家族に捨てられたので、海へ還ります
「リゼット。次はこの剣だ」
父が差し出した剣は、錆びて刃こぼれした、ただの古剣にしか見えない。
しかし、リゼットが柄に触れた瞬間、頭の中に言葉が浮かんだ。
――《黎明を拓くもの》
それが、この剣の真名だった。
真名。物が持つ本当の名前を、リゼットは触れるだけで聞き取れた。
「《黎明を拓くもの》」
リゼットが真名を口にした途端、剣が淡い光を放った。
錆びついていた刀身は輝きを取り戻し、欠けていた刃も新品のように蘇っていく。
その様子を見て、父は満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしい。やはりお前は我が家の宝だ」
その言葉が嬉しかった。
リゼットはアーデル男爵家の娘。
勉強も、人付き合いも、特別秀でているわけではない。
そんな自分が家族から必要とされるのは、この能力があるからだった。
父に頼られることが嬉しかった。
母に「リゼットのおかげね」と微笑んでもらえることが嬉しかった。
弟に「リゼットの力はすごい」と言われることが嬉しかった。
だから、頼まれれば断らなかった。
古代の魔道具。
王家から預かった装飾品。
戦争で壊れた魔剣。
商人から持ち込まれた宝石。
リゼットが真名を呼べば、失われていた力が戻り、その価値は大きく跳ね上がった。
アーデル家は、リゼットの力によって瞬く間に名を上げていった。
家族が喜ぶ姿を見ると、胸が温かくなった。
たとえ、真名を呼ぶとき以外は家族が自分に見向きもしなくても。
社交の場に連れて行ってもらえなくても。
家族で出かけるとき、いつも留守番を任されても。
もっと頑張ればいい。
もっと役に立てばいい。
そうすれば、いつか本当に家族から愛してもらえる。
リゼットは、そう信じていた。
けれど、ある日。
「今日はこれだ」
父が差し出したのは、いつもの品とは違うものだった。
黒ずんだ銀細工に、赤い宝石が埋め込まれた一つの耳飾り。
父だけではない。
母もその耳飾りを前にして、どこか警戒するような表情を浮かべている。
普段は母から離れない弟はこの場にいない。
「これの真名を呼べ」
「……はい」
嫌な予感がした。
それでも家族の視線を前に、断ることができない。
リゼットが耳飾りに触れると、頭の中に今まで聞いたことのないほど低く、不気味な声が響いた。
――《喰らうもの》
背筋が凍った。
「お父様。これは……」
「いいから真名を呼べ」
「ですが……」
「呼べと言っている」
「嫌です」
初めて、リゼットは父の命令に逆らった。
「これには何か、普通ではないものが――」
「呼べ!」
怒鳴られ、リゼットの身体がびくりと震える。
怖かった。
それでも、家族の期待を裏切ることのほうが怖かった。
震える手で、耳飾りを握りしめる。
「……《喰らうもの》」
口にすると耳飾りから黒い光が噴き出した。
その光がリゼットの耳に絡みつく。
「――っ!」
胸が締めつけられた。
息ができない。
身体の内側から、何かを吸い取られていく。
「リゼット!」
父の叫び声が遠くで聞こえた。
床に倒れ込んだ身体から、淡い光が抜けていく。
それが自分の命なのだと、なぜか分かった。
そして、握りしめていたはずの耳飾りが耳元で冷たく揺れていた。
「外せ!」
父がリゼットに駆け寄り、耳飾りを外そうとする。
しかし。
「外せない……!」
何度試しても、耳飾りはびくともしない。
その必死な声に、リゼットは苦しみながらも、ほんの少しだけ安心した。
――お父様が、助けてくれようとしている。
父は自分を心配してくれていると、そう思いたかった。
その後、リゼットは神殿へ運ばれた。
高位の神官が耳飾りを調べ、長い沈黙のあと、重い口を開く。
「私の手には負えません。……長くはもたないでしょう」
「……そんな」
呆然と床を見つめるリゼットの横で、母が神官に尋ねた。
「耳飾りの呪いは、解けないのですか?」
リゼットは顔を上げた。
神官が耳飾りに目を向ける。
「解呪は不可能です。これは装着者の生命力を奪い続け、その命が尽きても消えません」
その言葉を聞いた瞬間、家族の顔から血の気が引いた。
「……命と引き換えにしても、解けないのですか?」
父が尋ねると、神官は静かに頷いた。
「命と引き換えに、ってどういうことですか……?」
家族の反応は、リゼットの命を案ずるというよりは、呪いが解けないことにショックを受けているようだった。
そのとき、ようやく分かった。
――この人たちは、知っていた。
この耳飾りが危険なものだと。
それでもリゼットに真名を呼ばせたのだ。
◇
