね」

 『パートナー』とライエルが言ったと同時に、隣で俯いていた小柄な少女が、僅かに肩を跳ねさせる。何か言いたいのを堪えるように、大事に抱えたバッグをきつく握る。

 そんな中、大胆にもプロポーズに近いセリフを浴びた宮谷は、短くため息をついてから返した。

「何度言わせるのよ、ライエル。私はこの国を離れるつもりは無いわ。それに恋人が欲しいなら、すっごく献身的な、カワイイ娘がすぐ隣にいるじゃない」

 微笑を浮かべたまま、宮谷は視線を椎名に送る。

 少女はその言葉に俯かせていた顔を上げ、救われたかのような笑顔を見せる。そして何かを期待するように、隣のライエルを見上げた。

 しかし。

 少女の笑顔を裏切るかのように、ライエルが示した反応はあまりに僅かな物だった。

 このモニタールームに来てから、初めて隣に立つ少女を一瞥すると、わざとらしい大きなため息をつく。そして肩をすくめながら、呆れたように首を振る。

「何をいいたいのか、私には少々理解出来ないよ。私に相応しいパートナーは、今現在君だけだ。お節介が過ぎるバカ犬なら、しつこいくらいに懐いてくるがね」

 その言葉の指す内容を飲込んだのだろうか。少女は少しだけ目を大きく見開くと、次の瞬間には瞳を潤ませていた。しかし泣くのを必死に堪えるためだろうか。嗚咽を漏らさぬよう屈み込み、バッグを抱き続ける。

 そんな椎名に見向きもしないまま、ライエルは言葉を紡いだ。

「それに、志穂。君はどうしてそこまで日本にこだわるんだい?やはり、お父上のことが……」


 薄笑いを浮かべながら放たれるライエルの言葉に、これまで平静を保っていた宮谷が初めて揺れた。


 瞬間的に腰から拳銃を取り出すと、ライエルに向けて突き立てる。

 ぎょっ、とした俺と椎名を除き、ライエルを含めた他の人達はしかし、主立った反応を見せなかった。

「このっ……父のことは言わないでって、何度も言ってるでしょ!?」

 息を荒げながら、ライエルを睨み付ける宮谷。

 一方拳銃を突きつけられた当人は慌てる様子も無く、ジョークだよ、と短く言う。

「済まなかったね、志穂。今後一切、君のお父上に関する事は言わない。この場で神に誓おう」

 お詫びと言っては何だが、と悪びれた様子も無く、ライエルが続ける。

「先日招待した際は、来て貰えなかったからね。どうだい?私が自信を持って推すシュフが、腕を振るったコース料理でも……」

「不愉快だわ」

 そう短く呟いた宮谷は、拳銃を降ろすと俯いた。ライエルの言葉を聞き終えるよりも前に、表情を見せないままフロアから出て行ってしまう。

「おやおや」

 呆れ混じりにそう呟いたライエルは、再び肩をすくめると雅美さんに視線を送る。それに対して、雅美さんはいつも通りの笑顔で応えるが、どうも先ほどまでの優しげな笑顔、といった感じでは無いようだ。愛想笑い、という表現が適切だろう。

 そんな、微妙な空気が漂う中、隣にいた少女がはっ、と顔を上げると、大事に抱えていた鞄からある物を取り出す。

 

 木で編まれた、小さなお弁当箱だ。


 子供が自信作の絵を親に見せるように、少しだけ笑顔を溢しながら、少女はお弁当箱を包んでいたハンカチを取り払う。

 中から姿を現したのは、綺麗な具をふんだんに詰め込んだ、実に美味しそうなサンドイッチだ。サイドメニューとして焦げ目の無い卵焼きや、程よい照り返しを見せる唐揚げなど、様々な物が充実していることから、根絶丁寧に調理してきたことが分かる。

「あ、あの、ライエル様……。お食事がまだでしたら、どうぞ……」

 祈るようにお弁当箱を差し出す少女に対してしかし、ライエルは全くの反応を見せないまま、エレベータ目がけて歩き出した。

「あ、あの!」

 慌てて椎名が追いかける。

「私、ライエル様が訓練を終えて、それでお腹を空かせているかな、て思って……」

 小走りの少女は続ける。

「それで、前は食べて貰えなかったけど、ちゃんと真心込めて作れば、召し上がって頂けると思って」

 ライエルはしかし歩を止めない。

 少女は必死に追いかける。

「あ、このサインドイッチですね……。ライエル様が、キャビアが好きだと聞いて。でも、キャビアのサンドイッチなんて作ったこと無くて。それで、隣町まで食材を探しに行ったんです。バカみたいですよね……。あはは……」