そして、その日の夜。
リゼットは家から追い出された。
「呪われた人間を屋敷に置いておくわけにはいかない」
父は冷たく言った。
「お前が死ぬのは構わん。だが、ここで死なれては困る」
「……お父様」
「万一にも、愛する我が子に呪いがうつったら困るわ」
母はそう言って、弟を抱き寄せた。
その光景を見て、リゼットの胸が痛んだ。
「……私も、あなたたちの娘ですよね?」
震える声で尋ねる。
父は、何の感情も浮かべずに答えた。
「お前を娘として愛したことはない」
「一度もね」
母も続けた。
「呪われて、役に立たなくなったお前に何の価値がある?」
その言葉が、胸に突き刺さった。
今まで積み重ねてきたものが、音を立てて崩れていく。
必要とされていると思っていた。
愛されていると思っていた。
家族が見ていたのは、自分の能力だけだった。
「これで少しでも遠くへ行ってくれ」
父は吐き捨てるように言い、布袋を投げつけた。
「……」
不思議と、涙は出なかった。
むしろ、今まで胸の奥にあった何かが、すっと消えていくような感覚がした。
屋敷を追い出されたリゼットの身につけているのは、外れない耳飾りだけ。
足元の布袋は、思ったより軽かった。
「……」
どうせ死ぬのなら。
最後に一つくらい、自分のために生きてみたい。
幼い頃から、一度でいいから見てみたかった場所。
海。
今までは依頼をこなす日々で、外出も制限されていた。
だが、もうリゼットを縛り付ける者はいない。
本でしか知らない、どこまでも広い青。
リゼットは海を目指して歩き始めた。
◇
海を目指してひと月。
身体は日に日に弱っていった。
途中で何度も倒れた。
それでも、立ち上がった。
リゼットは重い身体を引きずるようにして、坂を上る。
その先に、青い景色が広がっていた。
「……これが、海」
初めて見る海は、想像していたよりずっと大きかった。
波が寄せては返す。
空と海が、どこまでも続いている。
リゼットは坂を下り、砂浜に座り込んだ。
「綺麗……」
潮の匂いが鼻を抜け、波音が耳に満ちた。
そのとき、呪われた耳飾りから、あの不気味な声とは違う、澄んだ声が頭の中に響いた。
――《還るもの》
リゼットは無意識に、その名を口にしていた。
「……《還るもの》」
真名を口にした途端、黒い呪いが、音もなく砕け散った。
「え……?」
身体を蝕んでいた重さが消えていく。
呼吸が楽になり、指先に力が戻る。
さきほどまで死を待つしかなかった身体に、確かな温もりが戻ってくる。
何が起こったのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、呪いが解けたということだけ。
けれど、耳飾りは相変わらず耳から外れなかった。
「何をしている」
突然、背後から声がした。
リゼットが振り返る。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
海風に黒髪を揺らし、青い瞳でこちらを見ている。
「今の時期、この浜は立ち入りが禁じられている」
「す、すみません。禁止されているとは知らなくて……」
「見ない顔だな。そもそも結界をどうやって越えてきた?」
青年は怪しむようにリゼットを見る。
そして、その視線が耳飾りで止まった。
「……その耳飾り」
青年の表情が変わった。
「それを、どこで?」
「……家の伝手で」
「触れてもいいか?」
「構いませんが……この耳飾りには呪いがかけられていました」
青年の視線が、耳飾りからリゼットへ移る。
顔色は悪く、頬も痩せている。
しかし、耳飾りから呪いの気配は感じられない。
青年が耳飾りにそっと触れると、赤い宝石が青い光を宿した。
「間違いない」
「……?」
「突然、失礼した。私はカイル・ヴァレンティア」
彼は、この海辺を治めるヴァレンティア伯爵家の嫡男だった。
「それは、我が家に代々伝わる品で、希少な石で作られている」
「ヴァレンティア家の……!すぐにお返ししたいのですが、何をしても外れないのです」
カイルも耳飾りに手をかけ、外そうと試みたが、耳飾りは取れない。
「本当に、外れないな」
「信じていただけないかもしれませんが、決して耳飾りを自分のものにしようとは考えていません」
「……すまない。言い方が悪かった」
カイルは、少し困ったように眉を下げた。
「君を疑っているわけではない。君は耳飾りに選ばれたんだ」
「え……?」
目を瞬くリゼットを見て、カイルはふっと表情を和らげた。
「もしよければ、我が家に来ないか?その耳飾りを見れば、家族も喜ぶ」
「でも……」
「予定があるなら、無理にとは言わない」
「いえ。予定はありません」
あまりにも迷いのない返事に、カイルが少しだけ目を細めた。
改めて見ても、リゼットの顔色はひどく悪い。
呪いの影響だろう。
「体調が戻るまで、休んでいくといい」
「でも、私は……」
リゼットは迷った。
自分には何もない。
家族も。
お金も。
帰る場所も。
耳飾りの呪いが解けた理由を話せば、真名の力まで知られてしまう。
「私は……」
「君が何者であろうと構わない」
カイルは静かに言った。
「……」
その言葉が、胸に染みた。
今まで誰も、リゼット自身を見てくれなかった。
家族でさえ、真名を呼べる自分にしか価値がないと思っていた。
それなのに、初めて会ったこの人は、能力のことなど何も知らないまま、自分を気にかけてくれる。
「……ありがとうございます」
リゼットは、小さく頭を下げた。
ヴァレンティア伯爵と伯爵夫人は、リゼットを快く屋敷に迎え入れてくれた。
耳飾りが外れないことを伝えたとき、二人は顔を見合わせた。
驚いたような、どこか嬉しそうな顔だった。
不思議そうな表情のリゼットをみて、伯爵夫人は微笑んだ。
そして、屋敷の人々は誰一人として、リゼットに何も求めなかった。
◇
リゼットが海辺の屋敷で暮らし始めて、数週間。
相変わらず耳飾りは外れなかった。
けれど、呪いの影響は完全になくなり、弱りきっていた身体も少しずつ回復していった。
いつの頃からか。
カイルと浜辺を散歩することが、リゼットの日課になっていた。
朝食を終えると、二人で屋敷を出る。
海風に吹かれながら、波打ち際をゆっくり歩く。
最初の頃は、何を話せばいいのか分からず、ただ黙って歩いていた。
けれど、何日も繰り返すうちに、少しずつ言葉を交わすようになった。
リゼットは海へ視線を向けた。
「君は海が好きだな」
「ええ、好きです。初めて見たとき、とても綺麗で感動しました」
「初めて?」
カイルが驚いたように目を見開く。
「はい。本でしか知りませんでした」
「それは、もったいないな」
「だから、毎日見られるのが嬉しくて」
リゼットは小さく笑った。
その笑顔を見て、カイルも穏やかに笑う。
そんな何気ない時間が、いつしかリゼットにとってかけがえのないものになっていた。
だからこそ、ずっと胸の奥にしまっていたことを、話してみようと思った。
「……カイル様」
「なんだ?」
「私には、触れた物の真名が分かる力があります」
カイルが足を止めた。
「真名?」
「はい」
リゼットは、自分の手を見つめる。
「物が本来持っている名前を、触れるだけで知ることができます。そして、その名を呼ぶことで、本来の力を引き出せるのです」
「そうか」
カイルは驚くでもなく、静かに頷いた。
「……それだけですか?」
「何か問題が?」
「この力を使えば、お役に立てるかもしれません」
カイルは少し考えるように首を傾げた。
「君が、そうしたいのか?」
「……いいえ」
《喰らうもの》
あの苦しみを思い出すと、今も指先が震える。
「ならば、使わなくていい」
「でも、私は何の役にも立てていませんし……」
「君は君だろう。能力があってもなくても、それは変わらない」
その言葉を聞いた瞬間、リゼットの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
カイルが驚いたように目を見開く。
「どうした?嫌なことを言ったか?」
慌てた様子で覗き込むカイルに、リゼットは首を横に振った。
「違います……」
頬を伝う涙を拭いながら、リゼットは微笑んだ。
「嬉しいのです」
リゼットは、まっすぐにカイルを見つめた。
「あなたと出会えたことが」
カイルは一瞬、言葉を失った。
そして、ふっと目を細める。
「……私もだ。それに――」
カイルが、リゼットの耳元で揺れる耳飾りに目を向けた。
「前に、君に言っただろう? 君は耳飾りに選ばれた、と」
リゼットは頷く。
「それは、ヴァレンティア家の嫁に選ばれたという意味だ」
「え……?」
目を見開くリゼットをみて、カイルは穏やかに微笑んだ。
今まで、ずっと必要とされるために頑張らなくても、捨てられることはない。
そんな場所を、長年待ち続けていた。
それをくれたのは、出会って間もないカイルだった。
リゼットの耳元で、耳飾りが陽の光を受けてきらめく。
かつて彼女を苦しめた呪いは、もうどこにもない。
耳飾りは、二人の未来を祝福するように、いつまでも輝いていた。
お読みいただきありがとうございます。
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