 そう言う少女は、精一杯の笑顔を作る。

 だが、その必死の姿は、ナンバー2の瞳には映らない。

「あ、あの!ライエル様!」

 椎名が、悲痛の声でライエルを呼び止めた、その時。

 少女が、突如立ち止まったライエルにぶつかった。


「うるさいっ!」


「きゃっ!?」


バチィッ、と。

 青白い電撃を纏ったライエルの右腕が、少女を突き飛ばした。

 まだ『橙』のモールドの効果が残っていたのだろうか。ライエルの感情の高ぶりに反応して電撃が帯びてしまったのか、それとも故意的なものなのか。

 少女は後方に吹き飛び、俺のすぐ横の地面に叩きつけられる。

 大事に抱えていたお弁当箱は無惨にも大地を跳ね、丁寧に作り込まれたサンドイッチが力なく周囲に散らばった。

「……あっ!」

 先ほどまで全身を取り巻く痺れに苦しんでいた少女は、自分が一生懸命作った料理が地面に広がっているのを見た矢先、這いつくばったまま近寄る。そして、まだ電撃が残っているのか、震える指先で必死に料理を掻き集めていた。汚れるのも躊躇わず、抱えるようにして掻き集める。

 そんな最中。

「きゃっ!」

 

 必死で掻き集めていた少女の、キャビアで汚れた小さな手を、ライエルが足で踏みつけた。

 

 グリグリと、容赦ない踏みつけに、短い悲鳴が少女から上がる。

「なんと醜い姿を晒すか、お前は」

「す、すいません……」

 少女は力無く答える。

「お前のようなゴミにも等しい弱者、罪人が作った残飯を。適合率92%、SSSランクであるこのライエル・ウェーバーが、一口足りとでも、食すと思っていたのか?」

「すいませ……ん……」

 少女の声に、涙が滲む。

「大体お前のような『落ちこぼれ』が、この私のパートナーに選ばれる事自体、身に余る僥倖なのだぞ」

「……」

 少女は最早、言葉も発せない。

「弱者は弱者らしく、傷の舐め合いでもしていろ。それが嫌で、天にも勝る幸運に縋って私に従いたいと言うのなら、黙って働け。そして二度と名前を呼ぶな」

「……はい」

 少女の瞳から、光が消えていく。

「私は身を休める。お前は明日の早朝までに、次のHVSの構築を済ませておけ」

「……はい」

 少女の瞳から、途切れた涙が落ちた。それはぐちゃぐちゃに掻きまとめられたサンドイッチに、大切な人を思って、一生懸命作られた彼女の思いの結晶に滴ると、悲しみが広がるかの如く染み渡っていく。

 そんな最中、いつもよりも鋭さを増した声色を出したのは、雅美さんだった。

「随分酷な命令ですね。彼女がアナタの指示したHVSを構築するのに、丸一日全部の時間をかけなくてはならないのは、アナタが一番良く知っているでしょう?もう彼女は3日も寝ていないのに」

 その、あまりにも辛い現実を示す雅美さんの言葉に、ライエルはおかしくて堪らない、といた表情で返した。

「知っているか?古代ローマ時代の罪人の睡眠時間は1日2時間だったそうだ。私は昨夜、彼女に3時間もの時間を与えた。それをこのゴミは、残飯を作るのに全て費やしたと言うのだから……」

 クックックッ、と漏らすような笑みを浮かべて。


「これだから、弱者のやることは理解に苦しむ。弱者は弱者らしく、首を垂れて、この頂点たる私に従えばいいのだ」


 このライエルの言葉を聞いた瞬間。


 ―――――俺の中で、何かが弾けた。


 そして、弾けた後に、全身を絡め取るように滲んでいく、新しい感情。


 ―――――この感情は、怒り……?


 バカな、と俺自身驚く。

 俺はこれまで、弱者がどれだけ虐げられようとも、こういった感情を抱くことは無かったからだ。

 2週間前の、哲平が荒瀬にやられている時だってそうだった。無理に助けに入ろうとはせず、その後の利益を考えて、最善の行動をした。


 いつだってそうだった。面倒なことには首を突っ込まない。自分が面倒に絡まれるだけだから。

 常に物事を客観的に捉え、決して感情を対象へと載せはしない。弱者であることに甘んじて、辛い思いをする弱者を見捨ててきた。


 それは、正しいこと。『諦め』ることは、絶対に間違った道を創り出さない、最高の手段であること。


 俺という存在は既に、その『諦め』無しでは維持出来ないほど、その手段に染まってしまったこと。

 全ては、正しいのだ。そう頭では理解している。

 だが、それならどうして、俺はこんな気持ちになる?

 相手にすらならないというのに、どうしてライエルを見て、怒りを滾らせている?


 どうして、あの目の前の男を殴ろうと、拳を強く握っている?


「―――――がっ!」

 引き裂くような、鋭い頭痛が俺を襲う。あの時俺を襲った、謎の頭痛だ。


 全ては、俺の心の内にある気がした。


 脳裏を剥がし、頭蓋骨の奥深く。


 真っ暗な、俺の根本を司る領域に。


 全ての思考がログアウトし、何も存在しない、暗黒の世界に。


 横たわっている、あの『少年』は誰?


 俺の中にいる、『F』は誰?

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